心理小説


 Frantextで調べてみるといい。フランス語でーーおそらく十九世紀後半以降ーー"roman psychologique"という言葉自体には、いい共示的意味、connotationはない。十八世紀のフランス貴族、金持ちが誇った「繊細な心理」に対して、第三共和制以降の、連帯を国是とするフランス人は、へん、繊細でようござんしたねと、悪意をもっているのだ。(それでもカルフールは国外に出れば「おフランス」的な付加価値を身にまとって市場に相対するのだーーナショナル・イメージを販売戦略に利用するというのは当然のことではあるが)。

 だが、広い意味での「心理」、というより「ひとのこころ」というものは、フランス文学の中心的関心でありつづけている。バルトがピカール教授を難ずるのも、いま権力をもって強制されている読み方というのがいかにも陳腐な、人間というものを知らぬとしか言いようのない、「ひとのこころ」の読み方だーーとバルトには見えたーーからだ(Grains de la Voix)。

 文学は、生きることに寄り添ってはじめて真価を発揮する。むかしベルチエ先生がクルゼさんを揶揄って、何年も国立図書館にこもって勉強するより、二週間ばかりイタリアに遊びに行ったほうが、スタンダールはよくわかるのではないか、と書いていた。文学研究の大教授は、それだけ勉強したわけで、それだけ「生きる」ことをパスしてしまったわけで、そのことによって文学を扱うことに関してより不適ということになる。

 三島由紀夫は少年期のもっとも強烈な本は彼にとってラディゲの『ドルジェル伯』だと言っていた(『葉隠入門』)。日本文学がメインストリームの世界文学に繋がる典型例がここにある。そこーーつまり三島の少年時代の日本ということだがーーにおいて、「心理」はmodernなものであった。これはかなりユニヴァーサルな意味をもつことだと思う。アルジェリアではどうだったか。ヴェトナムではどうだったか。またドミニカ共和国ではどうだったか。それぞれメインストリーム参入の時期、様態がみな違うわけだが・・・


 フランス古典主義の密室志向ーー三単一とか言ってたらどうしてもそういうことになるーーはひととの繋がり、交わりについて考える方向性を進んだ。自然に、「ひととはなにか」についての考察を黙示する形態の思想・芸術が発達することになった・・・


 ひとが「考える」なら、「こころ」がそこにあることだけは疑いえなくなる。この「こころ」が「ひと」と同一視されるなら、これすなわちデカルトということになる、のかなと思う。
 「考えつく」ということが、ひとが自分を広げるということと等価だということに気づかなければならない。


 「フランス文学が役に立つ」というのは、こういうことが明らかになるから、のように思います。
 いま「人間」自体があやういーーAIの急速な発展がますますそれを実感させるーーのだから、なおさら。




 
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