ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「潜水艦搭載型スタインウェイ」〜ロンドン潜水艦隊博物館&図書館

2017-06-27 | アメリカ

 

ニューロンドンのグロトンは昔から潜水艦基地がありますが、
もともと潜水艦を作る工場ができ、そのうち基地ができたというもので、
世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」もここで生まれここから南極に出航し、
遡れば多くの潜水艦が日本と戦うためにここを出発していったのです。

さらには、最初の潜水艦ホランド型はここで生まれたものですし、
最初の潜水艦的な武器であった「ブッシュネルズ・タートル」も、
こコネチカットで最初に実験が行われました。 

というわけで、ここが「潜水艦発祥の地」であり、「潜水艦のふるさと」
であることは間違いがないところでしょう。

そこにある「潜水艦博物館」は、まさにアメリカの潜水艦史を知るための
国内でも随一の資料が 網羅されているといえます。

そんな潜水艦博物館の展示に触れながら何回かお話ししてきましたが、
いよいよそれも最終回となりました。

今までのエントリに積み残した展示も含めてご紹介していきます。

ここにあるからには潜水艦だと思うのですが・・・なんだっけ(笑)

アメリカ最初の潜水艦「ホランド」型の時代のここグロトン。
自分の開発した潜水艦のハッチから上半身を乗り出すホランドの姿も見えます。

その後も潜水艦の開発は続きました。ってことで、技術者たちの写真。

潜水に関わる各種道具。

一番大きいのは「マッカン・ダイビング・チャンバー」と言い、
1930年に、沈没した潜水艦の乗員救出のために作られました。
一度に8人の男性を数百フィートの深さから持ち出すことができます。

1939年には、ニューハンプシャーの海岸に沈没したUSS「スクワラス」(SS-192)
から33人の生存者を救出するために使用されました。

左の縦長のケージは、JFK専用特製エレベーター

1962年、大統領ジョン・F・ケネディは海軍を訪問し、このときに
 UST THOMAS A. EDISON(SSBN-610)に乗り込んだのですが、
JFKはエジソン、じゃなくてアジソン病という持病で脊椎に問題を抱えていましたので、
その乗り降りを少しでも容易にするために、海軍はわざわざ
潜水艦に乗り込むためのこんなエレベーターを作ったのです。

おそらく潜水艦のハッチの上部に備え付け、ラッタルを降りなくても
下まで行けるように工夫したのでしょう。
頂上には索を取り付けるための輪がありますので、おそらく
中空からロープをかけてJFK一人を乗せ、ゆっくり下ろしたに違いありません。

そのために海軍は恐ろしく面倒な会議と製作のための会合を重ね、
何度もなんども予行演習を繰り返したのだと思われます。

こんな迷惑な準備までさせても、ポラリス弾道ミサイルを視察することは
当時のアメリカ大統領にとって大事なことだったということでもあります。 


ついでに言いますと、原潜「トーマス・A・エジソン」もまた
ここニューロンドンのゼネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社の生まれ。


英語のwikiページに、出どころこそ明らかでないものの、わたし的に
お?!と思う情報があったので蛇足ですが書いておきます。

「建造時、艤装艦長の要請により艦内にスタインウェイのピアノが搭載された。
このピアノは、彼女が廃艦になるまでの22年間(1961から1983)ずっと艦内にあり、
核抑止パトロールを行うアメリカ海軍のの潜水艦に
これまでに搭載された
史上唯一のフルサイズのピアノとなった」



スタインウェイのフルサイズピアノが搭載できるくらい、当時の潜水艦は大きかった?
という話なのですが、残されているピアノの現物を見ると、フルサイズちゃうし。
これはフルサイズではなくアップライトといいますねんで。(なぜ関西弁)


それはともかく、当然JFKも視察に入った時このピアノを見たはずです。 

彼は幼少時、兄のジョセフ共々ピアノのレッスンを受けており、
ボストンの彼の生家にはそのピアノが残されていたという話ですが、
二人とも何かと理由をつけてやめてしまったとか。(男の子にはよくある話ですね)


きっとJFKは艦内のスタインウェイに目を見張り、

「僕もピアノ習ってたんだけど嫌でやめちゃったよ」

などという話を披瀝したのではないでしょうか。 

潜水艦に搭載する魚雷各種。

上の緑色のはMk.37魚雷
1956年から10年間にわたり配備された電動推進式の魚雷です。
圧縮空気で撃ち出すより発射音を大幅に軽減しました。

その下の黒いキャニスターは、Mk49機雷
機雷原に敷設して航過する船を爆破する感応式機雷です。 

上の緑はMk48魚雷
先ほどの37魚雷の後継型で、これは初期の1972年ごろのタイプです。

1988年からは能力向上型のADCAP型が配備されており、
現在もアメリカ海軍の潜水艦の主装備となっているというもの。

下の白はSUBROC、サブマリン・ロケットです。

核弾頭搭載の潜水艦用対潜ミサイルで、冷戦用に開発され、
1992年までには全て退役しました。

発射後は水中でロケット・エンジンに点火、そのまま水中から飛び出して上昇し、
超音速で飛行して目標付近に到達したら弾頭を分離・投下します。
弾頭は核爆雷として機能し、設定深度において爆発するという仕組みです。

上はMk14魚雷
第二次世界大戦中に潜水艦で使用された標準的な魚雷です。

当初不具合が多く、命中しても爆発しないことで有名になった魚雷で、
例えば 油槽船第三図南丸(19200㌧)は、ガトー級潜水艦の「ティノサ」
魚雷12本を発射・命中させて爆発したのが1本だけであったとか、
5本当てて皆不発であったという説もあります。

前線から魚雷不発の報告が相次いだため、ティノサ艦長のダスピットは、
米海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツに直訴して改良を求めたとか。

くだんの第三図南丸は、不発魚雷を船体に突き刺したままトラックに曳航されたのですが、
その姿がまるで髪にかんざしをつけた花魁のようだということで、

「花魁船」

と呼ばれたということです。

おーい、アメリカさん、バカにされてますよ〜〜。

これは何かと言いますと、ここに実物のある世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」
中を見学してその詳細をここでもお話ししましたが、実際に見ることができたのは
この写真でいうとちょうど中央の区画から前の部分だけです。

