海辺暮らし

都会を離れて海辺でスローに暮らす…のはいいんだけど

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過去に癒される

2009年08月02日 | Weblog
もう8月か。

自分の過去のブログを読んでいた。

癒されたなあ。

4年前の私に、癒された。

気胸のため、空気を抜く管を入れてはや一週間が過ぎた。

不自由なからだであることを、再確認させてくれる医者だった。

こんな気胸、見たことない。肺がぼろぼろ。

なんて言う。

CTで見えるのはそうなんでしょう。

こんなに元気でいるのが不思議なくらい、ですって。

でも気胸を起こしているとき以外は、普通なので。

探求心の旺盛なお医者さんだけどね。

夫は夫で、風邪から喘息の発作みたいなのを起こして苦しんだ。

私も続いて風邪をひいたけれど、たいしたことはない。

この5カ月、ぴったりくっついて離れなかった。

そのことによって、互いを苦しめあうことになり。

これがどれほどのストレスだったか。

彼はこの数ヶ月で、見事に記憶を書き換えた。

私にはブログという記録があるので、当時言っていることと全く違うモードになっているのがよくわかる。

彼は自分自身をも騙さなければならなかったから、エネルギーが必要だったろう。

私はといえば、彼から離れること能わず。よって、客観的視野を持ちにくい。

どうしても、彼の言葉に寄り添いたくなる。

彼の言葉を信じ機嫌良くしているのが、生き延びる最善の方法、と思ってか。

でもどうしても手前勝手な男だよね。

病気をして空間的にも少し距離ができると、見えてくるものがある。

手前勝手で、子どもっぽい。

単純で普通の男。俗物。

こう思われるのが彼は一番辛い。

思われる、というよりも。

自分で自分が普通の男だということを、受け入れられない。

「女房につれなくされたし、そろそろ飽きてもきたし、ちょっかい出したくなったんだ」

なんて言ってもらったほうが、とても分かりやすかった。

自分で受け入れられない自画像を、なんとか受け入れられるものにしようという並々ならぬ集中力。

これがじつは彼のキャラクターの本質である。

俗物なんかじゃない、自分は特別な人間だ。

こう励まして自分を構築してきた人。

劣等感を無理矢理封じ込めて、何が何でも勝たねばならぬ!

彼にあるのは、「ぼくを愛して」。

もうこの手の話は、自分でもうんざり。

4年前のブログのように、生きてみようか。
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どこに対等で、風通しがよい、自立した関係が?

2009年07月23日 | Weblog
久しぶりに信田さよ子先生のブログを読む。
「共依存ー苦しくても離れられないーからみつく愛…」
タイトルのつけかたがうまいなあ。
タイトルだけで、納得させられてしまう。
アマゾンでこの本の評を見た。
それを今日の日記のタイトルにさせてもらった。
この評者に私も同感。
本を読みもせずに言うのもどうかとは思うけど。
過去に信田さんの著書を読みまくった私である。
「共依存」という言葉に数年「からみとられた」私である。
しかし「共依存」と名付けることで解決するようなやわなものではなかった。
共依存ね、たしかにね。
こう言ったからといって、だから?なのである。
土居健郎氏が先般亡くなられた。
「甘えの構造」を読んだ。
友人と議論したような記憶もある。
日本人に特有の「甘え」。
これを「依存」と置き換えてもいいだろう。
支配と依存の関係は、時に立場が逆転する。

なんてことを書いているうちに、別にどうでもいいや、という気分になった。
私と夫の関係は、とりあえず落ち着いてきた。

人間ドックでひっかかって昨日再検査。
もともとの持病を再確認しただけではあったけど。
肺のCTを見ながら、医師が「こんなにひどいのは初めて見た」と言う。
にもかかわらずこんなに元気なんて、と驚いてもいた。
そうよねえ、60まで何とか折り合いをつけてやってきたのだもの。
この病気の専門機関を教えてもらってホームページを開いた。
自然気胸を5000例も見ている医師の感想。
ストレスが原因のひとつでは。
医学界が仰天するような大胆な見立てである。
でもなぜか納得。
そりゃあストレスすごかった。
アメリカなんかの調査でストレスの第一位は「配偶者の死」らしい。
私のこのたびの事件は、まさしく「配偶者の喪失」を意味した。
その後の不毛な戦いは、もっぱら夫が悲鳴をあげていた。
けれど、私自身がかさぶたを何度もはがしては血を流す行為を繰り返していたのでもある。
赤い血は自虐の花と名付けよか。
これをもうやめることにした。
どうせ短い?いのちなら、好んで血を流して生きることはない。
依存と支配という言葉が寒々と聞こえる。
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短くも激しく燃え…

