臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

結社誌「かりん」9月号より(作品・岩田欄)挑発族、今し、歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月21日 | 結社誌から
○  なにやらむ厨にものを刻む音人なき廃屋も夏は賑はふ  (川崎)岩田 正

 「廃屋」とは、いかにも岩田先生らしく、いささかならずご謙遜なさっていらっしゃいます。
 わずかばかりガタが来ているようには思われますが、岩田正先生のご邸宅はなかなか瀟洒なお住まいであるとお見受け致します。
 ところで、岩田先生のご邸宅には、毎年、夏ともなると、岩田・馬場両先生のご両親様やご先祖様方のご霊魂様がご帰宅なさるのでありましょうか?
 [反歌] キッチンで胡瓜を刻む音がする暁子の母さんまた出て来たか?  鳥羽省三


○  心配ごとあれば心は緊張す心配ごとはわれを生かしむ

 人の世に〈悩み〉即ち「心配ごと」は尽きません。
 因って、岩田正先生は百数十歳までものご長寿を約束されているのである。


○  住みしことなき家の夢またも見る堂堂めぐりは夜に及びて

 もしかして、茅ヶ崎辺りのあの家の光景が、岩田先生の見る夢の中で堂々巡りを………?
 ところで、先般読んだ、穂村弘氏との対談に依る馬場あき子先生の自叙伝『寂しさが歌の源だから』の記するところに拠ると、馬場あき子先生は、一時期、多忙を理由にして、ご亭主の岩田正先生と別居なさって居られた
とか。
 ならば、作中の「住みしことなき家」とは、或いは、その時期の馬場あき子先生のお住まいなのかも知れません。
 ならばのならば、「住みしことなき家の夢」を「またも見る」のも道理であり、その夢が「夜に及びて」も「堂堂めぐり」するのも道理でありましょう。
 [反歌]  独り寝のあまりに侘し彼の人の夢は今宵も堂々巡り  鳥羽省三


○  一対一裸一貫すがしくて相撲の人気野球にまさる

 初場所の琴奨菊に続いて、秋場所では豪栄道が優勝しましたから、大相撲に人気は益々高まることでありましょう。
 [反歌] 一対一蓮舫さんよ遣りなさい!鈴木庸介落としちやならぬ!  鳥羽省三


○  お利口さんぶつて昭和を生ききしが平成のわれさすが老いたり

 「お利口さんぶつて」とは、これは亦、岩田正先生らしく、「カマトトぶって」いらっしゃいますことよ!
 [反歌] 土俗派振りて短歌史を渡り来しも真実は叙情派ならむ  鳥羽省三 


○  夜の道うしろの足音不気味にて離りゆく音なにかなつかし

 「夜の道」を歩いている時の「うしろの足音」は「不気味にて」、「離りゆく音」は「なにかなつかし」とは、事の真実に迫る見事な表現である。
 [反歌]  この秋も去り往く今はなつかしく傾く月に見蕩るるばかり  鳥羽省三


○  老いが笑みうかぶるはたのし生真面目な仏頂づらこそ憎々しけれ

 その所為かどうかは解りませんが、お写真の中の岩田正先生のお顔は、いつ見ても微笑んでいらっしゃいます。
 あれは、〈微笑み顔〉と言うよりも〈含羞み顔〉と申し上げた方がより適切な言い方なのかも知れませんが!
 [反歌]  写し絵に笑みを浮かべて居られるも幾多の恥辱忍ぶるならむ  鳥羽省三 


○  眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる  (市川)日高尭子

 「眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる」とは、まさしく、私たち後期高齢者にとっての「身過ぎ夜過ぎ」を適切かつリアルに表現したものである。 
 [反歌]  消して灯し消して灯しのLED消さずじまひで明けにけるかも  鳥羽省三  


○  花終へて匂ふほかなきどくだみよ妻に嫌はれ狭庭に揺るる  (つくばみらい)坂井修一

 作中の「妻」とは即ち、彼の閨秀の誉れ高い米川千嘉子先生でありましょうが、米川先生は「どくだみ」の「匂」いが嫌いなのでありましょうか?
 [反歌]  花も香もありてめでたきこの世にて香をば厭へる米川先生  鳥羽省三 


