ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

鹿島立ち みよ若桜 身を尽くし(澪標)〜幹部候補生学校 卒業式

2017-03-28 | 自衛隊

幹部候補生学校卒業式、生徒館から行進してきた卒業生が乗り込んだランチは
一斉に浮き桟橋を離れて行きました。

空っぽになった浮き桟橋にも二人自衛官が立ち、三笠宮家の女王殿下がおられる
桟橋の方に向かって立ち、警備を行なっています。

ここで祝賀飛行が行われました。
前回も思ったのですが、この時間(2時半〜3時ごろ)の表桟橋から
江田内の上空を見ると、逆光になるうえ、
この日は午後から曇りがちの天気に移行してしまい、
望遠レンズも持たないわたしには最初から画質は諦めモードです。

まずは小月から来た練習機Tー5が3機左から右に向かって飛行します。

つい今知ったのですが、小月にはこの機体で曲芸飛行を行う
「ブランエール」(フランス語の”白い翼”)という教官チームがあるそうです。

 T-5の曲芸飛行! 小月航空基地スウェルフェスタ2013 - A training plane "T-5" in JMSDF Ozuki Air Base

スモークを出したりこそしませんが、低空で高度な技を披露します。
これが一般に見られるのはこのスウェルフェスタぐらいなのだとか。 

続いてこれも練習機 TC90。
他国では哨戒機としても使われる機体ですが、日本では
P-3Cに移行するための計器飛行の練習に使われます。

今日の祝賀飛行は徳島の第202教育航空隊から参加しています。

SH-60Kが続いて3機。
全てにおいてやる気のない画像ですみません。

ローターの先で見分けるKとJの違いでいうと、最近すっかり
Jの方を見なくなったような気がしていたのですが、もともと
ローターの形だけでなくソナー性能などを向上させたKに移行するつもりが
ご予算の関係でJを修繕して延命しているらしいです。

ところで『K』ってなんの意味があるんですか?
まさか「Jの次」だから・・・? 
『J』はJAPANのJですよね。

P-3Cも3機、鹿屋から来ました。

前回来なかったP-1が登場。

確かP-1は先日見学した厚木航空基地の第3航空隊と第51航空隊だけに
配備されているということだったと思いますので(見られませんでしたが)
今日は厚木からわざわざこの一航過のために飛んで来たことになります。

ここで表桟橋の様子を。
女王殿下の右後ろに呉地方総監、お立ち台の上には若宮副大臣を挟んで
真殿幹部候補生学校長と村川海幕長。


 
若宮副大臣はプレゼントされたのか貸してもらったのか(笑)
海自の部隊マーク入りらしいキャップをかぶっています。 

ちなみに画面の向こうからは殿下がこの後座乗される予定の
「お召し通船」がやって来ています。

「かしま」ではランチから卒業生たちが乗艦し、登舷礼を行うための整列をしています。

あっという間に「やまゆき」の右舷側にも卒業生が整列を終えました。

この頃だったと思いますが、わたしたちの後ろにひっそりと立っていた大尉殿が、

「あ、後進かかってる、後進」

とつぶやきました。
わたしたちも、周りの人たち(わたしの横の人もえらく詳しかった)も
全く気づかなかったのですが、「はるさめ」が後進、
つまりじわーっと後ろに進んでいる、ということを指摘していたのです。

わからないけどこれは夜反省会で怒られるレベルのこと?

 

ここで、村川海幕長が双眼鏡を覗き出しました。

前回も出港前に練習艦からの発光信号が岸に向かって送られ、
その文章がアナウンスされたということがありましたが、今回は
練習艦隊司令官並びに飛行幹部を乗せた「ふゆづき」からの信号が送られて来たのです。

まず「ふゆづき」からの発光信号。
わたしのいるところにはアナウンスがくぐもっていて聞こえにくく、

わたし「これじゃアナウンスされても聞こえませんね」

みね姉さん「艦隊司令官の真鍋海将補はいつもこういう時和歌を詠むそうです」

わたし「ほー、そんな方だったんですか。それは是非知りたいですね」 

などと話していたのですが、その時わたしは、かつて航海長の配置を
経験したこともある人がすぐ近くにいるのを思い出しました。

「発光信号読めますよね!」

エスコートの大尉殿に期待を持って解読してもらおうとしたら、

「読めません!」(きっぱり)

と言下にお断りされてしまい、海上自衛官だから誰でも
発光信号を読めるかといったら大間違い、
という情報を裏付ける結果になったのでした。

まあ語学だって使わなければすぐ喋れなくなりますからね。
大学時代ドイツ語の授業を取ったんだから喋れるでしょ?というのと同じようなものか。

これは村川海幕長は勿論、桟橋の偉い人たちで読めるのはきっと皆無だな(ゲス顔)

「それじゃこうしましょう」

と思いついたのでわたし。

「わたしこれ動画に撮って、雷蔵さん(仮名)に送り解読してもらいます!」

「あ、それいいですね。お願いします」

というわけでその当日中にデータを雷蔵さん(仮名)に送りました。
次の日の返事です。

「 おはようございます。
恥ずかしながら、もう読めないので詠んだ本人に聞いてしまいました。

鹿島立ち 見よ若桜 身を尽くし(澪標)

だそうです。」

 

なんと雷蔵さん(仮名)、真鍋海将補のお知り合いだったのね。
というか、よく連絡取れたなあ(本人船の上なのに)

このメールには続きがあって、 

いつも年賀状が川柳なので「おめでとう。練習艦隊準備よし!」とか、うまいものです。


みね姉さんのお話によると、艦隊司令は休みの日には美術館に足を向けたり、
このように和歌や川柳を嗜む通な方でいらっしゃるとのこと。

実はわたくし自身も少し前、某所でご挨拶をさせていただいたのですが、
その後いただいた自筆のお手紙の達筆さに夫婦で唸ってしまいました。

「いやー、こんな字を書ける人って、素晴らしいねえ」

「この宛先の名前なんか、何十年も書いて来た本人より確実にうまいよね」

「それは言わないでほしい」 

というわけで、真鍋海将補の評判がうちでは急上昇していた矢先のことです。

卒業式典でも、壇上の列席者が一人ずつ紹介されたとき、皆が普通に

「おめでとう!」

という中、真鍋司令官は

「おめでとう!練習艦隊準備よし!」

と気勢を揚げられ、会場に暖かい笑いが起きたのですが、後からこれが
年賀状にあったという五・七・五 そのままだったとわかりました。

練習艦隊司令官は半年の間日本代表として世界と交流する自衛隊の顔ですから、
その役職をこんな方が務められるということに対し、期待を寄せずにいられません。 

「帽ふれ」の声が今一度かかり、きっちりと等間隔で舷側に並んだ
新幹部たちが一斉に白い帽子を降り始めています。

こちらは後甲板の幹部たち。 

白い帽子がさざめくように動く様子は大変風情のあるものです。

風情といえば真鍋司令官の詠まれた句に「澪標」とありましたが、
小舟の航路を意味する「澪」に標識として刺された「串」のことを
「澪つ串」とか「水脈ツ串」と言ったことから、航路を示す標識をこう言います。

平安の昔から、「みおつくし」=「身を尽くし」と掛詞で使われて来た
この言葉を、「かしま」で出港するにあたり歌に詠んだというわけです。

まさに江田島で文字通り「身を尽くして」きましたものねえ、幹部候補生・・・。 

こちら「やまぎり」艦上の帽ふれ。

帽戻せの声がかかり、各艦が一斉に航行を始めました。
今回おそらく初めて練習艦隊として遠洋航海に臨む「はるさめ」も準備よし。

飛行幹部の乗っている「ふゆづき」はSH-60とともに海外に行くのでしょうか。
発着訓練とかみっちりやるんだろうな。 

「かしま」が江田湾の入り口に向かって艦首を向けました。

どこまで行っても立ち続ける幹部たちの白い帽子が遠くからも見えます。

「どこまで起立したまま行くんですか」

「完全に湾を出るまではあのままです。
湾の出口にもおそらくですが写真を撮るためにたくさんの人がいますので。
それから」

「それから?」

「女王殿下の乗られた船が後から練習艦隊を追い抜いて行くことになってます」

 

なるほど、女王殿下の閲兵を海上で実施するわけですね。

今日はお天気がイマイチで、前回ほど写真が綺麗に撮れず残念です。

「かしま」の航跡に続き、「やまぎり」「はるさめ」が動き出しました。
呉音楽隊は出港と同時に「錨を上げて」、それが済んだ後は
自衛隊隊歌である「海をゆく」を演奏し、すっかり華やいだ雰囲気に。

練習艦隊はこの後まず柱島沖に向かいます。(向かいました、か)
柱島で停泊して何をするかですが、おそらく戦艦「陸奥」爆沈地点

 33° 58′ 40.13″ N, 132° 24′ 5.56″ E

で慰霊式を行うのではないでしょうか。
その後、三机に向かいますが、これは

特殊潜航艇基地 

があり、真珠湾攻撃に出撃した特殊潜航艇の搭乗員たちが
ここで訓練を受けた場所であるということもあるでしょう。

この後の国内での寄港地はほとんどが海自の基地のある場所ばかりですが、
5月7日には鳥羽湾に寄ることになっていて、ここで乗員たちは
伊勢神宮に参拝するという予定であるようです。

練習艦隊の伊勢参拝は海軍時代から行われてきた慣習です。

古の慣習を守りつつ先人への慰霊を行うことも、練習艦隊の大事な任務なのです。

 

続く。

 

 

 

 


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帽振れ〜平成29年幹部候補生学校 卒業式

2017-03-27 | 自衛隊

平成29年3月18日に江田島で行われた幹部候補生の卒業式についてお話ししています。
見送りの人たちの前を生徒館から出て敬礼しながら行進した彼らは、
そのまままっすぐ表桟橋に向かい、内火艇に乗り込んでいきます。

少しずつ大きさ形の違う船がこちら側には5隻も横並びに!
見ていなかったのが残念ですが、端っこの船に乗り移る際も彼らは
行進曲「軍艦」に合わせて足を運んだのでしょうか。

多分これ、一回は通しで練習してるんじゃないかな。 

ラッタルからは最後の一団が来つつあります。

ここで見送りの桟橋に注目。
昔からここにあり、卒業生を見送る海軍軍人たちが居並んで
ここから帽子を振った桟橋に、本日は遠目にもやんごとなきお姿が。

大講堂ではちょうどわたしのいる位置からは真上でお姿を拝見できなかった
三笠宮家の女王殿下が視察のための台にお立ちになっておられます。

海幕長と幹部校校長の間には防衛副大臣の若宮氏。
殿下の後方にはSPに混じってくれ地方総監がおられます。

女王殿下はこの後お召し船?に乗り込まれ、海上から練習艦隊を刺殺されるとのことです。 

こちら一番最初に乗り込んだ卒業生たち。
船尾には(自衛艦ではないので)自衛艦旗ではなく国旗が揚げられています。 

一隻には23〜4人がみっちりと乗り込んでいる模様。

「ふゆづき」に乗艦する飛行幹部たちの最後尾が乗り込んでいきます。
飛行幹部は約40名ということですから、船はこの2隻で全員でしょう。

たまたま一番最後の卒業生が船に乗り込む瞬間が捉えられていました。

はい、今!

船の作業をするメンバーは首に救命バッグ(多分海中で膨らます)をつけています。

そして全員が無事船に乗り込み終わった瞬間です。

救命ブイに「呉警」とありますが、警備艇ということでしょうか。 

そしてあっという間に全部の船が一斉に航行を始めました。
全員が乗り組んだら次の瞬間という感じで、そのスムーズさに驚かされます。 

今動き出したYT98には14〜5人しか乗っていないようです。

YTというのは自衛隊では曳船を意味します。
YT91と98は「曳船75型」というタイプです。 

見ていると、本当にスルスルといった感じで船が進み出ていきます。

走りだした船の上では新幹部たちが敬礼。

江田内には、今から幹部たちが乗り込む練習艦隊の艦船が錨を上げた状態で待っています。
TV-3519 は「やまゆき」。
「はつゆき」型護衛艦の8番艦で、DD-129の艦番号でしたが、2016年4月、
練習艦に種別変更されて現在に至ります。

つまり、昨年度の練習艦隊遠洋航海が最初の練習艦としてのデビューだったということになります。 

「やまゆき」の艦首側甲板には出港準備中の乗組員の姿が見えています。

船が前進するときのエンジンが立てる煙越しに敬礼する幹部たちが見えます。
彼らの姿と出港の様子を記録するためにカメラとビデオ係が活躍中。

遠洋航海には当然カメラ専門の係が随行すると思うのですが、彼らがそうでしょうか。 

桟橋のこちら側の船は全て出港しました。
続いて向こう側です。 

そのとき「帽ふれ!」の声がかかりました。
同時に始まった呉音楽隊の演奏による「蛍の光」。

彼らの向こうには艦番号102の「はるさめ」が見えています。

海賊対策としてアデン湾に何度も派遣された護衛艦ですが、
今回は練習艦隊の一員として世界を回るのです。

皆の視線は女王殿下と海幕長らのいる桟橋に向けられているようです。
彼らの乗っているのはB、つまりボートを意味する(に違いない)
支援船の「機動船」という種類の船です。 

こ、これは・・・・。((((;゚Д゚)))))))


おそらく「交通艇」と呼ばれる内火艇では内火艇、と思われるのですが、
もともと船室があって乗り込むタイプの船上に無理やり立っています。 

キャビンの両脇は海に向かって傾斜しているわけで、柵もなければ支えもない。
この船にに乗ることを知ったとき、この両端の14人はきっと

「これ、下手に舵切ったら海に落ちね?」
「万が一落ちたら未来永劫幹校の歴史に残るな」

くらいのことはいいあったんではないかと思われます。
交通艇を操舵する自衛官もきっと細心の注意を払っていることでしょう。 

 

そんな無理めの船で去っていく彼らをぜひアップで。
こうしてみると、彼らの両足はきっちりと角度を揃えて開かれ、
賞状の筒の持ち方まで決められているようです。

動く船上で直立している彼らもですが、ずっと中腰の海曹も大変そう・・。

写真に撮ると時間がかかっているようですが、
外側の船が動き出し、この最後の通船が桟橋を離れるまでに数分もかかっていません。
さすがは海軍、小船の操舵も熟練の技で見事なくらい統制が取れています。

こちら側の5隻が全部いなくなってから飛行幹部の乗っている
桟橋向こう側の船は出立することになっているようです。

内火艇などが船出するのはポンツーンと言って浮き桟橋のようです。
海軍兵学校に在学していた人から、兵学校の頃から
ここにポンツーンがあった、と聞いたことがあります。 

曳船98に続いて最後に桟橋を離れた91が、98の後に続くために
取り舵を切りました。 

その後、面舵をとったはずみに船体が大きく右に傾き・・。

この傾き具合を見ていると、よろけて手をついてしまったのが
たった一人だったというのはすごいなあと逆に感心します。 

みんな必死で?姿勢を保っているのが泣ける(´;ω;`)
帽ふれのときでなくてよかったですね。 

そして何事もなかったかのように彼らは立ち続けるのでした。
それにしても海上自衛隊の制服の一団は感動的なまでに美しい。

・・・と思ったらまた取り舵に船体が左傾し、手をついてしまう人が。
うーん、曳船ってあまり安定性ないのかしら。 

スピードを上げて練習艦隊旗艦「かしま」に向かう船。

ところで、2015年の練習艦隊遠洋航海で、わたしは壮行会に出席し、
これがマゼラン海峡を通過するということを聞き、ここでもご報告しましたが、
その後「かしま」は、日本国所属の軍艦として明治初期から現在までを通じて、
つまり近代日本においても史上初となるこの挑戦に成功し、

「初めてマゼラン海峡を通過した日本の軍艦」

というタイトルを得ることができたことを今更ですがここに書いておきます。

ん?ところでこの時に練習艦隊僚艦だった「しまゆき」と「やまぎり」も
どこにも書かれていませんが、一緒に通過したんですよね?