2009年07月14日 | Weblog
毎日退屈することなく、どちらかというと慌ただしく、過ぎていく。
「事件」以来、夫の希望を受け入れ、常に行動を共にしている。
加えて、外出することに積極的になった。
外に出れば財布の紐は必然的に緩む。
年金生活の身であるわが家計は、当然赤字である。
やり繰りに本腰入れていないせいもある。
しかし、そのマイナスを考えても、外に出ることのメリットは大きい。
べったりくっついた夫婦が、24時間同じ場所で顔をつきあわせていることの不幸。
ラブラブでよろしいじゃありませんか、って?
いえいえラブラブだってマンネリいたします。
やはり人間はマンネリを嫌うもののようですね。
人間は、ではなくて、私は、かしら。
去年の私は、何か教条主義的な思考にはまって、ひたすら身体作りに邁進していた。
脳味噌への入力を、遮断していたのかもしれない。
自分の脳味噌(とわずかばかりの外)のなかだけで事足れりと。
その象徴とも言うべきが、夫の不機嫌をばっさり切り捨てていたことだ。
彼の不機嫌=嫉妬妄想。
これは無視するに限る、とね。
どこからこういう思考法を学んだか、分かっているんだけど詳しくは書かない。
夫対妻を敵対関係と見る思考というかね。
加害者と被害者ととらえる見方ね。
夫に言わせれば、この「無視」がこたえたらしい。
懸命にアピールしたのに…と彼は言った。
甘ったれちゃいけないよ、とばかりに、私は「無視」を継続した。
なぜ私がサルサに行くのを夫によって止められなければならないのだ、との思いで。
なんにも悪いことしてないのに、と。
骨粗鬆症対策の運動でしかないのに、と。
しかし彼は、自らの脳が生みだしたイメージによって苦しんだと言う。
私の不在がどれほど辛い空虚感をもたらしたか、と強く強く言う。
そんなの異常よ。
これが私の答えだった。
彼のアピールに対して、聞く耳持たず、であった。
しかし、2月22日、突然の密告によって始まった「事件」は、私を変えた。
当然だけれど、夫も変えた。
血みどろのコミュニケーションと言ってもいい。
私は彼以外の誰とも話せない軟禁状態にあった。
しかたがない。彼と話そう。
いやがる彼をしつこく追及した。
そりゃあ、いやでしょ。
自分の失敗と向きあわされるわけだから。
でも私を束縛したいんだったら、つき合ってね。
何度も何度も、彼が「うかつに」してしまった行動の背景にあるものを探す会話をした。
自分の感情と向きあう習慣のなかった男が、少しずつ、その苦しい作業に取り組んだ。
この4カ月、夫を追及した私のエネルギーは、怒りに源を持つ。
どんなに自分の心をおさめようと努めても、ある日突然「腹が立つ」。
怒りは、猛烈な勢いで脳を暴走させ、ついでに相手をとらえて放さない。
まずは一方的な持論の展開に終始した。
相手が何と抗弁しようと、ありとあらゆる切り口で、夫を責める。
怒りの中身は、嫉妬がかなりの割合を占めていた。
もちろん私の怒りに対して、夫は黙っていない。
我慢していた夫も、ついには激怒する。
「いいかげんにしろ!」
「いいかげんにできないくらい、私はまだ腹が立っています!」
私を突き飛ばすなど、手をあげられた(彼のなかでは手を上げていない)ことは何度あったか。
家を出ようとする私のバッグを投げ飛ばしたり、車のキーを隠したり。
それは凄まじいケンカが、何度もあった。
二人ともへとへとになった。
それでも私たちは離れられない。
愛ってのは厄介。憎しみも愛と同じくらい湧いてくるのね。
肩を落として二人で話した。まったく。
しかし不思議なことに、以前感じていた「恐怖」はない。
私が恐怖を感じていた彼は、ある独特の雰囲気をまとっていた。
蛇蝎のよう、と私が形容する眼光というのか。
そうなった彼が私を責めるときの恐怖。
このことについても、私は率直に聞いた。
「これ、このときなの」
おおよそ、どういうときに彼が私に恐怖を感じさせるかがわかった。
彼と私の距離が離れたとき。
彼は私を敵とみなす。
敵とみなしたが最後、彼は猜疑心の虜になる。そして責め立てる。
これが異様でとても怖い。
ところがこの4カ月の間に、この猜疑心はわずかしか顔を出さない。
これはなぜか。
私が彼にくっついているから。たぶん。
くっついていたい人なのである。
母子密着の甘~い季節を存分に味わってこなかったのかもしれない。
そんな分析もたっぷり吐き出した。
彼は私に密着している限り、私の素人分析さえも取り入れる。
しかしどうやら今回の「事件」、およびその後の「大騒動」で、彼は「永遠の少年」を卒業したのかもしれない。そう思えるふしがある。
あの「事件」は、彼が無意識に行った「母からの自立」のための「裏切り」だったのではないか。
なんとまたまた特異の深読みをする。
こんな解釈を度々繰り広げた。
彼は「それはあんたの解釈だ」と、きちんと「私」と「相手」の区別をするようになった。
彼には自分の気持ちを相手に投影する癖がある。
私との境界もあいまいである。
だから去年の一連の出来事が起きた。
都合の悪いことに相手もまた、その境界のあやふやな女だった。
「あんな女を連れてくるからだ」と彼が言ったのは正しい。
三者が(私も含めました)、二者関係の病理を宿していたのかもしれない。
病理といえば、やはりそうでしょ。
トラブルは、ややビョーキのところに起きるからね。
で。
「事件」の日からずっと、私はかなり重篤な病人だった。
私にも「退行」は起きたし、傷の回復は早いとは言えなかった。
まず夫の言葉を全く受け入れられない。
信じられないのである。
人間不信。
何と言っても、密告してきた側の言葉が先に入ったのが大きいだろう。
その言葉は、練りに練ったストーリーのもとに発せられた。
私はまんまとそれに乗っかった。
彼女は「半年間も困惑した」と言いながら、自分の狭い脳味噌で完結したストーリーをひっさげて、私に告げ口してきたのである。
せめて、最初の電話を受けた時点で「こんな電話があったけど、どう思えばいいの?」とか、オープンにすればよかったのにね。
彼女はそれをしなかった。
なぜかは、分からない。
彼女によれば「口止め」されたそうな。
しかし夫によれば「それはしていない」と言う。
「口止めされたというのなら話すべきじゃないか、友だちなら」なんてことを、夫はぬけぬけと言う。
このあたりは、ちゃっかり私の言葉に便乗して、自分を正当化している。
そう、そうなのである。
この4カ月の間に、私が聞いたことは、ほとんどが彼の行動の正当化である。
そうせざるを得なかったのだ、と。
それでも彼はとうとう言った。
6月のはじめだ。
「あっちの言い分ばかり聞かないで、ぼくの言い分も聞いてくれよ」
そうか、そう言えば。
ようやくそこで私は気づく。
私は彼女の伝えてきた文脈に沿って、ずっと怒り続けていた。
彼女の伝えてきたものとは?
半年間。これだけの期間継続していたという言い分。
妻の留守に会えませんか、と言われたという言い分。これはどう聞いても「浮気」を連想させる。
妻には言わないで下さいね、と言われたという言い分。
これらが半年間のわたって継続していたという言い分。
彼女のなかで、半年間の悩みとしてあったのだろう。
ところが夫の言い分は違った。
わずか2回の電話。
それも最初の電話と2回目はニュアンスが違う。
つまり彼は2回目の電話が「やましい」ものだったことを言っている。
しかしそれだって、彼に言わせれば「不幸せな子ども」相手に相談に乗ってやるというモードであって、男女のデートの誘いといったモードではなかった。
もし本気でデートに誘うならもっとうまくやるよ。
どう聞いても、彼の「合理化」だけどね。
たしかに意識して彼女とどうこうという目的でかけた電話ではなかったのだろう。
しかし彼は無意識の行動であったことを認める。
私への怒り、かっとなった衝動で電話をかけた、と言う。
怒りは、抑えていた無意識の欲求を解放したのだろう。
最初から「会いたい」と考えて電話したわけではない。成り行きでそうなった。
思えば、最初から彼は正直に語っていた。
彼女が話に乗ってこないので、ますます追いかけるようなことになった、とも言った。
それでも自分は彼女を女として求めたわけではない、と言う。
しかし相手にはそうは受け取られなかった。
自惚れてるんだろう、と彼は言う。
でもねえ、個人の携帯に、それも妻に隠れてかけたら、相手は誤解するわよ。
このあたりを分からせるのに何か月もかかった。
自分の側からの視線しか持たないのか。
そのくせ、衆人監視の場所では、彼女が自分にすり寄ってくるのを気にしてふりきっている。
このふりきった感じが、気になっていたらしい。
誰も見ていないところでは、相手と自分だけの世界だ。
建て前にしろ何にしろ、それが通る相手だと見たのだろう。
どうやら最初の電話から、私への怒りが動機のようだ。
それは上手に隠して、妻の価値を失墜つせるような内容の電話を、優しい夫モードでかけたのである。
凄まじい出世競争を勝ち抜いてきた男だ。これくらいのことは朝飯前。
それっきり電話のことは忘れていたそうである。
彼女はどうも違ったようだ。
彼の「すり寄ってきた」感じというあたりから察すると、彼女もまんざらではなかったのか。
孤独な女は、こちらもまた妄想を逞しくした。
友人の旦那さんから電話もらって困っているの。
彼女の頭のなかは、彼女を超えることはない。
私と夫の間で繰り広げられている権力闘争など、考えもつかなかったろう。
抽象的でわけがわからない電話だった、と彼女は言った。
それがなぜ、「妻が留守の間に会えませんか」という文章になるの?
夫は具体的なことを言わないでおこうと思うほど慎重な男である。
それをにおわせたのかもしれないね。
固有名詞は使わず、代名詞ばかり使って。
このへんは、とてもずるい男でございます。
いずれにしても、夫は私への腹いせでかけた電話で、「ぼくがそっちへ出て行きましょうか」と言うに至った。
彼は私に置いてけぼりにされていることに、とりわけ怒っていた。
ここから「出て」いきたかったのだろう。
相手が彼女であるということについては、私にも責任がある。
私と夫の会話に最も頻繁に登場した女である。
それも、そろそろフェイドアウトしたいんだ、と私は彼に漏らしていた。
もともと対等な友人関係ではない。会って楽しい相手でもない。
娘さんの問題でかかわって、行きがかり上アドバイスをしていた。
デリケートな問題を含むので、私は通常の友人関係より何倍も神経をつかっていた。
余計なことを言うと、娘さんに影響があると考えたからだ。
フランクに、自分を開放してつきあってはいなかったのである。
それに私は誰かの面倒をみて満足するタイプの人間ではない。
彼女が、私に「叱られる」女をやり始めたとき、それははっきりした。
それを私は夫に言う。
「家へおいでよ」なんて軽々に言わないでね。
これを聞いた世話好きの夫。そう彼は他人の面倒をみることで自分の価値を確認する人。
それはあんまり可哀想じゃないか。やさしくしてやればいいのに。不幸せなんだから。
これが二度目の電話のきっかけになった可能性がある。
彼女を不幸せと言う彼こそ、じつはそのとき最も不幸せだった。
これもまた彼は素直に認めた。
私が離れていっている。嫌われたんじゃないか。
ほとんど僻み。被害妄想。
自分の要求が通らなかったからと、ふてくされていたのである。
アピールしても無視され続けてね。
だったら何か方法あるでしょ。
そう、彼は今回の電話事件のような方法を選んだ。もってまわったやり方は彼の特徴。
「あんたを振り向かせたかった」と言う。
やり方が、なんというか、都会的!
私は野蛮だから、何でも直球。泥臭くいく。
もしかしたらこれが、彼が私に認める最大の価値かもね。
といった具合に、私はいつしか自分を愛せる私になっていた。
彼に罵詈雑言の限りを浴びせ、それでも彼が私を愛していると言い続けるなかで、私の傷ついた自己愛は回復していったのである。
この4カ月間の闘争は、まさしく闘争であった。
夫に関しては、まるでインチキ内観療法や乱暴なカウンセラーに引きずり回されたような月日だったろう。
それによく耐えてくれた。
これを愛と言わずして何と言う。
わかった。わかったよ。
もうあなたのしがみつきを、「愛なんかじゃない、執着だ」なんて毛嫌いしないよ。
嫉妬の苦しみがどれだけ激しいなものか、はじめて味わった私は、少し彼の辛さがわかったのである。
なによりも、夫の話に耳を貸さず、自分の信じる言説に従った解釈を施して事足れりとしていた私が、変わった。
彼の言葉を聞いた。
それもね、頭の上っ面でというより、深いところで聞いた感じ。
彼の言い分もなんとなく分かる。
そう言いたい、正当化したい。それが当然。
真実がどうかとかいうことではないのね。
人生は謎解きという側面ばかりじゃないから。
二人でディスカッションもした。
そう、感情的なケンカだけではなかった。
冷静な話し合いも数限りなく。
それでわかったことは、彼にも人の話を聞く柔軟さがあったということ。
私たちは、双方が頑迷な年寄りになろうとしていた。
それを阻止したという意味でも、今回の事件は大きかった。
まだまだ私たちの闘争は続くだろう。
マンネリを嫌う二人だから。
脳のマンネリをね。
私の友人は、ケンカの絶えない我々を、「省エネしなよ」と言う。
そうね、そんな人生もあろうけど、私にはできないみたい。
短くも激しく燃え…、燃え尽きる、かな。