後ろの部分にはリアクターがあるため、公開しないのだと解釈しました。

「ノーチラス」のマニューバリングルームで機器を触らしてもらっている
リチャード・ニクソン大統領(当時)。
マニューバリングルームは、それこそリアクターとエレクトリックジェネレーター、
エンジン、プロペラの動きをコントロールするところです。

「ノーチラス」の当時のギャレーだということですが、実際の見学では
このような広いギャレーは見なかったように思います。

キッチンにはテレビがあり、今何やら放映されているようです。 

 

さて、第二次世界大戦の頃の資料とは少し離れた部屋に、
冷戦時代からの潜水艦の資料などが主にパネルで展示されていました。

これは原子力潜水艦SSN 「ピッツバーグ」のバナー。
「ピッツバーグ」はやはりグロトン生まれで、まだ就役中です。

それにしてもこのマーク、なんというか。
いかにも艦長か幹部が趣味で描いて、その権限で有無を言わさず決めた、
みたいなアマチュアリズム溢れるデザインです。

・・最近我が自衛隊にもそんな話があったような気がするぞ。


アメリカの軍艦のマークには、こういう内輪の作品みたいなのが実に多く、
下手にプロに頼むより多少下手でも仲間が描いたのがいいよね!
みたいな感じで採用しているパターンなんだろうなと思います。 

昔から潜水艦は自らを「掃除人」と称してきたものなのですが、
誇らしげに潜望鏡に箒を二本刺して母港に帰ってきた例。

「任務(掃除)終了!」

ここにはその時の箒が寄付され(笑)展示されています。

上に立っている乗員がかっこいいのと、アンテナに
「FURUNO」の文字が見えた気がしたのでアップにしておきます。

アメリカでもこんな昔からこれ使われたんですか・・。
兵庫県西宮市が本社だそうで、 そういえばJRに乗ると見えていたような・・。

なんか小さい時から見覚えのあるロゴだと思ってたらこれだったのか。 

さて、第一次世界大戦、第二次世界大戦と冷戦における
潜水艦戦の概念などを表したパネルもありましたが、それは省略。

弾道ミサイルの飛距離を表したこの世界地図がなかなか面白いですね。
「ポラリス」「ポセイドン」、そして「トライデント」と
だんだん可能な飛距離が伸びているのが一目でわかります。

ここに書かれているトライデントはすでに廃止になった「I」であり、
現行のトライデント II の射程はもっと伸びているということにご注意ください。 

ちなみにII の射程距離は推定値 6,000海里(約11,112 km)以上。
って言われてもねえ・・・・。

サンディエゴから撃ったら北朝鮮まで届く感じ? (適当)

これは、弾道ミサイルポラリスの実験を見るJFKの後頭部。

JFK「はえ〜〜」

時に1963年、発射に使われた潜水艦は SSBN-619「アンドリュー・ジャクソン」
( 第7代アメリカ合衆国大統領)でした。
(船乗りにはあまり評判のいい大統領ではありませんでしたが)

この時JFKは軍艦の甲板からこれを見学しています。

この前年、先ほど紹介したエレベーターで「トーマス・A・エジソン」に乗り込み、
ポラリスミサイル搭載の潜水艦を初めて見学したJFKは、
この時初めて実際の発射を見たということになります。 

前にもお話しした「フォーティワン・フォー・フリーダム」の写真ですが、
最初のSSBNは16基のポラリスミサイルを搭載しており、
そのミサイルチューブは右のようになっていました。

このミサイルチューブは「シャーウッドの森」と呼ばれていたそうです。

シャーウッドの森→ロビンフッド→弓の名手→ポラリスは的を外さない

ってことでしょうかわかりません><

 

さて、それでは「41」の一つである USBN−635「サム・レイバーン」
が、ミサイルチューブの蓋でいかにも海軍らしい自己主張をかましてくれているので、
これをご紹介してシリーズを終わりにしたいと思います。

皆様、コネチカットに行かれることがあれば、ぜひこの博物館の見学をオススメします。 

B E A T  A R M Y・・・・・。

あんたらの敵ってソ連だったんじゃなかったのか。


終わり。 


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ガトー級潜水艦 〜ニューロンドン潜水艦隊博物館&図書館

2017-06-26 | アメリカ

ニューロンドンの潜水艦博物館の展示についてお話ししています。

ここの潜水艦基地は、1868年に、コネチカット州が海軍にテムズ川沿いのの土地を
基地建設用地として提供したことに始まりました。
4年後の1872年、海軍工廠が設置されましたが、小型船が停泊するくらいで、
ほとんど開店休業状態が続いていました。

産業の衰退を懸念した地元議員の働きかけにより、閉鎖を逃れたグロトンの工廠は、
その後第一次世界大戦の勃発を契機に海軍初の潜水艦基地となります。

1912年には、海軍初のディーゼルエンジン式潜水艦、
 USS E-1 (SS-24)

が就役しましたが、その指揮をとったのが、チェスター・ニミッツ大尉でした。

博物館内に設置されていた映画館ではエンドレスで潜水艦隊の歴史を放映していましたが、
このディーゼル第一号潜水艦の時に出てきたニミッツの
海軍兵学校時代の写真を思わず撮影してしまったわたしである。(〃'∇'〃)ゝ

1916年、潜水艦基地として恒久化されると同時に、
海軍潜水学校も併設されることになります。

右上の写真は、わたしが間違えて車で突っ込んだ潜水艦基地の
ゲートと同じところにあると思われます。

潜水艦は第二次世界大戦の時に大量に建造され、この潜水艦基地の
最盛期というくらいたくさんの潜水艦がここから生まれましたが、
戦争終結とともに潜水艦隊は大幅に縮小され、多くの殊勲艦もお蔵入りとなり、
大戦時の潜水艦隊の大半は、1960年代初めにはスクラップとして売却されました。

潜水艦基地が再び脚光を浴びるのは、原子力潜水艦「ノーチラス」の建造以降。

現在は5隻の攻撃型原潜の母港となっており、重要な潜水艦造船所である
ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボートが隣接しています。