「かしま」に向かう船は一斉に艦尾を目指して行きます。

曳船88は「やまゆき」に向かっていく模様。

「かしま」「せとゆき」「せとゆき」の練習艦隊が横須賀地方隊の岸壁から出港し、
同じ岸壁に迎えに行ったのがついこの最近のことに思えるのに、
今日また新幹部たちを乗せて新しい練習艦隊の航海が始まりました。

今日から約2ヶ月の間、彼らは全国の地方総監部(こういう時には鎮守府と言いたい)
並びにいくつかの寄港地で慰霊や参拝を行い、最終的に横須賀から
遠洋航海に出発していくのです。

飛行幹部たちは近海を練習潜水艦「みちしお」と共に周り、
5月1日に帰国予定で、「ふゆづき」のみマレーシアとベトナムを訪問予定です。

 

続く。

 

 

 

 

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敬礼〜幹部候補生学校卒業式 卒業行進

2017-03-26 | 自衛隊

卒業式が大講堂で終了したのは1150。
わたしはその後すぐに昼食会場に招待され、そこで
アテンドの大尉殿は江田島勤務のお友達に会いに行き、
わたしは偶然バッタリお会いしたみね姉さんとご飯を食べ、
1420の見送りまで一緒に行動していました。

何度となく訪れている教育参考館ですが、
基本こちらの知識が来るたびにアップデートされていっているので(当社比)
その都度違う見方ができるのが足を運ぶ理由です。

ここに来るといつも、日本が敗戦した昭和20年8月15日にここで学んでいた
当時の海軍兵学校生徒から聞いた話を思い出します。

「飛行機が飛来して徹底抗戦を訴えるビラが撒かれたりしたが、
学校上層部は皆を集めて、決して軽挙妄動に走らないこと、天皇陛下の御心を汲み
帝国海軍の軍人として誇りある行動をとることなどが訓示された」

「教育参考館の資料や展示物を校庭に運び、進駐軍の手に渡らないように焼却した」

「燃え盛る火を眺めながら皆夜通し軍歌を歌い、涙を流した」


このとき処分された参考館の展示物とはどんなものだったのでしょうか。
大東亜戦争における指導者たちが遺したもの、
兵学校の先輩たちの遺品などであったと考えると、胸が痛みます。

教育参考館内では、卒業式の参加者がかなりの数見学をしていました。

見学していた人たちの流れに動きがあったので、わたしたちも外に出ました。
すっかりはぐれていた(笑)大尉殿がここで待ってくれていました。

「食堂に行ったらもう誰もいなくて・・・ここにいれば必ず来られると思いまして」

すまんね大尉殿、勝手にうろうろして。

(写真は本文中の人物とは無関係です)

卒業生の父兄でもないわたしたちは前列を占領する立場にないので、
すでにがっつりとできていた人垣の外側にしばらくいましたが、

「生徒館から出て来るところが見えた方がいいですね」

ということになり、3人で赤煉瓦側に移動しました。



お、もしかしたらものすごい穴場?
行進のために、何人かの自衛官たちが位置についています。

「いいところ見つけましたね」

などと話していると、自衛官たちが列に並びだしました。

 

すると、どこからともなくアメリカ人らしい女の子が現れ、一番端に。
一番右側はよく見ると米海軍の軍人さんのようです。 

「英語の教官だと思います」

ということはこの一団は教官関係ということでしょうか。
幹部候補生学校には英語の先生にもアメリカから海軍軍人が来たりするのね。
同じ英語の授業でもノーティカル・ターム的な?
候補生は幹部就任後は当たり前にアメリカ海軍と行動を共にするのですから、
意思疎通をするためにも当然海軍用語も叩き込まねばなりません。 

この大尉は江田島に家族で赴任しているようです。

程なく、表桟橋近くの松の木の間にいつも通り位置している
呉音楽隊の行進曲「軍艦」演奏が始まりました。

先ほどの式典において幹部となった彼らは、晴れて生徒館から行進してきます。

こちらで待ち変えている一団の階級章は向こうから

1佐1佐1尉3佐1尉3佐1尉3佐3佐2佐2佐3佐1尉大尉

となっていて、「一尉三佐」の並びが謎でした。
幹校卒の一尉は部内選抜の三佐より上座ってことですか?

お父さんは行進して来るお兄ちゃんたちのことを娘に説明しているようです。

生徒館の正面入り口から出て来た新候補生たちは、まずまっすぐ進み、
しかるのち直角にターンして表桟橋まで行進して行きます。

正面にはカメラが、赤煉瓦をバックにした一人一人の姿を撮るために待ち構えています。

先頭の幹部がターン。
海軍兵学校の昔から、赤煉瓦から出て行進し、
敬礼しながら皆に別れを告げるこの美しい慣習は受け継がれて来ました。

先ほどもらったばかりの卒業証書の入った黒い筒を手にしています。

真正面で見ている父兄らしき人もごく少数いました。
赤煉瓦をバックに行進して来る列が見えるところにいるとは、なかなかの通です(笑)

先ほど最優等賞とチリ共和国からの勲章を授与された卒業生らしき人がいますね。


隊列は手前の教官の一団(ってことにしておきます)
の前に差し掛かりました。
最初の一佐に敬礼をし、そのあとはそのまま全員の前を通り過ぎます。

見送る方も、卒業生が全員通り過ぎるまで敬礼のまま見送ります。

 

後ろから見ていると、一人ずつさっ!さっ!と順番に敬礼していくのが
ネイ恋ブログ主的にはもうたまりません。
ところで、敬礼のAAですが、こんな使い分けも奨励されている?ようです。

【陸軍】  ∠(`・ω・´)
                      
【海軍】   (/`・ω・´)

これでいうと、

さっ!(/"`・ω・´)さっ!(/"`・ω・´)さっ!(/"`・ω・´)さっ!(/"`・ω・´)

こうですか。

見送りの列の切れ目になっても、とりあえず敬礼したまま進むようです。
女の子はパパに言われたのか、皆に手を振ってお見送り。

英語の先生でちょっと余談です。

海軍兵学校時代に英語の教師を務め、本国に帰ってから本を著した
セシル・ブロックという人がいましたが、明治の兵学寮時代に
最初に兵学校が外国人の教師を招いたと思われるのが、明治5年8月。

「米国人 アルベルト、エー、ベルキントン」氏ヲ雇ヒ語学教師トス

と書かれているのがどうやらそのようです。

わたしはちょっとびっくりしてしまったのですが、兵学校ではこの翌年、
明治6年に、

「雇教師英人三十四人来着ス」

ということで、

准官長「アアーチーホールド、ルシアス、ドウグラス」
砲術士官「チャールス、ウイルリエム、ジヨンス」 以下測量士官、
上頭機関士、機関士、一等掌砲長、二等掌砲長 、二頭木工長、水夫長、
測量手、俊秀水夫(水夫の頭のこと?)

つまり一隻の軍艦の乗組員を艦長ごと丸々雇い入れて先生にしていたようなのです。

日本の海軍はイギリス式を取り入れた、というのは歴史として知っていましたが、
どうやらこの「ドウグラス艦長」以下34名が、その最初の師だったみたいです。

陸軍のメッケルは有名ですが、海軍の「先生」があまり知られていないのは
何故なんだろうとちょっと不思議に思います。 

兵学校は彼らに「支度金」「旅費」を階級に応じて支払い、棒金は

艦長   4,800ドル 960ポンド
上等士官  3,600ドル 720ポンド
水夫  540ドル 108ポンド

などと記されています。
4800ドルというと現在でも50万くらいですから、この時代の年俸としては
もう破格な高給で雇い入れていたということになります。

雇い入れ期限は3年間、彼らは日本政府から住居を与えられ、
生活の立ち上げに必要なお金も全て給料とは別に支給されました。

ちなみに、水夫(当時はこういっていたらしい)らの行状に「不善」あれば、
艦長の権限で処罰し、これを免職できるということになっていました。
日本政府や兵学校は関わらないのでそちらでやってね、という態度です。

彼らは例えば、

測量士官「ベーリー」氏受け持ち

として20名くらいの測量科の生徒を担当するといった具合に、その専門ごとに
兵学校の生徒を少人数制ならではのぐんぐん身につくスピードラーニングで鍛えました。 
(たぶんね) 

艦長のドウグラス氏は(兵学校の記述が後年ダーグラスになっているのは、
招聘時にDouglasをそのままローマ字読みしていたのが、本人が来て
『俺ドウグラスちゃうダグラスや』というので訂正したと推測)
その後明治7年に行われた

「海軍始行幸」

にあたり、御言葉を賜るなどの栄誉を得てのち帰国したようです。

その後、外国人教師は英語かあるいは数学(代数、平面幾何)教師として
常に何人か雇われていました。 

話が逸れました。

次々と行進してくる卒業生を、女の子は写真に撮っているようです。

行進しながら感極まって・・・。

微笑みを浮かべて歩く新幹部もいます。
家族やお世話になった幹部の前を行くときには
いろんな思いがこみ上げるのでしょう。

女性幹部の先頭。
稲田大臣の訓示を彼女らはどのように受け止めたでしょうか。

タイ王国の留学生を発見。
タイ王国の帽章は、なんというかいかにもタイ!な感じ。

南方の人ですから浅黒い肌をしていますが、周りの卒業生も十分黒いので(笑)
制服の違いがなければほとんど見分けがつきません。

思い切り歯を見せる人もいます。

あれ?女の子がいつのまにかパパの真似をして敬礼を(*゚∀゚)=3
あ、これ見て笑ってるんだ!(よね)

新少尉もうニッコニコですわ。

みんなデレデレ(笑)

パパ、娘の敬礼チェックしつつ嬉しそう。

うーん、ちゃんと海軍式になってるよー。 

最初の一団が通り過ぎてすぐ、わたしたちはほぼ列と同時に移動を始めました。
卒業生の家族が晴れ姿を一目見ようと立っています。

ここから先は招待客ら(車付き)専用スペース。
部内の時にはこの向こうにいたんですが、今日は本当に無理めのところ
なんとか参加をお取り計らいいただいたという事情もあり、
さすがに車で構内を移動という身分ではなかったので仕方ありません。

卒業生がこの向こうに歩いて行くにつれ、この境界に人が流れてきて溜まってきました。
自衛官がここから先にはまだ行かないでください、と言葉で制するのですが、
どうしても!我慢できないお父さんお母さんというのがいまして(笑)
自衛官の目の届かない端っこから表桟橋の前列を取ろうとすり抜けて行きました。

気持ちはわかる。わかるが息子娘のハレの日であるからこそ、
親御さんたちも極力マナーは守りましょう。

今回は近くで聴けなかった呉音楽隊です。
今日もお天気が良くて良かったですね。

見えない領海線が解かれ、人々はどっと埠頭に向かいました。
部内選抜の時も皆走ってましたが、本日もまあだいたいそんな感じです。

前回とは桟橋を挟んで反対側の岸壁に立つと、このような
願ってもない絶景が広がっておりました。

卒業生たちは行進して歩みを止めずに5隻横に並べられたランチに乗り移り、
きっちりと整列して出港を待っています。

 

続く。 

 


 

 

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「金剛甲板の床」への疑問〜幹部候補生学校 卒業式@江田島

2017-03-24 | 自衛隊

 さて、平成29年の一般幹部、並びに飛行幹部候補生の卒業式が
滞りなく終了し、大講堂から外に出てからの続きです。 

館内にいた時のままのモードで撮ってしまった写真。
普通の学校であれば掃除道具などが収納してあるような小屋ですが、
さすがは幹部候補生学校、これは「火薬類貯蔵所」とのことです。

おそらく昔からそういう用途で使われてきたものらしく、
鉄の扉に鍵はいかにも頑丈そうなものが取り付けられています。

ここで使う火薬というと、やはり射撃練習で使う銃のものなんかでしょうか。

昼食会場になっている学生館の食堂に行くのに、
前回マイクロバス移動であったため、グラウンドを通って行くことができました。

招待状の地図によると、ここは第3グラウンドというそうです。
学生たちが朝乾布摩擦を行うのが、今はこのグラウンドとなっています。 

unknownさんの証言によると、昔はこの校舎で寝泊まりしていたとか。 

「おおお〜!」

エスコートの大尉殿がいるのにもかかわらず、ヲタモードに突入するわたし。
海軍兵学校同窓会の時には教育参考館の一端にある音楽ホールで
呉音楽隊のコンサートが行われた時、遠目に見ただけだった
理化学講堂の近くに来ることができたのですから、仕方ありません。

この理化学講堂は、明治21年(1888年)に建造されたということです。
もちろんその名の通り、科学・化学系の講義、実験が行われました。

この年の兵学校の当時の記録を見てみますと、

四月 江田島に新築中の建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成す

という記述があります。
つまり、この年に、海軍兵学校は築地からここに移転して来たのです。


同時にこの年兵学校には、官制により、少将たる校長、大佐たる次長、
そして大尉の副官、
教頭は大佐、などという配置が定められています。
政令を発したのは、総理大臣である黒田清隆、当時の海軍大臣西郷従道でした。

今のアルファ・ブラボーである幹事付の原型らしき

「生徒分隊長 若干人 大尉 教官を以って之に兼補す」

というのもこの年からの取り決めとなっています。

例えばあの広瀬武夫中佐は明治22年の卒業ですから、
ピカピカの新築校舎で一号生徒時代を過ごした期生となりますね。


余談ですが、広瀬武夫の卒業時の成績が
「 80人中64番(49番という説もある)」
とという具合に
正確なところがわからないらしいのはなぜか今回推理してみました。

わたしの所持している海軍兵学校編纂による学校の資料によるとこの年の卒業生は80名。
江田島に移転したことと関係あるのかどうか、それは判然としませんが、
なぜか広瀬中佐の学年だけ、卒業生が

「一号生徒64名」と「甲号生徒16名」

に分けられており、それぞれの成績順で並んでいるため、
全体のハンモックナンバーがわからなくなってしまっているのです。

広瀬は一号生徒64名のうち、45番目に名前が書かれていますので、
これに甲号生徒を交えると、それ以上にはならないことだけははっきりしていますが。

 ついでにもう一つ、広瀬と同期の財部彪は卒業の時首席で、この資料にも

「卒業者中学術試験に最高点を得たる財部彪は機関砲一班を、
岡田啓介は水雷一班を講演せり」

とあるのに、財部も岡田も名簿のトップに名前がありません。
(財部は2番、岡田は23番) 

つまり、海軍兵学校のハンモックナンバーには武道などの科目も関わってきて、
この頃の名簿には総合点での順位順で書かれていたことがわかりました。

さらに広瀬の入学した明治18年の試験及第者は57名しかおらず、
財部の名前はどこを探しても見つけることはできません。

まあそれはよろしい。

とにかく、広瀬以降の兵学校出軍人の全ては、この理化学講堂で学んだということです。
昔は出入り口であったドアには、いつの頃からかダクトが埋め込まれました。 

赤煉瓦の生徒館よりはレンガの質は上等ではないのかもしれませんが、
それでも130年経過していると信じられないくらいその形を保っています。

壁のレンガが5段おきに切れ込んだようになっているデザインが素敵。

アメリカ、ことに東部にしょっちゅういくわたしには、100年くらい超えた建物は
特にボストンにはその辺にあるので、見慣れています。
彼らは、そんな建物の内部だけを改装して、普通に使い続けています。

わたしの住んでいた街では、サッコとバンゼッティが死刑になった年に
建ったビル(年号が刻んであるのでわかる)にネイルサロンが入っていたりしました。

使い続けていれば、建物は保つことができるので、ここもなんとか
保存を目的に使用し続けてほしいものですが・・。 

おそらく昔、もやいの結び方を練習したらしきこんなものも。
随分年季の入ったもやいですが、今も使われているのかどうかは謎。 

 

ちなみに、前回生徒館の写真を上げた時に言い忘れたのですが、
生徒館の床は初代金剛の甲板をそのまま使っていると言われているようです。

この丸い三つ単位の木片が、リベットの跡だそうです。

明治22年、広瀬らの海軍兵学校15期卒業生たちは

「四月二十日 一号生徒及甲号生徒の卒業証書授与式を施行せられ
卒業者は直に少尉候補生を命し金剛比叡の二艦に配乗せらる」

とこのように卒業の日を迎えています。
秋山真之はこの年二号(3年)の学術優等賞授与者に名前があります。

「金剛」はあのエルトゥールル号事件の生存者をトルコまで送っていったことで知られ、
その時秋山真之が同行していた、という話をご存知の方がおられるかと思いますが、
これ実は、「金剛」は「比叡」とともに兵学校の遠洋実習航海でトルコに寄港し、
そのついでに?生存者たちを送り届けたということだったらしいですね。


wikiの秋山真之の経歴に

「エルトゥールル」の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する

とありますが、この時秋山は「金剛」と同行していた「比叡」乗組の一候補生にすぎず、
「従事した」というのは微妙にあたりません。 

ちなみに秋山は遠航が終わってもその後数ヶ月「比叡」に乗っていたようです。


 

ここで疑問なのですが、「金剛」が解体になったのは明治43年。
この甲板を生徒館の床に使ったというのは時系列としておかしいんですよね。
生徒館が落成したのはその17年も前の明治26年です。 

その年生徒館は改装して床を張り替えたのか?とも思ったのですが、
少なくとも当時の記録には生徒館の改修工事が行われたという記述はありません。 

「金剛の甲板」は都市伝説だったのか・・・?

