2009年5月9日 ©NWFFACIM The Holy Instant and Special Relationships
ページ位置の確認。
Sparkly Book 359ページの第三文節
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 312ページの第四文節
First Edition 291ページの第一文節
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 151ページ 新しい第一文節
CIMS版 302ページの新セクション – 第48文節
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
我々が今まで読み話してきた事は、とてもシンプルな事なのです。これは全く努力を必要としません。 訓練された技術も必要ではありません。 理解や理論も必要とされないのです。
聖なる瞬間(貴方が神にYesと言った瞬間)とは、頭で理解すること(understand)の不可能な場所、そして知る事(know)を得る場所へ貴方が踏み出す瞬間です。
コースも言っているように、愛の意味を教える事は不可能です。 しかしコースは、愛の意味を教える教師への道を示しています。 その教師とは貴方ではありません。その教師とは、貴方が自分だと信じている存在ではありません。 その教師とは、貴方が作り上げ鍛え上げた思考能力、貴方が自分を守る為に使っている思考能力ではありません。
先週、ポールが忘れ物を捜していたことについて話しました。 彼にはその物が何処にあるか知る術が全くありませんでした。 (私の協力を得て)彼がしたのは(自分が全くなす術を知らないと言う事を手放し、それを無視して)彼の全てが何時でも存在し/機能し/アクセス可能な愛として生きる事でした。
これをする為にポールは、自分の普段の能力や技術が存在しない場所に行かなければなりませんでした。 そして、「解らない」という状況に自分を浸し、論理的思考を放棄する必要がありました。
長いあいだ真理を学ぼうとしてきた人は、自分が余り進歩していない、あるいは優れた癒しの能力などが得られていない、と不満を覚えた事があるでしょう。 期待が裏切られた、癒しが起こらなかったと。
貴方が、このような事態に直面するのは、その時貴方がちょうど境目にいるからです。 (失敗の境目ではなく)「解る事のでき得ない」場所に踏み出す境目にいるのです。 これはもともと備わっていた貴方の一部分ですが、まだ貴方はそれに気付いていません。
貴方は自分か他人との関係(あるいは他の物体との関係)を通して、これを行います(境目に踏み出します)。 今まで経験した事とのない自分(あるいは他者、あるいはモノ)を知る場所に行く必要がある時にこれ(聖なる瞬間)が起こります。
これを行うとき。 奇跡の起こるのが凄く遅いと(エゴの要求に負けて)匙を投げずに、これを行ったとき、貴方は真理が立ち現れる場所(真理の流入口)に来ています。気付きの立ち現れる場所に来ています。 父の視点に来ています。 貴方の正気が現れる場所に来ています。 それが起こるのです。
それが起こったとき、貴方は自分の全体に気付くでしょう。 貴方は、自分の平和を体験するでしょう。 動かし様の無い平和に気付くでしょう。 本当に平和と成った貴方がイライラしたり欲求不満になる事は不可能と知るでしょう。 そしてあなたは、愛に成るとはどういう意味か知るでしょう。
愛になることの意味を知ったとき、もはや貴方は父を(根源を)体験する事から(貴方の意思によって)切り離されてはいません。 すると貴方は兄弟に対して、今までとは違う目で見て(神の視点で見て)、(無垢な平和から)今までとは違う接し方をします。 それが愛を差し出す(Extension of Love)という事です。 コース(ACIM)はその意味を教える事は出来ません。 でも、それが自分の中で起こることを許せる時点まで貴方を連れて行くことが出来ます。
貴方の能力が求められている(様に見える)にも関らず、貴方が無力を感じているとき、貴方が理解不可能な場所に至ったとき、その時貴方は愛の意味を発見するポイントに来ています。
孤児であるとはどう言う事でしょう? それが夢であるとはどう言う事でしょう? 貴方が真理に無意識であるとはどう言う事でしょう? それは貴方が、どのやって愛するべきか知らないという事です。
貴方に求められているのは、より優れた知的理解や知的能力ではなく、攻撃的で我を張る自意識を放棄する事です。 その自意識(willfulness)が抜けたところが愛で満たされる事です。 なぜなら、愛こそが欠けているものだからです。 孤児に必要なのは愛なのです。