かつての潜水学校での一コマ。
模型はガトー級潜水艦でしょうか。 

グロトンに駐留する全ての士官と乗組員は、訓練を受けるか、攻撃原潜に乗艦するか、
新造艦の就役準備作業に従事しています。

また、潜水艦学校に所属する乗組員候補生は、最初に8週間の基礎課程で
海中生活の厳しさを(たぶん)嫌っ!!!というほど叩き込まれるのです。

それでは、今日は展示をいくつか紹介していきます。


説明がなかったのですが、初期の潜水艦救助のためのマスクだと思われます。
ディズニーシーの「海底二万マイル」のデコレーションみたいですね。 

サブマリン・メッセンジャーブイです。

当時の潜水艦は緊急時、沈没位置を示すためにリリースできるブイを搭載していました。
通常ケーブルで潜水艦の一端に接続されていたブイには、
生存者との通信に使用できる電話も含まれていました。

歴史始まって以来のサブマリナーたちの姿をとどめた写真の数々。
バスケットボールチームの名前は「サブズ」だった模様。

左の下は賭けでもしているのでしょうか。
先日ご紹介した映画では、水兵たちが禁止されている賭けをしているのを知って
艦長が「今から後ろに行くぞ!」といってやめさせるというシーンがありましたが、
潜水艦生活においてはこういう気晴らしを禁じるというの禁じるというのも
酷なので、お目こぼししていたのかもしれませんね。

さて、中央部分には大変大きなガトー級潜水艦の模型が天井から吊ってあります。
それを中二階の真横から眺められるという仕組み。

これはガトー級1番艦の「ガトー」SS-212で、モデルは50フィート、
15mもある巨大なものです。 

「ガトー」はここグロトンのエレクトリック・ボート社で建造されました。

模型の船殻は窓がくりぬかれていて、中の様子がわかります。
まず、一番前の部分は、前部魚雷発射管。
バラオ級潜水艦の前部発射管室は「パンパニト」「ライオンフィッシュ」と見学しましたが、
ガトー級は次級のバラオと艦体の大きさは95mで全く同じなので、
おそらくこの部分もほぼ同じ作りだと思っていいかと思います。 

ズボン一丁で待機している人がいるのでアップにしてみました。
それにしてもこの模型の精密さ!

前部ですから、ここでくつろいでいるのはおそらく士官たちでしょう。
階下にある黒いボンベは何でしょうか。

 

テーブルで語らう士官、自室で本を読む士官・・・。

士官は暑くても服を脱ぐなという暗黙の決まりでもあったんでしょうか。
このころの潜水艦は士官室だけクーラーを効かせるのも無理だったはずですが。 

ブリッジの真下を「コニングタワー」と言います。
コニングタワーは司令官のバトルステーションであり、艦の各所に
連絡を取り情報が集まってくる中心でもあります。

士官はここから潜望鏡で海上を監視し、ソナー、レーダー、そして
電気関係を操作します。
トルピードデータコンピュータ、TDCもここで扱います。

甲板の上には20mm機関砲が搭載してあります。

このころの潜水艦には潜望鏡が二つ、昼用と夜用に用途を分けて搭載してありました。

展示で説明されていた日中の魚雷攻撃。

夜間は潜望鏡が役に立ちません。
最初に潜水艦が搭載したレーダーは能力に限りがあり、
基本目視で敵を確認しなければなりませんでしたが、後述する「SJ」が
1942年8月に導入されてからは、敵艦の状態が把握できるようになり、
夜間の攻撃も可能になりました。
 

アタックセンター。

海面探索用のレーダー、『SJレーダー』が全ての潜水艦に普及したことと、
日本軍の潜水艦がレーダーを搭載していなかったことは、
太平洋でのアメリカ潜水艦の活動を大変容易なものにしたと言われています。

SJレーダーの距離情報、方向情報は大変正確なもので、海面だけでなく、
低空飛行で近づく航空機の情報も得ることができました。

通信機器として使用することもでき、群狼作戦(ウルフパック)と言う
デーニッツが開発した潜水艦の共同作戦などでは、ポイント・トゥー・ポイントで
2潜水艦間での連絡を取り合うことができたと言われます。

 

うーん・・・なんというか、これは日本は勝てませんわ。
これでよく時々敵潜水艦を攻撃して勝てたものだと逆に不思議なくらいです。

アタックセンターの見取り図。

1、操舵スタンド 2、ブリッジへのハッチ 3、チャートテーブル

4、コントロールルームへのハッチ 5、潜望鏡1 6、潜望鏡2

7、FCパネル 8、レーダーマスト 9、TDC 10、ビルジ

11、排水管 12、海図庫 13、ロッカー

ギャレーとその横の調理室。
唯一身につける半ズボンは一応全員お揃いで支給品である模様。
今気づいたのですが、全員スリッパというかサンダルなんですよね。

アメリカ人のサンダル好きはこんなところにも?現れています。

科員の寝室。
だいたいどんな潜水艦も、居住区に対して三段のベッドを作るのが標準。
(大きな艦では4段というのもあり)
寝ている二人は何も上から掛けていませんが、暑いので基本
全く必要なかったということなんでしょうか。 

ここで見学した「ノーチラス」のマネキンは、ちゃんと首までシーツをかけて寝ていました。

ところで、ここにも黒いボンベのようなものがあります。
これは、バラストタンク(中央)やトリム(前後)です。

トリム・バラストという言葉は潜水艦には欠かせません。
艦首から艦尾まで、潜水艦の艦内に大きなスペースを占めるのが
バラストタンクです。

一般にバラストというのは船舶における重しのことですが、
潜水艦の場合は、このバラストタンクに海水を出し入れすることで
浮上・沈降を調整する(バラストを増やし沈降することもできる)ことができます。

また、潜水艦はメインタンクの前後に2つのトリムタンクを持ち、
それらの間で海水を移動させることでトリム(上下方向の傾き)制御を行います。

戦争が始まった時、アメリカ海軍潜水艦の潜行にかかる時間は平均で
50秒でしたが、終戦の頃には30秒に短縮されていたと言われています。 

メインの吸気バルブは、ブリッジデッキと外郭の間の上部構造物にあり、
吸気並びに排気も行います。

ディーゼルエンジンの運転には基本大量の酸素を必要とするので 
酸素をダクトとファンで艦内に供給しなければなりません。 

 

万が一のために、乗員の呼吸のためには化学的Co2のキャニスターがあり、
その時には缶から空気が供給されました。

艦内の空気は通常の状態で最大17時間しか保ちませんでした。 

右側の区画はマニューバリング・ルームです。

ここでは機関室の士官と機関科の下士官兵が、コントロールルームからの
指令に従って推進に関わる操作を行います。

ここには、ディーゼルからバッテリーまで様々なスイッチが集中しています。 

 

