臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(4月28日掲載・其のⅢ・必読決定版)

2014年05月08日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(東京都・大網健治)
〇  はははわれをおたまじやくしのやうに産み

 掲句を前にして、私は、過日、静岡県富士市の御自宅にて87歳でお亡くなりになった詩人・吉野弘さんの代表的な詩作品『I was born』を再読してみた。
 そこで、此処に下記の通り、吉野弘さんの代表的な散文詩『I was born』を転載させていただきました。



 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと、青い夕靄(ゆうもや)の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。 

 少年の思いは突飛しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた
---やっぱり I was born なんだね---
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
--I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね--
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
--蜻蛉(かげろう)と言う虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね--
 僕は父を見た。父は続けた。
--友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉(かげろう)の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口はまったく退化していて食物を摂(と)るに適しない。胃の腑(ふ)を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりとした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげてるように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて <卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは--。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものだった。
--ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体--。

 
 我が国の戦後詩を代表する詩作品『I was born』と、朝日俳壇の入選作品とを比較して云々する馬鹿も居ないだろうが、此処で私はしばらくの間、その馬鹿を遣ってみようと思うのである。
 その理由は、「産みの母親と産れた子供との関係を述べる」という同じテーマを扱った短詩型文学でありながら、この両者の決定的な違いには愕然としてしまうからである。
 雑誌『詩学』に、吉野弘さんの散文詩『I was born』が掲載されたのは1952年(昭和27年)のことであり、その年、作者の彼は26歳であった。
 あれから60年余り過ぎた今年の4月28日付の朝日新聞朝刊の「朝日俳壇」に、東京都にご在住の大網健治さんの掲句が入選作として掲載された訳であり、その事は、作者の大網健治さんの為に祝して言えば「めでたし!めでたし!」以外の何ものでも無い訳であるが、これら両者を前にしている時の私の気持ちを嘘偽り無く述べれば、「私たち短詩型文学に携わる者にとっての戦後の半世紀以上の歳月は何だったのだろう?歳月の経過にはどんな意味があるのだろう?」ということであり、「吉野弘さんの詩作品に見られた産みの母に対する優しい労りと尊敬の念、そして自分という存在の若さと至らなさ加減への認識が、あれから60年余り経った後に詠まれた大網健治さんの俳句作品には、その欠片も認められなくなったのであるが、理由は何処に在るのだろうか?」「同じ短詩型文学と言いながらも、詩作品と俳句作品との間には、思想的かつ詩想的に決定的な違いがあるのだろうか?」「それとも時代の違いが、同じテーマを扱いながら両者をして決定的に違った作品を創作させしめたのであろうか?」ということでもあり、この場面での私の内面はかなり複雑なものである。
 此処で、私が大網健治さんの御作を評して言えば、ただ一言「既視感あり」とのみ記しておけば済むのであるが、それ以前に「おたまじやくしのやうに産み」という、産みの母親に対する尊敬の念も労りの気持ちも感じられないような馬鹿馬鹿しく愚かな直喩表現には、嫌悪感を通り越して嘔吐感さえ感じるほどである。
 直喩表現の狙いの一つには、まるで別種の事物を引き合いに出して他者の特色なり個性なりを抽象的に述べ、以って読者をあっと言わせ、面白がらせるという側面は確かに在るが、それだけで終わってしまったならば、それは単なる言葉の遊び乃至は悪ふざけに過ぎませんし、上掲の大網健治さんの俳句作品の直喩表現には、その面白さや読者をあっと言わせる側面さえも見当たらず、ただ単に、この句の直喩表現は、先日の「朝日歌壇」の某氏の入選作品の趣向とそっくりである、と気付かせて、コピペ流行りの今日に相応しい作品として、読者諸氏に軽蔑されるだけのことでありましょう。
 もう一言云わせていただきますと、「おたまじやくしのやうに産み」というフレーズの内面的かつ表現的な貧弱さは、どのように表記しても到底補い切れません。
 したがって、是を殊更に「歴史仮名遣ひ」で以って「おたまじやくしのやうに産み」と表記する必要は何処にありましょうか?
 「鑑賞者の鑑賞意欲を損ない、批評意欲を減退させ、読者諸氏をしてその作品の作者を蔑視させしめる作品」とは、このような猿の物真似的な作品を指して言うのでありましょうか?
 〔返〕  君はまさに御玉杓子のようなもの百円ぽっちで何処でも買える
      「喝!」と言い鬼をも負かす顰め面 張本さんの批評は怖い 