○  朝の廊下ゆつくりと母の歩むとき氷上のやうに床は光りぬ  (千葉)川野里子

 川野里子さんの御母堂様にとっては、「ゆつくり」と「歩む」「朝の廊下」の「床」こそは、新横浜プリンスホテルのスケートリンクのようなものなのでありましょうか?
 ところで、「氷上のやうに床は光りぬ」とは、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の前途は輝きに満ちている」とも解釈されましょうし、また、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の『歩む』『床』は滑って危険だ」とも解釈されましょう。
 そのような多様な解釈を可能にしているのが、この作品の魅力の一つである。
 [反歌]  朝の廊下ゆつくり吾は歩むともたった五秒で玄関に着く  鳥羽省三 


○  子の多き公園に虫取り網を見ずせみに聞き入るものはをらぬか  (台湾)日置俊次

 作者のお住まいになって居られる台湾の子供たちは、夏休みになってもカブトムシやクワガタムシなどを獲って遊ばないのかしら?
 そう言えば、「私たち、飢渇に苦しむ人類に残された最後にして最良の食糧は昆虫であり、その事を既に知り、既に実践しているのは、お隣りの某経済大国の人々である」という謳い文句の書物を目にしたことがあります。
 [反歌] 蚤・虱・蜱に苦しみ蕉翁の一夜宿れる尿前の関  鳥羽省三


○  夜目に澄む水路にかかる右衛門橋ここゆけば右衛門に出会えるような  (横浜)佐波洋子

 作中の「右衛門橋」に該当する橋脚を、寡聞にして私は渡ったことは勿論、その名前すら聞いたことはありません。
 そこで、その名称に「衛門」の二字を伴った橋を挙げれば、「太郎右衛門橋とは、埼玉県の桶川市川田谷と川島町東野の間に架かり、荒川を渡る埼玉県道12号川越栗橋線の橋」である。
 また、「久右衛門橋」とは、「府中街道と玉川上水が交差する地点に架かる橋」であり、小平市の小平中央公園の入口に当たるが、直ぐ近くに津田塾大学が在るので、もしかすると、この橋を渡っている途中で才色兼備の女子大生に出会えるような」可能性だってありますから、是非、おみ足をお運び下さい。
 [反歌]  霧に咽ぶ南鳩ヶ谷の五右衛門橋の袂で逢ひしをみな真知子  鳥羽省 


○  丘の上の新総合病院しんと立ち蟻一匹ももらさぬ構へ  (川崎)池内桂子

 作中の「丘の上の新総合病院」とは、私の掛かり付けの病院、即ち「新百合ケ丘総合病院」でありましょう。
 小田急線新百合ケ丘駅から徒歩十分の「丘の上」に建つねその威容及びその施設設備の良さは、首都圏内の他のそれを圧するものがありますが、その警備状況が「蟻一匹ももらさぬ構へ」であるかどうかは、斯く申す、私も知りません。


○  一夜一編汲めども尽きぬ味はひの怖ろしをかし『山の人生』  (浜田)寺井 淳

 柳田国男の著『山の人生』は、私のかつての愛読書でありましたが、「陸封魚 – Island fish」により第36回短歌研究新人賞を受賞なさって寺井淳さんの、この著に取材した作品に接して、とても懐かしく思われました。
 因みに、彼の第一歌集『聖なるものへ』には、次のような魅力あふれる傑作が満載されているので、その一部を以下に転載させていただき、本作の鑑賞の足しにさせていただきます。
   水面よりたまゆら跳ねて陸封魚海の匂いを恋ふる日あらむ
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ
   水面より無数の指たつといふたつべし或は北斗をささむ
   さざなみはつひにさざなみ 極彩の愛しき疑似餌に釣られてゆかな
   軋みつつ人々はまた墓碑のごとこの夕暮れのオールを立てる
   神の贄なる鮑の太るわたつみは温排水の美しきたまもの
   ウツクシイニホンニ死せり日の丸の翩翻と予後不良の通知
   海風に揚がる奴凧(やつこ)の足にせる新聞の記事 たとへば「サカグチ」
   寸分も違はぬさまに礼なせる童顔の父子死者に何告ぐ
   軽々と春を孕みてゆく柳絮爪先立ちの手の少し先
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ  
   木末よりしたたるみどり一滴に世界をすべて閉ぢこめて 
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   ここを世界の中心とせり表徴はベンチの背なるカスガヰドロップ
   半日の喪服を解きて妻はいま夕餐の蓮根を煮るひと
   八月の身体髪膚気毀傷してピアスの穴ゆ青き空見ゆ
   耳たぶに鮮血のごときピアスつけ愛しき双子千代と八千代と
   チェロを抱くそのため息の低きにも女男ありて鳴るソナタそのほか
   死者はうたふあかときの窓むらさきのそのむらさきの葡萄のしづく
   悪友が美人局(デコイゲーム)の経緯を語りつつ割く落ち鮎の腹
   貴妃の喉縊らば洩れむ緋の吐息無花果の実をもぎていましも
   神よりの前借りならむ夏麻引く命をかたに馬券(うま)買へわが夫
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   どの花に恋を擬へむ曼珠沙華さながら子等に首を折られて   