そして後ろまでやってきました。
後部魚雷発射室。
ガトー級の魚雷発射管は全部で10基ありました。
前部に5基、 艦尾に5基です。

実際に中を歩いて見学してわかることと別に、このような俯瞰で、しかも
立体的な模型を見ると、艦内の様子が非常によくわかります。 


さて、次回、潜水艦博物館シリーズ最終回となります。 

 

 

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掃海艇「つのしま」PAPと懇親会

2017-06-24 | 軍艦

「つのしま」見学の前に、どうしても時事ネタで買いておきたいことがあります。
みなさん、助成金不正受給の疑いが森友学園の籠池理事長が、

「昭恵さんにいただいた100万円をお返しする!」

というパホーマンス(笑)のために、なぜか彼女の経営する居酒屋に、
マスコミ陣を引き連れ、昔の「部長刑事」でも使わない
雑な小道具を持って突撃した映像なり画像、ご覧になりました?

外側を1万円で挟んだ明らかに色の違う紙束、それをあろうことか
カメラの前で出して見せて瞬間偽であることがわかってしまいました。

総ツッコミされて、わざわざ次の日取材をやり直しして、
今度は一晩でかき集めた本物を見せてこっちも持っていたと言ったそうですが、
じゃなんでわざわざ偽物のを方を見せるのよと。

まあそんなことはどうでもよろしい。
わたしがわざわざここに書かなければならなかったことはそんなことではなく、
お札をめくってみせる手元のアップの時に、籠池氏のネクタイピンが写りますが、
それに注目していただきたいのです。

これ・・・・自衛隊からもらったネクタイピンですよね?

わたしは同じブルーに金色の錨マークの入ったピンブローチ、
TOもこれと全く同じタイピンとカフスのセットを持っているのですが、
自衛隊基地の売店で売っているグッズとは違います。

まあ、呉地方総監部からの推薦を受けて防衛省が感謝状を出したこともあり、
籠池氏はおそらくこのタイピンを当時の呉監からもらったのでしょうが、
テレビカメラが入ることも、自分が大写しになることもわかった上で
この人はこの日ネクタイやタイピンを選んできているはずなのです。


結果として籠池氏は事件後、自衛隊も安倍夫人との繋がりも、
畏れ多くも天皇陛下ですら、利用して自分の箔づけにしていたに過ぎないと
全方位から非難されることになったわけですが、この後に及んでもまだ
自衛隊に感謝されていた自分=保守をアピールしたいのかと、
わたしはなにやらこの人物を哀れにすら思えてきたのでした。

逆にいうと、自衛隊もこういう人、自衛隊に感謝されているという
「実績」が欲しくて近づいてくる人が山ほどいることになり、偉い人ほど

「ああまたか」「またこの手の人か」

みたいに感じるものがあったりするのかなとふと思ってみたりします。

 


さて、掃海艇「つのしま」の艦橋と甲板のバルカン20ミリ砲の見学が終わりました。
続いて後甲板に移動です。 

 掃海具がある後甲板より一段高いデッキには、ゴムボートが二段重ねであります。
このボートには、 EODと呼ばれる水中処分員が乗り込みます。

水中処分員はおそらく海自で一二を争う過酷な任務と言われています。
どこかで「海猿」の海自版という説明を見ましたが、この日 EOD出身の
掃海隊司令とお話ししていて聞いたところによると、

「EODはダイバーではない。爆発物処理が主任務である」

ということなので、海猿というよりは爆発物処理員(潜水可)というのが
彼らの立ち位置としては正しいような気がします。

上から後甲板を見下ろすと、そこには掃討具である PAPが。

「いずしま」型の甲板は岸壁よりかなり低い位置になります。

 

 PAPはフランス製の機雷掃討具です。

昨年の冬、伊勢湾で行われた掃海隊訓練において、わたしは「いずしま」に座乗して
このPAP-104 Mk.5機雷処分具を投入し、それが海中でダミーの機雷を発見するのを
モニターで確かめるという経験をしています。

PAP投入〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練

あの時にみた掃海具とこれが全く同じものだというのはもちろん頭ではわかりますが、
海上の波の上に投下され、それが回収されたあの一連の作業の時と、
岸壁に繋留されている掃海艇の甲板の上で見るのとは、全く別物にすら思えてきます。

おそらく、実際の訓練を見ずしては掃海艇のことなどほぼ何も見ていないに等しいと
わたしは神戸湾の埠頭に静かに漂う「つのしま」の後甲板で思うのでした。

掃海艇の下に「ダミー」とわざわざ記された爆雷があります。
これは、このPAPが機体の下に取り付け、牽引して運びます。

ここに説明されているように、掃海艇が搭載している機雷探知機で機雷を探し、
PAP つまり機雷掃討具で爆雷を機雷の近くに設置し、それを爆発させて機雷を誘爆させます。

ダミーはその訓練に使用するための爆雷というわけです。

オロペサ型係維掃海具。
白いロケット状のものは掃海浮標という名の「浮き」で、簡単にいうと
係維型機雷と言って、紐で繋がれて海中にある機雷の紐をカッターで切断し、
浮き上がらせてそれを20ミリ銃で撃つなりして掃討させるものです。

原始的といえばもっとも古くからあるタイプの掃海具といえましょう。
最初に開発したのはイギリス海軍で、「オロペサ」というのはこの掃海具を
初めて試験的に用いたトロール船の名前をとっているそうです。

他の国の掃海艇を知っているわけではないので比較はできませんが、
古くから使っているはずなのに、白い浮標はメンテが行き届いて綺麗です。

さすがは我が日本国海上自衛隊であるといえましょう。

さて、二手に分かれて行われた見学が終了しました。
わたしたちは案内されて建物の中の懇親会場にやってきました。

「KOBEカレー食堂」という看板がわざわざ隊員用の食堂にかかっていますが、
これにはわけがあります。

地元との融和を図る意味で、降べき地帯では金曜の隊員食堂を解放し、
海自名物「金曜カレー」を市民の皆さんに食べていただこうという企画をしました。

隊員が食べるのと同じ金属トレーにカレーと副菜などをとっていただくもので、
例えばこの神戸新聞の記事では

「カレーは1908年海軍が軍用糧食として”割烹術参考書”に掲載して普及させた。
現在でも海自では毎週金曜の昼食に、地上、洋上を問わず全ての部隊で
カレーライスが配食される風習がある」