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私は甘い?

2009年06月24日 | Weblog
小雨の朝。
不燃ゴミを出したあと。

私の行っているフィットネスクラブは温泉付きである。
最近私も利用するようになった。
夫と時間の待ち合わせをして。
浴場でのおばさん、いや、おばあさん(つまり私より年上)たちのおしゃべりがすごい。
ほとんどが亭主の悪口。容赦がない。
表に出ると、その悪口夫人がおとなしそうなご亭主の前でしおらしくしている。
あれ?
なんかご主人たちがかわいそう。
なんて言ってしまうくらい、罵詈雑言のオンパレードなのである。
しかし!
同じおばあさんたちの会話に、ひょいとまぎれ込んだ話は、じーんときた。
おしゃべりで、周りの迷惑も考えない、ちょっと困ったおばあさんがいる。
彼女がしみじみと語ったのだ。
「主人が死ぬ直前にね、女遊びしてお前をずいぶん泣かせたな、と言いながら手を握り続けたのよ。朝まで」
聞いていた強者のおばあさん、
「最期に言ってくれただけでもいいじゃない」
するとご本人はこう切り返した。
「お金でも握らせてくれりゃあいいけど」
ここで大笑いして、ジ・エンド。
なんだかね、人生長く生きている人の言葉にしみじみしちゃった。
男って、どうしてこう女泣かせばかりするんだろ。
♪~男と女のあいだには深くて暗い河がある~♪
男には男の言い分があろうけれど、泣かされた側の女たちは、このようにおふろ場でうっぷん晴らしするしかないのだと思ったよ。
男はそういう動物だ、という誤ったジョーシキゆえか。
おふろ場で悪口言えない女も山といるだろうな。
私も遅ればせながら、仲間入りだ。
と言いながら、なかなかおばちゃんたちの仲間に入って亭主の悪口を言うことができない。
いつまでセーラー服着てんのさ、と独り言。

ああ、世の多くのおばちゃん、おばあちゃんたちの男への呪いは、おふろ場の湯気と消えるのか。

それにしても、
強い男だけがいい思いするのが世のジョーシキ?
うちの亭主は、そうでありたかったのか。
ところが妻は、そんな亭主をないがしろにした。
だから「目には目を!」
すごいな。さすが強い?男だ。
なんたって、前へも後ろへも進めないで足のすくんだ私を小脇に抱えて守り抜いたのだ。それなのになんだこの扱いは。一日2時間も、それを週に3日も放っておいて。
まあね、彼の言い分は、彼の世代の結婚観がどういうものか想像すれば、わからなくはない。
かなりのおおごとになったのに、彼は私をひたすら守ってくれたものね。
強い男のアキレス腱を、少し無視しすぎたのではある。
だから、おばちゃんたちと一緒になって悪口が言えない。
でもどこかでおばちゃんたちとおしゃべりしたら、こう言われるかな。
「そりゃ、あんた、甘いわ」
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覚醒

2009年06月23日 | Weblog
久しぶりに信田さよ子先生のブログを覗いた。
今の私にぴったりの本を書かれたようだ。
そして今度の日曜日、近県に講演に来られるという。
ああ行きたいなあ、と思う。
しかし夫はいやがるだろうな。
夫は信田さよ子的切り口を嫌うから。
当たり前だけど。
私を覚醒させるからね。
でももうすでに覚醒しちゃった。
だからそれをあえて表に出さないほうがいいのかも。
よって、本も買わない。
講演にも行かない。
ということにしようかな。
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完璧な制御装置の弱点

2009年06月23日 | Weblog
思い出したように更新。
先日テレビで発した安藤忠雄氏の言葉に、夫婦で共感した。
東大を出た官僚たちは、とにかく自分が一番できた人たちだから協調は大の苦手、と。
それから言い訳だけは上手。すなおに自分の非を認めない。
頭はいいけど感性はない。
などなど。
夫は他人事のように笑っていたけれど、あなたも似たようなところがあるわよ。
私は心のなかで思う。
彼も他人の何倍も努力してのことだろうけど、エリートという自負で生きてきた人。
その自画像にふさわしくない行為は、なかったことにする。
これを自動的に行っているようだ。
例えば、今回の事件で私と小競り合いになったとき、私は彼のげんこつで手の平を押されてひっくり返った。
このげんこつが当たったことを私ははっきり覚えている。
ところが彼は、そんなことぼくがあんたにするはずがない…、と本気で言う。
そう、彼はカッとなった、つまりブレーキが外れた状態の自分を、どうしても認めがたい。
これはある種のエリート病なんだろう。
今回はかなりのところまで、認めていただいた(笑)。
いくらなんでも自ら起こした失敗を、自分を守るための嘘で固められたら、私の立つ瀬がないからね。
ついには、「もう目には目を、はやめた」と言うにいたった。
目には目を、の行為であったと、認めていただいたわけ。
これは私にしてみれば大収穫。
ケンカというのは、そういうものの応酬なのだから。
しかも彼が今回告白したなかには、彼と知り合ってからの14年余、ずっと私を疑い続けていたというのがある。
これはね、出会ったころの私のイメージなのだろう。
だから牽制し続けているのだと思っていたが、本気で疑っていたらしい。
なので今度はことは怪我の功名と、彼自身が言う。
私の怒りが本物だったことで、逆に私への疑いが晴れたようだ。
この女は俺を放っておいて男を捜しに行っている。
あるいは、
自分は捨てられた。
あるいは、
嫌われた。
あるいは、
かたちばかりの結婚生活にしようとしていると思った。
勝手にそう思いこみ、
それなら俺だってと思った、とは言わない。
決して言わない。
これは断じて否定する。
相手をそういう対象として見たのではない、と言い続ける。
とは言え、一方で、かっとなって電話をしたと言う。
彼自身、自分がかっとなったとき、つまり制御不能になったときの、自分の言動を信じがたいようだ。
ならば、当然、自覚のないまま本音の吐露となった可能性が高い。
妻の留守の間に会おう、などという不届き千万な誘いをかけたのだ。
彼が自身のコントロールを失ったとき、奇妙きてれつな行動に出ることを、じつは私は経験的に知っている。
私と初めてニアミスしたときのこと。
これがきっかけになったのではあったが、彼のポリシーに全くあわない行動を彼はとったのである。
そのとき何かが彼の制御装置を外したのだろう。
ほとんど私がOKだと意思表示をしたと勘違いしたのだと思っている。
そんなバカな、いきなりそんな…、という行動であった。
今回の電話が、かっとなって、というのなら、そのような唐突な行動を彼がとったことは容易に想像できる。
そうすると彼と彼女の言い分の違いが、なんとなく埋まるのである。
どこまでも整合性を求める私にとって、このような解釈はうれしい。
彼は嘘をついているわけではない。
あまりにも自分をコントロールせんとする気持ちが強すぎるために、それが外れたときの言動に二重人格のような落差が生じる。
ということなのだろうなあ。
つなみに彼は自ら「意志が強い。だからもう二度としない」と宣言した。
いやいや、意志が強い、などと言うから、信用できないのですぞ。
あなたの「意志」という鉄板は、強固すぎる。
押さえが効きすぎる。
だから、あなたの自身の欲求は、弱い部分から破裂する。ほころびる。
利他こそ是とするあまりの完璧な自己抑制は、思わぬほころびを生み、取り返しのつかない破綻を招く。
当然でしょう。
I am OK,You are OK.
このバランスが大事。
あなたは目の前の他者に迎合しすぎなのです。
私はそう思うの。

