LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

ふるさとの孤独

2016-06-11 07:41:16 | サイキックの眼

   

ふるさとの孤独

〔前篇〕

ふるさとの孤独とは、誰にも言えない故郷(こきょう)のことです。
誰しもがあって、誰にも言えない故郷。
地方のハナシ...
田舎のハナシ...
町のハナシ...
村のハナシ...
そして、たったヒトツの生まれ故郷のハナシ。

子供の頃、みなさん経験があるコトとして、よその友達の家に行って初めて知る事があります。自分んちには無くて…よその家にはあるもの。いわゆる家庭環境の違い?ってやつです。笑
まぁそれはどこの家だってお互い様のことだったんだろう。
だけどしかし、みんな学校や放課後なんかでお互いに戦々恐々としながらも、普通の家庭?を装うので必死だったりで、なんとか子供同士のタテマエを装うことに追われていたように想います。
誰にも聞けないし、誰も教えてはくれない…。
勉強しろと言うだけで、それ以外のことは誰も教えてはくれない。
幼い頃から、皆さんそれは見抜いていたでしょう?
だから何をやっても楽しくない、誰も信用出来ない。
みんなこう思っていた筈なのに、誰にも言えない。
言っちゃいけない…、言ったって仕方ない。
みんな我慢しているんだもの、自分だって我慢しなきゃならない。
親だって我慢している、少しでも負担にならないように我慢しなきゃならない。
我慢して勉強しなければ。
我慢して大人にならなければ。
我慢出来るコトが、大人なのだから。
我慢出来ないと、社会人ではないのだから。
我慢さえしていれば報われるのだ。

私達、昭和時代の親子関係、社会環境はこうだったでしょう?
忘れてはいませんか?

『我慢さえしていれば、いつか報われる。』

これが最大の一般社会人基準だったでしょう?
「我慢さえしていれば」
「我慢が出来た人には報いが」
その結果、社会保障のご褒美は受け取ることが出来ただろう。
しかし、我慢我慢の果てに…副作用の症状として癌や認知症になる人の多い事。

『我慢さえしていれば、いつか報われる。』
これが社会での暗黙の合言葉だった…
これに沿って生きてきた。
社会ではこれが当たり前だった。
しかし。
これが今、精神的に限界を迎えているだろうと思う。
「お国か誰かが報いてくれる、だからそれまで我慢しなさい。」
もうそんな人いません。
そうじゃない。
「みんな自分の力で生きて、そして報われたい。」
これからの平成以降の若い子達は、みなそうして考えて生きていくだろう。

では、これから昭和の残り火となっていく中高年達はどうなっていくのか?
『が…我慢さえしていれば、い…いつか報われる?』
「そう社会で学びました、親からも背中をみてなんとなく学びました、たぶん。」
いったいどこの誰が報いてくれるのだろう?

結果、カラダにも精神にも心にも、ビッシリと染みついた「我慢の癖」だけが残ってしまった。


〔後編〕

では、我慢しないように心掛けていけば良い。

そう簡単にはいかない…
我慢の度合いは千差万別。
誰にも言えない事への我慢がある。
職場で? 学校で? 部活で? 幼稚園で?
勿論、それも色んなコトがあったでしょう、なかなか言えないこともあります。
でも、何故?誰にも言えないのか?
それは、ふるさとで言えないからでしょう。
ふるさととは、生まれ故郷のことです。
つまり実家。親。兄弟。家族。
家庭内で起こっていること。
これは、誰にも言えません。
仕事や学校は辞めることが出来ますが、親子・家族は辞めることが出来ません。

誰にもあります。言えない家庭の事情。
でも子供にはどうすることも出来ません。
殆どの人が、身も心も、その環境が当たり前となっていく。
幼い頃の家庭事情、家族内人間関係も、言えないようなことが有りつつも、順応していく。そして大人になって家庭を持つと、自然とまた誰にも言えない同じ家庭環境が再生されている。

家庭内、家族内で、あってはならないことが起る。
今現在に仕事やプライベートでも問題となっていることがあれば、それは全て既に故郷で起こっていたことだ。
誰にも言えず、暗黙の中で呑み込み続けてきた。
どこかに吐き出す所なんて無い。
不良品の品物を買ってしまったら、その製造元にクレームを言えるが、家庭内で起こっっていた不具合は、家庭内で一番の弱者である子供が受け皿となり呑み込み続けるしかないのだ。

そして、子供ったら、その不具合家庭環境を守ろうとする。
現実の苦しみの感情を差し替えて、清く美化することもする。
自分さえ我慢すれば、きっと上手くいく。そう信心する。
なぜか?
どんな苦痛な家庭環境であっても。
どんなに言えない事情があったとしても。
誰にも理解しがたい情況があったとしても。
そこが唯一の、たった一つの、フルサトだからです。

・ 家庭内事情の孤独な苦痛と…
・ 苦痛なふるさとを捨て、社会で故郷の無い孤独の苦しみと…

心の中では、こんなフタツにヒトツの選択を強いられるのです。
みんなこれが苦しいのです。
何処に行けば良いか解らなくなる。
でも、振り返ってみても、どうすることも出来ない。
なんの手応えも無い。

孤独な苦痛は人それぞれ様々です。
ですが、何の手応えも無いのが、苦痛なのです。
生まれてくる子供はみんな親が好きです。
だが、その応えが無いのです。
或いは、不本意な応えを打ち返される。

親も我慢しているんだ
私も我慢していれば…
我慢さえしていれば、いつか報われる…

生まれ故郷での孤独は、誰にもあります。
みんなそれを抱えて我慢している。
だから、互いに、誰にも言えない。
だから、自分で乗り越えていくしかないのです。

どうやって乗り越えるのか?と、質問を受けます。
それは、みんな親のレベルまでしか成長していないから解らないようです。
心身感覚が、苦痛を苦痛に感じないようになってしまっている。
我慢をガマンと感じない様になっている。
その為、病気やアレルギーを引き起こしている。
それは親を擁護し、故郷を美化するからです。
だが、苦痛は納まらず…色んなカタチで膨張し続けている。
自分が大人になって、親と同じことをしている。
人として、なんの問題解決も試みない家系。
問題が山積みだ。
なので、ひとつひとつ問題を受け止め、人として解釈し、解決に結び付けていくしかしかありません。
解決のカタチ、それは自分の心の内が知っているでしょう?
「こうあればいい、こうありたい、こういう気持ちで過ごしたい、理解し合いたい。」
誰だって想います。誰だってこれが叶わなくて苦しみを感じ、孤独に陥る。

「こうあればいい、こうありたい、こういう気持ちで過ごしたい、理解し合いたい。」
これを放棄し、全く無い家庭環境が苦痛の始まりです。
なんの手応えも無く、なんの意思も無く、なんの手応えも産まれません。
我慢の連続しか無いのです。
これを乗り越える、自然の動物も植物もみんなここから生きている。

でもさ、年金生活者は言うでしょう。
「我慢さえしていれば報われるから、あたなも辛抱がまだまだ足らないよ」って。

そうも言ってられない未来は、もうそこまで来ています。
我慢に対する我慢の限界は、身も心も既に越えています。
  

 
サイキックの眼  ヤマモト・コージ