として、阪神基地隊が

「伊丹などの陸自駐屯地に対して知名度の低い海自の基地である
阪神基地隊を皆に知ってもらうためにこの企画を始めた」

と説明されています。

ちなみにオープンしているのは金曜日の1100より1300まで。
カレーのみなら400円、ドリンクもついたデラックスメニューは800円。

予約不要でただ基地に行けば誰でもいただけるということです。
昨年春から始めたこの企画、好評らしく今でもやっているとのこと。
もしかしたら、近隣の工場の方なんかも来るのかもしれませんね。

「おれ・・・」「私・・・」「自衛官になる」

のポスターの横に掲げてあった看板には、訳すと

「穏やかな海からは決して熟練の船乗りは生まれない」

とごもっともなことが書かれております。
荒海に揉まれてこそ一人前の船乗りっちうわけですな。

懇親会が行われるというので、全員ではありませんが掃海隊の方達が、
わざわざちゃんとした制服着用で食堂に待機してくださっていました。

せっかくのお休みの中、ありがたいことです。

EOD出身の掃海隊司令からは水中処分員のご苦労などを伺いました。

ウェットスーツとドライスーツの違い、海中の作業の時には腰にウェイトをつけること、
この仕事が好きでやっている人が多いので、中には40代の処分員もいること・・。

冷たい海に潜る時のために、スーツの厚さは平常時より分厚いものもあるのだそうですが、
分厚いと浮力がついて潜りにくいということなど。

別の士官の方とは、先の伊勢湾での訓練の後、掃海艇から転落して
そのまま未だに行方不明になっている掃海隊員の話をさせていただきました。

産経WESTニュース「20代の海自隊員、掃海艇から転落 高知・室戸沖」

掃海艇から転落した直後は手を振っていたらしいのですが、
救命ブイを打ち込んだ時にはすでに海に引き込まれてしまっており、
それからの必死の捜索にもついに行方不明のままであるということです。

「このようなことが2度と起こってはならない、と上から厳命がきています」

こういう事故が起こると、特に彼を失った艇の乗員たちは
どうして助けられなかったのだろうというショックも含め、メンタルダウンは
甚だしく避けられないものだと推察します。

どうか、再発防止のために全群をあげて努めていただきたいものです。

懇親会の合間に隣の売店を見学させていただきました。
お休みなのでお店の人はいませんが、店を閉めるでもなく商品は放ったからかしです。

「防衛省ケーキ」「隊員さんのリングケーキ」「隊員さんのバームクーヘン」・・・

何でも適当に頭につけて自衛隊オリジナルにするんじゃねー、
と思わず突っ込んでしまうくらい安直なネーミングの商品群です。

(でももしお店が開いていたらバームクーヘン買ってたかも)

コンパクトな基地なので、食堂、売店と並んで体育館があります。
ここで式典なんかも行われるんでしょうか。

呉の「大和ミュージアム」のお知らせポスターがありました。

呉の人々と戦艦大和の記憶。

お、これは次に呉に行った時には見られるかな?
と思って日付を確かめたら、去年の夏から今年の1月までの企画でした。
つまり、わたしはこの展示を見たことがあります(笑)

阪神基地隊の人ー、もうこれ終わってますよー。

ロビーの一隅には模型の展示コーナーがありました。
棉で細かい水煙を表現した力作、US2の着水。

民間の模型クラブの会員が作って寄贈したようです。
辛坊治郎の救助の時のシーンかな?(棒)

「いせ」の模型。
この時、「いせ」が呉から転籍するのを見送って帰ってきたばかりでした。

余談ですが、「いせ」艦長からは丁寧にお礼の手紙をいただき、呉出港後
「いせ」が急遽フランス海軍との訓練に駆り出されたこと、
連休明けには慣熟訓練で洋上に出たことなどのご報告をいただきました。

「はたかぜ」の模型も。
「はたかぜ」は旧軍の「神風」型駆逐艦「旗風」から名前を受け継ぎ三代目です。

ロビーの一隅には、専門の帽子置きらしいカウンターがありました。
帽子掛がないので、このカウンターを常設してあるんですね。

ちなみに、喫煙所というものはないようで、タバコを吸われる方は皆
ロビー外の階段の踊り場で一服やっておられました。

飛行機の時間があったので、タクシーを呼んでいただき、
写真を撮りながら外で待つことにしました。

掃海隊がここにあるのは、神戸湾などで浚渫作業をした時に
機雷が発見されるという可能性を踏まえてのことのようです。

水交会が設置にあたって出資したらしい機雷。本物です。

昭和27年と新しく創設した基地なので、呉や舞鶴のように旧軍から伝わる
重厚な空気やもちろん古い建造物は一切ありませんが、なぜかポツンと
大変年代を経ているらしい灯篭がありました。

近づいて見なかったのでその由来はわかりません。

あの阪神大震災の時、阪神基地隊は基地機能が全面停止する程の壊滅的な被害を受けましたが、
震災直後から約100日間に及ぶ災害派遣に従事しながら、
岸壁、地盤及び建物等の全面復旧成し遂げました。
平成9年12月、基地は完全に復旧し、現在に至ります。

この詳細につきましては、前回のエントリにお節介船屋さんがくださったコメントをご覧ください。


阪神基地隊、掃海隊の後援という形で、これからはしばしば訪れることになりそうです。






 

 

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掃海艇「つのしま」〜阪神基地隊初訪問

2017-06-22 | 自衛隊

 

阪神地区在住であった時には、自衛隊基地が比較的近くにあることなど
夢にも考えたことがありませんでした。
呉地方隊の管轄でもあり、阪神地方の防衛基地である阪神基地隊に、
今回初めていく機会があったのですが、住んでいた時には通り過ぎるだけだった
この地域が実際にどんな様子であるか、生まれて初めて知ることになりました。

伊丹空港から空港バスで阪神甲子園、(関西の人間なら誰でも知っている球場前の駅)
そこから魚崎まで阪神電車、駅からタクシーと乗り継ぎます。
車上から見る景色が、工場しかないのにまずびっくり。