電話という行動の動機は、生理的欲求ではない、と彼はあくまで主張する。
私もできたらそうだと思いたい。
思いたいくせに、それを否定したい私もおかしな人間だ。
わざわざ自分をみじめにしたい自虐趣味だよ、まったく。
でもね、制御の外れた人間はどこに行くか、本能に立ち返る。
そう考えたほうが、理解しやすい。
私への不満を話す相手がほしかった、なんて
こちらが提供したアイデア、切り口に便乗するのは賢明ではない。
彼の弁解はほとんどそれに終始した。
が、「目には目を、をやめた」というのは彼の内省から出た言葉と受け止めた。
「あんたがどう思うか知らないが、一方的に言うが、今のぼくはこれまでで一番信用できる状態なんだ」
これまでがいかに不誠実だったか、ってこと?なんて突っ込みは、あえて入れまい。
この数ヶ月、今回の事件で苦しんだのは私ひとりではないのだろう。
彼も、自身で築き上げてきた「ええかっこ」をひっぺがされた。
ということで、もういいじゃない。
彼はほぼ私との和解が成立したと感じており、それは彼の制御が緩んだということでもある。
もうコントロールしなくて良いから、妄想でもなんでもOKよ。
私は彼に伝えた。
彼のなかの負の部分を、私がようやく受け入れた。
かっこ悪かろうと、信じられな~い、弱虫っ、だろうと。
緩んだので、ぼろぼろ彼の本音が、それとは知らずこぼれてくる。
彼女が夫と婚約中、離ればなれに暮らしていたとき、他の男と関係が出来たにもかかわらず、そちらと別れて結婚した。
という話がぽろり出てきた。もちろん彼女の人格を疑うという文脈で。
こんな話まで、私、彼にしていたのか。
自分でも驚いたけれど、彼のなかでこの情報がどう働いたか想像した。
簡単に男の誘いに乗る軽い女だと見たのだろう。
私が当初そう見られていたように。
彼は制御装置が外れた状態では、その程度の動機で、つまり単に生理的欲求があったというだけで、女性を誘うのである。
ある意味正直だと思うのだけれど、彼はそんな自分を認めたくない。
それじゃあ「人として云々」なんてセリフ吐けないものね。
まるで人格者の顔をした動物でしょ。
彼の輪郭がなかなかつかめないでいた私にも、やっとぼんやりとながら見えてきた。
自らの獣性を、彼は常に抑え込んでいる人なのだろう。
夜の場面でのみ、彼はそれを解放する。
そこでのみ、彼は獣である自分を容認できる。
そこに不満があった(私に嫌われていると思った、という表現はこの部分に詳細にあった)にもかかわらず、抑え込んでいた彼は、ある日ある時破裂した。
彼の叫びでもあったのだろう。
あまりにも完璧に自らを統御せんとした男の哀れ。
このたびは、なぜか不発に終わった。
おそらく、私が完全に拒否していたのではなかったことが大きいだろう。
あるいは彼女との接触機会が私との接触より少なかったこともある。
そういった極めて偶発的な要素により、彼と私は復縁した。
そのことに、やっと、納得しつつある。
私も因果な女である。
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愛の殉教者

