臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

松木秀第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』より(其のⅡ)

2016年10月13日 | 諸歌集鑑賞
秋津島ヤマトの糊は学校の工作となりて千代に八千代に
かなしきはスタートレック 三百年のちにもハゲは解決されず
戦争で儲ける人には焼くための星条旗など売る人もあり
核発射ボタンは丸か三角か四角かまさか星の形か
累々と死者が整列しています死んで整列させられる墓地     
アメリカのようだな水戸の御老公内政干渉しては立ち去る  
核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色と思う
とりあえずいつでも壁は壊せても瓦礫を捨てる場所はもうない    
あ、青い 漁師も数多飲み込んで委細かまわず海はなめらか
史上最高なるヒトリザルとして群れを捨てたる若き日の釈迦
奥行きのある廊下など今は無く立てずに浮遊している、なにか
偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう
死に際に巨大化をする怪人のように企業の再編つづく    
銀縁の眼鏡いっせいに吐き出されビルとは誰のパチンコ台か
目立つ場所より錆びてゆく歩道橋誰も渡らぬゆえ気付かれず    
レーニンが詩歌の棚に並べられ新興住宅地の古本屋    
心には窓がありますその窓を叩き割ったらえんどう畑
自転車で転倒してもそんなにも痛くはないが血はやたら出る
宇宙は、とたった十七画だけで表記しちゃってごめん宇宙よ
役に立つ嘘はどんどんつくべきだ例えば「人はひとりじゃない」と
夕暮れは夕暮れとして眺めるなあれは感傷効率装置
利用者の利便のために旭川の個人タクシーみな同じ色
親指をナイフもて切る所からはじまる優良図書の『坊っちゃん』
あるときははらはらとふるかなしみの胡椒としての八月の雨
ふさふさと快癒を願う千羽鶴ぎゅうぎゅう詰めのまんなかの鶴
日本史のかたまりとして桜花湧きつつ消える時間の重み
青い雲天高く投げ5メートルほどの果てしなさへ歩むかな
日本に二千五百の火葬場はありてひたすら遺伝子を焼く
千羽鶴五百九十四羽目の鶴はとりわけ目立たぬらしい
機関銃と同じ原理の用具にてぱちんと綴じられている書類
核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色とおもう
なにゆえに縦に造るか鉄格子強度のゆえか心理的にか
儀式とは呼べないまでも地球儀を運ぶとき皆丁寧となる
新聞も読んでない今日まあいいか明日には明日の殺人が来る
ああまただまたはじまったとばかりに映像を観るただの映像
Confusion will be my epitaph 凡庸な引用として生きる他なし
ちょっとした拍子に欠ける消しゴムのように何かを落としたような
夕暮れと最後に書けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ  
ストローをくろぐろとした液体がつぎつぎ通過する喫茶店
たった今天は配管工事中火花としての流れ星あり
コピー機のひかりに刹那さらされて分裂をするなまぬるき文字
ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に


〈参照〉
 戦争が廊下の奥に立つてゐた(渡辺白泉)  
 沈黙の我に見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ(斉藤茂吉) 
 むの字にはまるがありますその丸をのぞいてみればえんどう畑(坪内稔典)

 松木秀第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』の「あとがき」

 「わたしの目には、短歌という形式が自己の同一性を保証してくれる形式に映ったのです。それ以来はやくも七年半も経ってしまいました。とはいえ、短歌を詠んでいて楽しいと感じたことは一度もありません。わたしにとって短歌は自己同一性を何とかして保持しようとする必死のあがきであり苦行でした。現在もそうです。」


  物質がはかなさという構造をとるつかのまを生命という

 松木の歌の底流にあるのは虚無感であり、それがシニカルな笑いの形をとってあらわれる。一首目の「二千五百」というリアルで無意味な数字の出し方がおもしろいし、「遺伝子を焼く」という結句にはどきっとさせられる。一見軽く作られているが、「火葬場は」の「は」など、助詞の使い方にも巧さがあるのである。
 ただ、こうした虚無感に歌集全体がとどまっていることに、私はかすかな苛立ちも感じた。たしかに現代の日本はどうしようもなく閉塞的であるかもしれない。未来に希望はないのかもしれない。けれども、その空しさの中で、何かなまなましい葛藤を見せてほしいと思ったのである。たとえばかつての受賞者の大口玲子の歌には、ぼろぼろになりながら空しさに耐えている痛みがあり、そこに私は心を打たれた。それと比べて、松木の歌は、絶望感をあまりにもブラック・ジョークとして完結させてはいないだろうか。傍観的な機知に終わっていないだろうか。
  しばしば引用される「アメリカのようだな水戸のご老公内政干渉しては立ち去る」といった歌は、一面 的なアメリカ観をなぞっているにすぎない感じがして、私はおもしろいとは思わなかった。社会詠は、作者の存在を揺るがすような地点から歌われていないと、読者に強く迫ってこない。「核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色とおもう」も気の利いた歌だが、やはり奥深さに欠ける。
 もちろん、この歌風が松木の持ち味であることはよくわかる。だが、虚無感を繰り返し歌うだけであれば、いつかマンネリが訪れる。そこをどう乗り越えるかが課題だろう。私は、数は少ないが次のような歌に心を引かれた。


  自転車を運転すればあっさりと涙出で来る季節となりぬ

 松木は北海道登別に住むという。寒冷な土地に生きる実感がよくあらわれた歌であろう。こうした身体感覚を回復するところから、新しい世界が生まれてくるように思ったのだ。
     











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