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往年のハリウッド有名女優による15の名言

2015年02月23日 | ニュース

往年のハリウッド有名女優による15の名言

 ハリウッド映画の黄金期を築いた女優たち。その人生は順風満帆というわけではなく、波乱万丈に溢れていた人もいる。永遠の憧れの対象として君臨してきた往年の大スターたちの残した言葉というものは、意味深いものがある。

 15人のハリウッド女優の残した名言を、その経歴とともに見ていくことにしよう。
 

1. キャサリン・ヘプバーン

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すべてのルールに従っていたら、
すべての楽しみを逃しちゃうわよ


飾り気のないスタイルと個性的な魅力、比類なき演技力で万人から愛された演技派大女優で、現在のところオスカー受賞4回という最多記録を持つ。著名な外科医の家庭に6人兄妹の2番目として生れる。12歳でアマチュア劇団の舞台を踏み、女子大でも演劇に熱中する日々を送り、卒業後エドウィン・ノッフの主宰する劇団に入りプロ・デビュー。同年ブロードウェイでも舞台に上がる。

32年の舞台で注目されRKOと契約し「愛の鳴咽」で映画デビュー。翌年の出演3作品目の「勝利の朝」で大絶賛され、アカデミー主演賞を受賞。40年の「フィラデルフィア物語」は、前年ブロードウェイで幕を開けると、すぐに彼女自身が映画化権を取得、MGMに持ちこんだという経緯もあった。

42年「女性No.1」でスペンサー・トレイシーと初共演し以降、計9本を共にして公私に渡って親密な関係を続けたのは有名な話(62年の“LONGDAY'S JOURNEY INTONIGHT”出演以降の5年間は映画に出ず、病に伏したトレイシーを彼の妻と交代で看病していた)。67年トレイシーの遺作となった「招かれざる客」で2度目の、翌年「冬のライオン」で3度目のオスカーに輝く。その後プロードウェイの舞台と映画に間隔を置きながら出演。81年の「黄昏」で4度目のオスカーを手中にした。「アフリカの女王」、「旅情」、「去年の夏突然に」も代表作として明記したい。

結婚は28年に学生時代から交際していたフィラデルフィアの名士の息子としたが34年に離婚。「招かれざる客」のキャサリン・ホートンは姪にあたる。03年06月、老衰のためこの世を去った。


2. ベティ・デイヴィス

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仕事の質を高めたかったら
“不可能”に挑戦すること


81年、グラミー賞を受賞したキム・カーンズの『ベティ・デイビスの瞳』でも歌われた、非常に目が印象的な個性派大女優。高校時代から演技を学び、NYの小劇団から映画界入り。34年の「痴人の愛」あたりから注目を受け始め、翌年の「青春の抗議」でアカデミー主演賞を受賞。38年にも「黒蘭の女」で再び主演賞を受賞した。しかし、きつい口調と傲慢さでも有名で、たびたび共演者やスタッフを困らせていたらしい。


3. グレイス・ケリー

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“絶対に不可能”なんてことはないし、
“必ずいつもそうなる”なんて保証もない


アイルランド系の建築業者の父親とドイツ系の母親との間に生まれた4人兄妹の三女。幼い頃からダンス、バレエなどを習い、18歳の時に女優を目指しニューヨークへ渡りアメリカ演劇アカデミーに入学。ブロードウェイで『父』の端役で出演しているところをスカウトの目に止まり、51年、“Fourteen Hours”で映画デビュー。その作品を見たスタンリー・クレイマー監督が「真昼の決闘」のヒロイン役に抜擢。一躍脚光を集める。

以後、ヒッチコック作品などに出演を重ね(「裏窓」の時の美しさは溜息が出るほど!)人気を不動の物にし、54年には「喝采」でアカデミー主演女優賞を受賞。その後、カンヌ映画祭で知り合ったモナコ王国レーニエ国王と、56年4月18日に結婚。世界中を沸かせた。以降、映画界からの再三の誘いにも応じずにその立場を守り続け、3人の子供にも恵まれた(妊娠中のお腹をそっとバッグで隠した写真がLIFE誌の表紙を飾り、そのバッグが後に「ケリー・バッグ」と呼ばれるようになった)。しかし82年、交通事故を起こして突然この世を去ってしまった。


4. オードリー・ヘプバーン

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Impossible(不可能)なんて言葉は存在しないわ。
言葉自体がI’m possible(私にはできる!)と言ってるんだから