「宮水」といってこの地方には酒造に向いた上質な水が出ることを、関西在住の子供は
何かと聞かされて育ち、大関や白鹿の名前に聞き馴染みがあったりするわけですが、
この辺にも「灘の酒造」として「菊正宗」「月桂冠」などの酒造会社が並び、
わたしなど、目を丸くしながら、今更のように「灘五郷」などという教科書の言葉を
思い出したりしていたわけでございます。

そんな工場街を海に向かって進んでいくと、突如現れる阪神基地隊。
警務分遺隊もあります。

渺茫という言葉がつい浮かんでしまいました。
ここにこんな基地があったんですねえ・・。

 

この日の主眼は掃海艇の見学であったわけですが、
見学の前に掃海隊司令によるレクチャーが行われました。
わたしのように多少知っている、という者は同行者の中では少数派で、
ほとんどの人が「掃海」という業務について全く知らないも同然なので、
掃海業務の歴史と現在についてをざっと説明したこの講義は、
皆にとっても有益であったはずです。

ただ一つ、わたし自身が調べたこととの相違がありました。

初期の機雷として、アメリカ独立戦争の時に使われたものを

「ブッシュネルの浮遊機雷」

として図まであるのですが、ここで散々()お話ししたように、ブッシュネルのは
「タートル」であり、彼がイギリス軍に見つかった時に、

「トルピードだぞ!」

と言いながら爆発物を流したのでそれが「魚雷」の語源になった、
という事実はあるものの、この図の機雷は、

「インファーナル・マシン」(地獄のマシン)

と呼ばれていた浮遊機雷で、ブッシュネル作ではありません。

 

まあ、説明している方も割とどうでもいいことなのであっさりと通過しましたし、
ましてやここにいる皆が間違って覚えたとしても問題はないと思ったので、
最後まで何も指摘しませんでしたが。

さて、解説が終わり、皆で岸壁に移動です。

コンパクトな基地なので、レクチャーが行われた建物から外に出て、
駐車場を横切り、防波堤を越えればもうそこは岸壁。
見えているのは阪神高速湾岸線。

昔よく車で通った道ですが、こんなだったんですね。

ここには「すがしま」型掃海艇3番艦の「つのしま」がいます。

岸壁には艇長と機関長が案内のために待機してくれていました。

停泊中の自衛艦なので、艦首旗(国旗に似ているけど似て非なるもの)
が揚がっています。

「すがしま」型掃海艇は1996年から8年間にわたって12隻建造されました。
いずれも船体は木製で、米松などの素材からできています。

 

最新型の「えのしま」型からは FRP素材になり、木製の船を作れるような
「職人」もいなくなっていることから、次級の「ひらしま」型とともに
最後の木製掃海艇群となるのではと思われます。

掃海艇は自力で接岸、離岸ができることは、何度か乗艦して確かめましたが、
そのための水噴射式「バウ・スラスター」が喫水線に見えています。

機関長にあとで伺ったところ、水の噴射の力バランスを変えることで
動きを調整することができるのだという説明でした。

噴射する水はもちろん海水を吸い込んで吐き出す方式です。

乗る前に岸壁で大変目を引いたリヤカー。

これ、どう見ても配備されて一週間以内だろっていう。

さて、乗艦しました。
ここからは見えませんが、マストには星一つで上下にラインのあるの隊司令旗が揚がっています。

今日は信号旗のラックにはカバーがかかっています。
風力計は両舷ともにゼロ。

艦橋のCICにやってきました。
掃海艇の場合は、CICが操舵室であり電信室でもあります。


自動操縦もできるということですが、ボタンやスイッチなどの佇まいは
護衛艦などに比べるとアナログっぽいなという感想です。

操舵を行う舵輪は、今やこんなにコンパクト。
この前には、止まり木のような椅子が設置してあるので、そこに座って
この写真を撮ってみました。

「昔はものすごく大きなものだったんですよ」

見学者は二手に分かれ、一方は艇長が、わたしたちのグループは
機関長が案内をしてくださいました。

機関長は昨年の夏からここに勤務しているそうです。

掃海艇の艇長席は赤と青のツートーンカラー。

かたやこちらは赤の隊司令席。
隊司令はマストに旗が揚がっていたように、二佐の職です。

掃海艇は触雷を避けるために木造の船体であるわけですが、
艦橋内にも極力木製のものを採用しているせいで、
何かオールドファッションな雰囲気です。

正面の黒板は、訓練予定とその日の必要情報を書き込むもので、

0930 神戸港出港

1115 明石海峡通峡

などとスケジュールが掲載されています。
あとは天候と潮の高低、そして「ネザ」「チョリザ」「ミザ」など、
海自お馴染みの呪文を書く欄があります。

この日は休日で稼働はしなかったはずなので、翌日の予定でしょうか。

巨大な補給艦も、イージス艦も、そして掃海艇も。
使っているジャイロレピータの形と大きさは皆同じです。

これ自体がコンパスなのではなく、マスターコンパスは大抵別の場所
(下の階)に設置されています。
そこからレピータの方に信号が送られてくるようです。

船内の火災、ガス、浸水などの以上を知らせるパネル。
赤が火災で、ブルーは浸水だろうと思われます。
ブルーのボタンは最下層階にしかありません。

紙の海図がチャートデスクの上に広げてありました。
阪神基地隊のある東灘近隣の地図であることがわかります。

左下に突き出している島には神戸空港があります。
今回神戸空港利用も考えたのですが、1日の就航数が少ない上、
阪神基地隊までの所要時間は伊丹と変わらないことが判明しました。

見学モードなので、一般人にわかる説明が掲示されています。

簡単にいうと

ペルシャ湾での掃海を通じてそれまでの掃海艇の短所を痛感したため、
その問題点を克服せんと、企画設計されたのが「すがしま」型である

と書かれています。

情報処理装置である

NAUTIS-M   NAUTIS-M1

の搭載によって、核装備武器を一元的に統括することになったほか、
機雷探知機には

TYPE2093

を採用して精度をあげ、さらにはバウスラスタ、シリング舵の搭載によって
それまで難しかった定点保持、航路保持を可能としました。

かもめプロペラという言葉につい目を惹かれました。
これは船舶プロペラを専門とする会社のことらしいです。

可変プロペラとバウスラスタはここの製品であるらしく、
使用に際しての注意事項が書かれていました。

(変節ダイヤルは一度に10度以上回すなとか)

船の上からみた阪神基地隊全貌。
後ろの長い建物は、隣の工場です。

 CICの見学を終わり、内部の階段を下に降りて、安全パネル上では
士官室となっている艇長の部屋を見せてもらいました。

木製ベッドと机のせいであまり自衛艦の中らしくありません。

甲板に案内されました。
ここには20ミリ機銃、M61バルカン砲があります。
バルカンは製品名で、 GE社のガトリング砲が一般名称です。

「機雷を掃討するためのもので、武器ではありません

でも、もしそれが必要なことがあれば、武器として使うのもやむなし?