まあそれはよろしい。よろしくないけど。


食堂に階段を上っていくと、場所は前回と同じでしたが、
卒業生と家族、幕僚長ら幹部は別の会場で会食していました。
おそらく海軍兵学校の同期会でお昼を食べた食堂だと思われます。
こちらの会場では来賓の挨拶など様子がわかるように、
ちゃんとモニターでメイン会場の様子を放映してくれました。

ここでわたしを見つけて声をかけてきたのがみね姉さん。
さらに驚くことに、彼女はわたしのエスコート係の大尉殿と
つい一週間前ある場所で出会ったばかりという奇縁でした。 

本当にこの世界、狭いです。

メイン会場では候補生が揃うまで時間がかかっているようでしたが、
こちらでは到着した人から独自にお弁当を食べ始めています。 

海自のイベントでお弁当が出るのは今のところ幹部校だけ。

 

食堂から下に降りたのですが、まだ時間が早くてお迎えはいません。
うろうろしていると、女性自衛官が学生舎の談話室らしきところに通してくれました。 

接室戸娯楽室の間のような部屋です。
何にせよ、ここに今日卒業していった学生が昨日までいたことは間違いありません。 

鉄火お嬢さんからまた激しく指摘されそうですが、2階に通されたのをいいことに、
洗面所に行くついでに空室となった学生の部屋をつい覗き込むわたし。

今日ここを巣立って行く彼らが、今朝、最後のベッドメイクをし、
きっちりとたたまれた毛布と枕が、人気のない部屋の暗がりに見えました。

どんな気持ちでこの部屋を後にしたのでしょうか。

部屋のプレートには4枚ずつ名札を入れる場所があります。
幹部候補生だけあって、防衛大学校よりは少人数の寝室です。 

彼らが身だしなみを整えるために使った海自の必須品、
アイロンとアイロン台、選択ピンチに靴べら、ホコリ取りブラシ。

ロッカーの扉が開きっぱなしになっているのが、
いかにもさっき出ていったばかり、という様子。  

週番の学生が毎日書くらしい「天気概況」にはこうあります。

江田島気象台発表
校内の桜は本日1000に第67期一般幹部候補生
第69期飛行幹部候補生とともに昨日の候校生総員による
隊歌訓練の歌声と威容に一気に蕾を膨らませ、
3月20日の春分の日を前に一斉に開花し見事なとなるでしょう。

初任幹部の皆様の遠洋航海でのさらなるご活躍、そして
練習艦隊の安全な航海、無事の帰国を祈念いたします。 

 

 

応接室からは理化学講堂が見下ろせます。
クーラーが設置されていることを見ても、戦後しばらくは使われていたのだと思いますが、
窓にかかったカーテンもどうやら経年劣化で破れている模様。 

二階のある窓を望遠レンズで狙って見ました。
どうも洗面所らしく、開きっぱなしの個室のドアが見えます。

あれは広瀬中佐以降の軍人たちが使ったに違いないトイレ・・・。
などと考えて思わずしみじみしてしまうわたしは、やっぱり筋金入りのオタですか。

メイン会場の会食はまだ時間がかかりそうなので、教育参考館をまた見ることにしました。
みね姉さんは「最近来たばかりだし」と最初言っていたのですが、
わたしが行くというと付き合ってくれました。

この後ろの丸いドームはプラネタリウムらしいんですが、
兵学校時代のプラネタリウムってことでおk? 

日本では最初のカール・ツァイス製のプラネタリウムが大阪の科学博物館に
初めて設置されたのが1937年だったと言いますが、
先進先取の兵学校がこの雛形を取り入れていても不思議はありません。

ただし、兵学校のプラネタリウムについてはなんの資料も見つかりませんでした。 
今度暇な時に兵学校の当時の記録を探してみます。 

特殊潜航艇の展示の前では、陸自の自衛官にエスコートされた人たちが
説明をしてもらっています。

何度かここに来ていますが、スケルトンになっているのに初めて気がつきました。 

こちらは真珠湾の特殊潜航艇。

教育参考館の入り口の脇に設置してあります。 

忘れちゃいけない93式酸素魚雷も。

ところで、学生舎をでて理化学講堂の前に来たとき、海自の自衛官がいたので

「ここは今使われていないんですか」

と聞いてみたところ、

「倉庫になっています」

と教えてくれました。
とりあえず何かに使われているうちは取り壊されることはないでしょう。

ホッとしていると、その自衛官がこれを見せてくれました。

「占領時代に進駐軍がここを使っていまして」

”CAMP POST OFFICE”とペンキで書かれたのを苦心して消した跡があります。

「 ・・・・郵便局にしてたんだ・・・・」

いや、郵便局でもなんでもいいんですが、なぜ看板を作らない。
思わず、

「この歴史的な建築物に、ペンキで・・・#」

と呟くと、自衛官は苦笑しながら

「彼ら何にでもペンキ塗っちゃいますからねー」

どうやらアメリカ人、江田島で他にも色々やらかしているようでした。

 

続く。

 


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防衛大臣挨拶(代読)と「ご安航を祈る」の信号旗〜幹部候補生学校 卒業式

2017-03-23 | 自衛隊

卒業式において幹部候補生から「候補生」が取れ、自衛隊幹部に任官した
第第67期一般幹部候補生課程修了者等と第69期飛行幹部候補生課程修了者は、
まず代表の宣誓の言葉によってその意思表明を行います。

 

そして真殿校長からの式辞が送られました。

「これからの海上自衛隊の任務においては海の防人として全力を尽くしてもらいたい」

やはりポイントは「海の防人」という言葉をお使いになったことでしょうか。

「厳しい日々を乗り越えたここ江田島は、必ずや君たちの心の故郷になるであろう」

お、おう・・・じゃなくてそうですね。
思い出深いという意味では、おそらく。

続いて防衛大臣訓示・・・・・のはずだったのですが、稲田防衛大臣は
よんどころない事情により勝手ながら出席できず、代わりに副大臣が
大臣の訓示を代読するということになりました。

後日行われた防衛大学校の訓示は行なっているので、
つまり色々と国会でタゲられて呉まで来ようにも来られなかった、
というのが本当のところではないかと思われます。

そのことがアナウンスされたとき、会場を「あー」という感じの
空気が流れたのをわたしは感じました。

 

それはともかく、本日防衛大臣の代わりに副大臣が出席することになり、
わたしは若宮副大臣と神戸に引き続きまたもお目にかかることになりました。

これだけあっちこっちでお見かけしているともう他人とは思えません。(比喩)
代理で出席した若宮副大臣は、稲田大臣の訓示を代読しました。

 

四方を海で囲まれる我が国において、海上自衛隊の幹部自衛官のゆく道は
日本の防衛の最前線に立つことに他ならない。
その決意に、防衛大臣として心から敬意を評したいと思う。

という、こういう場合に定型ともなっている海上自衛官への激励の言葉とともに、

防衛大臣に就任してからジブチ、南スーダン、国内でも様々な部隊を視察してきたが、
そのどの部隊でも自らの任務に対しひたむきに取り組む隊員の姿があった。

任務には、華々しいものがあれば、一見地味なものもあるだろうが、
しかしどの任務も欠かすことのできない重要なものである。

先輩自衛官たちが地道に積み重ねてきた現在の自衛隊への国民からの信頼を
これからの財産として受け継ぎ、より一層発展させていくことを期待する。

これをいう防衛大臣が女性だからということもあると思いましたが、
訓示のメインでは、安倍政権の掲げる「一億総活躍社会」、中でも女性が、
特に自衛隊でも活躍の場を広げられるようにする、と
約束がなされました。 

そして、国際社会でも安全保障の側面において女性の参画の必要性が重視されていて、
「女性・平和・安全保障担当NATO事務総長特別代表」のアドバイザーとして
女性海上自衛官を、7月からNATO本部に派遣していること、
この分野におけるNATO加盟国との調整などに活躍してもらう予定だと語りました。

この女性自衛官について調べると、一般大をでて陸上自衛隊入隊し、
第5高射特科群(八戸)、第2高射特科群第336高射中隊長(松戸)(!!)
をしていた栗田千寿という方のレポートが出てくるのですが、
彼女の後任として海自からも派遣されるということだと解釈しました。

挨拶の最後には、

「皆さんはこの江田島に多くの思い出があることと思います。
中でも7月に行われる遠泳は8時間半かけて15キロを泳ぎ続け・・・」

 聞いている卒業生の脳裏は、さぞ走馬灯ぐるぐる状態でしたでしょう。

思い出深い江田島のこの大講堂から、表桟橋を船出していく皆さんの前途は
これまでここを巣立っていった自衛官たちより荒海になるかもしれません」

 
サヨクな連中ならすわ!戦争法か?と拡大解釈されそうな文言ですが、
防衛大臣の「挨拶」ではなくこれは訓示ですからこんなものでしょう。

そうやって「稲田朋美」で終わる代読が終わると、幹部自衛官たちは
ざっ!と立ち上がりました。

ところが(笑)

代読が終わっても、自衛隊を心から愛している(らしい)若宮副大臣、
どうしても!自分自身の言葉で新幹部に語りたかったらしく、
そのまま独自に挨拶を始めてしまったのでした。

若宮さんも彼らを混乱させるつもりはなかったのでしょうが、
間違えて立ってしまった幹部たちを座らせずにそのまま挨拶を続けたので、
号令を受けずに行動した彼らの中に「しまった!」的空気が流れました。


続いては村川海上幕僚長の訓示。
昨年末幕僚長に任命された村川海幕長にとって、
初めての幹部候補生卒業式であり、訓示となります。

「国際情勢は混迷度合いを極め、世界の日本を取り巻く環境は大きく変わりつつある。
10年、20年後に日本と国際環境がいかなるものになっているか予測するのは困難である」

そんな厳しい言葉で始まった訓示の中で、わたしが特に耳を止めたのは

「わたしが幹部校を卒業したのは今から35年前の昭和57年であった」

という一言でした。
その後の話は失礼ながらあまり記憶にないのですが、きっとその時わたしは、
今ここにいる二百数十名の中に、三十数年後、同じ場所で、同じ季節に、
村川氏と同じ階級章をつけて新幹部に訓示をする者がいるのかもしれない、
ということをなんとなく考え続けていたのだと思います。

そしてその海幕長は、そのときこういうのでしょう。

「わたしが幹部校を卒業したのは今から35年前の平成29年であった」 

そのころもこの大講堂は、江田島は、今と変わりないままでしょうか。
そして日本の国は今と同じ平和の裡に存在しているでしょうか。 

次に祝辞を行なったのは在日米海軍第七艦隊司令、Joseph P. Aucoin中将。
 
前にも書きましたが、大講堂は昔から壇上の声が増幅して聞こえる設計になっており、
マイクを使わずに二階の奥にまで声が届きます。
しかし、どんな声でも聞こえるかというと、そうでもないとこのときわかりました。


政治家で演説をし慣れており、かつ分かりやすく言葉を区切って喋る若宮氏、
自衛官らしくハリのある声ではっきりと言葉を発する海幕長の後に、
英語で比較的穏やかに話すオーコイン中将の言葉は聞き取りにくかったです。

中将も海幕長と同じように自分が士官候補生から士官になった日のことを
スピーチに織り込んでおり、それは36年前であったということでした。

ちなみにチリ大使館の人の挨拶には翻訳がアナウンスされましたが、
こちらは下書きが学校側に提出されなかったらしく(笑)翻訳なしでした。

もう一人の来賓祝辞を行なったのは秋岡江田島市長

「ここ江田島は今から129年前、明治27年に海軍兵学校が東京築地から移転し、
その後、昭和31年、今から61年前に海上自衛隊をお迎えしてから
現在に至るまで自衛隊の皆様との縁を大事にしている地でございます」

この時に知ったのですが、東京に「東京江田島ファン倶楽部」なる組織があり、
東京周辺に在住で江田島市にゆかりのある人、関心のある人が情報交換をする
場になっているようです。

かつて江田島で幹部候補生時代を過ごした自衛官も数多く参加している、
ということのようですが、後でこの時の

「またここ江田島で皆様とお会いできる日を楽しみにしています」 

という言葉が、連載第1回目でも取り上げた

「幹部自衛官は江田島に対してどんな思いを持っているか」

という話題につながったのでした。

ここに来るのも気が重いという自衛官がいれば、東京の地で
ファンクラブなるものに入って江田島とつながり続けている人もいるということです。

後からこのページを発見し、もしかしたら秋岡市長は挨拶の中で
さりげなくこのクラブの宣伝をしていたかも?と思いました。

東京江田島ファン俱楽部入会申し込みページ

式後半、椅子が一つ空いていたのが気になって仕方なかったのですが、
ここに座っていた候補生は行進が始まるまでには戻ってきて安心しました。

というところで閉式となりました。
候補生が立ち上がって起立する前を、来賓や
幕僚などの自衛官が段奥の控室に戻っていきます。
民間人らしい外国人の夫妻がいますが、例えば英語の先生と
その奥さん、という感じでしょうか。

奥さんらしき人は、貴賓席の方を見上げていますが、ここではこの時、
三笠宮の女王殿下と呉地方総監が引き揚げている最中だったはずです。 

 

今回は遠くて様子が見られなかったのは残念でしたが、呉音楽隊が、
二階バルコニーで
行進曲「軍艦」の演奏を始めました。
その開始と同時に行進を始めた候補生たちは一列ずつ反対側に向いて退場していきます。

この後彼らは控室で最後に候補生から幹部の服装に着替え、
家族と昼食をとる予定となっています。

最後の一団が出て行った大講堂。
今度彼らがここに戻って来るのはいつのことでしょうか。

さて、この後は午餐会となるわけですが、大講堂から会場まで
今回はグラウンド側を通って歩いて行くことになりました。
エスコートの大尉殿と世間話をしながら会場まで連れて行ってもらいます。

この写真で前方を歩いている一団も、わたしたちのように
来賓と彼らをアテンドする自衛官という組み合わせのようです。

グラウンドには船と同じマストがあり、根元になぜか
サッカーゴールが二つマストを挟むようにおいてあるのが印象的。

マストには「U」と「W」、「ご安航を祈る」を意味する信号旗が揚げられていました。

 

続く。

 

 

 

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幹部自衛官任命〜幹部候補生 飛行幹部候補生卒業式

2017-03-22 | 自衛隊

江田島で去る三月十八日に行われた幹部候補生、飛行幹部候補生の卒業式。
いよいよ開式の時間となりました。 

わたしの横にいた一団は約40名の飛行幹部候補生たちです。
彼らの今現在の階級は海曹長となっており、袖には一本線に錨のマークが入っています。

ある幹部校卒業生のお母さんが送ってくれた写真ですが、右が卒業式の時のもの。
式の間に彼らは海曹長から幹部自衛官に任命されるので、
ここを出て行進に向かう時には、左の袖章のものに取り替えます。
式の1ヶ月前に制服を集めて、金線をつけてもらうんだそうです。 

別のお母さんが(自衛官のお母さんの読者が何人かおられます)

「古い曹長の細い線に錨は式後解いて帽章と一緒に午餐会の場で私にくれました」

と教えてくれました。
外した金線と錨の刺繍をしたボタンはもらえるので、
額に入れて飾っているお宅もあるのだとか。

壇上には本日の来賓が入場しました。
前列左端には衆議院議員の寺田みのる先生がおられますが、
わたしの席から非常に近いので、向こうもこちらに気がつかれ、
壇の上と下で目だけでご挨拶を交わしました。

その後ろの列には宇都隆史議員、その隣福田達夫衆議院議員、
その左大野敬太郎衆議院議員。(全部自民党議員)
その後ろにもうお顔を覚えてしまった海保大学校長、警察本部長、警察署長、
消防署長とおなじみ米陸軍弾薬庫のムーア中佐などがおられます。

本日の式次第は、これだけ見ても2月の部内選抜卒業式とは大きく違います。
一番大きな違いは「幹部自衛官任命」。
前回の卒業式の後の行進では、行進する彼らの制服の袖は
海曹長の錨のマークがまだ付いていました。

しかし、本日の候補生たちはこの式における任命の瞬間をもって
幹部自衛官になるわけですから、袖章も桜に変わるのです。

式が始まり、最初に君が代が斉唱されたのですが、
候補生たちの歌声の大きいのには驚かされました。

大きいといっても怒鳴っているような大声とは全く違う、
深いところから湧き上がって来るような響きです。
日頃腹の底から声を出し慣れているからこその歌声だと思いました。

そして先ずは卒業証書授与が行われます。
幹部候補生学校の校長、真殿海将補が壇上にたちました。 

わたしの座っているところからは最前列の飛行幹部候補生の頭で
ちょうど証書を受け取るところがこんな感じにしか見えません。

ちなみに卒業証書が渡されるのはあいうえお順なので、
相川とか相田とかいう名前の候補生はカレンダーの写真などに取り上げられます。

名前を呼ばれたら「はい!」と返事をして壇上に歩み、

校長から賞状を渡されます。
その際校長は必ず候補生の目を見て、しっかりやりたまえというふうに軽く頷きます。 

賞状を受け取った候補生は、受け取ったまま直角に進行方向に向かってターン。

その場で賞状を二つにたたみます。

そして壇の一番端から階段を降りて自席に戻り、立ちます。

体力徽章1級をもっている候補生発見。

体力徽章とは年一回行われる体力検査で、これは一定以上の成績を収めた者に
次の検査まで貸与されるバッジです。
あまりにそのレベルがすごいので、 これをつけている人がいると
わたしなど「おおお〜」と希少種を見る目で見てしまいます。

 

ところで体力といえば、アテンドの大尉殿が、

「現呉地方総監は毎朝走り込んでいて、走りながら取材を受けたこともある」

というなんじゃそりゃー情報を教えてくれました。
走りながら取材って・・・クリントン元大統領?