貿易商の父とオランダ貴族出身の母の下に生まれ、5歳の時に戦争のためイギリスへ渡りロンドン郊外の寄宿学校に通う。10歳の時、両親が離婚したのをきっかけに、母と共にオランダに移住しバレエのレッスンを始めた。以後、戦火の中、モデルなどをして生計を立て、48年、単身ロンドンに渡りマリー・ランバート・バレエ学校に入学。プロとして舞台デビューを果たす。

50年に端役として映画に出演。以降、数本の作品に出演した後、51年、撮影中に『ジジ』の原作者であるコレット女史と出会い、同作のブロードウェイ公演で主役に抜擢される。その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより53年「ローマの休日」にて主役の座を獲得。作品の大ヒットと共にアカデミー主演女優賞を受賞し、一大ブームを巻き起こす。以後はスター街道を突き進み「麗しのサブリナ」、「尼僧物語」、「ティファニーで朝食を」、「暗くなるまで待って」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。


5. エリザベス・テイラー

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成功とは最高のデオドラント(防臭剤)

美術商をしていた父の関係で39年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って42年にユニヴァーサル作品“There's
One Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。

50年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、60年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。63年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、66年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。


6. ノーマ・シアラー

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何かを手に入れたり、成し遂げたかったら、それなりの覚悟が必要よ。何の犠牲もなく、求めているものを獲得できるほど人生は甘くない

ケベック州モントリオールで生まれた。14歳で美人コンテストに入賞したことから映画界入り。1920年からエキストラで映画に出演しはじめ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのプロデューサーのアーヴィング・タルバーグに認められ、その気品ある美しさからMGMのスターとなっていく。1927年にタルバーグと結婚している。1930年に『結婚双紙』でアカデミー主演女優賞を受賞。

1936年のタルバーグの死後はジョージ・ラフトやミッキー・ルーニーなどと交際したが次第にハリウッドから遠ざかってゆき、1942年に20歳年下のスキー・インストラクターと結婚して引退した。


7. マレーネ・ディートリッヒ

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愛とは、愛することを楽しむこと、
愛されることを待つことではない


幼い頃からヴァイオリンを習っていたが手首をケガし、それからは女優を夢見るように。演劇学校に入学直後から舞台に立つようになり、23年には映画デビュー。30年の「嘆きの天使」演出のため、ベルリンにやってきたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督が彼女の立つ舞台を見たことからローラ役に抜擢。退廃的な魅力と抜群な脚線美と共に“フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン”もヒットして世界的に有名になる。

その後アメリカに渡りパラマウントと正式契約。以降、スタンバーグの元でその実力を開花させて行く。が、37年の「鎧なき騎士」出演後に母国からヒトラーの使者が現れ、ドイツ映画に復帰するよう説得されるがディートリッヒはこれを完全拒否。そのためドイツでは当時彼女の作品を焼却処分にしてしまったという。その後39年にアメリカ市民権を取得。第二次大戦勃発後は前線慰問や反ナチ運動に積極的に参加して47年にはアメリカ国民最大の栄誉である“自由勲章”を与えられた。終戦後は「狂恋」でジャン・ギャバンと共演(実は恋愛関係にあったと後に発表)。53年からは名曲“リリー・マルレーン”などの歌で世界各地をリサイタルして廻り新境地を開いた(日本にも70年の大阪万博と74年に来日)。

結婚は24年に映画製作の助手、ルドルフ・シーバーと1度きりだったが殆ど別居状態のまま、彼の死まで離婚はしなかった。一女がいて48年には孫が誕生。“世界一グラマーなおばあちゃん”と揶揄されたことも。78年「ジャスト・ア・ジゴロ」が映画出演最後となって(「MARLENE/マレーネ」はナレーションのみ)92年、パリで老衰のためこの世を去った。


8. ジェーン・マンスフィールド

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悪いことするなら大胆にやるべきよ。
びくびくやったって、受ける罰は同じなんだから


父の死後、母が再婚してダラスに移住。テキサス大学の演劇科に進み、50年にポール・マンスフィールドと学生結婚。2年後に軍人となった夫の駐屯先でアマチュア劇団に参加。その後サザン・メドディスト大学で演劇と心理学を学ぶ。やがて沢山の美人コンテストに優勝するようになり、モデルを経てTVやブロードウェイの舞台に出演。54年にワーナーと契約して映画デビューを果たす。