2009年06月17日 | Weblog
昨年、年齢不相応な骨粗鬆症を言い渡されて、私のお尻に火がついた。
このままぐすぐずと夫のそばで、あるいは薪ストーブのかたわらで、ぬくぬくとしていてはいけないと思った。
静かにフェイドアウトしていくみたいな、らくちんな死に方は、神様はさせてはくれまいぞ。寝たきりになって、不自由な身体をベッドに横たえて悶々とする日々がくるかもしれない。
で、フィットネスに通い、身体づくりをすることにした。
同時に夫との関係に依存しすぎず、まあ、それぞれが自分の足で立てるようにしなければ、と心に決めた。
これが夫の気に入らなかった。
彼は運転ができない。
この家は、外に出るのに車を使うほかはたいへん不便である。
一人ぽつんと家に取り残された老人。
周りの目も気にしたようだ。
彼の自尊心も納得しなかった。
妻の分際で夫を放りっぱなしにして連日家を空けるとはけしからん。
もっと本当の、直接的動機があると想像しているけど、まあ言わぬが花か。
夫はフィットネスに行く度に不機嫌な態度をとった。
見送り出迎え一切なしの徹底ぶり。
この自分のアピールを無視して私はふりきるように出かけた、と後日夫は言った。
彼にとって妻とは自分の希望通りに行動する女であるべきなのだ。
俺はいやなんだ、と暗黙のアピールをしたにもかかわらず、行き続けた。
だから「事件」のような行為に及んだのだ、というわけである。
この一連の行動を、彼は見事に自分の「愛」の変形だと言ってのける。
つまり「あんたの不在がぼくにとってどれほど辛い、苦しいものだったか」
空虚。
「男を捜しに行っていると思った」
「ぼくからどんどん離れていこうとしていると思った」
「前の結婚のようにかたちばかりの結婚生活にしようとしていると思った」
事件が発覚した後、彼が話した内容の一部だ。
彼の自己正当化のオンパレード。
彼は妻に隠れて会おうとした女に断られた。
ここで彼は自分の行動の正当化をまず行う。
相手を異性だなんて意識していないのだ、不幸せな女がぼくに話したがっていると感じた。
あるいは、妻への不満を共有できる相手と話をしたかった。
後者は、はっきり私の見解に便乗した正当化だけれど。
彼女に対する行動の自己正当化は、私に対する自己正当化へと変化していく。
私?
こんな男でも離れられない、と、まあしがみついたのである。
しがみつかれると、彼はハッピーになる。
何よりも必要とされることを必要とする人だ。
弱りに弱った私は、彼の助けを必要としていた。
わたりに舟。
彼は献身的に私に尽くした。
一方でどうしても納得いかない私は、覆水盆にかえらず、やはり別れたい、と申し出る。
そこで、彼の行動の自己正当化は、私への愛ゆえであったという物語に変化していく。
私に出て行かれるのは、今彼がもっとも避けたいこと。困ることなのだ。
夫の行動への腹立ちから、夫を困らせようとする妻。
妻を説得するには、やはりわれわれの出会いを正当化する「愛の物語」が必要だ。
やや及び腰の愛の告白が続いた。
私をここにとどめるための、私に受け入れてもらうための「愛の物語」。
これ以外に私がすんなりと納得するとは思えなかったのだろう。
なんたって愛の喪失感に苦しんでいたのだから。
しかし私はここでも嗅覚を働かせる。
何かが違うのだ。
とても熱心に愛を説く伝道師、ではあるけれど。
私が求めていたのは、そんな物語ではなかった。
すでに昨年の私は、自分たちの出会いを合理化する「愛の物語」からは脱却しようとしていた。
老後を暮らすパートナーとしてはいいほうじゃない?
淡々と、穏やかに、のつもりだった。
しかしこれについては彼がノーだったのだ。
彼は自らの行動が何に由来するのか、ほとんど考えていない。
もう終わったこととして通り過ぎようとする。
二度目の電話についてだけ謝罪した。
この電話が相手に誤解を与え、その結果私を大変傷つけてしまったこと。
これについてのみ、二度としないと謝罪した。
この点では罪を認めいている。
しかし一度目の電話が何であったのか。罪の意識は皆無だった。
わざわざ妻の友人の携帯の番号を調べて、電話をかけることは、彼にとってはなんでもないことのようだ。
たしかに、普通はこれくらい許容範囲だけどね。
彼が私に求めた「男一切禁止」の戒律を思うと、それはないでしょ、となる。
不公平だ。
しかし彼のなかでは、男たるもの外に女の一人くらい、とか、妻が性生活を拒否することはならぬ、とかの不文律がある、みたい。
だからね、普通の結婚生活に戻っていたのは彼だったのだ。
私たちは別に特別な愛で結ばれているわけではない。(彼は相性とか、私の頭、とか、二言目にはいうけれどね)
私の昨年の考えと似ていない?
それでいいの、私は。
ところが彼は、自分の行動の正当化のために「愛」をもってきた。
しがみつきの愛こそわれわれの愛だと。
これでは彼の思いのまま。
一人で留守番はいや、とかね。
彼の単なるおぼっちゃま的わがままを通すために行われたことになる。
見事に筋書きが出来上がった。
たいしたものだと思うよ。敵も。
彼は内心、この女はなかなかにしぶとい。もういい加減おれ様の物語を信じろ、と思っている。
ここで私はやはり二の足を踏まざるを得ない。
彼の愛の物語は、二回目の登場だ。
出会ったころ、「本物の愛をわかってくれ」と泣いた男。
今回はそれほどの情熱はない。
こちらも二度目とあって、首をかしげる。
それでも愛の説得は続くので、私も自己正当化の必要を感じているわけなので、ほぼ同意しそうになる。
でも、違うよねえ。
繰り返し繰り返し、もう一人の私。
だから教会なのである。
彼は本気で信仰する気はないのだろう。
積極的ではない。
まったく。
彼は私が乳母のようにそばにいて、バラ作りの手伝いをすればそれでいいのだ。
私はそんな場所で愛の殉教者になる気は、やはりない。

とは言え、彼との出会いを、現在の暮らしを、何とか正当化しようとしている私がいる。
私にも物語が必要なのだ。
しかし彼が作った、彼の自己正当化のための物語には、諸手をあげて乗れる気分ではない。
やはり、ね。
事件のせいもあるし、整合性に問題ありだから。

この日記、毎日切り口が変わってるんだろうな。
読み返すのがこわいので、このまま。

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言葉をハートで聞く

2009年06月15日 | Weblog
昨日は、日曜日。
夫はばらの集まりなので、一人で教会に行った。
夫と一緒に行くのとはかなり違う気分だった。
夫婦として行くと、牧師さんのすすめに従って前の席へ行くのも、夫の意向を確かめないわけにはいかない。
ほんとは私ひとりで行きたかったのだと思う。
ほんとのところを、私がなぜ教会に来たかについて、話したいのだと思う。
もちろん話さない。夫がいやがるから。
ともあれ昨日は、素直にすすめられるまま前から3列目の席に座った。
賛美歌を歌い、聖書を読み、お説教を聞く。
20歳前後に、「神は死んだ」と言ったニーチェやカミュを読みふけった私。
神様がここにおられます、なんて話をにわかに受け入れるのは難しい。
言葉で表されるものに、なかなかそうだと頷けない。
この教会に、過去二度、夫とともに出かけた。
夫は私以上に言葉にひっかかった。
賛美歌の歌詞ひとつひとつを考えていると歌えない、と言う。
昨日の私は、牧師の言葉を音楽のように聞いてみた。
言葉として左脳で聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
そうするとすとんと身体に入ってくる。
なんとも心が洗われる。
これを素直に?神が降りてきた、と感じたときが、入信のとき、らしい。
私にそんなときが訪れるかどうかわからない。
現時点では、それはある種の憑依じゃないかと思っている。
あるいは集団ヒステリーでは、とか言ってみる。
小賢しい女だね。
そんな目で教会にいてもつまらないので、言葉を聞くことを放棄してみたのだ。
これは心地いい。
少なくとも、わけのわからぬ夫にマインドコントロールされるよりは、安全な気がする。
そう、私が神を求めたのは、理解不能の夫とそれに囚われている私を包摂する物語が必要だと思ったからだ。
私vs夫。
いつも二項対立。
しかも私には相手は現実検討能力にやや難ありと見える。
相手は同じく、私が変だと思っている。
よって、二者の対立はエンドレス。
互いが互いを裁く構図が、常に生まれる。
これはたまらない。
私もあなたもおかしい人。それでもいいと第三者の審級(突然浮かんできた小難しい言葉だけど、意味はあっているかなあ)を求める。
よくわからないけど、こんな小難しい言葉で夫とおしゃべりするのはやめよう。
理屈っぽい話はここだけ。
ここで私はその種の煙突掃除をする。
突然だけど、「言語化」って何?
ま、そのようなことをしないではいられない私がいるのも確かなの。
だから書くんだと思う。
ところが、理屈ってのは、とても防衛的なものなので、じつはもっと深いところで動いている感情に蓋をしている場合が多い。
今度の「事件」ではつくづく思った。
防衛的な言葉が空回りしていると。
空中分解しそうなほど。
感情というのは、言葉でやすやすとすくいきれるものではない。
どうしても納得できないモヤモヤを抱えて、私が神より先に求めたのは「短歌」だった。
夫の作り上げた物語(これはこれで彼にとって必要なものだったろうが)にどうしても納得できない。
その枠組みに納得すれば、そこはらはみ出した感情が暴れ出す。
この得体の知れないものを、毒々しい言葉で相手にぶつけるのはよそう。
できたらそれを昇華しよう。
そうだ短歌をやろう、と思った。
で、カルチャー教室の門を叩いた。
わき上がってきた感情に垂れ流しの言葉を乗っけるのをやめたわけ。
ああでもないこうでもないと、言葉を選ぶ。
伝えたいことは、ある。
当然第三者の目に触れる(リアルに)のだ、軽々しいことはしない。
暗喩を使う。
自分にだけわかるのでもいい。
誰ががちょっと感じてくれたら嬉しい。
これはこれで私を少し元気にした。
しかし、「事件」への囚われから逃れられたわけではない。
いつまでも古傷を眺めて酒をちびちびやってるやさぐれみたい。
なかなか「昇華」とはいかない。

そこで「言葉」への囚われから一気に脱出しようとしたのか。
自分でもよくわからない。
分からないことは分からないでいい、そう思った。
とにかくくだびれた。
繰り返し繰り返し「事件」の、それも夫の気持ちをなぞる作業。
これはいわゆる「嫉妬」というやつですね。
しつこい、ほんと、しつこい。
これを言葉でなぞることにくたびれた。