第67期一般幹部候補生課程修了者は約190名。
その一人一人に賞状が手渡されていきます。 

 

一般幹部の190名のうち、女性は15名です。 

先日体験航海で乗り込んだ「あきづき」の航海長も女性でしたし、
戦闘艦の艦長も誕生した今、女性士官を艦艇見学で目にする機会も
ますます増えて来るのでしょう。

一般幹部の中に二尉に進級するというグループがありました。
まさか二階級特進制度とか、飛び級があるとは思えないのですが・・。

そこで考えたのが彼らは防衛医大卒の人たちではないかということです。
招待状にも、

第67期一般幹部候補生課程修了者

とあるので、この「等」がそうなのではないかと考えました。

調べたところ防衛医大卒業生は、卒業と同時に陸海空のそれぞれの幹部候補生となり、
「曹長」の階級が与えられるというのまでは一般幹部と同じです。

その後、wikiによると防衛医大卒候補生は

幹部候補生学校の卒業と同時に、二等陸・海・空尉に任官し、研修医官となる

らしいのです。
つまり医大卒はここで飛び級をするらしいんですね。


旧軍でも、医科大学卒の者の軍医としてのスタートは軍医中尉からでした。
これは医師という特別な技能者を、兵科将校とは別に尊重するという意味と、
任官までの修業年限が長く、また訓練期間の投資額も大きいからという意味があります。

ちなみに画面の候補生とこの内容はおそらく関係ありません。

防衛医科大卒幹部の二尉の皆さんはすでに国家試験に通った医師の卵でもあるはずですが、
彼らも遠洋実習航海に参加するのかどうかはわかりませんでした。

ちなみにこの写真も内容とはおそらく関係ありません。

一般幹部候補生課程修了者等の卒業証書授与が終了したところで、
本年度のたった一人の留学生であるタイの卒業生が証書授与されました。 

背が高くハンサムでノーブルな軍人さんです。
タイ王国から一国の代表として
留学に来る人ですから、超優秀であるだけでなく、
もしかしたら
高貴な血を引いていたりするのかもしれません。

去年のタイからの留学生も大変なイケメンだったとみね姉さんが後で証言していました。
てか去年も行ったのかみね姉さん。

この留学生は遠洋航海にも一緒に行くそうです。
渡航費が高くて遠航に行きたくても行けない留学生も珍しくない中、
おそらく国ではかなりの富裕層に属する家の出なのでしょう。
 

それが済んでからは飛行幹部候補生への卒業証書授与が始まりました。
横にいた一団がいなくなって視界が初めて開けました(笑) 

一般幹部が飛行幹部候補生になるには、防衛大学校であれば1学年の時に
行われる適性検査などで飛行幹部要員になる方法、
一般大から幹部候補生になり、さらに飛行要員を目指す方法がありますが、
なかなかに狭き門だという話です。

なぜなら航空学生と防衛大卒の操縦志望者がが足りない分しか
大卒の幹部候補生から採用されないというシステムだからです。

つまり航空学生と防大の脱落者の数次第みたいなところがあり、
なるには競争率4~50倍を突破しなければいけないとか。

しかし昨年秋の入間航空祭で流れたブルーインパルスの隊員の紹介では
一般大卒の隊員が目立っていました。
高倍率をくぐり抜けただけに優秀ということが言えるのかもしれません。 


ちなみにこの段階では、一般幹部の中では飛行過程に行けるかどうかは
まだ決まっていませんから、ここにいるのは航空学生過程を2年終え、
その後幹部候補生として訓練を受けてきた人たちということになります。 

 

それではここにいるウィングマーク付きの候補生たちは
全員が回転翼か固定翼のパイロットなのでしょうか。

ウィングマークを取得するのはすでに国家資格を受け、
さらに実用機過程も終了したという印なのですが、
これ以外に戦術航空士も同じようにウィングマークを取得します。 

飛行幹部の最初の頃の証書授与者はわたしのお隣に座っていた人たちなので、
やっと頭の写り込まない写真を撮ることができました。 

今うちにある「海上自衛隊カレンダー」の三月は、これと全く同じ構図です。
証書を授与しているのは前校長の杉本孝幸海将補なのですが、
横にある松の盆栽は全く同じ形をしております。 

ウィングマークだけでなく体力徽章ともう一つ何かつけている卒業生。

彼らは高校卒業後5年半の航空学生としての過程を終了し、
ここで幹部候補生として約半年の訓練を受け、本日三尉になります。 

彼らが初等教育で乗ったTー5も、今日は小月から祝賀飛行を行う予定です。

さて、飛行幹部候補生の賞状授与終了すると、次は優等賞への症状が授与されます。
受け取ると、昔海軍兵学校で恩賜の短剣を受け取った時のように
そのまま後ろ向きに階段を降りて行きます。

部内選抜の幹部候補生の時には5名でしたが、本日は
10名くらいは呼ばれたような気がしました。

説明がなかったのですが、防衛医大の優秀者も一緒だったのでしょうか。

そして飛行幹部過程卒業生からは3名が優等賞を授与されました。
次席は女子学生だったのですが、これは決して稀なことでもなく、
去年は飛行幹部のクラスヘッドが女子で、場内がざわめいたそうです。 

こちら一般幹部候補生のクラスヘッド。
チリ共和国の海軍士官学校勲章が最優秀者に伝達されます。
勲章を胸につけているのはチリ大使館関係の人。

この後スペイン語で挨拶をしましたが、その後翻訳文が紹介されました。

続いて水交会から激励賞が一人の卒業生に授与されました。

これを持って賞状授与は終了です。
この後、幹部候補生は「起立!」と号令をかけられて一斉に立ちました。

実はこの号令が、彼らが受ける実質最後の号令であったのです。
というのは、この後行われた

幹部自衛官任命

の儀式をもって、候補生たちはその瞬間から自衛隊幹部という立場、
すなわち号令をかけられる方からかける側になったからです。 

実際、これ以降彼らに号令はかけられなくなり、その後は起立も着席も、
全て自分たちの判断により行われているように見えました。
具体的には、全員で空気を読みあって阿吽の呼吸で行動する、という感じです。
そのため、ある瞬間妙に空気を読みあう「す」があったりしました。


彼らが指揮官としてまさに最初の第一歩を踏み出したということが、実は
この小さな変化に現れていたことに気がついた人はどのくらいいたでしょうか。

ともあれ、ついさっきまで幹部候補生であった彼らは、今や幹部となってここにいます。

 

続く。 

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江田島・幹部学校候補生卒業式〜「あゝ海軍」の鏡

2017-03-21 | 自衛隊

江田島の第一術科学校に到着し、リボンをつけてもらって
一応控え室も用意されていたのですが、時間までの間、
せっかくこの地に来て、一般の見学では見ることのできない
赤煉瓦とその周りを見ておこうと外に出ました。

アテンドの大尉殿を付き合わせて一周して来たら、皆がそろそろ
大講堂に向かっている模様です。
わたしたちも控え室に戻らず、会場入りすることにしました。

ここも控え室になっていた模様。
大講堂に一番近い角部屋です。

前回アップし忘れた写真もついでに載せておきます。
学校職員の部屋(つまり職員室)の前に佇む陸戦服人形。
海上自衛隊でも陸戦訓練があり、そのための陸戦服があるようです。

先日ここでもご紹介した兵学校と幹部学校の写真集「伝統の継承」でも
陸戦訓練では候補生たちがこれを着て頭に偽装の草をつけ、
匍匐先進している写真などが掲載されていますし、
海軍兵学校でも陸戦練習が行われていて、その写真が残されています。

現在の自衛隊には海軍のように「海軍陸戦隊」があるわけではないのですが、
実際に海軍迷彩服にヘルメットで(胸には旭日旗)銃を担いで
陸自の駐屯地祭などで行進している写真なども探せばあります。
各地方隊の警備犬部隊などは行進の際迷彩服で行っているようですね。 

これは海軍迷彩でもないし、幹部候補生の訓練用みたいです。

 

また、赤煉瓦の校舎の各教室の外には、海軍時代と全く同じ仕様の
木製のコート&帽子掛があり、前のが経年劣化してもこのデザインを変えず、
昔のまま使い続けているのですが、ここにある帽子掛はかなり年代物のようです。

見つけて思わず声が出てしまった姿見。

海軍兵学校の時代から、常に海軍士官の威容を保つため、
鏡で自分たちの姿を点検することが行われてきた江田島には
赤煉瓦の生徒館の中にもいたるところに大鏡が設えられています。

海自の隊員の身仕舞が清潔できちんとしているのも、
訓練時代から海軍の良き伝統であるこの点検を叩き込まれるからでしょう。

んで、この鏡、

 

大映映画「あゝ海軍」撮影記念に寄付されたものであることが判明。
「あゝ海軍」といえば、ここでもご紹介しましたよ。

「あゝ海軍 江田島健児の歌」

「あゝ海軍 同期の桜」

 いつも通りデレデレと何回にも渡って書いたのですが、そのうちこの二つの項は
江田島でロケした兵学校におけるシーンを取り上げています。
おヒマと興味がおありでしたら是非読んできただきたいのですが、
この頃の第一術科学校はまだ改装前だったため、校長室や教室など、
昔のままだった頃の赤煉瓦生徒館を画面で見ることができます。

ちなみに、映画公開は1969年、昭和44年でした。

この映画を観た頃には、赤煉瓦の校舎に入ることなど夢のまた夢でしたが、
今回改めて写真を見て、実際との違いや同じところを確認することができました。

 

この映画は、戦争の悲惨さに焦点を当てるだけの戦争映画ではなく、
一人の海軍軍人の成長と葛藤、その生き様と死に向かう姿を描いており、
色々とツッコミどころはあるものの、良作だとわたしは思っております。

映画の撮影記念に大きな姿見を二枚も贈呈したという当時の大映が、
この地とひいては撮影に協力した海上自衛隊に敬意を払ったことは間違いなく、
その証拠を見てわたしは一層、この映画に対する評価が増しました。

どこをどう切り取ってもチリ一つない清浄な空間。
自分自身で毎朝掃除を行うのも海軍以来の伝統です。

こういう訓練生活をしてきた自衛官たちと、子供の頃から
学校の掃除は掃除夫が行うことが当たり前だったアメリカ軍人では
軍艦の使い方一つとってもまるで違ってきて当然だと改めて思います。 

昔のままにその姿を残す赤煉瓦校舎ですが、改装できる部分は改装し、
ついでに耐震化も行ったということで、一安心とはいえ、
経年劣化は常に進んでおります。

「頭上注意」の注意書きがあったので上を見たら・・・・・。

さて、というところで大講堂にやってきました。
前回のように二階席から見るのかと思ったのですが、なんと一階の、
卒業生たちの真横に来賓席があってびっくりしました。

真ん中に卒業生、その周りを取り囲むように来賓、その外に家族、
といった感じです。
席の取り合いなどで混乱をきたさないようにという配慮で、
パイプ椅子にはちゃんと座る人の名前を書いた紙が貼られています。

たくさんある椅子の中から個人名を探すのは大変で、
大尉殿は(アテンドしてくれた自衛官の今回の仮名です)あちこち見て回り、
会場の自衛官に聞くなどして席を見つけてくれました。

席に落ち着く前にまず一枚。

卒業生たちはまだ客入れでざわざわしている会場なので、
リラックスした様子で席についています。

前回は二階席からだったので、証書授与や壇上の様子がはっきり見えましたが、
ここは・・・・死角が多そう(笑)

まあ、本日はこういう視点からの報告ということで。

「あゝ海軍」の卒業式シーンを当ブログの画像でチェックすると、
その時には赤絨毯は敷かれていなかったのがわかります。 

この頃の幹部候補生は段の奥で賞状を受けたのでしょうか。

それからこの画面で映画の重大なミスを今発見。
これ、国旗も海軍旗もありませんよね? 

明治年間にここに大講堂ができてから、幾多の軍人たち、戦後は自衛官たちが
この同じ床の上を歩いてきたのだと思うと、ついしみじみと見入ります。

花崗岩に黒のアクセントになっているのはスレート(粘板岩)でしょうか。

わたしの座っているところから上を見上げると、昔は皇族の方々専用だった
貴賓席であるバルコニーがあります。

実はこの日、三笠宮家の女王殿下が卒業式にご来臨賜る、という話を
前もってわたしは聞いていたのですが、殿下はこの時
貴賓席にまさしくお座りになっておられたことになります。
(ここからは何もわかりませんでしたが) 

三笠宮家と海上自衛隊のつながりについては何度かここでも書きました。

平成24年に薨去されたお髭の殿下、三笠宮寬仁親王殿下は、

「彼らのうちの一人は間違いなく将来の幕僚長になるわけですし、
国賓や公賓と席をともにすることもあるでしょう。
いずれにしても全員がこれからの日本を背負って立つわけで、
外国でみっともない態度をしてもらっては困ります。
そこで、服装や立居振舞い、食事の作法、会話、
レディーに対する接し方まで徹底的に教え込みます」

(『今ベールを脱ぐジェントルマンの極意』寛仁親王著)

と幹部候補生にありがたくも英国仕込みのマナーをご教授くださっていました。

平成になってからは崇仁殿下の孫にあたる遥子女王殿下、彬子女王殿下が
後を引き継がれ、それだけでなく両女王殿下には基地での行事へのご来臨、
ならびに講演を賜ることもあったという関係から、呉地方総監が
殿下を本日の卒業式にお招きをされたということのようでした。 

そのため、総監は一日女王殿下のお側にピタリと立ち、
式の間中エスコートを務めておられました。

女王殿下と畏れ多くも比べるつもりはありませんが、
この日はわたしにもエスコートがついたんですよね(自慢自重)

貴賓席のちょうど下に報道陣が固められています。
これはここにカメラを集めることで、女王殿下のお姿が
下賎なカメラマンの餌食にならないように(って言い過ぎか?)
自衛隊が配慮したという面もあるのではと思いました。

わたしの近くにあった大講堂の柱はもちろん昔のまま。
六弁の花の模様があしらわれています。

前回は二階から見た舵輪を模った照明具を今日は下から。

ほぼ全員が席についた頃、会場を歩いていた自衛官がかがんで、
小さなゴミ(多分埃程度のもの)を指で拾い上げています。 

 

この幹部自衛官が指示をしたのか、海曹が壇上の掃除を始めました。
朝からちゃんと自分たちの手で床を磨き上げ、掃除を済ませたはずなのに、
こうやって最後の最後まで完璧を目指す、これも海上自衛隊の本領です。 

すでに卒業生たちは先ほどまでのリラックスモードから次第に本番モードに
切り替えて背筋を伸ばし気味に座っていましたが、学生隊幹事付という指導係の
自衛官が一声「気をつけ!」と低く声をかけると、全員が座ったまま
びし!っと背中を伸ばし、姿勢を正しました。

幹事付は候補生たちより4期先輩が務めるそうで、「アルファ」「ブラボー」と
呼ばれたりしています。
声をかけていた自衛官の階級は二尉。
下を指導し、学生の規則集なども全部頭に入れているような人たちです。

わたしの知っているかつての赤鬼青鬼はその何十年もあとになりますが、
海幕長と海将になりましたから、その学年のツートップが務めると決まっているのでしょう。

「制服の埃!」「靴の光り方!」「白手袋!」

セルフチェックのポイントを言いながら学生の間を歩いていく幹事付。
皆座ったままで目に見える範囲の点検を急いで行っています。

それが済んだ頃、

「手の位置揃えろ」

と声がかけられました。
なんと!両膝に乗せた手の白手袋が、遠目に見たときに
まっすぐ一直線になるように横を見て合わせろ、と言っているのです。

日本の教育機関で、式典の時にここまで神経を使って姿形を
整えるようなところが他にあるでしょうか。

この写真は互いに脇を見て手の位置を合わせているところ。 

はい、手の位置オッケー。

今回彼らの近くに座れたおかげで、こんなシーンを目撃しました。
学内にある鏡でしょっちゅう行われる身だしなみチェック、
そしてどこまでも清潔さを追求するその姿勢。

話には聞いていましたが、幹部候補生がどのように海軍のスマートさを
身につけるのかという教育の一端を垣間見ることができたような気がします。 

そしてそれがひとしきり終わると、幹事付アルファ(もしくはブラボー)は、
幹部候補生としての彼らが幹事付から受ける、真に最後の命令をこう発しました。

「皆、かっこよくいけよ!」 

「はい!」

 

そして一瞬の静寂が訪れました。
この後、壇上の来賓が入場してきて、いよいよ式典の開始です。

 

 

続く。 

 

 

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第67期幹部候補生 第69期飛行幹部候補生卒業式@江田島

2017-03-19 | 自衛隊

ここでお話ししたように2月、幹部候補生学校で行われた部内選抜の卒業式に行きました。

前回の部内選抜の卒業式では、一般幹部の卒業式の式次第と全く同じ、
表門から出港して旅立っていくのも同じらしいことを実際に見たわけですが、
形式は同じでもやはりそこはそれ、部内選抜と一般では色々と違ってくるはず。

今回それを見届けるためにも、第67期一般幹部候補生及び
第69期飛行幹部候補生課程の卒業式が行われる1日前に、わたしは呉入りしました。

 

今回卒業式参加が決まってからすぐにホテルの確保にかかったのですが、
2ヶ月以上前だったにもかかわらず、駅前の呉阪急ホテルはもちろん、全ての宿泊施設は満室状態。
そこで、カード会社のデスクを通じてようやく呉ステーションホテルを押さえました。

後からわかったのですが、呉阪急ホテルには卒業生の家族、自衛隊関係者だけでなく
卒業式に来賓を賜るかしこきあたりの方がお泊まりになる予定だったため、
随行含めてワンフロア貸切とかになっていたのだと思われます。 

夕方に空港バスで駅前まで到着したので、ここでわたしがノルマとしている
海自カレーのシール集めの作業を粛々と行いました。

呉阪急ホテルのレストランで出している「うみぎりカレー」です。 
自衛隊のレシピを見るとうみぎりのカレーは野菜のトッピングが特徴、
となっていますが、ここで出しているのは半熟卵のトッピング。

卵がカレーと別添えになっていて、これがカレーの辛さをマイルドなものにしていました。 

 

明けて次の日。

カーテンを開けると、ビル越しに呉駅が見える部屋から
珍しくお天気の心配の全く要らなそうな晴天が広がっているのを確認。

お迎えの車がホテルの前まで来てくださることになっていたので、
自衛隊のことだから約束の5分前には来ているであろうと考えたわたし、
海軍5分前の精神にのっとり、さらにその5分前に下に降りました。

ところが、わたしがロビーにおりた時にはもうすでに5分前には到着していた様子の車が
しっかりとホテル前に停車していたのです。 

自衛隊の集まりでは、階級と反比例して5分ずつ到着時間が早くなっていくので、
最先任と一番下では下手すると30分近く来る時間が違う、という噂は
もしかしたら本当なのか?と思った瞬間でした。

 

本日の参加にあたっては、わたしごときのために、呉地方隊よりぬきの
アテンド係が配置されており、その方が車で迎えに来てくださっていました。
階級は大尉、配置は「呉地方総監部のどこか」です。

江田島に向かうのに、なぜかフェリーではなく陸路で行くということで、
兵学校同期会の時以来音戸大橋を渡ることになりました。

今回に限らず、自衛隊が来客を呉江田島まで送迎するのに、
フェリをー使わず必ず陸路で行くことがどうやら決まっているようです。

音戸大橋、早瀬大橋を渡って江田島に入り、能美島を通り過ぎると江田島湾が見えて来ます。
早速牡蠣の養殖筏の向こうに自衛艦が見えて来ました。

「あっ!自衛艦が見える!」

早速声に出してしまうわたし。

「ふゆづきが来てるんです」

おお、わたしがこの目で竣工引き渡しを見届けた護衛艦と再会。
しかし定係港が舞鶴である「ふゆづき」、なぜここに? 