B115、W53、H90という抜群なプロポーションが話題となって「女はそれを我慢できない」などで性のシンボルとして活躍。56年に離婚してFOXと契約。58年にはミスター・ユニヴァースのミッキー・ハーギティと結婚。しかし、59年にFOXとの契約が切れて以降は、低予算映画やナイトクラブへの出演など低迷が続くようになった。その後マット・シンバーと再婚するが66年に離婚。その翌年の6月に自身のソックリさん大会へ向かう途中、ニューオリンズ郊外で自動車事故を起こして急死した。ミッキー・ハーギティとの間に生れた娘はその後マリスカ・ハージティとして女優になった。


9. イングリッド・バーグマン

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直感を鍛えなさい。自分の中にある小さな声を信じて。
それに従っていれば何を言うべきか何をなすべきか見えてくるから


母親を2歳の時、父親を12歳の時に亡くし、叔父のもとで育てられる。幼い時から演技に興味を持ち、ストックホルムの王立演技学校にて演技を勉強。34年、「ムンクブローの伯爵」にて映画デビュー。39年に、彼女の主演作「間奏曲」のリメイク作品「別離」の主演によばれて渡米。以後、42年「カサブランカ」にて人気を確実にする。44年、「ガス燈」ではアカデミー主演女優賞を受賞。名実共にハリウッドを代表する女優になる。しかし50年、新しい演技への道を模索していた彼女は、当時、“ネオ・リアリズモ”の筆頭格にあったロッセリーニ監督の元に、スキャンダル報道の中、家庭を捨てて渡り、ハリウッドから事実上の追放を受ける(彼宛に送った熱烈な内容の手紙は有名)。その後の風当たりの強さにもくじけず、確たる演技にて57年「追想」にて再びアカデミー主演女優賞を受賞。以後も活躍を続け74年「オリエント急行殺人事件」にはアカデミー助演女優賞を受賞した。女優のイザベラ・ロッセリーニは娘。82年、67歳の誕生日にガンの為この世を去った。


10. マリリン・モンロー

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人生は自分で築くもの。時に失敗することもある。だけど悪いことばかりじゃない。どんな風に失敗するかは自分で選ぶことができるのよ

私生児として生まれ、母親が精神病院への入退院を繰り返していた為、里親や孤児院を転々とする暗い子供時代を過ごす。16歳の時に工員(ジェイムズ・ドアティ)と結婚するが離婚後、男性雑誌のモデルなどをして生計を立て、46年にFOXと契約を結んで47年に“Dangerous
Years”の端役で映画デビュー。売れない時期が続いたが、52年、「ノックは無用」で初主演して注目をされるようになり、以後、「ナイアガラ」、「紳士は金髪が好き」などで人気を不動の物とする。

故ケネディ大統領などとのスキャンダルもあるが、結婚は3回で、工員と、野球選手のジョー・ディマジオ、劇作家のアーサー・ミラーだが、その全てが離婚に終わっている。そしてディマジオとよりを戻しつつあった62年8月4日、ロサンジェルスの自宅で、睡眠薬の多量摂取により死亡しているのが発見される。享年36歳。その後、自殺説などの噂が流れるが原因はいまだ不明。撮影中だった作品は製作中止となった。“性のシンボル”の代名詞とも言われ、世の男性陣を魅了し続けた彼女も内面的にはかなり複雑なものがあり、その経緯を題材にした「ノーマ・ジーンとマリリン」が後に製作されている。


11. ルシル・ボール

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まず自分を愛すること。そしたら全てがうまくいくわ。この世の中で何かをしたかったら、まず自分を愛すること

アメリカのコメディアン、モデル、映画およびテレビの女優、映画会社の重役。『アイ・ラブ・ルーシー』、『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』、『ザ・ルーシー・ショー』、『陽気なルーシー』、『ライフ・ウイズ・ルーシー』などのシットコムの主演で知られ、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人とされた。またハリウッドで活動期間の長い俳優の1人でもあった。1930年代から1940年代、映画会社RKOでコーラス・ガールなどの端役として出演していたが、1950年代からテレビで主演するようになった。1960年代から1970年代は映画に出演した。1962年、『スパイ大作戦』や『スタートレック』など多くの人気連続ドラマを製作する大規模テレビ・スタジオのデシルに女性で初めて入社した。エミー賞に13回ノミネートされ、4回受賞している。


12. グロリア・スワンソン

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私はいつも前向きよ。決して後悔はしない。
起きている間は常にワクワクしているわ