教会で牧師の話を「言葉」として聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
こう先ほど書いた。
感動というのは、深いところからわき上がってくる。
辻井くんのピアノを聞いて泣いた、と母が言う。
ガンの再発かと不安に苛まれているときだ。
そしたら今朝、夫が辻井くんのピアノを聞いてぐしゅぐしゅに泣いた。
「ロックフェラーの天使の羽根」を聞きながら。
どんな思いがよぎっての涙だったのかは、分からない。
妻がいくら話しても自分の言葉を完全には信じてくれない、との悲しみか。

そうなのだ。
彼は自分の話していることが真実だ、ちゃんと耳を傾けてくれ、と言っている。
たぶん今の彼の真実なのだろう。
ところが私は「事件」の過去に居着いている。
そう病んでいるので、その場所から離れられない。
病んでいるついでに、ここで一つ記録しておくけれど、
彼は、自分の行動を合理化するためにほとんど自動的に「彼(彼女)は自分の気持ちがわかっている」と思い込む。
これは癖というかビョーキと言っていいレベルである。
誰に訴えてもなかなか分かってもらえないけれど。
例えば、彼は前妻と離婚したいという気持ちを持っていた。それで私とつきあっていた。ある日、娘の結納を終えて、駅のホームで別れるとき、娘と目が合った。娘には自分の気持ちがわかっている、と彼は確信した。そう私に伝えた。ところが後日、実際に離婚の話になったとき、一番怒ったのは娘だった。
このように非常に自分に都合よく他人の気持ちを曲解する傾向がある。
自分と他人との境界があやしいところがある。
先日私のジーンズがセクシー(笑い)だと怒ったときは、私の息子も同じ気持ちだったと思うよ、と言っていた。
自分の感覚を補強するために他人を巻き込んでいるのか。
今回の「事件」の相手にたいしても、彼は自分の気持ち、すなわち妻の冷たさ、きつさに対する不満が、彼女は当然分かってくれている、とどこかで確信したのだろう。
だからああいった唐突に「会いましょうか」なんて電話になった。
妻が母親の入院の付き添いに行っている間に彼女と会うことが、どういうことなのか考えることもなく?
彼女が驚くのは当たり前だ。
私を通しての知りあいではあるけれど、一度か二度電話で話しただけの相手である。
どういうつもり?と思うのが自然だ。
それが可能だと思った彼の、現実誤認。
彼女のしぐさ、あるいは視線を、手前勝手に「自分の気持ちをわかってくれている」と思い込んでの行動だったろう。
しか彼がこの事実誤認をみとめることは永遠にないだろう。
ある種のビョーキだと私が言う所以である。
私もそこにへばりついていることにおいては、ビョーキだけどさ。
彼は自分の言動を正当化するために、他人の気持ちまで自分のペンで描いてしまう。
ひとり妄想している分にはいいのだが、それを実際に行動に移すと、迷惑を受ける人が出てくる。
今回の事件では、彼女と私。
私はこういう人とこれから先暮らしていくわけだ。
またいつ事実誤認によるトラブルが起きるかもしれない。
そのときのための記録なの。

それはともかく、今日の結論。
彼の言葉、私に言わせれば「きれいな嘘」を言葉として聞くのではなく、音楽のようにハートで聞く。
彼の「現在」が言わせている言葉ということでは、真実なのだろうから。
「現実」、ただいまの、彼の感情が、そう言わせている。
だとすれば、いいではないか。
今の彼を信じることはなんとか出来るのだから。
過去のある時点での彼の行動が、彼の言葉通りだとは思えないというだけの話だから。
彼は思った以上に気が小さい。
私が冷たいとかきついということもある。
人に嫌われることを極度に怖がる人である。
もしかしたら、冷たく拒否的な妻を嫌っていたのかもしれない。
単純に考えると、よくある男の話になるけどね。
まあ、もういいわ。
私もじつは今年の1月には、かつて好きだった部分がいやになることもある、なんて日記に書いている。
お互いだったのかもね。
ただ彼のほうが追いつめられていた。
孤独感はひとしおだったろう。
私に振り向いて欲しかった、という彼の言葉も全くの嘘ではないだろう。
というわけで、私は「今」の彼の言葉を、ハートで聞くことにする。

ハートにじんとくるよ、あなた。
まったく。

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煙突掃除ができました。

2009年06月13日 | Weblog
しばらくぶりに日記を書いて、思った以上にすっきりしている。
まるで煙突掃除のあとみたい。
わが家の薪ストーブはひと冬に何度か煙突掃除をするのだけれど、
その度にものすごい量の煤。
どさっと、という表現は大げさではない。
詰まるものなのだな。
詰まらせるのはよくないな。
かくして私は、昨日の思いを胸に、夫に話をした。
「言うべきかどうか迷ったんだけど」
「なになに? 話してよ。気になるから」
身を乗り出す夫。
しずかにしずかに語る私。
「どうしてもわからないところがあって」
わからないところだらけである。
先日の、私がへんなおっちゃんに近寄って夫を困らせた、なんて濡れ衣はなぜ?
あなたは自分のなかで起きた怒りを、外的な原因だといつも決めつける。
しかも私はあなたの味方なのに、味方まで攻める。自己免疫不全よ、と笑いながら。
「ちがう。敵に味方するならあんたも敵だ」
「あのおっちゃんが、あなたの敵だなんて私聞いてない」
そして初めてほんとのことを言った。
かつて、ずっとずっと昔、私がつきあったゴリラみたいな男がいた。
その男とだぶって、かっとなったそうな。
それより何より、彼が自分に嫌がらせをするんだそうな。
はいはい、いつもの被害妄想ね、と私にあしらわれるのがとても嫌だと言う。
そうだったのね。
去年の私は、あなたの不機嫌というアピールに答えないばかりか、無視していた。
かわしているつもりだった。
かわさないとまた濡れ衣で攻撃される、と思っていたから。
彼としたら、かまってくれなかった、とご不満だったようだ。
私は今年の2月22日まで、一度も彼が私以外の女性に興味をもつなんて考えたことがなかった。
おまけに彼は嫉妬妄想が激しい。
これは老人特有のものかしら、なんて決めつけて、ほとんど厄介老人をケアする態勢だったかもね。
それが彼にはたまらなかった。
せっかく「心の通いあう人とこれからは暮らしたい」と離婚してまで一緒になったのに。
私は正直うっとうしかったのね。
それに彼は堪えられなかった、のだと思う。
たしかに自分だけどんどん元気になって、そのおかげでテンション高くなるし。
ずいぶん偉そうにしていたな、彼に対しても。
「私、愛されすぎて増長していたんだ?」と聞くと、否定しない。
「増長した妻に、調子に乗ると俺だって何するかわからんぞ、と脅したの?」と聞くと、
「あんたの言う無意識という領域ではそうかもな」
こちらが素直に出ると、あちらも素直である。
私たちはほんとにどちらも負けず嫌い。
その上「ああ言えばこう言う」のが特技の私。
私に押しまくられていたのが去年だったのか、と妙にしんみりした。
ついに夫はまたまた新しい一面を見せた。
「あんたにカッとなって反射的に電話をした、なんてなかなか言えなかったんだ」
男として言えない、というのが核にある彼に、私はそこまで言わせたということになる。
「相手の女性は道具としてつかってしまったようで申しわけない」
まあ、このあたりには微妙な感情の往来があったとは思う。
しかし所詮本気でなんとかしようと思ったわけではないのだろう。
そこまでの覚悟があったら、もっと上手くやるわね。
私への意趣返し、これが動機、なのかな。
携帯電話というのはとてもお手軽なツールがある。
毎週3日も午後の2時間余り暇を持て余す男がいる。
かたや、いつも暇で電話をすればすぐに出てくる、と妻が言う女がいた。
…私も彼女を都合よく利用していたのかもしれない。反省。
…夫が私の行動を模倣した感も否めない。
男は、軽い気持ちで電話をする。
ところが受けた彼女はとても深刻に解釈した。
だから「半年間困惑していました」などと私に告げるムードができる。
夫に言わせれば、継続的な関係とは思っていないのである。
ある種の!男の身勝手さがここにある。
彼女には半年間の困惑。
しかし男には点と点があるだけ。
妻への怒りが爆発した点があるだけ。
まったくなんと自己中心的!
だけどねえ、恋愛なんてのも、特に不倫なんてのは、自己中の極だものね。
彼女には悪い、とは思う。
けれどね、半年間も困惑するなら、半年も経つ前に私に一言ください。
「あなたのご主人からわけのわからない電話もらったわよ」
これがごく普通の友人関係。
ところがそうではなかった。
私の彼女への接し方、関係の持ち方にも問題があったのだろう。
もちろん彼女自身にもね。
彼女も自己中心的としか言いようのない行動で、私に爆弾を落とした。
主人のいるところで、爆弾を落としたのだ。
当然夫婦の諍いが始まる。
夫は攻撃されると見るや徹底抗戦の人である。
「あんたは彼女にはめられたんだ」と言い張る。
このひとことを私は彼女にメールで伝えた。
これに彼女は怒ったのだろう。
冷静に、練りに練った作文がメールで送られてきた。
彼がそれを意図的に作られたものだ、と抵抗した理由がわかってきた。
彼女は自身の怒りに乗じるかたちで夫が彼女を誘惑しようとしたのよというメッセージを私に伝えることに成功した。
私はそれ以上に最悪のことを想像した。
半年間…、この間ずっと私は欺かれていたのか。
夫にも、彼女にも。
二人に裏切られた、という気持ちは、きつかった。
そういう文脈で伝えてきながら、半年間黙っていて今ごろなぜ?との問いに、彼女は答えを持たない。
私の最悪の想像はとどまるところを知らない。
私と夫の出会いが、それぞれの配偶者を裏切りつつの恋愛だったことを思えば、当然だけれど。
彼は私を切ったの?
このどん底から浮上するのに、何度も何度も沈んでは浮き上がりを繰り返した。
しかし彼の献身的愛情は、私のトラウマともなりかねなかった今回の傷を、癒すに足るものだったようだ。
昨日、やっと、そう感じた。
書いて、整理してから話す。
これはなかなかいいことみたい。