「下に向けると甲板に当たりませんか」

「角度が固定されていてそうならないようになっています」

同行していた一尉がどのように撃つかを見せてくれました。
リングの上に立って、肩とうでを銃身の後ろのホールに当てて、
体ごと移動すると、銃身はグルーっと回転し、
体の動きにつれて砲身も上下します。

アメリカで見た対空砲とこの辺りは全く同じ仕組みです。

銃は誰でも扱えるわけではなく、免許というか資格が要るそうです。

海面にある機雷を撃つ銃が甲板にあるというのは角度的に
狙いがつけにくくないかと思ったのですが、説明によると
バルカンの射程距離は何キロも先の機雷を狙うだけあるそうですし、
しかも1分間に6,000発の弾丸が発射されるというものなので、
それだけ20ミリが降り注げば一発や二発は機雷みたいな
小さな目標にも当たるのだろうと思われます。  

さて、我々はここで甲板を後ろに移動し、掃海具を見ることになりました。

 

続く。

                                                                                  

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アメリカ海軍サブマリナーの肖像 その2

2017-06-21 | 海軍人物伝

コネチカット州グロトンにあるサブマリンミュージアム。
かつて叙勲されたサブマリナーの顕彰コーナーで見た
サブマリナーをご紹介しています。


冒頭にあげる絵を描くのに、各個人の写真を検索するのですが、
最もご本人がかっこよく見える写真を選ぶと、
海軍兵学校時代の写真や若い時の写真になってしまいます。

というわけで、イケメンだった若い頃の画像になってしまった

 

ユージーン・B・フラッキー
Eugene Bennett Fluckey

「ラッキー・フラッキー」

フラッキーというのは「ラッキー」を含む縁起のいい名前ですが、
実際にも彼は「ラッキー・フラッキー」と呼ばれていました。

上の「メダルオブオナーギャラリー」の中央に掲げられたのは
彼が艦長だった潜水艦「バーブ」の対日戦「戦果」です。 

93歳まで長生きしたことだけでもかなりラッキーな人生だったようですが、
それよりアメリカ海軍的には、フラッキーが潜水艦長として
その撃沈した敵船舶(つまり日本の船ということになりますが)
の総トン数が歴代一位ということがそのあだ名の由来のようです。

日本軍では撃沈の統計を取りその順番をつける、
という習慣がないのですが、 アメリカでは潜水艦でもこのように
トン数、隻数でランクをつけため、戦果を水増しするために
ありえない名前の日本駆逐艦をでっち上げる事例も起こりました。

ただでさえ確認が不正確になるので、戦時中の成績と戦後の
双方の資料で検証した実数が違ってくるのは当然のこととなります。 

フラッキーの撃沈した総トン数は

16 ⅓ 隻(4位) 95,360トン(1位)

なのですが、戦時中は

25 隻 179,700トン

となっていました。
ちょっとこれ・・・あまりに違いすぎません?
どちらも二倍とは言わんが、それくらい水増しされているではないの。

ちなみに総撃沈隻数で1位とされているのは前回紹介したリチャード・オケインで、

24隻  93,824トン

こちらも1980年に再調査されるまでは31隻、227,000トンとされていました。


ところで、フラッキーが総トン数で1位になった理由というのは
ちょっと考えてもわかりますが、撃沈した船が大きかったからです。

フラッキーが艦長を務めた潜水艦「バーブ」は5回の哨戒で
数多くの輸送船を撃沈しましたが、大型タンカーを含み、
空母「雲鷹」がその中に含まれていました。

1944年9月17日、船団を護衛してシンガポールを出発、
台湾に向かう「雲鷹」に「バーブ」は艦尾発射管より魚雷を発射、
艦中央部と艦後部に命中しました。

雲鷹の生存者約760名は護衛艦に救助されましたが、乗組員約750名、
便乗者約1000名のうち推定900名が戦死。
艦橋にいた艦長や副長は脱出したものの艦長は行方不明となりました。

 

フラッキーは「バーブ」を指揮して樺太で上陸作戦も行なっています。
1945年7月22日、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて
16両編成の列車を吹き飛ばしたというものです。

Silent Service S01 E26: The Final War Patrol

例の潜水艦ドキュメンタリーシリーズ「サイレントサービス」では、
18:30あたりからこの作戦について語られています。
爆薬を持ったまま転んだ隊員を皆がそろそろと引き起こす様子がリアル。 

この作戦は、第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による上陸作戦でした。

上陸作戦のためにフラッキー艦長は艦のあらゆる配置から志願者を募りましたが、
ボーイスカウト出身者を特に選んで編成したという話です。

なお、この番組の最後にはフラッキー(この時は大佐)本人が出演しています。

フラッキーは、名誉勲章を叙勲されていますが、上陸作戦に対してではなく、
以下のような作戦の成功に対するものでした。

 

彼の指揮するバーブは落命の可能性とアメリカ軍軍人としての
義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。

1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、
1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の
真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。
この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、
また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は

「戦闘配置!魚雷発射用意!」

の号令を出して(略)弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。
バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。
英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。
アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、
ここに最高の栄誉を与えるものである。 

 

ローソン・パターソン・ラメージ
Lawson Patterson Ramege

「隻眼のサブマリナー”レッド”」


ラメージはアナポリス1931年組、同期にはマケインがいます。
赤毛の人がほとんどそう呼ばれるように、彼のあだ名も
「レッド」であったと言います。

赤毛が喧嘩っ早いというイメージは確かにあるような気がしますが、
ラメージはイメージ通りだったようで、アナポリス時代、
喧嘩が原因で(どんだけ派手にやったのか・・)右目を傷つけ、
そのため極端に視力が落ちてしまいました。