「今日卒業する飛行幹部が乗り込みます」

卒業生は表桟橋から帽ふれで旅立ち、そのまま航海に出発する、というストーリーで
海軍時代から行われて来た卒業式のクライマックスであるので、
航海に出るわけではない飛行幹部といえども艦に乗り込まないわけにはいきません。

かといって、一般幹部と一緒のフネでは降りるタイミングが難しいので、
飛行幹部の44名(くらい)だけを乗り込ませるために「ふゆづき」を使うようです。

それでもなぜ舞鶴からわざわざ「ふゆづき」が来ているのかはわかりませんでしたが。

「ふゆづき」からは内火艇(でいいのかしら)が海面に降ろされています。
これは幹部たちを乗せるためのボートで、今その準備をしているんですね。

後甲板にはSHらしきヘリがいるのも飛行幹部たちを乗せるからに違いありません。

右手には「はるさめ」のお尻らしきものが見えています。 

というわけであっという間に江田島に到着。

控室は前回の隣の部屋で、すでに到着していた団体がありましたが、
その一人はご挨拶したことのある元海将補でした。

控室で開式まで時間を潰しても良かったのですが、せっかくなので
少し生徒館の周りをまわってみることにしました。 

中央の階段を上っていった正面の部屋が校長室です。
部屋の外側のテーブルは、おそらく帽子置きではないかと思われます。

向こうが副校長室。
いずれも昔はなかった電光掲示板は

在室・校内・校外・出張・衛生・一術高・通庁・会議中・電話中

の該当部分にランプが点く仕組みで、この時には在室中でした。

上の東郷平八郎の額は「機先を制する」という意味の「制機先」。
ドアのない生徒館の吹き抜けにあるせいか、墨が退色しているような・・・・。 

ここで写真を撮っていると、来賓らしい男性が一緒にいた大尉に話しかけて来ました。

「ここは海軍兵学校の時のままなの?」

「近年改装されてドアや壁は新しく変わりましたが、床は昔のままですよ」(なぜかわたし)

「いやー、親父が行ってたちゅうから一度見たい思うてたけどやっと来れたわ」

校長室の右隣は応接室、その反対側、階段を上がって左には先任海曹室があります。

階段ホールの脇から階下を覗き込むと、例の「同期の桜」があります。
一般幹部候補生の卒業式の時には咲いているのだろうか?と前に書きましたが、
見たところ蕾はあるものの、まだ少しかたい感じでした。

桜が咲くのはきっと入学式の頃ですね。 

一階に降りて中庭を歩いてみることにしました。
これは階段のちょうど裏側出入り口になります。
当然ですが、ここにもドアはありません。

生徒館全体を艦に見立てているというのがその理由なのですが、
ここにまたそのポリシーを表すものを発見しました。 

艦艇で時間を知らせるために使われていた時鐘がここにあります。
感覚を候補生に覚えさせるために、時鐘を鳴らすのだということですが、
実際にこれが日常的に鳴らされているのかというと、よくわかりません。

現代の護衛艦にはどこかしらに時鐘が備えてあるのですが、昔と違って
時間を知る方法は他にいくらでもあるので、本来の使われ方はしません。

じゃー、何のためにあるのかっちゅうことなんですが、艦名を刻み、
フネのシンボルとか装飾という面が強いのではないかということです。

例えば艦が退役した時には、これは必ず取り外されますが、
同時に防衛省に返還することが決められているそうです。
時々、自衛隊の資料館で退役艦の時鐘を見ることがありますね。

ここがあの正面玄関の真裏になります。
先ほどの時鐘は白い柱の真後ろに隠れていて全くここからは見えません。

こうしてみると、窓枠の形や、出入り口周りのレンガ積みに
デザインの工夫が感じられます。 

この上部辺ですが、これ、どうやってレンガを積んだんでしょうか・・。

「同期の桜」の枝越しに臨む生徒館。

こんなところで過ごす幹部候補生の生活はさぞ過ぎ去ってみれば懐かしく、
幹部自衛官は例えばこの赤煉瓦を見るとノスタルジーにかられるに違いない。

とわたしたちは(特にわたしは)思ったりするのですが、さにあらず。
この日アテンドしてくださっていた大尉殿も、

「わたしもできればここには来たくないくらいです」

お、おう・・。
してその心は。 

「あまりにも訓練がきつかったものですから」 

この日現地で偶然ばったりお会いしたあの!みね姉さんも、幹部たちは皆
同じようなことを言っている、と証言していたので、
このきつさというのは相当のものなのだとこれからも推察されます。

 幹部候補生学校の卒業式というのは、今日からは
「号令をかけられる側からかける側に」なる日であると同時に、
昨日までの過酷な(それこそ、ここに来るだけで気分が重くなるくらい)
訓練の日々に別れを告げることのできる瞬間です。

防大生や候補生が理不尽に見える圧迫やきつい訓練に耐えるのも、
実際に起こりうる任務遂行上のいかなる理不尽にもたじろがないためであり、
過ぎ去ってみれば、それが自衛官として血となり肉となっていることは
何より本人たちが、その後の自衛官人生で実感するものなのでしょうが、
それでもやっぱり特にまだ若いうちは、ここでの日々は
拭いがたいトラウマとなって残るものなのかもしれません。

赤煉瓦のちょうど後ろにこのような校舎があります。
よくある学校の校舎のような佇まいですが、これもまたかなり古い建物となります。

構内の掲示板にも抜かりなく注意。

「一時の誘惑 一生の後悔」という薬物防止ポスター、
「NO!!破廉恥」というセクハラ禁止ポスター、交通マナー啓蒙ポスター。

皆部内で募集したらしい作品です。
 

こちらはどちらも警務隊の隊員による力作。

ロッカーの中身の貴重品や大切なものを悪の手から守る
君にしかできない方法がある。
それは鍵をかけてしっかりと管理する、ただそれだけである。

んなたいそうな。
ものを盗ろうとしているモンスターが自衛官の制服を着ているのがポイント。


右側は萌え風交通安全ポスター。 

左の情報保全キャンペーンポスターは官品らしいです。

先日、自分の艦のマークを強権的に猫入りに変えた猫好きの艦長が、
転勤した今度の艦でも同じこと(すでにあるマークを猫化)をするらしい、
という話がその猫デザインの新しいマークと共に回ってきたのですが、

今回江田島で、その話をすでに皆が知っているらしいことを知りました。

「人に見せないように」の添え書きと共に画が回ってきたとき、
わたしが見た時点で、人に見せるまでもなく、もうかなり広まっているのでは?
と思ったのですが、やはりこのポスターでも啓蒙されているように、
一人に漏れた時点でそれは30人(それってゴキブr)には広まるものなのです。
30人が一人ずつに漏らし、さらにそこから900人に広まり、そして・・・・ 

 

右側、「子供の成長は早い」

自衛官は子育てに参加できる機会が少ないと言われます。
例えば航海から帰ってきて
しばらくぶりに見たら、子供が別の生き物になっていた、
というのはよくあることで、それもまた宿命というべきお仕事ではありますが、
このポスターはせめて
男性職員も育児休業を取得しよう、という呼びかけです。

しかし実際くださいと言って簡単に取れるようなもんなんですかね? 

あちこちに黒板がかけてあります。
まるで学校みたい。って学校か。 

定期点検、課業更新、観閲行進の整列についての指示が書き込まれるようです。
上は日の出と日没、月齢、下はよくわかりませんが潮の満ち欠けでしょうか。

そういえば、兵学校で潮の引く時間を計算して海岸から無断外出し、
大問題になったのだけど、教員が、

「潮の満ち欠けを計算してことに及んだのは、海軍軍人としてはなかなか」

とか言い出し、あまり怒られなかったという話を聞いたことがあります。

左側に書かれていたこの「JANE'S」とは、ジェーン年鑑のことでしょうか。

「最後の大放出!!練習航海のお供に如何? 予定者学生も大歓迎!」

さりげにセールスしてますがそういうものなのかしら。

こちらは教育参考館を裏から見たところです。
昭和11年に建築されたというのに、このモダンさは・・・・。

どこを調べても増築されたとか改築されたという話が出てこないのですが、
これは基本的に当時のままの建物なんでしょうか。 

学生の人数の割に広大で校舎も多いのですが、これは全員がここで寝起きし、
生活もする場であることから当然かと思われます。
グラウンドの向こうの建物はほとんどが学生の生活する部屋です。

前回、わたしたちはここの4階にある食堂での午餐会に参加し、
どうやら今回もここでお弁当をいただくことになるようです。

朝起きたらここで乾布摩擦を行うのでしょうか。
グラウンドの奥には、船のマストと同じものに信号旗が翻っています。


ここで過ごした厳しい1年の生活に本日別れを告げる卒業生たちは、
今や大講堂で幹部に任官される瞬間(とき)を今か今かと待っている状態。

そのあと彼らは表桟橋からここを巣立っていくのです。

 

さて、それではそろそろ彼らの待つ大講堂に向かうことにしましょう。

 

続く。 

 

 

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潜水艦「せきりゅう」引き渡し式〜帽ふれ

2017-03-18 | 自衛隊

「帽ふれ!」

掛け声がかかりました。
艦上の艦長、副長(ドックマスターはそのまま)始め
乗組員が全員で帽ふれを行います。

岸壁から艦体は離れていきますが、これは主に
曳船が索で引っ張っているようでした。

音楽はいつのまにか「ロングサイン」=蛍の光に変わりました。

艦尾側甲板に立っている乗組員が横断幕を広げ始めました。
「ふゆづき」の時には三井造船の社員が「ふゆづき」の乗員に見えるように
横断幕をあげるという感動的な場面が見られたものですが、今回は
なんと潜水艦側が「ありがとう」のメッセージです。

これがせきりゅうのマークですか。
珠をを握った赤い龍に漢字のロゴが入っているのがポイントです。
星4つは何を意味するのかな?

これは紙に描かれたようですが、こういうのも乗組員が制作するんでしょうか。
初々しい雰囲気の海士くんたちがこれを持っているのがいいですね。

艦長と副長の帽ふれにも注目してみましょう。
ドックマスターはこの場所から写真を撮っているようです。

そして、旗竿の一番左には「長旗」があるのに気がつきました。
「長旗」は指揮官旗のひとつです。

指揮官旗とは、連隊旗含む部隊旗と違い、部隊でなく指揮官に授与されたもので、
離着任式の際を含む指揮官の移動時には、必ず同行することになっています。

つまりこれが揚げられているということは、

艦の最先任指揮官が艦長であること
そして艦長が艦を指揮していること

を示します。
艦隊司令が乗り組まない場合はこれが揚げられるということになりますが、
たとえ艦隊司令が乗っていても潜水艦の場合は最先任指揮官は艦長であるはずなので、
潜水艦にはいつもこれが翻ることになる・・・・ってことでいいですか?

艦尾側の人たちも帽ふれ、
インカムの人は振らなくてもいいようです。

フィンの上の出港ラッパを吹いていた二人も帽ふれ。
体につけた安全索を後ろのバーにつないでいます。

艦体が滑り出して、初めて「せきりゅう」という艦名が見えました。
これは今日だからこんな風に書いてあるんですよね?

「せきりゅう」の下の穴は海水取り込み&排出口?

その時「帽戻せ」の声がかかり、一番左の人が
横断幕部隊に「もういいぞ」と声をかけたようです。

今回初めて舵を見ることができました。
というか、艦体全部が岸壁を離れて姿を現したという感じです。

あれ?曳船にはやっぱり三菱のマークがあります。
でも船体に描かれているのは「MITSUISHI」・・・・。(´・ω・`)

「三石丸」という三菱製のタグボートだったのでしょうか。

全部で三隻の船が寄ってたかって「せきりゅう」を引っ張っています。
潜水艦の出港の場合のタグボートのやり方は特殊なので、
三菱重工の船がこちらも兼業でやっているのかもしれません。

ちなみに、日本のもう一つの潜水艦造船所である三菱重工業も
同じ神戸にあります。

反対側のフィンには造船所の技術者が乗っていたことが判明。

この角度から見るセイルはスッキリしてステルス性バッチリって感じです(小並感)

三方向からうまく引っ張りながら押し出して行くと、
小さな船が潜水艦に近づいてきました。

真後ろから見た「せきりゅう」。
その時、今一度「帽ふれ」の声がかかりました。

デジカメしかバッグに入れていなかったので、これらを
望遠レンズで撮れなかったのはとても残念です。

小さな船は艦体を押しています。
大きな曳船ではできない微調整を行なっているようです。
艦尾付近を押しているので、これから右側に曲がるのを手伝っているのでしょう。

はい、右を向きました。

 

小さな曳船は後ろをずっとついていきます。
この後狭い港内を抜けるのに、手助けをするためのガードでしょうか。
 
 
「せきりゅう」の姿が浮きドックの向こうに消えてしまうまで、
皆は岸壁で見送りました。
 
「皆の前で沈んでくれるかと思ったのに。急速潜行!って」
 
「上に人乗ってるままでそれはない」

潜水艦が沈むところはいわゆる一つの軍機に類するものなので、
一般人の目には止まらないところで潜行するのだと思いますが、
果たしてこの後狭い瀬戸内海をどうやって呉まで行くのか、「せきりゅう」。 

ああっ、見届けたい。
 
 
 
というわけで、川崎重工業神戸工場で行われた潜水艦「せきりゅう」の
引き渡し式のご報告を終わります。
参加にあたってご高配賜りました呉地方総監部の皆様、心よりお礼を申し上げます。
心ばかりのお礼の印として、「愚直たれ」をステマさせていただきました。
 
 

ともかく、次に呉に行った時、潜水艦桟橋で艦番号「508」と再会するのが楽しみです。

 

おまけ*

神戸空港のロビーになぜか展示してあった

「カワサキか・・・・・」

 のニンジャ。

 

 

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潜水艦「せきりゅう」引き渡し式〜出港用意

2017-03-17 | 自衛隊

さて、潜水艦「せきりゅう」引き渡し式は、艦長が最後に乗り込んで
いよいよ出港の瞬間(とき)を迎えることになりました。

艦長が乗り移った瞬間、出港のための作業が始まります。

まず、潜水艦前にクレーンの陰で控えていた造船会社の人々が颯爽と登場。

ラッタルを外す作業に取り掛かりました。
まずスロープ部分の連結を外してここを撤去します。

ちなみに、左部分の独特なヘアは、在日米軍からの出席者の
奥様ではないかと思われるアフリカ系の女性です。

カメラを持った女性は川崎重工のカメラ担当のようです。

同時に潜水艦側でも作業が行われていますが、
潜水艦の方は索でどこかとつないでいる程度であっという間に終了。

なんと、ラッタルそのものが垂直に持ち上がりました。


 

クレーンで吊ったまま掛かっていたラッタルを、そのまま持ち上げて撤去。
潜水艦の桟橋はほぼ間違いなく桟橋側に設置してあるはずですが、
こんな斬新な?設置&撤去ができるのも造船所ならではです。

ラッタルが持ち上がったことで、わたしのところからは
初めて潜水艦のハッチが見えました。

ラッタルの索を今から「せーの!」で投げようとしています。

皆が固唾を飲んで?見ている中、両側につけられた索を
下から操作して、ラッタルが90度動いて艦体と平行になりました。

こちらスロープお片付け隊。

下からラッタルの向きを索で操作する係。
カメラマン二人は呉地方隊から派遣された人たちです。

実はこの右側の海曹は、あの!「愚直たれコンテストポスター部門」で
メラメラと燃え盛る呉地方総監をあしらったポスターをデザインし、
見事「愚直大賞」(これもさりげにすごい大賞名だわ)を獲得した人です。