彼女に対して謝らなければならないと思ったりする。
しかし、彼女の望んでいるらしい私との関係の復活は、もはや無理。
ならば、あえて物言わぬほうがいいのだろうか。
あなたを道具のように利用してごめんなさい、なんて言われても嬉しくはないだろうから。
だったら私の夫が少し異常な男で、そんな男に囚われの身の私を気の毒がってもらっていたほうがいいかもしれない。
夫が一番いけないのは確かなのだ。
彼女を誘惑しようとして断られた変な老人の汚名を着せられてもしょうがない。
本人はそれでいいと言っているのだし。

何かがわたしに示唆をくれるまで、あるいは彼女が私に何か問いかけてくるまで、じっとしていよう。
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愛の物語?

2009年06月12日 | Weblog
久しぶりに更新したら、日向日和さんからコメントをいただいていた。
「続けて下さいね」
この一言がしみじみ嬉しくて、書いている。
「事件」以来、私は友だちと呼べる人とほとんど会話をしていない。
本心を明かす場を持てないでいる。
夫のしがみつきが再開したから。
軟禁状態だから?
それ以前に、彼以外に私にはすがる人がいない、と思う私がいた。
「こんなにあんたを傷つけるとは思わなかった。ごめんよ。二度としない。ぼくは意志が強いんだから二度としない」
夫が言えば、「そう、たいしたことではなかったんだわ」と言い聞かせる私。
けれど「ちがうちがう」と私のなかの何かがムクムクと頭をもたげる。
そして、なぜか突然の怒り。
あるいはそれを抑圧することからくる抑鬱。
あるいは彼をかわいそうなのだという感情すり替え。
こんな繰り返しの毎日が続いた。

夫は、ある種の「力」を持っている人なのだけど、
その腕力でもって、今回の事件を「愛の物語」にしてしまった。
私を愛するがゆえの嫉妬、それに伴う怒りが行動を起こさせた、と。
私が彼を振りきってフィットネスに行く、そのことが彼に絶望的な空虚感をもたらした。
ぼくのアピール(不機嫌という)を無視されて、それは苦しかったのだよ、と。
彼の仕立てた「愛の物語」にのってしまえない私が、じつはくすぶり続ける。
現実的な話、彼のお話にのったほうが幸せじゃないか、と思いつつ。
これはどういうことなのだろう。
最近、彼が久々に怒りを表した。
もうそういうことはない、と言った舌の根も乾かぬある日。
フィットネスで彼に嫌がらせをする男に私が近づいていったのだと、彼は怒る。
私の嫌がらせに確かに見えた、と本気で怒る。
彼の感情の出所が、私には見えない。
私への猜疑心が消えたと言い、「生まれた初めてだよ、こんなに穏やかな気持ちは」
なんてことを彼が真面目に語ってからひとつき経っただろうか。

彼は誰かにしがみつかれることを望んでいる。
今度のことで「ハッピーになった」(彼の弁)のはじつは彼ひとりではないのか。
夫は、私が彼から距離をとりながら生き生きと生きることを阻んだ。
意図的に、とは思いたくないけれど。
少なくとも、もうひとりの依存的な女を巻き添えにした。
都合の良い女を、妻のほかにひとり確保しようという無意識の働きがおこさせた行動なのではないか。
全く性的な興味はなく、という彼の言葉どおりだとしても、自分のエゴを満たすための相手を得ようとしたことは確かなこと。
これについても、妻への愛が無視され拒まれた揚げ句、苦しまぎれの、やけっぱちの行動であった、と彼は言う。
本気で、そう、言う。
体重も減り、やせこけて苦しむ私を見て、喜々として(そう見える)いたわり、献身の限りを尽くす。
これこそが愛だと言わんばかりに。
世界中でぼくほどあんたに尽くせる男はいないよ、ととろけるような言葉を発しながら。
一生かけて償う、と真剣に言う。
「出ていかないで」と訴える。
そう私に出て行かれるのがいやなの。
事件の一年、私が自分を嫌いになったのではないか、自分から離れていくのではないか、と思ったと言う。
男を捜しに行ったのだ、と妄想したという告白までした。
しかしこの妄想が抵抗なく口にされたことに、私は違和感をおぼえた。
これとて、彼が私の意向に添うかたちでストーリーを作り上げたと見えるのである。
電話の内容はたいしたことじゃなかった、と言う一方で、私にこんちくしょうという気持ちでかけた、という。
感情の制御に問題があるのは、彼も私も同じだけど。
彼の愛の言葉は、親の逆鱗に触れて、懸命に良い子になると弁明している子どものようだった。

妻には牽制とほぼ脅迫の繰り返しで、男と名のつく人間との接触を断たせた張本人である。
女性として見ていなかった、なんていう言い訳は、やはり苦しい。
しかし彼の懸命な説得は、本当かもしれない、と思わせるものがある。
抗しがたいひたむきさ。
これに、たぶん彼と接した多くの人は目くらましを喰らう。
暗いくぐもった声で留守電に「嘘つき、詐欺師」とだけ残した女がいた。
私とつき合うようになったころ、追いかけてきた女。
何度もかかってきた電話。無言電話。
彼女は別れたつもりではなかったようだ。
私には、そろそろ潮時だった、飽きてきていた、なんて言ったと記憶する。
ただ単に私に乗り換えたのだと思うけど。
新しい相手と恋に陥ることで、彼のしがみつきたい欲望は満たされる。
これでないと、彼は不安でならないのだから。
ぎゅっと抱きしめられることの少ない幼少時代だったのかと、想像するけど。
留守電の女も、彼の「言葉」に惑わされた一人のようで、私は今彼女と会って話したい気さえする。
彼は特異な男なのだろうか。
もしかして、魅力的な男なのだろうか。
だとしたら、しょうがないな。
惚れちゃったんだもの、そういう男に。

