臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

秀歌ストックブック(大滝和子)

2010年02月04日 | 秀歌ストックブック
 〔大滝 和子〕   1958年神奈川県藤沢市に生まれる。1981年早稲田大学第一文学部日本文学科卒業。1983年「未来」に入会。その後、岡井隆に師事する。1992年「白球の叙事詩(エピック)」にて第三十五回短歌研究新人賞を受賞。1994年歌集『銀河を産んだように』(砂子屋書房)刊行。1995年同歌集にて第三十九回現代歌人協会賞を受賞。2000年歌集『人類のヴァイオリン』(砂子屋書房)刊行。2001年同歌集にて第十一回河野愛子賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。


 <『銀河を産んだように』(1994年・砂子屋書房刊)より>

○ くるおしくキスする夜もかなたには冥王星の冷えつつ回る
○ 白鳥座(シグナス)の位置もかすかに移りたり君への手紙かきおえ仰げば
○ はろばろと熱く射しくる日輪光われの頬にて旅おわるあり
○ 胎内にわれを編みているときの母の写真とまむかいにけり
○ 大海(わたつみ)はなにの罪ありや張りめぐるこの静脈に色をとどめて
○ 生物がシネマの切符売りているビルのかたわら懸かる三日月
○ 冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり
○ 吾という六十兆個の細胞を観覧車に乗せのぼりゆくなり
○ 地球(テラ)に軟禁される生物ゆるゆると髪とかいうもの洗いおわんぬ
○ パパがママをママと呼ぶときさみしくて食卓上の卵を掴む
○ 遺伝子の旅はつづくよ 狼との混血犬が引いてゆく橇
○ 迷いつつ脈うつわれの肉体が白点となる距離もあるべし
○ 意志もちて冬おわらむとする路傍なる桜の幹に潤いのあり
○ 指柱それぞれ離し眺めおりてのひらという吾の神殿
○ 冬虹の内側とその外側の触るることなき人を想えや
○ 緋の服をまといて君の夜の夢の砂丘にひとり立ちたきものを
○ サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい
○ 反対語を持たないもののあかるさに満ちて時計は音たてており
○ あおあおと躰を分解する風よ千年前わたしはライ麦だった
○ 17進法で微笑し目をそらすもう少しはやく逢っていたなら
○ とうめいな水滴ついている朝のレタス葉脈ごと食みており
○ フルートの音にかぎりなく許されて咲きはじめゆく唇ひとつ
○ 惑星の光陰ふかく吹きこまむ ガラスケースのなかにフルート
○ ささやかなフルート主義者 風景から追放された楡が細胞
○ めざめれば又もや大滝和子にてハーブの鉢に水ふかくやる
○ まだ発見されない法則かんじつつ深ぶかと吸う秋の酸素を  
○ きょう我が口に出したる言葉よりはるかに多く鳩いる駅頭
○ 「潮騒」のページナンバーいずれかが我の死の年あらわしており
○ 白鯨が2マイル泳いでゆくあいだふかく抱きあうことのできたら


 <『人類のヴァイオリン』(2000年・砂子屋書房刊)より>

○ はるかなる湖すこしずつ誘きよせ蛇口は銀の秘密とも見ゆ 「また降りたちぬ」 
○ 扇風機しろく煙らう 地球での死者と生者の比率はいくら 「また降りたちぬ」
○ 急行を待つ行列のうしろでは「オランウータン食べられますか」 「匿名たち」
○ わが髪の宇宙のなかに棲みているオデュッセウスと語りあいつつ 
                             「フラクタルヴィジョン」
○ 自殺者を出した鉄塔製図せし松坂技師に茶を淹れる吾 「ゲルニカの教室」
○ 強迫観念のごとく街のあちこちに捨てられている《午後の紅茶》は   
                                「ゲルニカの教室」
○ 髪の毛が剣のごとく逆立てる女ら乗せて輪廻鉄道 「髪」  
○ 戀という古代への道あゆみつつきょうは羽衣商人に逢う 「なこうど」  
○ きみという暗証月光番号にふりそそがれて歩みつづける 「ぴるぴる」  
○ 光速源氏物語《緋の浮橋》にひとまち顔の円周率は 「アポクリファ」 
○ み冬なる桜のしたに赤あかと濡れたる羽の散らばりており 「まれびと炎」  
○ あきらめの曼珠沙華群あかあかと咲きいるところひとり歩むも 「Kの声」 
○ 観音の指(おゆび)の反りとひびき合いはるか東に魚選るわれは
○ このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり
○ まぼろしの家系図の影ながく曳き青年は橋わたりつつあり
○ 暴風雨ちかづきてくる夜の卓まぶたを持たぬ魚食みており
○ ブランコに吊されている亜麻色の髪の人形うごくともなし
○ カーテンが拳のごとく結ばれるさみしき窓をわれは見たりき
○ あたらしき闇たたえつつ白真弓ひきしぼるごと汝(な)を遠ざかる
○ わが耳を前菜のごと眺めいる我あり暗き稲妻たてり
○ 神あるや神あらざるや野球と言う三進法を見ているときに
○ スカートのかげのなかなる階段をひそやかな音たてて降りゆく
○ 縄文期一万年はつづきしと聴きたるのちに銀行へゆく
○ 月齢はさまざまなるにいくたびも君をとおして人類を抱く
○ 口紅のようなる靴がならびいる小田急線に涙ぐみおり
○ トイレットの鍵こわれたる一日を母、父、姉とともに過ごせり
○ ベッドからまた降りたちぬ八時間われなる海をさすらいてのち
○ 磨かれたレンズとともに恋人はさみしく宇宙いれかえている
○ 永遠の扉を開ける鍵としてきみの体はかたわらにあり
○ はてしない宇宙と向かいあいながら空瓶ひとつ窓ぎわに立つ
○ レモンからレモンという名剥脱し冷たき水で洗いいるかな
○ 急行を待つ行列の後ろでは“オランウータン食べられますか”
○ 粘土子という名の女この国にふたりくらいはいないだろうか