(八王子市・間渕昭次)
〇  初デート春の力を借りてゆく

 「春の思い」即ち「春情」を胸に隠しつつ「初デート」に出掛けた、といった類の話はよく聞きますが、「春の力」即ち「春力」を「借りて」「初デート」に「ゆく」、という話は寡聞にして聞いたことがありません。 
 さて、その効験の程は如何ならむや?
 掲句の作者、即ち、八王子市にご在住の恋多き青年・間渕昭次さんは、首尾良くご自身の熱き思い、即ち「女体への飽くなき情念」を貫徹することが出来たのでありましょうか?
 〔返〕  春情を胸に抱きて初デート怒張し過ぎて思ひを遂げず
 つい、うっかり、作者の春情ならぬ純情を冒涜するような鑑賞文を書いてしまいましたが、よくよく熟慮してみると、掲句中の「春の力」とは、「猫だって恋をし、木通だって蔓と蔓とが絡み合う春だから、私も“洋服の青山”で買い求めた一張羅でおめかしをして出掛けてもよかろう」といった類の極めて平凡で極めて青年らしい気持ちなのかも知れません。
 そんなことを知りつつも、あんな下らないことを書いてしまった、この老い耄れ鳥羽省三の醜い嫉妬心をお笑い下さいませ。
 〔返〕  木通だって蔓を絡めて恋をするおらもめかしてデートに行こう


(東京都・渡辺礼司)
〇  見えるもの見えぬものみな朧なり

 「見えるもの」とは春景色、「見えぬもの」とは掲句の作者、即ち、東京都にご在住の年齢不詳の男性・渡辺礼司さんの「春情」なのかも知れません?
 ものみな朧に霞む春ともなれば、「見えるもの」も「見えぬもの」も区別無く、一様に「朧」に霞んでしまうのでありましょうか?
 〔返〕  春なれば見ゆるものさへ朧ろなりまして心は更に霞める  


(下関市・有馬静樹)
〇  春風と共に赴く新天地

 「春情を以って任地の仙台に向ったが、現地仙台の女性は誰一人として振り向いてくれなかったので嫌気が差し、おまけに上司の支店長と喧嘩までしちゃったので、赴任三ヶ月で辞表を叩きつけて川崎に戻って来ちゃった」という、さる住宅会社の元営業マンの話を聞いたことがあります。
 彼に欠けていたのは「俺の手で新天地・仙台の商圏を開拓し、俺の手で東北復興を成し遂げ、俺の胸で仙台の女性たちを幸せにしたい」という不屈不撓のチャレンジ精神及び克己心ではなかったかと思います。
 よくよく考えてみれば、三人の子持ちの不潔な中年男が被災地・仙台に行ったからとて、家の一軒も売れる訳はありませんし、ましてや、東北の若い女性が振り向いてくれるはずはありません。
 彼は現在、川崎市多摩区向ヶ丘遊園駅前の中古ブランド品の販売店で、目利き見習いをしているそうですが、その道で以って成功するはずはありませんから、彼の末路は今から見え見えである。
 彼の細君は、彼が仙台から戻った時点で、三人の子供の手を引いて故郷の青森県八戸市の在に帰ってしまったそうです。
 彼と彼女の離婚調停も間も無く開始されるとのこと。
 のっけから景気の悪い話ばかりしてご免なさい。
 でも、これは、ごく最近に私の身辺で起こった実話なんですから、どうしても話さずに居れません。
 掲句の作者の有馬静樹さんは、どうかお気になさらずに!
 〔返〕  春情を鞄に詰めて仙台へ(仙台おなごは身持ちが堅い)


(福津市・松崎佐)
〇  春を背に廊下は果てしなく暗い

 春爛漫の「桜を背に」して「果てしなく暗い」「廊下」に帆子一歩と踏み出す、とは、江戸城の松の廊下で、憎っくき吉良上野介に刃傷沙汰に及んだとて、将軍綱吉と柳沢出羽守に切腹を命じられた浅野内匠頭長矩みたいな心境ではありませんか!
 だとしたら、それこそは本物の暗さ、掛け値無しの倉さ、文学的かつ神話的な暗さでありましょう。
 掲句の作者・松崎佐さんがお住いの福岡県福津市と言えば、あの三韓征伐をした神功皇后を主祭神とし、勝村大神と勝頼大神を配祀する、宮地嶽神社のお膝元。
 日本一大きいと称される注連縄が張られた拝殿の奥に鎮座する本殿の廊下は、季節の春と秋との違いに関わり無く、恒久的かつ常在的な暗さが保たれているのでありましょう。
 掲句の作者は、名探偵・明智小五郎もしくは往年の名画『網走番外地』のヒーロー・橘真一のような人物かと思われる。
 春爛漫の桜花を背にして、築一千年余の神殿の廊下の奥にある暗さの中に歩一歩一歩と踏み出して行こうとする勇気こそは、詩神に拠って選ばれたエリート・松崎佐さんだけに備わっている、類い稀なる文学精神でありましょうか?

