お経のほとんどは「如是我聞」という言葉からはじまる。
これを読み下すと、“是くの如く我れ聞けり”となり、
「私はこのように聞きました」という意味です。
例えば、阿弥陀経は、以下のようになる。
「如是我聞、一時佛在、舎衛国、祇樹給孤独園、・・・」
私はこのように聞きました。
ある時、お釈迦様が舎衛国の祇園精舎に滞在している時に・・・
お経はお釈迦様が著したわけではありません。
お釈迦様が亡くなられた後に、
その教えを後世に残そうと、弟子たちが編纂したものです。
「私はお釈迦様からこのように聞きました」
と、それぞれの弟子たちが、その教えを語り、経文ができていきました。
さて、例によって “へっぱく”(糸島弁で、無駄ばなし・・私流には能書き)
から始まってしまいましたが、
つい最近、師のこれまでの歴史をおたずねすることがあり、
「如是我聞」が、私の中でクローズアップされた。
「takの理解している如是我聞は、“私はこう聞きました”というところだろう」
「如是我聞は聞法たい」
「聞くだけじゃいかん」
「言うことをきくことたい」
「一言で言えば実行すること!」
お経は一字に千字の意味を含むといわれる。
「如是我聞」の四字には深い意味があったのだ。
「お経の中味が知りたいなどとよく言うが、実行せななんにもならん」
以前、
八万四千(きわめて多い数をいう)の経文ことごとく、
三行の教えにおさまる。と教わった。
素直な心、執われのない心、感謝の心がお経の中味であった。
「如是我聞」は、素直な心と理解した。
師の教えを赤子のように素直な心で実行することが「如是我聞」であった。
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これを読み下すと、“是くの如く我れ聞けり”となり、
「私はこのように聞きました」という意味です。
例えば、阿弥陀経は、以下のようになる。
「如是我聞、一時佛在、舎衛国、祇樹給孤独園、・・・」
私はこのように聞きました。
ある時、お釈迦様が舎衛国の祇園精舎に滞在している時に・・・
お経はお釈迦様が著したわけではありません。
お釈迦様が亡くなられた後に、
その教えを後世に残そうと、弟子たちが編纂したものです。
「私はお釈迦様からこのように聞きました」
と、それぞれの弟子たちが、その教えを語り、経文ができていきました。
さて、例によって “へっぱく”(糸島弁で、無駄ばなし・・私流には能書き)
から始まってしまいましたが、
つい最近、師のこれまでの歴史をおたずねすることがあり、
「如是我聞」が、私の中でクローズアップされた。
「takの理解している如是我聞は、“私はこう聞きました”というところだろう」
「如是我聞は聞法たい」
「聞くだけじゃいかん」
「言うことをきくことたい」
「一言で言えば実行すること!」
お経は一字に千字の意味を含むといわれる。
「如是我聞」の四字には深い意味があったのだ。
「お経の中味が知りたいなどとよく言うが、実行せななんにもならん」
以前、
八万四千(きわめて多い数をいう)の経文ことごとく、
三行の教えにおさまる。と教わった。
素直な心、執われのない心、感謝の心がお経の中味であった。
「如是我聞」は、素直な心と理解した。
師の教えを赤子のように素直な心で実行することが「如是我聞」であった。
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