臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(11月21日掲載分・其のⅣ)

2016年12月05日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○ 病床でピアニストだった人が弾く調べは音のないポロネーズ (松原市)久木山恵

 より解り易く言えば「ピアニストだった人が病床で弾く調べは音のないポロネーズ」という言葉の運びとなるのでありましょう。
 要するに、連用修飾語として「弾く」に掛かって行く「病床で」を、短歌としてのリズムの関係の上から歌い出しの五音として置いてしまったのである。
 私・鳥羽省三としては、前述の如く「ピアニストだった人が病床で弾く調べは音のないポロネーズ」とすれば、句割れや句跨りを伴った新しいリズムの短歌となり、しかも原作よりは内容が解り易くなりますから、原作に勝るとも劣らない短歌が生まれたはずである、と思うのである。
 たまには〈五七五七七〉の伝統的リズムから解放された短歌を詠んでみるのも必要なことでありましょう。


○ 十余年家族の尻を支ヘ居てはつか歪めり我が家の便座 (川崎)谷藤勇吉

 「待ちに待った期待の新人歌人登場!」という場面でありましょうか。
 今週の朝日歌壇の高野公彦選の二席入選を果たした、川崎市にお住まいの谷藤勇吉さんは、六十年前の過去から、朝日歌壇の入選作品の鑑賞及び論評に当たっている私・鳥羽省三にとっては、全く未知の存在であるが、それにしても、谷藤勇吉さんとは、かなり薹が立ち、かなり捻くれたご性格の歌詠みである。
 なにしろ詠むも詠んだり、この作品の内容は、「過去十年余りも、我が家の家族の汚いお尻を支えて居たが故に、我が家のトイレの便座は少しばかりその形が歪んでいる」という、真に尾籠かつ不衛生極まりない内容でありますから!
 作者の谷藤勇吉さんは、「我が家の便座」が「はつか歪めり」とまでは仰って居られますが、件の「便座」は、ただ単に僅かに歪んでいるばかりでは無くて、それ相当に黄ばみかかってもいるはずであるが、それを知りつつも、そこまでは言わないところが、期待の新人歌詠みの節度というものでありましょうか?
 

○ ランニングコストが安いと原発の廃炉に掛かる金は無視して (甲府市)内藤克人

 「ランニングコスト」とは、「企業などに於いて設備や建物を維持するために必要となるコスト」のことを言うのであり、これを、東京電力や中部電力・関西電力といった原子力発電所を持つ、大手電力会社を例に上げて説明すれば、例えば、「福島第一原子力発電所の発電設備が出来上がり、これが稼動されるようになってから廃止をされるようになるまでの期間にかかるコスト」が、彼ら・電力会社の幹部や原子力発電を推進しようとしている我が国の政府の言う「ランニングコスト」なのである。
 従って、当然の事ながら、その原子力発電所が、何かの都合で使われなくなった場合の、施設・設備の撤去に要する費用や、その施設設備が齎した環境被害への賠償金や見舞金、施設廃棄後の〈核汚染物質〉の処理に要する費用などは、一切含まれていないのである。


○ ビッグイシュー掲げる人を知らぬげに過ぎゆく人に紛れるわたし (高槻市)福原よし子

 作中の「ビッグイシュー」とは、「ホームレスの社会復帰に貢献することを目指すとする企業」の名称であり、また「イギリスを発祥に世界で販売されるストリート新聞」のことであるが、その日本版が、我が国に於いても去る2003年9月に創刊されて、一冊、三百五十円で、大都会の盛り場や駅前などの人通りの多い場所で販売されるようになりました。
 本作の作者の福原よし子さんは、その「ビッグイシュー」の社会的な意義を知りつつも、それを頭上に「掲げ」て販売しようとしている「人」を「知らぬげに過ぎゆく人」に「紛れ」て、何がしかの罪の意識に苛まれつつも、その盛り場を通り過ぎたのでありましょう。
 余人はいざ知らず、こと作者ご自身に限って言えば、大阪府高槻市にお住まいの福原よし子は、「ビッグイシュー」の存在の社会的な意義も、その日本版を盛り場で販売している人々がどんな人々であるかを十分に知っていただけに、その時、その場で自らが行った行為が、いかにも恥ずかしい行為のように思われてならなかったのでありましょう。


○ 富士登山戻った子らがたくましくその日を境にお母さんと呼ぶ (東京都)村田晴美

 それはそれは、真に有り難い「富士登山」でありましたことよ!


○ 近道の路地に迷へば聞こえくる京西陣の機織りの音 (瑞穂市)渡部芳郎

 言いたい事は、要するに「京都・西陣の路地を迷いながら歩いていたら機織りの音が聞こえて来る」ということでありましょう。
 然るに、本作の作者は、「その西陣の路地が自分が目的地に行くに当たっての近道であること」、更には「機織りの音と言えば、それは西陣ならでは音である」というと言うご自身の思いをも付け加えたが故に一首の表現が混雑を極め、文意不明瞭の作品になってしまったのである。
 短歌一首に使える文字数は、平仮名書きにしてもわずか三十一字である。
 従って、その中に盛り込める伝達内容は、自ずから限定されたものになりましょう。
 然るに、本作の作者・渡部芳郎は欲張って、あれもこれもと整理すること無く詰め込んだが故に、こうした文意不明瞭な作品を詠んでしまったのでありましょう。
 

○ 増えに増えし西洋タンポポ憎まねど日本蒲公英探して施肥す (岐阜県)棚橋久子

 「帰化植物である『西洋タンポポ』に逞しい繁殖力に圧倒されて、『日本蒲公英』はそのうちに絶滅してしまうであろう」などとマスコミが大袈裟に報道するようになったのは、私たち日本人の多くが、敗戦の混乱から立ち直って三度三度の食事に不自由しなくなった頃かと思われます。
 それ以来、件の「西洋タンポポ」とやらは、学童たちからも憎まれ、目の敵にされて来たのであるが、よくよく考えてみると、昭和十五年生まれの私の少年時代から、私たち日本人の目の前に咲いているタンポポの殆どは「西洋タンポポ」だったのである。
 〈弱肉強食〉とはよく言ったもので、生活力の強い者が生活力の弱い者を打倒して勢力を拡張して行くことは、動物にしろ、植物にしろ、自然の流れであり、人間さえもその例外ではありません。
 とは言うものの、数多くの人間の中には、そうした自然の摂理に逆らい、ある特定の生物に「絶滅危惧種」などという美名を奉り、その絶滅を防ごうなどと言い出す者がいるのであり、現代社会に於いては、自然の摂理に逆行しているとも思われる、彼らのそうした行為が、人間の為すべき倫理道徳に適った行為として推奨されているのである。
 と言うことになりますと、本作の作者・棚橋久子さんが現在行っている、「日本蒲公英」を「探して施肥す」るといった行為は、現代社会に於いては格別に新聞紙上で告白して、他人に謝罪しなければならないような行為ではなく、むしろ他人に語って誇るべき善行なのかも知れません。
 然しながら、「日本蒲公英」を「探して施肥す」るというような行為は、私・鳥羽省三には、やはり、この宇宙の全てを統べる神様が私たち人間に与えた摂理から遠く離れた越権的な行為のように思われてならないのである。
 日本狼や獺が我が国の自然界から消えてしまったのも、それが神の摂理というものであれば致し方がありません。
 ラン科植物が我が国の自然界から消えてしまおうとしているのも、それが神の摂理というものであれば、私たち人間とても、何とも致し方がありません。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。