今、静かに微笑む私。

世界に歪んだ鏡が一枚しかなかったら、そこに映った私こそ私だと思うだろう。
しかし私はわずかながらほかに鏡のあることを知っている。残念ながら。
鏡はいくつもあることを、知っている。
けれど、いびつに歪んだ鏡に映る私を自分だと思わないでは生きていけない状況がある。
一方で、ちがうよね、鏡が歪んでるみたい、と確信する私がいる。
この自己矛盾から逃れる術はあるのか。
夫の現実検討能力には問題がある。
以前から言っているけれど、自分のなかで湧いてきた怒りなりの感情を、外から来たものへの反応だと断言するところがある。自らの感情だと受け入れることが困難なのだ。
自分が怒っていることを、素直に認められない。
あいつが嫌がらせをしたから、あんたが攻撃してきたから、これがいつもの理由。
同時に、今回の事件で明らかになったのは、彼女が自分を必要としていると思い込んで電話をしたこと。
被害妄想だけでなく、被愛妄想もある。ほかにもね。
奇想天外な妄想だと笑えるくらいの荒唐無稽。
彼は、自分のなかで何らかの情動が起きたことを、相手からの要請だと言い替える。
電波が…、とは言わない。
私向けのやさしい嘘、ならいいんだけれど。
どうも先日の怒りの理由を聞くと、本人はまじめにそう思っているのかもしれない。
となるとやはり、事実を誤認してしまう、あるいは想像とごっちゃになった過剰な思いこみ、ひとりよがりの癖がある。
私が「冷たかったからカッとなって電話した」という言葉を信じると、このようなことを二度と味わいたくない私は、彼に冷たくしてはいけない、彼を無視するのでなく、徹底的にかまってあげなくてはならない、となる。
不機嫌というアピールしかしない彼である。
どうしたの? 怒ってるの。
彼の心を解きほぐしてあげなくてはならない。
そんなことまで私はしなくてはいけないの。
そうではないだろう。
これは彼の「やさしい嘘」だと思おう。
カッとなったのはきっかけに過ぎない。
仮に彼の心に他の女性がすみついたとしても、それは私が文句の言える話ではない。
彼が私を嫌いになったとしても、やむを得ない。
こちらの気持ちを確かめもせず、勝手に別れを決められるのはかなわないけど。
でもそれをしてしまったのは私。
前の夫にはひどいことをした。
彼にとって晴天の霹靂だっただろう。
不満はあってもそこらの夫婦よりは仲良くやっていた。
現在の夫が登場し、彼にはまっていった私がいた。
原因は完璧にこちら側にある。
世の中にはそんな理不尽がごろごろ転がっている。
今回はじめて私は理不尽に遭遇した。
いや、父の死以来二度目か。
だから動転しているのか。

いずれにしても、夫の心を覗き込んで、ああでもないこうでもないと考えることは、やめたほうがいい。
理解できない?
理解できないのが当たり前ではないか。
理解できないけれど、何の因果か情を断てない。
そんな相手と、ぎりぎりの断崖絶壁で暮らしていくしかない。

ああ願わくば、信じるべき何かがほしい。
彼。ではなく。
切実にそう願った。
日々願った。
人間不信に押しつぶされそうになっていた。
そうでもしないと私は狂ってしまう。高村智恵子のように。
大げさかもしれないけれど、ほとんど病んでいた。
歪んだ基準ひとつしかない家の中に、別の基準線がほしいと願った。
彼は私の切なる希望に、数日間の逡巡の後、添ってくれた。
彼が尊敬する人を訪ねたのである。
91歳の背筋のしゃんとしたその人は、クリスチャンである。
彼はその人と奥さまの前で、私たちのことをかなりのところまで誠実に話をした。
私たちが二度目の結婚で、見ず知らずの土地にふたりきりで暮らしていること。
双方とも自我が強く、そのための争いが絶えないこと。
妻には幼い子どもがいながら、離ればなれになったこと。
妻は罪悪感から幸せになれないと感じていたこと。
お祈りをすることで心が落ち着くという妻の求めに応じてここに相談にきたこと。
今回のことには全く触れなかった。
それでも彼のひたむきな訴えは、相手の人に伝わったようだ。
私の心も打った。
決して自分勝手な男ではなく、妻の苦しみを見かねて宗旨替えもいとわない夫。
ここまでしてくれるほど、彼は私を愛しているのね。
彼の「愛の物語」を信じるのである。
彼のしがみつきの愛。
私をしがみつかせるための献身。
私たちは教会の門をくぐった。
ご夫妻の熱心なすすめに従った。
ふたりとも、自分の思いに拘泥しすぎている。
説教を聞きながら思う。
委ねるのが、彼は特に苦手だ。
心を全開にすることが怖いのだろう。
信仰とどんなおつきあいをしていくのか、私には見えない。
けれどひとつ窓が開いた、と感じた。
彼以外の「基準」。
救い。

それでいいのである。
それで今は十分であろう。
これ以上何を望むというのだ。
彼の心が優しい嘘で覆われているとしても、だ。
「事件」が起きる前、私が彼の行動に感じたものと、彼が言っているものとの齟齬。
彼は「関係が悪化していた」と言い、
私は「最近彼のしがみつきが激減した」とブログに書いている。
この食い違いに私は脅えていた。

けれど、人間関係なんて食い違いばかりかもしれない。
美しき誤解だって多い。
二者関係をとことんつきあわせしたら、齟齬だらけだろう。
いや、これもやはり程度問題である。
夫とそれ以外の人との間には、やはり大きな齟齬がある。
私とてそうだ。
今度のことで、齟齬を減ずるべく話し合いを重ねた。
しかし結局、彼は彼でやさしい嘘の物語に落ち着いた。
途中で私と同じ思いを共有した、あれはどうなったの?

私と夫の間に生じた深い溝。
溝のあるまま円満な夫婦はごまんといる。
ところがこれを「事件化」したい御仁が現れた。
私はいやでも矛盾に向きあわされた。
私自身の現実認識の誤り、つまり、ひとりよがりを指摘されたわけだ。
「ひとりだけノー天気に幸せだと言ってるけど、おたくのだんなさんこういうことしたのよ」と。
親切な友だちの顔をして、彼女は私の過ちを指摘した。
彼女は被害者だと言いたかった。
夫に怒りをぶつけたい気持ちに、なぜかなったようだ。
それが私への攻撃となった。
私への怒りもあったのだろう。
人間関係形成能力に難ありの三人がからんだ。
だから私の悩みも複雑になった。
だれの言葉を信じればいいの?
「私とご主人とどっちを信じるんですか!?」彼女は私に詰め寄った。
わかりません。
こんな話を半年もしていきなり電話で暴露する配慮のなさから、あなたの友情を感じることはできません。
そう答えるしかないではないか。
私の友人ではなかった。
私が彼女を友人として遇していなかったことが、招いた事件なのか。

夫婦であろうと、互いの心のなかまで覗き込むことは許されない。
恋愛というのは、それをできると錯覚することだけれどね。
一心同体が大好きなわが夫は、常に恋愛状態でいたいのかしら。
抱きしめられていないと不安でたまらない人なのでしょう。
相手は誰だろうと、いいのかもしれない。
今、彼の言葉とは真逆のことを書いている。
私が彼のそんな言葉を求めている、そう思うから彼は言うだけ。
いつだって彼の言動は、相手に愛されるため。
彼の神経は相手の望むこと感知することにのみ集中される。
だから私はいつも、なんか変だ、と感じるのである。
なんか変。
けれどそれを言うと、また堂々めぐり。
私が日常をブログに書くことは、彼の言うコミュニケーションの不足を招いている。
こんな思いもあってあえて書かない日が続いた。
けれどようやく、書く元気が出てきた。
彼の意に添わないことをやる勇気。
これくらいは自分に許していいのではないか。
夫はいやがっている。
自分の描いたストーリーとは正反対のことをここに私が書くことを。
とても恐れている。
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