これを聞いて安心して下さい。 より優れた知性が必要ではなく、自分がただ無垢で、頑固さを捨て、自分の中でリラックスして平和であれば、愛する事ができると喜んでください。
愛の全てが、どの様なものであるか知っている人は居ないかも知れませんが、人々は愛に対する何らかの理解を得ています。 ただ貴方は、愛を誤用していたのです。
目覚めの狭間で、貴方は静かになり(恐れや罪悪感のない)自分の平和に入って、意識し始めている何かが、貴方の中でよりハッキリと確立されるのを許可するのです。
それが愛になるという事です。 愛する事とは言わない事にしましょう。 なぜなら、愛するという定義を貴方は計算し尽くしているからです。 個別の状況で個別の愛の定義が行われており、個別の人達に個別の愛が捧げられているようです。
貴方が空虚に、難問に、自分の不能に面しているとき、ストレスを抱えるのではなく「ここで今、あふれ出る愛になるチャンスが来ている。」と言ってください。
愛は自意識ではなく、自己的ではありません。 愛は自己防衛ではありません。
愛は自己中心的ではありません。 愛は、貴方が現在の自分を定義しているものとは関係がありません。 愛とは手を差し伸ばす事です。 愛とは愛を差し伸ばすことです。 愛は抱擁することであり、判断ではありません。 愛は、この瞬間貴方の関係(関わり合い)に無垢を迎え入れる事です。
愛とは、今まで自己保存の為に用いたあらゆる手法を貴方が放棄する事です。 それには親切も含まれます。 自然な調和に(宇宙が働く法則に)従わない親切、自分の安全を確保する為の親切は愛ではありません。
孤児としての貴方、神に与えられた(と思っている)独立行動を起す、孤立した存在としての貴方の感覚は、放棄しなければいけません。 その感覚(独立した自己の感覚)を持ったまま夢から覚めることは出来ません。
なぜなら、その自己意識(独立感覚)の全ては貴方の(エゴの)安全の為に存在しており、それは(貴方の存在を脅かす)世界に対する防御として働くからです。 そして貴方は、敵意に満ちた(と貴方が考えている)世界を自分から遠ざけようと努力し続けます。
これは、真実の調和をもたらす唯一性(Singularity‐あらゆる創造の本質)ではありません。
先週の続きから本を読みましょう。
“Because of guilt, all special relationships have some elements of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が含まれています。〕
罪悪感と恐れは、何時も同時に存在しています。
特別な関係(Special Relationship)とは、他者(あるいは物)と完全には繋がらない状態で貴方が築く関係の事です。 その時貴方は、他者に対する自分の概念を通して、他者と繋がろうとしています。 あるいは、ものに対する自分の概念を通して、そのものと繋がろうとしています。
その結果、貴方は他者とやり取りしている様に見えますが、それは本当の関係ではありません。 そこに本当の調和に似たものが見えるとしたらそれは驚愕すべき事です。
特別な関係とは、関係者がお互いに本当には繋がりあっていない事です。
例えば、先週お話した、御婦人と彼女のヌイグルミ御亭主のように。
そこには愛が存在していません。
“Because of guilt all special relationships have some element of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が潜んでいます。〕
もし貴方が父との一体感を体験しておらず、父の子としての体験をしておらず、自分の事を独立した権威者として体験しているなら、貴方の全体験には罪と恐れが含まれています。 何故なら、貴方の目の前にあるのは(人や動物や物との)関係だけだからです。
例えば貴方が壁から特定の距離に立っていたとき、それは貴方と壁の関係なのです(その関係こそがリアルなものなのです)。
“Because of guilt, all special relationships have some element of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が潜んでいます。〕
もし罪悪感が存在するなら、その関係は特別な関係です。 うんざりする考えですね。
でも、「それなら、私の日常の全ては、全ての関係は、新しい体験のチャンスです。私がこの人をどう考えているか、この物をどう捕らえているか、などの概念に縛られずに、私の感覚を無垢にする(概念から解き放つ)チャンスです。父の視点が私から流れ出すことで、洞察を得る事が、天啓を得る事が出来るでしょう。」と言う事もできます。
ですから、毎日の全ての瞬間の全ての事は、新しいヴィジョンの可能性で溢れているのです。 その体験をより勤勉に求めなさい。