授賞式の写真を見て、それが呉地方隊のイベントの時にカメラマンでお見かけする
この海曹さんであるのを認識していたのですが、
今回式終了後に岸壁ですれ違ったので、
お声がけしてみました。

「愚直たれポスター部門で作品を採用された方ですよね!」

「え?・・・あ・・・・はあ」

思いもかけないところで突飛なことをいきなり言われ、
海曹さんかなり面食らった様子。

「あれ、良かったですよー!評価してます」

 

ちょうど先日、コメント欄で「その後の愚直たれ」について
鉄火お嬢さんの疑問に答える形でお節介船屋さんに教えていただいたので、
コメント欄を読んでおられない方のためにここにも書いておくと、

●呉地方総監の指導方針から生み出されたオリジナルタレ、「愚直たれ」
を使ったメニューが
今月27日から呉市内の9店舗で提供されることになった

●「愚直たれ」はカレー味がベースで香辛料のガラムマサラなどが加えられた
ぴりっとした辛みが特徴の調味料で、これまで隊員が利用する食堂でのみ提供されてきた

●呉地方総監からは「認定証」が店に対して授与される

●NHK広島で報じられることにより、これからヒットする予感←今ここ

ちなみに、お店に授与されるポスターとしては、さすがに池総監の顔がどーん!
炎メラメラー!という愚直大賞受賞作品も如何なものか、ということにでもなったのか、
至極穏当な、呉地方総監部の建物に旭日模様があしらわれたものに変わっています。

NHK広島ニュース WEB 

ここでは動画も見られますので是非。

まだもやいはかかったままですが、潜水艦の場合は 
水上艦ほど出港作業にいろいろな作業をしなくても良さそうです。

このとき空中に持ち上がったラッタルは、岸壁と平行に動き始めました。

岸壁の手前の黄色くマークされた一段高いところは
「クレーンのレール」であることがこのとき判明しました。
クレーンは今からラッタルをぶら下げたまま右手に移動するようです。

 

この間に、艦首側にいた乗組員は曳船との間で
もやいの受け渡しを完了した様子です。

あれ?曳船は「MITSUBISHI」じゃなくて「MITSUISHI」だった・・。
やっぱり川崎重工に三菱の船は来ないよね。 

岸壁のレールを移動して行くクレーンの後方に、大きなバスケットゴールみたいなものがありますが、
これは何をするものなのでしょうか。 

艦が停泊時に掲揚しておく艦首旗は、出港ラッパの吹鳴と同時に
降ろされることになっています。
旗を後納する係の乗員が索の先をもう握って待機しています。

ぴー、ぴー、ぴー、と音を出しながらゆっくりとクレーン移動中。
皆の視線はクレーンに釘付け状態です(笑)
クレーンが移動し終わったらすぐさま出港するつもりのようです。

そして・・・・。

♪ドミソドー、ドミソドー、ドミソドッミソッソソーーーーー(移動ド)

出港ラッパが埠頭に鳴り渡りました。
この瞬間、艦長と副長はセイルの上にいます。
水上艦では艦橋横のウィングに当たるのがここなのでしょう。 



さて、今一度潜水艦艦長の具体的な資質というものについてお話ししておきます。
リーダーシップという言葉で表される統率力、組織を管理する能力以外には

操艦術、運行法、艦を知悉し機能の改善を図れるレベルの知識、
戦術立案の確かさ、緊急時に対処することができること。

これらが備わっていないとなりません。
なんどもいうように、潜水艦はそれそのものが一国一城の治外法権?的艦船であるという
特殊な面を持ち合わせており、それゆえに指揮官たる艦長は

乗組員全員の命と艦の運命を左右する判断と責任をが全て個人で負うことになります。

これに見合うだけの能力は、最低でも幹部学校卒業後、
20年間の訓練と経験がないと身につくようなものではありません。 
したがって、潜水艦艦長は大体40代前半で就任することになります。 

「はくりゅう」の艦長がまだ30代で「日本一若い艦長」だと
乗組員が誇らしげに言っておりましたが、こういったことを考えると
彼がいかに優秀な人物であったかということがわかりますね。

サインもらっとくんだった。

艦首旗後納係は旗のお片付け、甲板上ではもやいを外す作業が一気に行われます。

呉音楽隊の演奏する行進曲「軍艦」が再び始まりました。

「出港いたします」

というアナウンスと同時に、来客は岸壁に降りました。
テントの下にいるときにどこからともなく回ってきた日の丸の旗を手に手に持っています。

「ふゆづき」の時には国旗と自衛艦旗が一人にそれぞれ1本ずつ配られたんだけどな・・。

ドックマスターも一緒に航海に乗組むようです。

「せきりゅう」は 第1潜水隊群第5潜水隊に編入されることになり、
呉に向けて航海を行います。

ここ神戸から出港して呉にいくためには当然のことながら
瀬戸内海を航行していくことになろうかと思いますが、
気になったことが一つ。

瀬戸内海というのは物理的に潜水艦が潜行することができないらしいのです。 
どんなに深いところでも水深が30mでなおかつ小さな島が多く、
下手すれば座礁してしまうのだとか。

そもそも、潜水艦は沈むのが商売なので、水上航走は大変危険なのです。
操縦位置からは全く外が見えないので、操舵員は発令を頼りに操縦します。

最新型の「そうりゅう」型も、艦橋の見張所からの監視情報、
そしてレーダーの情報を総合して操舵員に指示が出されるのはおなじ。
しかし潜水艦の艦橋からの目視による見張りは精度が低くなります。

おまけに潜水艦は基本目立たないようにするのがお仕事。
ということは他の艦から視認しにくく、レーダーにも映りにくいため、
特に夜間の水上航走は大変危険なのです。

というわけで、この後「せきりゅう」は神戸から淡路島の外側を廻り、
四国のさらに外側を潜行していくのではないかと思ったのですが、
どなたか本当のところをご存知ありませんか。 



続く。


 

 

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潜水艦「せきりゅう」引き渡し式〜花束贈呈

2017-03-16 | 自衛隊

川崎重工業株式会社本社での祝賀会が終わり、
バス三台で移動した一行はもう一度岸壁に戻りました。

パイプ椅子がひな壇のようにテントの下に並べられていた観覧席からは
椅子が取り払われ、ここからあとは立っての見学となります。

「せきりゅう」の後ろには、まるで壁のような大型船の艦腹がそびえ、
そこに記された川崎重工のロゴが式典の背景になって見えます。

これは、他のドックや建造中の艦船を一般人の目とカメラから隠すため、
意図的に大型の艦船をここに繋留したのではないかと推測されます。

もしかしたら、もう就役していない船を目隠しがわりに置いているのかも・・。

式典の間は、この船の舷側から海自の女性カメラマンが動画を撮っていました。 

来客が揃い、式執行者や防衛副大臣が入場してくるまでは
艦上起立して待っている乗組員たちの様子も「普通な感じ」が漂います。
姿勢は崩しませんが、会話をしているらしく顔がほころんでいたり。

この日は式典が始まった時からしばらく小雨がぱらついていたのですが、
彼らは岸壁で客が入る前から起立して待機しており、
その後も乗艦に至るまで身じろぎもせずにいたわけですから、 
こんな様子を見ると ホッとします。

フィンの上、セイルの頂上にも乗員がすでに待機。

おそらく副長と思われる人と一緒に立っているのは川重の社員。
進水から海上公試、そして今日の竣工に至るまで、
おそらく乗組員と造船会社の技術者は密接な関係を築いてきたのに違いありません。

副長は何もつけずに立っていますが、川重の人はハーネスに命綱をつけています。 

艦首側の甲板にも9名人がいます。
前回書き忘れましたが、「総員乗艦」の時にラッタルを渡る人数を数えたら
艦長を入れて63名でした。
「そうりゅう」型の乗員は定員65名となっていますから、式典の間艦内は
全くの無人ではなく、艦内に2名が残っていたことになります。 
(『せきりゅう』の乗員が63名である可能性もありますが) 

岸壁でも川重の関係者が出港のための準備に余念がありません。

 

午前中にはおそらく隊員の家族が座っていたテント席には、
作業服を着た工事関係者が集まっています。

彼らにとっても今日は手塩にかけて創り上げた潜水艦が
晴れて巣立っていく記念すべき日。
おそらくこの方達も今朝は送り出す我が子にしっかりやれよと声をかけ、
お昼にはちょっとした祝いの席を持ってこの場にいるのではないでしょうか。

会場全体図。
こちらにカメラを向けている方は、カメラマンではなく来賓の対応をする係。

「式典の間写真は禁止ですが、そのぶんわたしが皆さんの写真をお撮りしますので」

と言ったからにはこうやって式典の間中写真を撮りまくるのがお仕事です。

それはそうと、岸壁と艦体を繋ぐラッタルが上からクレーンで吊られているのに注意。
クレーンは左に見えている緑のが本体です。 

最初は普通に会話もしていた乗組員たちは、客入れが終わり、
式典の開始時間が近づくにつれてお仕事モードに切り替え中。

ところで一番左にいる、多分海曹長は左に「せきりゅう」と書いた赤い浮き輪と
蛍光色のロープをずっと持っています。

潜水艦の上から人が落ちた時のため?

潜水艦の艦体はほぼ円形なので、乗員はカーブの上に立っているということになるわけですが、
いかに滑り止めが施されているとはいえ、手すりはもちろん、揺れを防ぐための
ビルジキールもない潜水艦の艦上が不安定であることには違いありません。 

 

 

ところで、潜水艦の艦体が丸いのは、当たり前ですが水圧に耐えるためです。
「そうりゅう」型は、原子力潜水艦よりも可能潜水深度が深く、
400−600mと言われています。
(最大で600前後は確実という噂もあるが、公表されていないのであくまで状況証拠) 

潜水艦の重要な情報蒐集活動に、海水の温度を測ることがあるのをご存知でしょうか。

これは、水温のの変わる部分が「サウンドレイヤー」と呼ばれる層になっていて、
それが水中音響機器の性能に大きく影響してくるからです。

海中の音波は圧力、水温、塩分、そして海水の密度によって伝播速度が異なりますが、
サウンドレイヤーがあればそれに反射が加わってきます。 

つまり単純にいうと、深く潜れるほど探査されにくいということで、
その点、海底深く潜って潜むことのできる「そうりゅう」型は、
さくっと「被探知防御性に優れている」ということができるのです。

 

深く潜るためには深海の水圧に耐えるだけの構造が不可欠となります。

「そうりゅう」型がこれに優れているというのはまさに
製鋼技術が優れているからこそで、つまり鋼板が強いのです。
補強のために円筒部には「T型フレーム」という補強を施しますが、
その際耐圧殻はほぼ真円でなければいけないのだそうです。 

 

その点日本の艦体を真円に作る技術は大変優れていて、潜水艦ほどの大きな
円に対し、誤差が数ミリしかない耐圧殻を作ることができるのです。

一般に鉄の塊を溶接で組み立てた後は、仕上げに「焼鈍」(しょうどん・焼きなまし)
と言って、鋼を適当な温度に加熱して、その温度に一定時間保持した後、
除冷していく処理を行わなければなりません。

溶接の際の内部応力の除去、硬さの低下、加工性の向上のための行程ですが、
潜水艦の場合、これを行うほどの大きな炉がありません。

そこでどうするかというと、公試運転の際に、実際に設計時に計画された
最大安全潜行深度までとりあえず潜ってみるのです。 

これを行うのが艤装艦長率いる潜水艦乗組(予定)者なのですが、
その時には造船所の設計責任者と工事責任者も一緒に乗艦します。

先ほどの写真でセイルの上に立っていたのは、おそらくですが
この工事責任者であろうと思われます。

自分が設計し、工事の責任を負う潜水艦なので何かあっても自己責任ってこと?

などと素人は考えてしまいますが、もちろんのこと真円度の厳密なチェックと
非破壊検査を行い、安全であることをチェックしてから行うので無問題。

とはいえ、やはり初潜行、初スノーケル航走、初深々度潜行など
「初」の際にはどんなベテランでも緊張が走るのだそうです。

 

世界の潜水艦の歴史を見ても、この段階での事故は起こっていませんが、
たった一例、原子力潜水艦「スレッシャー」のドック入り後の整調試験で 、
造船会社の技術者ら民間人を含む乗員全員が死亡したという事故があります。

原因は設計ミスで、 海水配管システムが溶接ではなく銀によるろう付けで、
そこが破損したことによるものといわれています。
 

一旦事故が起こると全ての人員が失われる潜水艦の安全対策は
どこまでも完璧なものでなくてはいけません。 

その点は、日本の戦後潜水艦は「冗長性(redundancy)」を持たせ、
重要なシステムに二重三重のバックアップがなされているのです。

さらにはその先の最悪の場合にも備え、潜水艦救難艦と救難装置は
自衛隊が最初に「くろしお」をアメリカから貸与された頃から
早々と研究されてきました。

今では海上自衛隊の救難技術は世界でもトップクラスです。


単なる私見ですが、海軍時代の第6潜水艦沈没事故のトラウマが
日本の潜水艦思想における安全性のたゆまぬ追求への原動力となっている気がします。

来客のエスコート&アテンドは広報が行うことが多いようです。
この広報の二佐も終始大変お忙しそうでした。 

出港は1430ということになっております。
出港時間が近づくと、右手後方にいた川重の工事関係者と自衛官家族の団体が
前に出てきました。

さりげなくこの団体の中に元海幕長も混じって立っておられます。 

会場には早くから花束贈呈のために川重の花束三人娘と、
受け取る「せきりゅう」代表がこんな態勢で待たされていました(笑) 
これってなんとなく気まずい状態ですよね。 

そこは最先任の艦長が率先して場を和ませている様子。
さすがは潜水艦艦長、全てに気が効くというか。 

しかし、偉い人たちが入場してくると喋るわけにもいかず、
またこのような向かい合って立ったままの気まずい時間に・・。

お節介ながらさぞお互い目のやり場に困ったのではないかと思われます。 

あれ?海曹長の浮き輪は一体どこへ?
・・・ってことは転落した人用じゃなかったのか・・・。 

いつのまにか潜水艦の向こうに曳船が到着していました。
潜水艦の出港作業・・・上に人が乗ってるから艦体を押したりはしないと思われますが。

わたし「あ、曳船きた」

TO「なぜ三菱の船が」

わたし「あ、ほんとだ。三菱だ。借りてきたとか?」

さて、1420までに再び若宮副大臣が入来し、時間ちょうどに式が始まりました。
若宮副大臣の左は本日の執行者である呉地方総監です。 

早くからお見合い状態で待機させられていた6人は
やっとこの瞬間を迎えることができてホッとしたことでしょう。

自衛艦の引き渡し式の後の出港に当たっては、必ず
艦長、先任伍長、先任士長が会社の綺麗どころから花束を贈呈されます。

川崎重工が「せきりゅう」にちなんだ赤を基調とした花束が
今「せきりゅう」の乗員代表に手渡されました。

受け取った花束を先任伍長に渡して、艦長が出港を報告する敬礼を行います。

そして、出港に向けて挨拶。
最新鋭の「せきりゅう」を生み出した川崎重工への感謝と、
その潜水艦で国土防衛の任につく責任を感じている、というようなことを
力強く、会場に訪れた人々をを見渡しながら語りました。 

「せきりゅう」初代艦長は渡邉正裕二佐
「せきりゅう」引き渡し式のお知らせには、45歳であると書かれています。 

若宮氏に敬礼をすると、艦長はラッタルを渡り、これでいよいよ出港です。

先ほどの「艦長乗艦」の儀式より心もち早足で、
自分が全ての責任において指揮を執る潜水艦へと向かいます。

いつのまにか、フィンの上に立っている二人はラッパを構えていました。

 

 

続きます。

 

 

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潜水艦「せきりゅう」引き渡し式〜自衛艦旗授与式の意義と祝賀会

2017-03-15 | 自衛隊

若宮防衛副大臣の艦内視察は続いています。
自分がハッチを降りた時のことを考えても、どんなに形だけの見学であっても
最低20分はかかるのではないかと思われたわけですが、
さすがに自衛隊、この間を利用して、自衛艦旗とその授与式典の意義を
アナウンスで説明し始めました。 

 

「自衛艦旗は自衛隊に交付された後、海上自衛隊の編成に加える自衛艦、
すなわち護衛艦、潜水艦、掃海艇、補給艦等に交付されます。
先ほど艦尾に自衛艦旗を掲揚した「せきりゅう」は、自衛艦として
海上自衛隊に編成されると同時に、国際的には軍艦と同等に扱われることとなりました。

ここで自衛艦の位置について簡単にご説明いたします。
国際法である国連海洋法条約29条では、

『軍艦とは一つの国の軍隊に属する船舶であって、
当該国の国籍を有する船舶であることを示す外部標識を掲げ、
当該国の政府によって正式に任命されてその氏名が軍務に従事する者の
適当な名簿又はこれに相当するものに記載されている士官の指揮の下にあり、
かつ、正規の軍隊の規律に服する乗組員が配置されているものをいう』

