臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(10月17日掲載分・其のⅠ)掲載遅延多謝!平身低頭!

2016年10月17日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  いつか往ぬだけどいつかは明日じゃないそんな気持ちがふっ飛ぶ日がくる  (藤沢市)福田八重子

 イマイチ解らない一首である。
 「そんな気持ちがふっ飛ぶ日」とは、「死をが目前に迫っている日」なのでありましょうか?


○  最後まで頑張る人が吾は好き河野裕子の最後の一首  (東広島市)黒木和子

 「河野裕子の最後の一首」は、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」という一首であるとか。
 「河野裕子の最後の一首」の下の句に「息が足りないこの世の息が」とあるが、これこそは「虫の息」ということであり、今は亡き歌人・河野裕子は「虫の息」の裡にも、夫・永田和宏の手を触れようとしたのでありましょう。
 本作の表現上の問題に就いてひとこと言い添えますと、「頑張る人が吾は好き」という二、三句目の表現は、勿論、このままでも問題はありませんが、「頑張る人を吾は好き」とした方が、もっと宜しいのかも知れません。


○  誰も出ぬ電話と知っているけれど消せないでいる短縮ダイヤル  (奈良市)山添聖子

 我が家にも、「消せないでいる短縮ダイヤル」が幾つかあります。
 例えば、〈私自身のかつての勤務先の電話番号〉とか、〈独身時代の一時期に関わり合った年上の女性宅のの携帯電話の番号〉とか、〈今となっては義絶したも同然の大阪の弟宅の電話番号〉とか、〈野村證券某支店の電話番号〉とか、がその一例である。


○  老妻はラジオ体操老生は気功まがいで朝が始まる  (立川市)植原 仁

 「老妻」の「朝」は「ラジオ体操」で始まり、「老生」即ち、本作の作者・植原仁さんの「朝」は「気功まがい」の運動で「始まる」のでありましょう。
 作者ご自身としては、朝一番の運動として「気功」を遣っているつもりなのでありましょうが、その様子を他人が見たならば、「あれは、『気功』ならぬ『気功まがい』の年寄りの冷水でしかない」とでも言うのかも知れません。
 ご自身がそのつもりになって行っている「気功」を、「気功」と言わずに「気功まがい」としたのは、一見すると〈謙譲の美徳の発揮〉とも思われますが、それはむしろ〈自虐趣味の発露〉でありましょう。


○  散歩中の顔見知りたる飼ひ主に会釈をすれば犬も尾を振る  (春日井市)松下三千男

 「犬」という動物は、飼い主に手綱を牽かれて散歩中に飼い主の知人と出会ったりしても、飼い主がやる様な「会釈」、即ち、顔を傾けたり手を振ったりしての「会釈」は出来ませんから、致し方なしに「尾を振る」のでありましょう。


○  遠慮なく花も葉も喰う芋虫はインパチェンスを生きる糧とす  (大洲市)村上明美

 ものの本に拠ると、「日本でも古くから親しまれているホウセンカも同じ仲間ですが、通常インパチェンスと呼ばれているのは、アフリカ東部(タンザニア、モザンビークなど)原産のアフリカホウセンカとその園芸品種である」とか。 
 ところで、本作の出来栄えの是非はともかくとして、私・鳥羽省三は、あの「インパチェンス」という花を好きになることは出来ませんし、あの花を好しとして買って行ったり、玄関先や庭の植え込みに植えていたりする人は馬鹿ではないか、などとさえも思っています。
 人の好みはそれぞれではありましょうが、あの花の何処が宜しくて、世間の人々は買って行ったり植えたりするのでありましょうか?


○  食材として一級の栗の実が限界集落にふくふく太る  (安中市)鬼形輝雄

 「栗の実」が「食材として一級」品であるか否かの判断は、前述の「インパチェンス」に対するそれと同様に、人さまざまでありましょう。
 それはともかくとして、「栗の実」や木通や毒茸の類が「限界集落にふくふく太る」様は、私も田舎暮らしをしていた頃にさんざん目にして居ります。
 今更に毒茸に巡り合いとは私は更更に思いませんが、私の父祖の故郷、かつての秋田県平鹿郡山内村字武道の地にもう一度足を踏み入れて、あの木通や山葡萄や山栗や山菜や松茸やシメジなどの食べられる茸などを目にしてみたいと思うこの頃であります。
 

○  いにしへの栄華のにほひ漂はせ萩の花散る毛越寺の庭  (仙台市)沼沢 修

 今でこそ「『毛越寺の庭』は極楽浄土をさながら顕現した庭園、即ち、浄土式庭園である」などと、岩手県当局の方々や寺院関係者の方々は、宣伝方是れお努めになられ、観光客の誘致にお努めになって居られるご様子であります。
 だが、今から約半世紀前、私が中尊寺の金堂を観た序でに立ち寄った時の「毛越寺の庭」は、「ただの荒地を年に一度の草刈を怠らなかった程度の荒涼とした有様」であり、その庭の中心を為す〈大泉が池〉などは、「雑草に囲まれ、泥水の溜まった大きな窪地」でしかありませんでした。
 従って、「いにしへの栄華のにほひ漂はせ萩の花散る毛越寺の庭」というこの一首に接した時、私は直ぐさま、私の記憶の中にある、前述の今から半世紀前の「毛越寺の庭」の様子を思い出してしまいました。
 テレビの画面や観光土産のカラー写真などで見る、現在の「毛越寺の庭」の様子は、あまりにも手入れが行き届き過ぎていて、「いにしへの栄華のにほひ漂はせ」といった感じとは、やや趣きを異にしているようにも、私には思われます。
 「名所旧跡にしろ、女性の顔にしろ、何でもかんでも手入れをすれば手入れをするほど具合が宜しい」という訳ではありません!
 

○  秋黴雨馬繋がれて鬣も睫毛も雫弾いて居りぬ  (朝霞市)青垣 進

 「秋黴雨」は「あきついり」と読み、〈秋の長雨〉を指して言うのである。
 ところで、本作を構成している文字数は僅かに二十文字であり、その裡の十一個は漢字である。
 因って、私は本作を、「漢字オタクの作者が、持ち前の衒学趣味を思う存分に発揮して詠んだ傑作」と評価する次第であります。


○  そそっかしい母と慎重すぎる父決定権はほぼ母にある  (富山市)松田梨子

 娘を持つ家庭の「母」は「そそっかしい」し、「父」は「慎重すぎる」のが一般的傾向である。
 また、そうした家庭では、愛娘の進学先や進路の判断は勿論のこと、その就職先や結婚相手の判断、更には「決定権」でさえも「ほぼ母にある」のが、我が国に於いては一般的かつ普遍的な傾向である。
 従って、何一つとして発見も無く、表現上の冒険も工夫も無いこの作品が、松田梨子さんの作品としては平均値以下のこの作品が、高野、永田、馬場の三選者の心を捉え、三選者共選入選作という異例の扱いを受けたことに対しては、私としては驚嘆せざるを得ません。
 朝日歌壇の選者諸氏よ!松田短歌姉妹贔屓もいい加減にして下さいよ!
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