○  白百合に薄き茶のしみ広がりぬ女ざかりは強く香りぬ  (川崎)尾崎朗子

 「白百合」に限らず、ユリの花には、6枚の花弁があるように見えるが、よく見ると、その裡の外側の3枚は〈萼片(外花被)〉であり、内側の3枚だけが〈本物の花弁(内花被)〉である。
 また、ユリの花には、外花被、内花被を問わず、それぞれの基に1本ずつ、計6本の雄蕊がついていて、それは蕾の時期や開花して間もない時期は、花粉が雌蕊の先の柱頭に着き易いように内側に傾いているのであるが、花盛りを少し過ぎた頃になると、それとは逆に外側に傾き、周囲の花弁の内側を茶色に染めて汚してしまうのである。
 本作の上の句の「白百合に薄き茶のしみ広がりぬ」という叙述は、最盛期を過ぎた白百合の花弁と雄蕊の花粉との関わりを、よく観察して活写しているのである。
 という事になりますと、下の句の「女ざかりは強く香りぬ」という二句は、本作の作者の思いとは別に、観察を怠ったための誤解に基づく描写と言えましょう。
 何故ならば、「白百合」の6枚の花弁の内側に「薄き茶のしみ」が「広が」るのは、その「白百合」の花が最盛期を過ぎている事を示しているからである。
 こうした事は、一に「白百合」に限らず、この世の中の動植物のどんな種族に於いても共通した事である。
 例えば、私たち人間が、特に人間の中の雌が、所構わず威張り散らしたり、「今日はユニクロ、明日はデパ地下」と日柄も構わずに出歩いたりするのは、その者が人生の盛り、生物としての盛りを過ぎている事の、何よりの証しでありましょうから!
 [反歌]  眉毛描き厚化粧して出掛けたりうちの嬶さま還暦近し  鳥羽省三 



○  若者は洗ふ車を持たざれば噴水の辺に虹を分けあふ  (横浜)鹿取未放

 いにしえより雨上がりの空に立つ「虹」に託して夢や希望を語り合ったり、苦労を分かち合ったりするのが、その性別を問わず、私たち若者の特権的な生き様なのであり、真の大人になるための通過儀礼なのであり、我が国の風俗なのであった。
 然るに、今の都会の〈イクメン〉とかと呼ばれる若者たちは、「虹」に託して語るべき夢も希望を持たず、否、かつての若者たちの夢で希望であり、現実でもあった、カッコいい日産の自動車さえも持つことがなく、たまの休みに女房子供連れで出掛けて来た、川崎市多摩区の生田緑地の子供広場の小さな「噴水の辺」に立つ小さくて哀れな「虹」を見て、「あっ、虹が立った!虹だ!虹だぞ!あそこに虹が立ったぞ!あれが本物の虹だよ!消えないうちに早く見ろよ、未来ちゃん!」などと、乳母車に乗っている赤ん坊に向かって人目も憚からず叫び、大人のくせしてペロペロキャンデーをぺろぺろ舐めているばっかりの女房に嫌われている始末なのである。
 「若者は洗ふ車を持たざれば」という上の句の表現から読み取れるのは、「失業者や非正規雇用者が若者人口の五十%にも達しようとしている、現在の我が国の政治・経済事情に対する、本作の作者の激しい怒りの情や悲しみの情」であるが、であればこそ、昨今の若者たちは「『噴水の辺に』立つ『虹を』見て、悲しみや苦労を『分けあふ』しか為すすべを知らない」のでありましょう。
 文句無しの傑作である。
『短歌』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 日暦(10月20日) | トップ | 日暦(10月21日) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。