となっています。

すなわち自衛艦旗はこの条文のいうところの
「国籍を示す外部標識」に相当するのであります。

そして、本式典における自衛艦旗の掲揚をもって、
自衛艦である潜水艦「せきりゅう」は、国際的には軍艦に相当する船舶として、
大きな権利と責任を与えられることになったのです。」


「国籍を示す」というからには日本の旗がその役目を果たすのだろう、
と思っている方もおられるかもしれませんが、艦首旗が掲揚されるのは
停泊している時だけであり、出航ラッパと同時に降下されますから、
外洋では自衛艦旗=国籍旗と認識されるのです。

続いて本式典の執行者について。

「呉地方総監部を司令部とする呉地方隊は、広島県呉市に所在し、
東は和歌山県から西は宮崎県まで、瀬戸内海から四国南方までの警備を担当します。
従いまして、ここ神戸を担当警備区に持つ部隊指揮官として、本日は
呉地方総監が式を執行しております」

和歌山県まで呉地方隊の管轄であることは知りませんでした。

そして、「せきりゅう」という名前についての説明です。

「潜水艦の名称は、海上自衛隊の使用する船舶の区分等、
及び名称等を付与する標準を定める訓令において、
海象、水中動物の名前、めでたいことが起こることの前兆とされる動物の
瑞祥動物の名前が付与されることとなっております。

本艦は、そうりゅう型潜水艦の8番目であり、引き続き、
瑞祥動物の名前から選出することになり、
海上自衛隊部隊から募集されております」

やはり艦名は自衛隊内の応募によるものだったのですね。
ちなみに、募集結果を選考し、最終決定するのは防衛大臣となります。

なお、せきりゅうは南方を守る神聖な龍であるとのことです。

「そうりゅう」型は来年竣工予定の「せいりゅう」の後、
3隻が建造されることが決まっているそうですが、
この三隻に「りゅう」のつく名前をつけたら、そろそろネタが
枯渇するということも考慮されているのでしょうか。

わたしが思いつくのは・・・

「こうりゅう」(咬龍 )

「かいりゅう」(海龍)

「どんりゅう」(呑龍)

まずこの三つですが、実際の甲標的だったり重爆だったりするので、
(特に前二つは潜水艦的には物言いがつきそう)

「しょうりゅう」(昇龍)

「しんりゅう」(神龍)

「すいりゅう」(翠龍)

「ひょうりゅう」(彪龍)

「ほうりゅう」(鳳龍)

一つはこのどれかになるような気がします。
(というか制限がありすぎてこれくらいしか思いつかない) 

逆に何があっても絶対に可能性のないのが「ふくりゅう」

こんなことを考えていると楽しくて(楽しいか?)つい
時間の経つのを忘れてしまうので次行きます。

この後、まだまだ続く防衛副大臣の視察の間、呉音楽隊が
「錨を上げて」など、勇壮なマーチを中心に4曲演奏を行い、
人々は一挙に和んだ空気になりました。

そして、大臣が出てきたところで報告があり、午前の式典は終了です。

控室からここに乗ってきたバスにもう一度乗り込むと、
バスはあれよあれよと敷地を出て、湊区の市街を走り出しました。

「工場内で祝賀会しないんだ・・・どこに行くんだろう」

「まさかホテルオークラだったりして」

そんなことを言っている間に横溝正史の生誕地というの横を通り、
バスが留まったのはビルの前。

降りるなり目ざとく「庄や」の看板を見つけたわたしたち。

「まさかあそこで祝賀会をするのでは・・・・」


ここは川崎重工業の本社ビルだったのでございます。
(そして当ビル地下には庄や神戸店が) 

神戸クリスタルタワー。
複合オフィスビルで、兵庫県庁なども入っているそうです。
この写真では分かりにくいですが、ビルの頂上付近には
風水を取り入れて穴が穿たれているデザインなのだとか。

窓ガラスのデザインで『T』の字があるように見えますが、これは
たくさんある施工会社のうち「竹中工務店」の密かな自己主張?

バスを降りると、ビルのエスカレーターで2階の会議場に案内されました。
会議場といってもそこは大会社ですから、まるでホテルの宴会場のようです。

会場前ホールには自衛隊のイベントらしく、帽子置き場が用意されていて、
すでに到着した陸海空の佐官クラス(陸自は将官)の帽子がおかれています。

海自では「カレー」と言い、アメリカでは「スクランブルドエッグ」という
この金の刺繍は、将官になると密になるというのは分かりますが、
佐官は二佐以上となっており、三佐は尉官と同じ模様なしです。

これには何の理由があるんだろうとかねがね思っていたのですが、

「艦長が二佐以上であるから」

ということらしいですね。
いろんな職種がありますが、海自はやはり「フネ」を基準にものを考えるからだとか。

それをいうなら陸自と空自も二佐からカレー付きになると思うんだけど、
それではこちらの理由はなんなのかが知りたい。

祝賀会の途中で出てきたら、帽子置き場が壮観なことに・・。
こうしてみると白の色、マークの金色でさえ皆少しずつ違うのが分かります。

 

会場には金びょうぶと看板が設えられ、コンパニオンまでいます。
式典にはアメリカ海軍の軍人さんらしき人々が私服で参列していましたが、
その人たちの係と思われる外国人(白人系)コンパニオンまで投入されていました。

「いずも」の引き渡し式の時のパーティにもコンパニオンが多数いましたが、
三井造船の時には見たことがありません。

それは会場が歴史的な建物で狭いのと、岡山県玉野という土地柄、
パーティコンパニオンなど調達したくともいないからに違いありません。

挨拶はまず川崎重工業の社長から。

「平成27年11月に進水後、その後の艤装工事、建造工程は順調に進捗し、
昨年8月より実施してまいりました海上公試での各種試験におきましても
ご満足いただける成績を収め、本日ここにめでたくお引き渡しができました」

海上公試というのは、当然のことですが、艤装艦長の元で行われるテストです。
船の性能(潜水艦ですから当然潜行含む)をみる艦船公試と、
軍艦の場合は武器公試が行われます。 

この海上公試という言葉自体、海軍時代からそのまま使われているものです。

なお、金花社長の

「海上自衛隊の最初の国産潜水艦『おやしお』以降、
当社は(確か)29隻の潜水艦を造ってきました」

という言葉が印象的でした。 

そして若宮防衛副大臣。

「このせきりゅうは、探知性能、非探知防止性能の向上により、
広域での情報蒐集、警戒監視や対戦性能など、効果的な遂行が可能となり、
我が国の海上防衛に大きく寄与するものと確信しております」

若宮副大臣は「せきりゅう」の命名進水式で名付けを行い、
この度の自衛艦旗授与式にも出席したことになりますが、
これは同一政権下でも目まぐるしく総理大臣が代わってきた
日本では大変珍しいことなんだそうです。

長期政権となって歴代3位だかになったという安倍政権ですが、
こんなところにも余波があったということなんですね。

乾杯はシャンパンで。

JMUや海自の宴席のように刺身の舟盛りはありません。
しかしさすがは神戸、この組み合わせに中華のお皿(キクラゲやエビチリなど)が
紛れ込んでいて、それが案外イケました。

手前、川崎重工業社旗。

TO共に、まず呉地方総監池海将にご挨拶後、
村川海幕長に改めてご挨拶させていただきました。

村川海幕長には幕僚副長時代に地球防衛協会の会合であいさつし、
一緒に写真も撮っているわけですが、今回改めて、
池総監がわたくしどもを海幕長にご紹介くださいました。

それはいいのですが、

「こちらは(わたしのことね)ブログをやっておられまして・・・自衛隊の」

って総監!いきなり何をおっしゃいますか!
(一応夫婦の間ではわたしのブログはないことになっているので
TOはその間横で地蔵になっておりました)
 
ともあれ、当ブログはついに海幕長のお耳にまでその存在が達したことになります。

お開きの時間となったので、皆岸壁に戻るバスに乗り込みました。
川崎重工のPRコーナーがあったので、一応撮っておきました。
川崎重工業は、水素を 

−253度の超低温で作り

1/800の体積に縮小して運び

1000立方メートルのタンクで貯めて

100%水素発電をして使う

エネルギーとして使用する時にCO2を排出せず、さらには
いろんな物質から生み出すことのできるクリーンエネルギーとして 
注目されている水素のサプライテクノロジーを研究しています。 

カワサキワールドなる企業ミュージアムのご案内。

新幹線(本物)やバイクが展示されていたり、鉄道模型の走行会が催されたり、
なかなか科学少年少女には楽しいスペースではないかと思われます。

そこで初めて知ったのですが、今回たまたま写真を撮ったこれ、

ここがどうやらそのカワサキワールドらしいことが判明しました。
オレンジの救命艇はその関係だったのかしら。 


 
おまけ* クリスタルタワー向かいのヘーベルハウス展示場に金の象像が。



さて、またしても同じバスに乗り込み、神戸工場に戻りました。
バスガイドが持つような「幕僚なんとか」と書かれた小さい旗を掲げて
歩く自衛官に先導されて岸壁に戻りました。
(後ろでヒソヒソこの旗のことを話していると、振り向いて
『これ、このためにわざわざ作ったんですよー』・・かわいい///)

すると「せきりゅう」の上には、出港準備を整えてライフジャケットを着け、
リラックスした様子で並ぶ乗員たちの姿がありました。

 

続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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潜水艦「せきりゅう」引き渡し式

2017-03-14 | 自衛隊

3月12日、神戸は川崎重工業株式会社において、
自衛艦「せきりゅう」の引き渡しと就役の式典が行われました。
ご招待いただいて出席してまいりましたのでご報告いたします。 

「せきりゅう」は「そうりゅう」型潜水艦。

蒼龍雲龍白龍剣龍瑞龍黒龍仁龍

に続く8番艦となります。

通常動力型(原子力を使わないタイプ)としては世界でも
トップクラスといわれる日本の技術力の結集である「そうりゅう」型。

潜水艦の保有数が22隻と決められている日本では、毎年一つのペースで
潜水艦を調達しており、今年もまた一つ、自衛隊に引き渡されたわけですが、
ますます厳しさを増す近海の防衛のために、仮想敵国(もはや仮想じゃない?)
の海軍も恐れる「そうりゅう」型、しかも日進月歩の最新機材を搭載した
潜水艦が防衛に加わることは、我々にとっても頼もしい限りです。

後になるほど細部がアップデートされていくため、先年見学した「はくりゅう」も
「せきりゅう」から見れば古い部分があるということです。
さらには、3代後の11番艦は進化を遂げ、1番艦とはほぼ中身が別というくらい
大幅に性能が変わってくるという話です。

 

ところで名前のことを言うと、せきりゅうとは赤い龍で、
色としては蒼白黒赤と4色が揃ったことになります。

「今後色ものが出るとしたら・・・きんりゅう?」

「ラーメン屋みたいだからそれはない」(断言)

今回のイベントは日帰りにしたため、羽田神戸往復をスカイマークで取りました。
スカイマークが初めてなら神戸空港を使うのも初めてです。

ガルウィングの先にハートマークが!

離陸しました。
東京湾の「風の塔」(アクアラインの換気塔)が沖に見えます。

そしてわずか1時間ちょいで神戸に到着。

空港で発見した神戸のゆるキャラらしきもの。

「なにこの手抜きな感じ」

「ねえ、この続きどうなってると思う?」

「おたまじゃくしみたいににょろーんってなってたら嫌だな」

そんな会話をして通り過ぎたのですが、実態は予想を上回っていました。

神戸ー関空ベイシャトル、イメージキャラクターキャプテントビー

うーん・・・そうきたか。

タクシーの中から神戸税関の建物を見かけて。
神戸生まれの神戸育ちであるわたしにとって、
小さい時から見慣れてきた懐かしい光景です。

この辺りも昔とは随分変わってしまいましたが、古い建物は
変わらず残してくれていて、嬉しくなります。

海岸ビルヂングはカフェになっている模様。

神戸郵船ビルは大きいサイズ専門のブティックに。
その辺を歩いているのも日本人じゃなかったり。

あの地震でもほぼビクともしなかったビルです。

こちらは「海岸ビル」。「海岸ビルヂング」とは別です。

商船三井ビルディング。

東京の丸ビルがなくなってしまった今、大正期の大型オフィスビルで
現存する日本で唯一のものとなっています。
現在修復工事が行われているようですね。

これらのビル群は近代化産業遺産に指定されています。

おまけ。
玉ねぎかな?

さて、式典まで少しだけ時間があったので、途中のホテルオークラ神戸で
朝ごはんを食べることにしました。

私ごとですが、実はこのホテルには懐かしい思い出が(〃'∇'〃)ゝ 

神戸の市章をつけた警備艇が走っています。
震災の時この辺一帯の岸壁は壊滅的に崩れてしまいましたが、
慰霊のための鐘や、メモリアルを備えて復興し現在に至ります。

オークラのティールームから見える遊歩道になにやら潜水艦のようなものが・・。

そして案の定ここで食べたものなどをアップしてしまうのだった。
朝ごはんに温野菜メインのセットがあるなんて、神戸オークラ最高。

さて、少し早めにタクシーで現地入りしました。
造船会社の内部は写真が厳しく禁じられていたりするので、
ここでとりあえず一枚だけ。

紅白の受付台に向かって歩いて行くと、途中にこのような碑がありました。
同じ筆跡で明治29年起工、明治35年竣工とあります。

川崎重工業の神戸工場第1ドックのドック壁だったんですね。 

2007年にドックの役目を終え、現在は当時の形のまま「埋め戻して」
保存している(それを保存と言うのなら)ということです。

第1ドックが111年の歴史に幕 

受付を終えると、建物の中の会議室に通されました。
ほぼ一番乗りとなりましたが、この後続々と人が来て
この椅子が満席になるくらいになりました。

「いずも」の時に比べると人数も少なく、やはり艦艇の大きさで
来賓の数も随分違ってくるものだと思いました。

さて、この後時間になったらバスで岸壁まで向かい、
岸壁に繋留された「せきりゅう」とその前に整列している乗組員の前で
紅白の垂れ幕のかかった観覧席に座り、待つことしばし。

約30分で引き渡し式が始まったのですが、この間の撮影は禁止。
待合室で他の方が自衛官と話をしているのを聞いていたら、

「みんなが写真を撮ると収拾がつかなくなりますので」

とその理由を説明していました。
「ちよだ」の進水式の時と同じです。

確かに、出航の時には写真が許されていたので皆がそれぞれ
スマホを出して撮ったりしていたのですが、中には
ものすごい連射音の出る機種を持っている人がいて、

「こんなんだから写真禁止になってしまうんだなあ」

と心から納得したものです。

式開始にあたっては、防衛副大臣である若宮けんじ氏がまず
儀仗隊の閲兵を行いました。

引き渡し式は実質5分です。
川崎重工業の社長が

「 潜水艦せきりゅうをお引き渡しいたします」

といい、引き渡し書を渡すと、

「潜水艦せきりゅうを受領しました」

と受け取った防衛大臣(代理)が言って、終わり。
ちなみに引き渡し先は「防衛大臣 稲田朋美殿」でした。

続いて自衛艦旗授与式が行われました。
防衛大臣が自衛艦旗を艦長に渡すと、艦長はそれを受け取り、
列に戻ると副長に渡すのです。

この時に奏楽されるのが、そう!「海のさきもり」です。

1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり 

 

わたしは「ふゆづき」の引き渡し式、「いずも」の引き渡し式に
参列するという栄誉を得ておりますが、いずれの場合もこの自衛隊儀礼曲は
音楽隊によって歌なしで演奏されるのみでした。

ところがここ最近、「海のさきもり」そのものが
演奏会でも歌付きで取り上げられる機会が増えてきて、さらに少し前から
自衛艦旗の引き渡し式で奏楽されるときには、
三宅三曹の歌が加わるようになって来たなと感じていたのですが、
この日は三宅さんではない女性歌手が堂々とこの歌を歌い上げました。

彼女が歌い出した途端に

「こんな上手い人が呉音楽隊にいたの?」

と驚いてしまったのですが、後から聞いたら中川麻梨子士長でした。 
まさか横須賀音楽隊から来ているとは思わなかったので・・。

「海のさきもり」が終わると、乗組員乗艦です。
自衛隊旗を片手で掲げ持った副長を先頭に、軍艦行進曲に乗って
岸壁に整列していた乗組員が紅白のラッタルを渡って乗艦しました。

潜水艦ですので、「いずも」「ふゆづき」のように時間はかからず、
軍艦も最後まで行かないうちに全員が艦上に整列を終えました。

 

そして、艦長乗艦。

サイドパイプの

ホーーーー、ヒーーーーー、ホーーーー、 

ホーーーー、ヒーーーーー、ホーーーー、 

が鳴り響く中、艦長が乗り込みます。

男と生まれ(とは最近では限りませんが)海上自衛隊に入ったら、
艦長として万座の注目の中、こうやって自分の潜水艦に乗り込む瞬間は
自衛官冥利につきるというか本望というか・・・・、
とにかくどんなにか高揚することであろうと他人事ながら胸が熱くなります。

特に潜水艦の艦長というのは、「はくりゅう」の見学の時にも書きましたが、
常に単独行動を取り、海中においては司令部と通信することもできないので
全ての判断を一人で行うという重責を担っています。