父は陸軍大尉で、仕事柄フロリダやプエリトルコなどを転々として育つ。14歳の時の叔母に連れられエッサネイ社のスクリーン・テストに合格。その6ヶ月後にはハリウッドへ赴きマック・セネットと共に“海水着美女”として多くの作品に出演。17年にはトライアングル社に移る。その後セシル・B・デミルに認められ「夫を変へる勿れ」を皮切りに瞬く間にスターの仲間入りを果たし、25年の「ありし日のナポレオン」ではフランス滞在中、ホテルのワン・フロア総てを借り切ったほど。翌年には週給2万ドルという驚異的な出演料を獲得した。徹底した菜食主義を貫き、野菜の支払いだけで月1000ドルを越えたなど、さまざまなゴシップが毎日のように新聞に載ったという。

26年には独立プロを設立。「港の女」、「トレスパッサー」でアカデミー主演賞候補となった。しかし次第に人気が低迷。事業にも手を出しながらも映画や舞台に出演し続けたが結局成功はしなかった。が、48年にTVショーに出演した彼女を見たビリー・ワイルダーが、あの「サンセット大通り」に招き入れ、3度目のアカデミー候補になる。その後74年の「エアポート'75」で再び復活するなど、最後までスターへの執着を忘れなかった女優であった。結婚はウォーレス・ビアリーなどと計6回。83年、老衰のために死亡した。


13.ロザリンド・ラッセル

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女性が一番キレイに見えるメイクは、
人生を楽しむことよ


アメリカ・コネティカット州ウォーターバリー出身の女優。ゴールデングローブ賞を5度受賞したハリウッドスターであり、演劇・ミュージカルの分野でも活躍を見せた。特にコメディな演技で人気を集め、スクリューボール・コメディ(ロマンティック・コメディ)映画『ヒズ・ガール・フライデー』は彼女の代表作として知られている。


14. グレタ・ガルボ

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自分が何をすべきかがわかっていれば
人生はとても素晴らしいものになるでしょう


現役当時から引退後に至るまで、正にカリスマを持った真の大女優。3人兄妹の末っ子として貧しい家庭に生れる。13歳で父が亡くなり、翌年からデパートの店員などをしている時に、そのデパートの宣伝映画やパン組合のPRフィルムに出されるようになる。演技を学ぼうと王立劇場付属の学校に通学、24年「イエスタ・ベルリングの伝説」で映画デビューを飾り、国内を始め世界的に注目を浴びる。翌年の「喜びなき街」を経て、アメリカに渡りMGMと契約。26年に「イバニエスの激流」でアメリカ・デビューを果たす。

「アンナ・カレニナ」ではトーキー・ブームの中、スウェーデン訛りが危惧されたが、彼女のハスキー・ボイスが逆に魅力となって一層人気を高め、「ニノチカ」で初めて笑ったなどと、作品毎にいろいろなエピソードが生まれていた。41年、「奥様は顔が二つ」を最後に36歳で引退。その後復帰の噂は幾度かあったが現実化には至らず、マンハッタンのイースト・サイドで静かに余生を送っていた(そんな当時の彼女を題材に84年、「ガルボトーク/夢のつづきは夢…」が制作されるほど、映画界におけるガルボの存在は相当なものだったことがわかる)。90年、肝不全にて死亡。ロマンスの噂も数多くあったが生涯独身を貫いた。


15. ルイーズ・ブルックス

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夢の中では何でもできるわ。
夢の中なら永遠に踊っていられる


早い時期からエンターテインメント業界に関心を示し、10代からダンサーとして活躍。ブロードウェイの舞台『ジーグフェルド・フォーリーズ』に出演、注目されるようになる。

パラマウント映画に引き抜かれ、1925年に映画デビュー。数年間は軽いコメディ映画に多く出演していたが、1928年、ハワード・ホークス監督の『港々に女あり』でヨーロッパからもその存在を知られるに至った。

1929年にハリウッドからドイツに渡り、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の元で撮った『パンドラの箱』では、周りを不幸に陥れる「運命の女」たる踊り子のルルを演じた。同じくパープスト監督の『淪落の女の日記』では運命に翻弄される主人公ティミアンを演じた。1930年の『ミス・ヨーロッパ』もあわせた3本の作品は、ブルックスを伝説的女優として歴史に留めることになった一方で、その性的描写や社会批判的内容によって厳しい検閲を受けた。

その後ハリウッドに戻るが時代の変化に馴染めず、舞台興行でも失敗。1938年にジョン・ウェイン主演の西部劇に出演した後に、芸能界を引退した。単なる一時代のファッションリーダーや性のシンボルに留まらず、知的な視点を持った女性でもあった。第二次世界大戦後は博物館の学芸員となり、映画の学術的研究に取り組んで、鋭い批評眼に富んだ著述を残したほか、自叙伝でも文才を示した。
via:buzzfeed・melondeau(笹原)

  

 

         

    

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