   網走番外地

1 春に 春に追われし 花も散る
  酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮(きすぐ)れて
  どうせ俺らの行く先は
  その名も網走番外地

2 キラリ キラリ光った流れ星
  燃えるこの身は北の果て
  姓は誰々 名は誰々
  その名も網走番外地

3 遙か 遙か彼方にゃオホーツク
  紅い真っ紅なハマナスが
  海を見てます 泣いてます
  その名も網走番外地

4 追われ 追われこの身を故里で
  かばってくれた可愛いい娘(こ)
  かけてやりたや 優言葉(やさことば)
  今の俺らじゃ ままならぬ
 原詞:伊藤一、替歌:タカオ・カンベ、採譜・編曲:山田栄一、唄:高倉健
 〔返〕  春を背に花を背にして行く廊の奥に小暗き殺人現場


(いわき市・馬目空)
〇  花の中被爆忘れるために酔ふ

 いわき市にお住いの方が殊更に「被爆」と言い、更には「被爆忘れるために酔ふ」とまでも言う。
 短歌にしろ、俳句にしろ、被災地・福島県にお住いの方々は、あの大震災に拠って、恰好な題材を得たわけではありますが、俳人や歌人が全身丸出しの被害者感覚の再生産とも言うべき言葉遊びに興じている間に、あの原発問題を風化させようとしている輩(安倍晋三などの悪辣な政治屋)が在ることを私たちは忘れてはなりません。
 一つ覚えの被害感だけ以って原発や震災を詠んだ作品は、もはや出尽くしたような感じであり、何をどう詠んでも自己模倣のようなものであり、未だに被災地のあちこちに堆積している瓦礫のようなものでありましょう。
 〔返〕  花のなか酔うてばかりは居られない稼働話がまた持ち上がる


(相馬市・根岸浩一)
〇  道普請するかいわいの燕の巣

 全般的に詩想貧弱であり、日記的かつ散文的な内容を五七五の俳句スタイルで述べただけのことである。
 また、「かいわい」とひらがな表記された語は「界隈」と漢字表記しなければならない。
 更に言えば、「かいわい」と言うからには、「道普請する」地域のあちらこちらに「燕の巣」が見られたことになるのであるが、作者の意図するところはそれで宜しいのでありましょうか?
 〔返〕  道普請する手を息め見つめたり軒に囀るつばくらの雛


(八幡市・小笠原信)
〇  その母も抱きし幼なも絵踏みかな

 作中の「絵踏み」とは、「江戸時代、幕府がキリスト教禁止の手段として、長崎などの隠れキリシタンが居ると思われる地域で、予め定めている期間(正月四日から八日まで)に、聖母像や基督像を彫った木板・銅板などを踏ませて教徒でないことを証明させた事」を指して謂う語であり、それに使われた聖母像や基督像を指して謂う語、即ち「踏み絵」とは異なる。
 一言申し添えますと、この一句の表現は「その母も抱かれし幼なも絵踏みかな」とするべきである。
 〔返〕  その母に抱かれし幼なも踏み得ずて紅蓮の炎に焼かれし絵踏み
 マスコミが連日のようにコピペ騒動を流している今日。
 朝日俳壇の選者と言えどもそれと無縁では居られません。
 選者の長谷川櫂氏は、自らの選んだ作品と同じ紙面に掲載される「朝日俳壇」の入選作品にも注意して句選に当たらなければなりません。


(高松市・島田章平)
〇  一握の砂にちいさき桜貝

 対岸に豊島や直島などの岡山県に属する島々を臨む瀬戸内海に面した砂浜。
 その砂浜をそぞろ歩きをしている時にたまたま掌に握った一握の砂。
 その「一握の砂」の中に「ちいさき桜貝」の一片を見い出したのでありましょうか?
 〔返〕  握り締め潰してしまおう桜貝きみへの思いの切なくあれば 


(京都市・伊藤五郎)
〇  切手貼る五十二円にある春愁

 五十円切手に郵便料金改定に伴う「二円」という額面の切手を貼る手間を惜しむわけでも無く、値上げされた「二円」を惜しむわけでも無いが、兎のデザインの二円切手を貼るときには何と無く「春愁」が感じられてならないのでありましょう。 
 北原白秋作『桐の花』所収の「草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり」は、掲句と似たような感覚を短歌スタイルに託したものと思われる。
 〔返〕  汝が抱ける近江の湖の冷たさが耐えがたければひとしきり哭く 
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