ですから、決断力、判断力を複合した統率力はもちろんのこと、
自分の艦を知悉し技能も併せ持っていることが求められるのです。

そもそも体質的な適性もさることながら、実技、筆記、後述試験を受け、
狭き門をくぐり抜けてさらに実地教育で絞り込まれた、
生え抜きでないと潜水艦には乗れないわけですが、さらにそのなかで
艦長になるというのは、とにかく凄いことだとしか素人には思えません。

 

さて、続いて若宮防衛副大臣が執行官である呉地方総監、
そして防衛省の人々と乗り込み、自衛艦旗を「君が代」に乗せて掲揚します。

艦首には日本の旗の形をした日の丸もいつの間にか揚がっているのですが、
こちらは護衛艦的には「識別旗」という位置付けなので、
こういう場合には自衛艦旗を国歌に乗せて揚げるということが優先されるのです。


続いて防衛大臣訓示。
いつものような出だしの後、若宮氏はこのように続けました。

「我が国を取り巻く安全保障環境はますます厳しさを増しています。
北朝鮮は度重なる弾道ミサイル発射と核実験を繰り返しており、
3月6日には4発もの弾道ミサイルを発射しました。
北朝鮮の一連の行動は我が国及び地域の安全保障に対する
明らかな挑発行為であり断じて容認できません」

「中国は東シナ海や南シナ海で力を背景にした現状変更の試みなど
高圧的とも言える行動が我が国の安全保障上の懸念ともなっています」
 

つまりそういう中、戦略的にも敵の大いなる脅威となる潜水艦の皆さん、
国土防衛を自分が担うという気概で頑張ってください、という感じです。

この訓示で面白いなあと思ったのが、

「フネの伝統は初代の乗員がつくると言われます」

という一言でした。

日本の潜水艦の基礎というのは、戦後初の潜水艦であった
「くろしお」(実はアメリカのガトー級ミンゴ)の最初の乗員が作り、
それが現代にも継承されているらしいと最近思ったことがあったのですが、
またこれについてはいずれお話ししたいと思います。

 

そして防衛副大臣は訓示の後、なんと潜水艦の中に入っていってしまいました。
あのハッチを降りて艦内を視察するのですから、これは何分かかることやら。

すると、みんなの心の声があたかも聞こえたように、
来場の人々に向けて解説が始まりました。

 

続く。

 

 

 

 

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海上自衛隊資料館〜厚木航空基地見学記

2017-03-12 | 自衛隊

在日米軍基地見学記、最終回です。

在日米海軍基地見学は午前中で終わり、基地内で昼食後は
海上自衛隊のターミナルにある資料館を見学させていただきました。

 

資料館に入ると、大きな当基地の俯瞰模型がまず現れます。
赤いプレートの部分が海自の建物で、先ほどエプロンに出たのは
この写真でいうと赤い印より下の建物からです。

案内の人は、これを見ながらまず基地の全容について説明をしてくれました。

赤い線で囲まれたところが基地の敷地となります。
この基地は大和市と綾瀬市にまたがっており、その名の厚木市とは
全く接していないので、なぜこうなったかにも諸説あるのですが、
案内の自衛官(喋るのが得意でこの仕事一筋みたいな人)によると、

完成当時、飛行場は

「高座郡大和村・綾瀬村・渋谷村」

の境にあったが、「大和」「綾瀬」「渋谷」どれを取っても
他に「本場」が存在する地名だったため、いっそどれでもなく
他に有名な地名と重ならないのが無難だということになって

厚木村の厚木が採用された、ということでした。

ところで、この日のアレンジをしてくれた防衛省の方が、

「あくまでも都市伝説ですが」

と断った上で、厚木基地の地下には坑道と地下工廠がかなりの規模であって、
どこか遠くまでつながっているということをおっしゃっていました。

その「どこか」については諸説あり、横須賀だったり皇居だったり。
(ちょっとそれは遠すぎるだろうという気もしますが)
実際に地下に通路があったのだけは間違いないようです。 

厚木航空基地は昭和17年に海軍が建設した飛行基地です。
昭和19年に第302海軍航空部隊が横須賀から移転してきて、
「本土防衛における日本最強の戦闘部隊」と言われていました。


第302空は、首都圏を主に夜間爆撃に来る爆撃機に挑み、
各地に隊員の派遣も行なっていました。

本土を防衛する主力である陸軍にも、第302空ほどの戦力、
そして威力を発揮した部隊はなく、最後まで戦意は衰えることはありませんでした。

しかしながら、南方から物量に任せて次々と飛来し、
1万mの高高度から爆撃を繰り返す米軍の前に、
自らの操縦技術だけで立ち向かわなければいけなかった彼らは
重責に苦しみながら終戦を迎えることになりました。

彼らの後ろにいるのは、雷電21型であろうかと思われます。

その雷電のモデルがガラスケースの中にあったのですが、どうもこれ、戦時中のものみたいです。
説明がないので由来はわかりませんでした。 

第302空の零戦隊長、森岡寛(ゆたか)大尉についての記事。
森岡大尉については「わたしたちは負けていない」という題で
左手の義手でスロットルを握るその姿を絵に描いて記事にしたことがあります。

第302航空隊の夜間戦闘機隊「月光」隊。

ご存知(ご存知ですよね?)小園安名中佐が発案した「斜め銃」
搭載の夜間戦闘機、「月光」を乗機とする夜戦部隊で、
高高度の敵には苦戦しましたが、ルメイが照準爆撃のために低空で
Bー29を飛行させるようになってからは、
この斜め銃によってかなりの戦果を上げることができました。 

現存している「月光」は案の定日本ではなくスミソニアンにあるそうですが、
ここに部品だけが残されて展示してあります。 

前縁(ぜんえん)スラットと言われましてもどこのことかよくわからんですが、

主翼の前縁に張り出しを設け、キャンバーを大きくして揚力を確保する一方、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぐもの。(航空辞典)

だそうです。
つまり主翼の前縁の張り出し、ってことだと思います(いい加減) 

写真展示の下にはガラスケースがあり、パラシュートや物入れが納めてあります。

スチール製の行李のような作り。
金属部品を入れていたのでしょうか。 

プロペラのマークが入っているので、航空部品が入っていたのだと思いますが、
その名も「火星内部用具」。

「火星」って、なんか他に意味ありましたっけ。 

パラシュートの横の木には墨でなにやら書かれていますが、
経年劣化と写真のピンボケのせいで()「第八分隊」がかろうじて読めるだけです。 

金属の腐食が進んでいる爆弾。
こちら側の航空機の写真は紛失しました(´・ω・`) 

第302空は何人もの伝説のパイロットを生みました。
遠藤幸雄大尉は「月光」で一晩に5機のB29を撃墜したこともありました。

迎撃待機中の第302航空隊。雷電みたいですね。

そして終戦。
この厚木に降りて来る瞬間の自分の姿を、マッカーサーは
計算しつくしていたと言います。

ところが、こんな有名なシーンなのに、ここが実際にどこだったのか、
今の基地のどこに当たるのかははっきりとしていないのだそうです。 

敗戦となり、全て処分された海軍基地の飛行機。
「零戦燃ゆ」という映画を思い出しますね。 

そして海上自衛隊が生まれ、自衛隊旗が採用された時の写真。
この写真は有名ですが、この人物が誰かがわかりません。

彼の足元(靴を脱いでいる)には、「防衛大學校」「防衛廳」と
いずれも旧字体で書かれた紙があり、これらは
それぞれの門に掲げる表札のための書ではないかと思われます。 

ここから先は、自衛隊の活動についての写真が掲示されていましたが、
見学時間のほとんどを入ったところの説明で終わってしまい、
あとは急いで行くつか写真を撮るだけに留まったのは残念でした。

これは南鳥島のヤシの実。

南鳥島は戦前からアメリカと領有を巡って事件があったりしましたが、
戦時中は何度も空襲を受け、戦後はアメリカの軍政下にあり、
その後返還されて、現在は 飛行場施設を管理する海上自衛隊硫黄島航空基地隊の
南鳥島航空派遣隊や気象庁(南鳥島気象観測所)、
関東地方整備局(南鳥島港湾保全管理所)の職員が交代で常駐しています。

最近は高濃度のレアアースが発見されたことでもニュースになりましたね。 

海自の救命装備品。

包帯、ガーゼや止血帯はもちろん、右側の緑のものは航空機用の救命糧食5食分、
その左の銀色パックのものは一食分ずつの救命糧食です。
カロリーメイトみたいなものでしょうか。 

展示場には大きなパネルを引き出すようになっていて、そこに海上自衛隊の
各制服が一体ずつ展示されていました。

制服の展示というと、マネキンを置くしか見たことがありませんが、
これなら場所を取らずに全ての制服を見ることができます。 

やっぱり夏の水兵さんの制服はいいですねえ。
デザインとして完成されきっているという感があります。

ところで、冒頭の写真は、この坂井三郎氏の揮毫した書が米海軍から
海上自衛隊に寄贈された時のものです。

零戦パイロットとして戦後日米に有名だった坂井三郎氏が、
2000年に米軍に訪れた時に寄贈した「努力は勝利なり」の書を、

「我々が持っているよりも多くの日本人に見てもらうべきである」

と考えた前基地司令パーカー大佐が、海自に書を譲渡しました。

坂井氏はこの書を寄贈した米軍主催の夕食会の直後、体調に異変を感じ、
運ばれた病院先で死亡しているので、おそらくは氏がこの世で書いた
最後の文字ではないかと言われています。
 

 

かと思えばこのカオスなポスターも健在。
サンダーバードと自衛隊のコラボシリーズ。

サンダーバードが戦っていたのは災害というよりは地球の敵、
地球外生物のミステロンだったんすけどね。 

というわけで、全ての行程を終えて海自を後にしました。

左は米軍との連絡係をしているという1等海尉、右側は
自他共に認める「しゃべくりのうまい」資料館で解説してくれた海曹。

お二人のおかげで、大変楽しく充実した見学をすることができました。
ありがとうございます。

 

米軍基地シリーズ終わり 

 

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米海軍基地で昼食を〜在日米海軍基地見学記

2017-03-11 | アメリカ

在日米海軍基地見学記、続きです。

滑走路で航空機を見学し終わり、「エア・ターミナル」と名付けられた棟を
司令官の敬礼に送られて後にしたわたしたちは、車で基地内を移動しました。

明かり取りの三角屋根がついたこの建物が、基地のレストランです。

広い基地なのでレストランはいくつかあるのだと思われますが、
ここは隣にゴルフコースがあるので、クラブハウスのように使われているようです。

大きな岩には字だけでなく基地のマークまで彫り込まれております。 

最近できたように真新しい感じのするスチール製のベンチにもマーク。
富士山に鳥居、そして航空隊を表す翼が盛り込まれたデザインです。

この基地は、かつて帝国海軍が、主に帝都防衛の拠点として1938年に着工、
1942年に完成したものです。

完成が戦時中であったとはいえ、石灯籠があり松の木を築山に植えた
池を作る余裕はあったのに違いありません。 
しかし、この松の剪定方法は、いわゆる普通の日本庭園にある松とは
シェイプが微妙に違うという気がしないでもありません。

そういえば、カリフォルニアの富豪の造った庭の木が、
こんな感じに刈り込まれていたような記憶があります。

 

戦時中、ここは東京に最も近い海軍の航空拠点となっていました。
厚木海軍航空隊、大東亜戦争後期には防空隊である302空が開隊し、
このブログで一度取り上げたこともある森岡寛大尉がF6Fとの戦いを行い、
終戦時には有名な小園少佐の「厚木事件」が起こったところでもあります。 

まるでゴルフコース付きのホテルのショップみたい。

わたしは全くゴルフには不案内なので通り過ぎただけでしたが、
お店に入り、基地のオリジナルデザインのティーやゴルフボールを
たくさん買い込んでいた同行の方もおられました。

支払いはドルでなければカード、日本円はお釣りが出せない(ので使うな)
ということでした。 

レストランの入り口には今月のメニューが掲示されています。

フランクとは牛のわき腹から切り取った切り身のこと。

その下のソールズベリーステーキとは、我々日本人が「ハンバーグ」と呼ぶ
ひき肉を寄せて焼くあの料理とほとんど同じようなものです。
発祥がはっきりしていて、ソールズベリー博士という医師が、
炭水化物をカットするダイエットのために考案したとかなんとか。

「adobo」も「caldereta」もタガログ語で、アドボはマリネした肉を焼いたもの、
 カルデレータはルソン島の料理で、フィリピン風のビーフシチューといったところ。

アメリカにはフィリピン人の労働者がヒスパニックほどではありませんが多く、
ここのキッチンにもフィリピンからの労働者が多く働いているのでしょう。
そういえば山口の海兵隊基地のレストランのウェイトレスもフィリピーナでした。

英語が喋れる彼らにとって、在日米軍基地は魅力的な職場なのでしょう。 

食堂の一番奥には会席用の別室があり、わたしたちはそこに通されました。
白地に赤いランナー、青いナプキンで星条旗カラーの食卓が用意されています。

ここでランチをいただくんですね。 

いくつかみたことのある自衛隊基地とは装飾の点で段違いにお金がかかっていて
かつ飾っているものも一味違っているといいますか。

この大きな額にはアイヌの民族衣装(年代物)がプレスされて入っています。
「アットゥシ」 と説明がありますが、これはアイヌ語で

オヒョウニレ(att)の木の皮(rusi)

という意味だそうです。
北海道のアイヌが作っていた樹の皮でできた衣です。

ちなみにアイヌは部族によってはサケなどの魚皮をなめしたものも
衣服にして着ていたそうです。

窓の外はまさにゴルフコース。
ここが軍基地であることが信じられない眺めです。

グーグルアースの基地をこうやって見てみると、飛行場に沿って
住宅地と基地を隔てるようにゴルフコースが作られています。

結構広大なコースで、昔は森林であったところを切り開いて
全てゴルフ場にしてしまったらしいことがわかるのですが、在日米海軍としても、
異国で暮らす在留軍人の気晴らしのために必要な施設だと考えてのことだったのかも。 

在日米軍内にはレストラン、バー、ショッピングセンターはもちろんのこと、
映画館、ボウリング場などの遊技場を備えているのが普通です。
その気になれば基地を一歩も出なくてもすむのです。 

テーブルセッティングはされているものの、食事はみなさんと同じようにバッフェ式で
自分の好きなものを好きなだけとることになっていました。

前述のメニュー表によると、この日のメインはレモンチキンステーキと例の
ソールズベリーステーキとなっていましたが、あくまでもそれは「メイン」で、
肉と言ってもビーフ、チキン、ポークと選択肢があります。 

 

ランチバッフェは大人が8ドル95セント、子供が4ドル25セント。
食べ放題でスープ、サラダ、デザートも種類がふんだんにあるランチが
1000円くらいで毎日食べられるのだからなかなかリーズナブルです。 

個室の外側もインテリアは普通のレストランと全く変わりません
いくつか見たことがある自衛隊の隊員食堂とは随分趣が違います。

敷地内はどの施設も利用可らしく、海自の自衛官がご飯を食べに来ていました。 

アメリカの街角にある、コインを入れるとドアが開けられる仕組みの
ニュースペーパースタンドの中にはスターズアンドストライプスが。

どちらもここでは無料となっています。

昼ごはんを食べたら移動です。
次の予定は、海上自衛隊の資料室を見学させてもらうことになっています。

歩いて行く途中に黄緑色の消防車が停まっていました。
アメリカでは消防車は絶対に赤でなくてはいけないというわけではないようです。
大抵は赤ですが、都市によって赤以外の色を採用する消防署もあり、
特に空港では夜間でも目立つ蛍光ライムグリーンの車体を使うこともあります。 

ここには普通に赤い消防車とライムグリーンがどちらもあります。

米軍施設内には当然のように結構な規模の消防署があります。
下総の海自航空隊基地には海自組織の一つである消防部門がありました。

ここに勤務する消防士たちの身分は海軍の軍属ということになるのでしょうか。
それとも自衛隊のように海軍軍人?

 

海上自衛隊のビルディングも「エアターミナル」でした。

この入り口で案内をしてくれる自衛官が出迎えてくれました。
全般的な案内は米軍との連絡係をしているという士官で、
内部についての歴史を含めた説明をしてくれたのが年配の自衛官です。

同友会というのは自衛隊協力会の一つだったと記憶します。
その会長が作ったという戦艦「三笠」のフルハルモデル。

自衛隊資料館はこのターミナル内にあり、大変充実したものでした。
あの「ポセイドンの涙」、そして「永遠の0」 のポスターがあります。

ポスターがあるということは、自衛隊が撮影協力をしたのでしょうか。

ちなみに、テレビ版の「永遠の0」撮影には、水交会を通じて
実際に零戦に乗っていた搭乗員が取材協力を行なったそうです。

ターミナルの二階はガラス窓を通して滑走路がよく見えました。

面白かったのは、米軍側にいた時には、

「ここから自衛隊機は撮らないでください。米軍機なら構いません」

だったのに、自衛隊側に来ると、

「ここから米軍機を撮らないでください。自衛隊機なら構いません」

と言われたことです。
誰かがそれを指摘すると、

「そこは大人の事情で・・・」

ということでした。
どっちもダメってことなのか、どっちもいいってことなのか・・・

大人って、難しい(笑)

 

続く。

 

 

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