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Sparkly Book 359ページの第三文節
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 312ページの第四文節
First Edition 291ページの第一文節
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 151ページ 新しい第一文節
CIMS版 302ページの新セクション – 第48文節
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
我々が今まで読み話してきた事は、とてもシンプルな事なのです。これは全く努力を必要としません。 訓練された技術も必要ではありません。 理解や理論も必要とされないのです。
聖なる瞬間(貴方が神にYesと言った瞬間)とは、頭で理解すること(understand)の不可能な場所、そして知る事(know)を得る場所へ貴方が踏み出す瞬間です。
コースも言っているように、愛の意味を教える事は不可能です。 しかしコースは、愛の意味を教える教師への道を示しています。 その教師とは貴方ではありません。その教師とは、貴方が自分だと信じている存在ではありません。 その教師とは、貴方が作り上げ鍛え上げた思考能力、貴方が自分を守る為に使っている思考能力ではありません。
先週、ポールが忘れ物を捜していたことについて話しました。 彼にはその物が何処にあるか知る術が全くありませんでした。 (私の協力を得て)彼がしたのは(自分が全くなす術を知らないと言う事を手放し、それを無視して)彼の全てが何時でも存在し/機能し/アクセス可能な愛として生きる事でした。
これをする為にポールは、自分の普段の能力や技術が存在しない場所に行かなければなりませんでした。 そして、「解らない」という状況に自分を浸し、論理的思考を放棄する必要がありました。
長いあいだ真理を学ぼうとしてきた人は、自分が余り進歩していない、あるいは優れた癒しの能力などが得られていない、と不満を覚えた事があるでしょう。 期待が裏切られた、癒しが起こらなかったと。
貴方が、このような事態に直面するのは、その時貴方がちょうど境目にいるからです。 (失敗の境目ではなく)「解る事のでき得ない」場所に踏み出す境目にいるのです。 これはもともと備わっていた貴方の一部分ですが、まだ貴方はそれに気付いていません。
貴方は自分か他人との関係(あるいは他の物体との関係)を通して、これを行います(境目に踏み出します)。 今まで経験した事とのない自分(あるいは他者、あるいはモノ)を知る場所に行く必要がある時にこれ(聖なる瞬間)が起こります。
これを行うとき。 奇跡の起こるのが凄く遅いと(エゴの要求に負けて)匙を投げずに、これを行ったとき、貴方は真理が立ち現れる場所(真理の流入口)に来ています。気付きの立ち現れる場所に来ています。 父の視点に来ています。 貴方の正気が現れる場所に来ています。 それが起こるのです。
それが起こったとき、貴方は自分の全体に気付くでしょう。 貴方は、自分の平和を体験するでしょう。 動かし様の無い平和に気付くでしょう。 本当に平和と成った貴方がイライラしたり欲求不満になる事は不可能と知るでしょう。 そしてあなたは、愛に成るとはどういう意味か知るでしょう。
愛になることの意味を知ったとき、もはや貴方は父を(根源を)体験する事から(貴方の意思によって)切り離されてはいません。 すると貴方は兄弟に対して、今までとは違う目で見て(神の視点で見て)、(無垢な平和から)今までとは違う接し方をします。 それが愛を差し出す(Extension of Love)という事です。 コース(ACIM)はその意味を教える事は出来ません。 でも、それが自分の中で起こることを許せる時点まで貴方を連れて行くことが出来ます。
貴方の能力が求められている(様に見える)にも関らず、貴方が無力を感じているとき、貴方が理解不可能な場所に至ったとき、その時貴方は愛の意味を発見するポイントに来ています。
孤児であるとはどう言う事でしょう? それが夢であるとはどう言う事でしょう? 貴方が真理に無意識であるとはどう言う事でしょう? それは貴方が、どのやって愛するべきか知らないという事です。
貴方に求められているのは、より優れた知的理解や知的能力ではなく、攻撃的で我を張る自意識を放棄する事です。 その自意識(willfulness)が抜けたところが愛で満たされる事です。 なぜなら、愛こそが欠けているものだからです。 孤児に必要なのは愛なのです。
これを聞いて安心して下さい。 より優れた知性が必要ではなく、自分がただ無垢で、頑固さを捨て、自分の中でリラックスして平和であれば、愛する事ができると喜んでください。