 <『竹とヴィーナス』(砂子屋書房・2007年刊)より>

○ 無限から無限をひきて生じたるゼロあり手のひらに輝く
○ 腕時計のなかに銀の直角がきえてはうまれうまれてはきゆ
○ 人生を乗せいる電車ひとすじの光の詩形そこに射しこむ
○ 《永遠》を吾はふたつに折り曲げる出逢いたる時境をなして
○ 冥王星(プルートゥ)と海王星(ネプチューン)の内外の位置変わる日に売られいるパン
○ 亡き父のDNAが吾に買わす「エジプト象形文字解読法」
○ とおい宇宙からやって来て泣きはじむ元素周期律表のFe(てつ)
○ きょうもまたシュレディンガーの猫連れてゆたにたゆたに恋いつつぞいる
○ わが服の襞描きいる画家のまえ無限数列おもいて座る
○ 複数のはじめは2ならず3なりと記すわが手のさみしくもあるか
○ 正多面体の種類を想いつつ眠らな、四、六、八、十二、二十
○ ビッグバンのころの素粒子含みいるわれの手なりや葉書持ちおり
○ 電線のなか流れゆくわたくしよ又三郎に吹かれ揺れいる
○ 球場のむこうへ続くプラタナス 日曜は月曜を妬んでいるか
○ 素足にて夜のしずけさ昇りゆく階段はふと葡萄のごとし
○ もしかして君のトーテムは鰐ですか入れてくださいこの角砂糖
○ 声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け 
○ 泣きながら雨のなかへと駆けてゆく賢治と賢治 とおい御陵(みささぎ)
○ 洋梨のなかに洋梨棲みつづけナイフちかづく瞬間ありぬ
○ 存在の釣糸ひかり魚たちは捕えられゆくとき立ちあがる
○ 母生きてヴァージンオリーヴオイル持ち我へ手渡すそのたまゆらよ
○ 父の墓洗いきよめて秋日や主語述語ある世界をあゆむ  大滝和子
○ 皮むけばしろたえの梨あらわれる。ぜおんぜおん観世音菩薩
○ いくたびも万葉仮名を羽化させてきみとわれとが抱きし国あり
○ 水壺を頭に乗せて運びゆく女のように立ちどまりたり
○ みずからの脇を洗えりキリストは息絶えし後ここを突かれき
○ ラッコいる動物園ともカトリック修道院とも近く棲みおり
○ 出雲へのブルートレイン過ぎゆけりただひとりにて帰るゆうぐれ
○ 古代より天皇家牛乳を飲みいると語らう姉よひとり身にして
○ テーブルの麦酒ごしなる青年は歴史のように伏せた目をあぐ
○ おそろしき桜なるかな鉄幹と晶子むすばれざりしごとくに
○ 朝卓に果汁飲みおりアンドロメダ銀河へ行ってきたばかりなり
○ わが影を川の水面(みなも)にあそばせて日輪という祖先しずけし
○ 江ノ島の展望台に昇りたり前世来世の見ゆるはるけさ
○ 白藤の房いっせいに揺れておりカルマ鉄道乗換駅に
○ 《存在》はとこしえにあるものなりや角度とともに雪降りきたる
○ みずからを誰もが《われ》と思いつつこの世の埃吸いこみている
○ それぞれにほぐして吾と地球儀を織りあわせいるマーラーありぬ
○ 原始からの家系背負いてわれが乗る若草色のヘルスメーター
○ ボシュロムのレンズ広告、メニコンのレンズ広告、初雪ふれり
○ 茶にひそむグリーンドラゴンのたましひを飲みてこころは宇宙へむかう
○ 水壺を頭に乗せて運びゆく女のように立ちどまりたり
○ みずからの脇を洗えりキリストは息絶えし後ここを突かれき
○ 還れざりし三塁走者さまよえる砂漠あらむよこの春嵐
○ ポストの朱あんばらんすに立ちながら冥府との時差測りつづける


 <小林恭二著『短歌パラダイス』(岩波新書)より抜粋>
○ 家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな


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