LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

嫌悪感

2016-04-12 18:56:16 | サイキックの眼

   

嫌悪感


「嫌悪感・・・」

嫌悪の念を感じ、感情を抱いても、言葉や感情をあらわにはしない。
なんらかのカタチで態度には出てしまうが、相手にさとられない様に気はつかう。
嫌悪や嫌悪感なんて中々クチにはしない。
感じたくないモノだし、近付きたくないし、避けたいし…
胸糞悪い! (お品の無い言葉が出ました!笑)

相手や周りに嫌悪感を持ってはダメだ!とばかりに自己嫌悪になる。

誰にだって嫌いなモノはある。
嫌いなモノに対し「嫌いだ!」なんて、なかなか言えるシーンは無い。
芸能人・俳優さんや芸人さんの好みや、アニメやらキャラクターの好みなら好き嫌いは言えるし、他者との話題にものぼる。

要するに、「嫌悪感」とは…
・言えない相手
・言ってはいけない相手
・言っては自分が不都合になる相手
・言っては相手に不都合になる相手
・言っては互いに不都合になる関係
この場合にのみ「嫌悪感」というのが値しえるのではないかな。

では、話しが早くなってきます。
職場と家庭、殆ど毎日この2つの環境の中で過ごしています。
何かに対して…、いいえ、誰かに対し嫌悪感を気持ちに秘めつつ過ごしている方は多いと思います。
或いは自己嫌悪も含めて。
でも言えません、なんとか折り合いを付けて生き続けなければなりません。
職場でも、家庭でも、嫌だ!とは言えません。
言ってしまえば、関係が不都合になります。
嫌悪感の持っていき場が無く、自己嫌悪にもなります。

「あぁ~あ、なんか鬱陶しいテレビ番組やってるなぁ、なにがおもろいねん!」
「うわッ!なんやあれ!なんちゅうカッコ(服装)して歩いてんねん!笑」
「あのレストラン最低ぇ~、もう二度と行かない」
「はぁ~もぅ、生理的にうけつけない、あの友人とは距離をおこう」

あのテレビ番組はもう見ない、その後に打ち切りにもなった。
あんな悪趣味なファッションのどこが良いんだか?、と通りすがりの人を見て否定する。
訪れたレストランの評判も悪く、その後、案の定閉店となった。
あの友人には我慢の限界!、もう二度と会うこともなかろう…。

第三者群に対する嫌悪感はこれで一件落着。
嫌なモノは嫌なんだから、仕方ない仕方ない。
いや…でも、私が悪かったのかな。(自己嫌悪)
でも気にするレベルじゃない。

そう、気にするレベルではない。
本当の嫌悪感とは、心の底から何かを嫌い続けること  です。

嫌い続ける、と言うことは、変えることが出来ないモノです。
嫌い続けなければならないモノ。
嫌っても嫌っても、どうしようも変えられないモノのことです。

祖父母 両親 兄弟姉妹 子供 孫 家業 性別 人種 血
そして、自己。

どうしても変えられないモノです。
性別や人種など、今は変えられることが出来ても、それは自らが嫌悪感を感じるので変えるのです。
嫌悪感は、変えられるモノはトコトン変えていくでしょう。
お金で変えられて解決出来るモノも、し尽くすでしょう。
しかし、どうしても変えられないモノがあります。
その変えられないモノの中に嫌悪感を抱き感じてしまうような事があったならば、生涯根深い苦しみを背負い続けることになるのです。
その根深い苦しみは、嫌悪感から恨みつらみにもなり、子や孫へとイヤ応なしに引き継がれていく。

いやいや!いったい嫌悪感とは何なのだ!?
それは…嫌悪感とは、
自己選択が許されない事から生まれる不快な感情
そう思います。
選択が許されているなら嫌悪感とは無縁です。

自己選択出来る人生。
一方的に決められる人生。
自分で決めてはいけない人生。
自分勝手に人生を決めては、親が可哀そう。(自己嫌悪)
人種や性別、差別、情勢、貧困、あらゆる事情から人生が自分の意思で決められなかった。

例えば、子供嫌いの人って多いですよね?
子供の泣き声に嫌悪感を感じるとか…
子供の虐待、幼稚園保育園が足りない問題とか、子供の未来を大事にしていこう!なんてスローガンを毎日聞くが、伴ってない結果ばかり。
なぜなのか?
子供嫌いの大人が、脈々と時代を経て、まるで民族伝統のようになぜ続くのか?
それは、子供の頃から自己選択を許されない教育や社会環境があるからです。
すべて一方的に押し付けられる。
一方的に与えられるモノを受け入れるのが当たり前。
仕方なく受け入れざるを得ない環境だったり。
選択してはいけない、与えられた中で我慢するしかない。
でも今は、子供に自由な環境を!なんて宣伝文句がある。
要は、我慢して黙っている子供は許せる。
そして、自己選択する子には嫌悪感を感じるのだ。
一方的に大人の言う事を聞く子にはホッとする。
自己選択する子にはイライラし、嫌悪を感じる。

自己選択が許されない社会
一方的に自己選択しているヤツにはイラッとする
先ほども言いましたが、これにはまだ変えられる余地がある。
しかし、変えられない家庭環境は、もっと苦しい筈です。
嫌悪感と嫌悪感の無言のぶつかり合いとなっているのではないでしょうか?
家庭内で、双方がリングでにらみ合い。
実況!心中の声は? 「ウゼェ~んだよ」「こっち見てんじゃね~よ」
家族みんなが互いに自己選択を許さないよう見張っているのです。
息も絶え絶え…嫌悪感の泥沼と化していきます。

様々な理由はあれど、自分の意思で変えられない人生だった家系。
我慢して努力もして…
それでもみんな仲良く暮らせていければ良い。
そうです。
だが、我慢の限界もある。
家族と言えど、我慢に耐えれない、耐えがたい動向も起こる。
嫌悪感に値していい出来事だって家族内で多発する。
許せないことだってある。
人には言えない家庭事情、家庭内関係がある。
ただただ、それらに嫌悪感を抱くしかないのだ。

そして、その不自由な我慢も嫌悪感も限界…
子供をも精神的に不自由にさせ、
子供もまた親に嫌悪感を抱く。
または、親のせいにも出来ず…自己嫌悪の行き止まりに。

自己選択出来る人生があれば、嫌悪感と自己嫌悪を乗り越えられるでしょう。
それには、正直、相当に正しい判断と、精神的強さが必要となる。

嫌悪感を抱き合う関係ほど、不幸で不健康なものは無いでしょう。
 
 
サイキックの眼  ヤマモト・コージ