男女間でも
親しくなると彼を彼女を独占したいと思う
独占欲の始まりだ
やきもちとなり
かなわねば怒りと転んずる。
眼に美しいものを見ると執着する
耳に美しい音を聞くと執着する
鼻によい香りがすると執着する
舌に美味しい味がすると執着する
皮膚に心地よい感触がすると執着する
それらを所有したいと思い
かなわねば怒りとなる。
戦争・環境破壊…
世界は人間のこころのあらわれ。
この世に生を受け
自分の思い通りに生きたいものだが、
必ずや受け入れていかねばならない「苦」がある。
教行信証に
「豪貴富楽自在なることありといえども、
ことごとく生老病死を勉るることを得ず。」
意訳(どんなに権勢を誇り、財力を誇ったとしても、
生・老・病・死の苦をのがれることのできる者は一人もいない)
と示されます。
これらの苦は理屈の上では理解しているものの
実際どう受け入れ生きていくのか…
仏さまのみ教えを通じて
自らの人生のあり方を見つめたいものだ。
【定例法座】
7月20日(土)午後1時半~
講師 石川慶子(館山:宗真寺前住職)
お寺の前の千葉西総合病院
新設の本館完成後、
旧本館を解体していが
旧館に隠れていた新館が姿を現した。
旧本館解体後、来年9月末までに別館が新設される。
また、人や車の動きや風景が変わりますね。
~朝の詩~
「方程式」
数字を入れて解く ばかりが
方程式ではないよ
不平は不満を呼び
不満は心を汚していく
汚れた心は ぬかるんで
足が抜けにくくなるよ
初夏の風を入れ
方程式を
やり直してみようよ
(茨城県結城市 小林キヨ子 65)
風を入れたければ
今週土曜日(7月20日)午後一時半より
天真寺で定例法座があります。
やはり風は法話を聞くに限りますねぇ~。
ご講師は
千葉県館山の宗真寺前住職
石川慶子師。
方程式を
やり直してみようよ。
「分別をわきまえた人」
と言ったら、道理の分かる人と理解するするが、
辞書には
心が外界を思いはかること。
理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえること。
とある。
仏教では「分別」は良い意味では使われない。
物事をわきまえようとしても、
自分の視点でしか見られない自分がおり、
煩悩の色眼鏡で物事を見た分別であります。
「無分別」が真実なる姿を示していると言われる。
こんな問答もある。
文殊菩薩「(無分別である)空を分別することが出来るでしょうか」
維摩居士「分別だって空ですよ」
文殊菩薩「空という真実は分別できないものだ」
…しかし「分別できない」ということも「分別」の一つに過ぎません」
維摩居士「分別も、無分別も、いずれも空なのだ」
ある人は三回さとったと言う。
でも、「悟る」と言うこと自体すでに「分別の世界」ですから…
ホテルにアメニティグッズが備え付けてあるところがある
先日、宿泊したホテルから
持ち帰ったヘアートニック・リキッドを使ったんだけど
匂いがきつくて…本当…気持ち悪くなった。
私もせこいからなぁ…
これからは持ち帰りは止めよう。
やっぱり自分のカラーというか
香りを大切にしょうと思う。
ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師は
仏教の縁起の法を
「この一枚の紙のなかに雲が浮かんでいる」と表現される
チョット考えると意味不明ですが…
ようは
雲なしに水はなく
水なしに樹木は育たず
樹木なしには紙は出来ない。
さらに
木を切り出す人
森や人間が育つには太陽の光が必要であり…
その他一切のものが一枚の紙の中に凝縮されている。
私たち自身もこの紙の中にある。
「風が吹けば桶屋が儲かる」
じゃないけど壮大なる縁起の法
いのちのつながりを
「この一枚の紙のなかに雲が浮かんでいる」
と表現される。
明治の宗学者、清沢満之は宗教の役割を
「宗教は人心をしてその根蔕を自覚せしむるものなり」
と言われる。
根蔕(こんたい)は樹木の根っこ
蔕は果実と枝や茎とをつなぐ「ヘタ」
一本の樹木に実を結ぶ多くの果実は、
一つ一つがそれぞれの形や大きさ、
色や味を持っているが、
その一つ一つは「蔕」(へた)を通して
一本の幹につながるものであり、
同一の「根」から生じたものです。
私たち人間という存在も、
それと同様に、一人一人がそれぞれに独立した存在でありつつ、
その根源においては、いのちを共にしながら生きている。
清沢満之はそのことを「根蔕」という言葉で表現され、
「宗教」とはそのような存在の事実・根拠を
私たちに明らかにするものであると言われる。
本日(H25.7.19)下記放送局の時間で
天真寺の長男・次男の
兄弟僧侶の熱烈奮闘記放映されます。
記
番組:日本テレビ情報番組「news every.」特集コーナー(関東エリア)
日時:2013年7月12日(金)18時15分~35分(予定)