愛の全てが、どの様なものであるか知っている人は居ないかも知れませんが、人々は愛に対する何らかの理解を得ています。 ただ貴方は、愛を誤用していたのです。
目覚めの狭間で、貴方は静かになり(恐れや罪悪感のない)自分の平和に入って、意識し始めている何かが、貴方の中でよりハッキリと確立されるのを許可するのです。
それが愛になるという事です。 愛する事とは言わない事にしましょう。 なぜなら、愛するという定義を貴方は計算し尽くしているからです。 個別の状況で個別の愛の定義が行われており、個別の人達に個別の愛が捧げられているようです。
貴方が空虚に、難問に、自分の不能に面しているとき、ストレスを抱えるのではなく「ここで今、あふれ出る愛になるチャンスが来ている。」と言ってください。
愛は自意識ではなく、自己的ではありません。 愛は自己防衛ではありません。
愛は自己中心的ではありません。 愛は、貴方が現在の自分を定義しているものとは関係がありません。 愛とは手を差し伸ばす事です。 愛とは愛を差し伸ばすことです。 愛は抱擁することであり、判断ではありません。 愛は、この瞬間貴方の関係(関わり合い)に無垢を迎え入れる事です。
愛とは、今まで自己保存の為に用いたあらゆる手法を貴方が放棄する事です。 それには親切も含まれます。 自然な調和に(宇宙が働く法則に)従わない親切、自分の安全を確保する為の親切は愛ではありません。
孤児としての貴方、神に与えられた(と思っている)独立行動を起す、孤立した存在としての貴方の感覚は、放棄しなければいけません。 その感覚(独立した自己の感覚)を持ったまま夢から覚めることは出来ません。
なぜなら、その自己意識(独立感覚)の全ては貴方の(エゴの)安全の為に存在しており、それは(貴方の存在を脅かす)世界に対する防御として働くからです。 そして貴方は、敵意に満ちた(と貴方が考えている)世界を自分から遠ざけようと努力し続けます。
これは、真実の調和をもたらす唯一性(Singularity‐あらゆる創造の本質)ではありません。
先週の続きから本を読みましょう。
“Because of guilt, all special relationships have some elements of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が含まれています。〕
罪悪感と恐れは、何時も同時に存在しています。
特別な関係(Special Relationship)とは、他者(あるいは物)と完全には繋がらない状態で貴方が築く関係の事です。 その時貴方は、他者に対する自分の概念を通して、他者と繋がろうとしています。 あるいは、ものに対する自分の概念を通して、そのものと繋がろうとしています。
その結果、貴方は他者とやり取りしている様に見えますが、それは本当の関係ではありません。 そこに本当の調和に似たものが見えるとしたらそれは驚愕すべき事です。
特別な関係とは、関係者がお互いに本当には繋がりあっていない事です。
例えば、先週お話した、御婦人と彼女のヌイグルミ御亭主のように。
そこには愛が存在していません。
“Because of guilt all special relationships have some element of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が潜んでいます。〕
もし貴方が父との一体感を体験しておらず、父の子としての体験をしておらず、自分の事を独立した権威者として体験しているなら、貴方の全体験には罪と恐れが含まれています。 何故なら、貴方の目の前にあるのは(人や動物や物との)関係だけだからです。
例えば貴方が壁から特定の距離に立っていたとき、それは貴方と壁の関係なのです(その関係こそがリアルなものなのです)。
“Because of guilt, all special relationships have some element of fear in them.”
〔罪悪感ゆえに、全ての特別な関係には恐れの要素が潜んでいます。〕
もし罪悪感が存在するなら、その関係は特別な関係です。 うんざりする考えですね。
でも、「それなら、私の日常の全ては、全ての関係は、新しい体験のチャンスです。私がこの人をどう考えているか、この物をどう捕らえているか、などの概念に縛られずに、私の感覚を無垢にする(概念から解き放つ)チャンスです。父の視点が私から流れ出すことで、洞察を得る事が、天啓を得る事が出来るでしょう。」と言う事もできます。
ですから、毎日の全ての瞬間の全ての事は、新しいヴィジョンの可能性で溢れているのです。 その体験をより勤勉に求めなさい。