片目だけの視力でまず失われるのは距離感だといわれます。
飛行機はもちろん、潜望鏡で外界を確認する潜水艦でも
視力が悪いのは大きなハンディとなるのですが、運の悪いことに
ラメージの志望は潜水艦乗りでした。 

適性検査では視力が原因ではねられてしまいますがどうしても諦められません。
強く願えば神に通じるというべきなのかどうか、視力試験前に、

彼は視力検査表を間近で見ることに成功しました。(偶然だぞ)

そこで検査表を暗記し、右目のための検査カードを、
あたかも右目で見るふりをして実際には両目で見て

念願の潜水艦配置に合格しました。
このことはとご本人が後から白状したんだそうですが、
これ実のところ、偶然なんかじゃなく、わざわざ見に行った、
つまり故意犯だったんじゃないかと激しく疑われますね。

結果良ければで、のちに名潜水艦長になったから
こうして後から笑い話半分の英雄譚みたいに本人も吹聴してますが、
もし潜水艦艦長になった後、視力が原因による大きなミスが起っていたら、
おそらく本人はこのことを墓場まで持っていったに違いありません。

潜水艦長として潜望鏡を覗くとき、彼は自分なりのコツを編み出し、

「焦点は常に近接に合わせた。
そうすれば、弱い方の目で観測しても目標を完全に観測することができた」

というイマイチよくわからない方法で任務をこなしていたようです。 

「グレナディアー」「トラウト」に続き「パーチー」艦長になった彼は、
 1943年、「途方もない潜水艦の波状攻撃」を日本のミ11船団に対して行いました。


この時ラメージは艦橋に陣取り、大胆にも艦を浮上させたまま船列の間に割って入り、
至近距離から19本の魚雷を発射するという前例のない攻撃を行いました。
日本船はこれに対して備砲で反撃し、ついには体当たりを試みています。

「炎上する日本船の合間を縫って、冷静にシーマンシップを発揮し、
魚雷と砲撃で礼を返した」

彼はのちにこの時の交戦についてこう語りました。

 

ポール・フレデリック・フォスター
Paul Frederick Foster 1889−1972

「史上最初に敵艦を撃沈した潜水艦長」


わたしは戦史というものを、あくまでも客観的に見ることをモットーとして
どんな事例も扱っているつもりなのですが、このサブマリナーシリーズなどで
日本の船を沈めて、その成績がトン数で1位だの隻数で1位だの、
その数で勲章をもらったりしている事例を調べていると、
正直決して穏やかな気持ちでいられず、なんとなく胸のざわめきを感じるのは、
これはもう日本人として致し方ないことだとだと思います。

そして、たとえば前回お話しした、

「軍機を守るために艦と運命を共にしたクロムウェル艦長」

の乗っていた「スカルピン」の生存者42名が、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ護送される途中、冲鷹は「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192)
の雷撃により撃沈されてほぼ全員が死んでしまったわけですが、
この事実に対して、ザマアミロとかいうタチの悪い感情まで行かないまでも、
少なくとも「因果応報」という言葉を思い浮かべずにはいられないわけです。


ちなみに「山雲」に撃沈された「スカルピン」の生存者は当初42名。
護衛していた大型輸送船「龍田丸」を撃沈したカタキであったことから
(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)海上の彼らに対して
「冲鷹」乗組員は報復しようとしたのですが、艦長がそれを制止しています。

その「冲鷹」が米潜に撃沈されたのは、艦長の命令によって救助した潜水艦乗員に対し、
艦上でコーヒーとトーストを与えた直後のことであったといわれます。


さて、長々と何が言いたいかというと、このフォスター中将は
そのメダル授与の功績が対日戦ではないので、少なくとも
この微妙な感慨を持たずに済む、ということです(笑)

フォスターが名誉勲章を与えられたのはなんと

ベラクルスのアメリカ占領(1914年)

での功績に対してでした。

トランプが大統領になって「アメリカファースト」のスローガンのもと、
メキシコ移民を防ぐための壁を作るの作らないのという話もありましたが、
アメリカとメキシコというのは、昔から隣同士で色々ありましてね。

仲が悪い隣国同士で、経済力の低い方が高い方に移民としてなだれ込み、
それが問題になる、というのも世界各地で共通の事例です。

メキシコ革命の時には、アメリカの水兵がタンピコでメキシコ兵に拘束された、
というタンピコ事件がきっかけとなり、アメリカ軍が出動、
戦闘ののち、ベラクルスを半年間占領するという事態になったことがあります。
ちなみに、タンピコ事件でメキシコは、アメリカに一応謝罪したにも関わらず、

「誠意を表すために星条旗を掲揚して21発の祝砲発射を行え」

とさらに威圧され、頭にきてその要求に従いませんでした。
これをアメリカは攻め込むきっかけにして占領までしてしまったのです。

いやこれね、アメリカさん、もしかしてメキシコが従わないのをわかっていて、
こんな無茶な条件を突きつけたりしてません?

左から4番目のすらっとしたのがヴェラクルスの時の少尉だったフォスターです。 
メンバーは USS 「UTAH」 (BB31)の乗員で、この戦いの時フォスターは
「ユタ」の砲撃を指揮しました。 

フォスター左


海軍兵学校卒業後、フォスターが乗務した潜水艦はUSS G-4(SS26)。
第一次世界大戦ではUSS AL-2(SS41)でドイツのUボートを撃沈し、
これが初めて敵艦を撃沈したアメリカの潜水艦となりました。

つまりフォスターは「初めて敵艦を沈めた潜水艦艦長」だったわけです。 

 

その後は軍関係のブレーンとしてルーズベルト政権のために働き、
終戦後中将として海軍を引退しました。

 

サミュエル・デイビッド・ディーレイ
Samel David Dealey 1906-1944

「サブマリナーズ・サブマリナー」サブマリナーズサブマリナー」


彼にはたくさんのあだ名がありました。

「トルピード・トタン・テキサン」(魚雷を持ったテキサス人)

「デストロイ・キラー」(駆逐艦ゴロシ)

そして、

「サブマリナーズ・サブマリナー」、潜水艦乗りの中の潜水艦乗り。

それほどまでに潜水艦に乗っているのが似合っていた男。
ということは、日本の艦船をいやっというほど沈めたということでもあります。

彼が指揮した潜水艦「ハーダー」の通商破壊作戦における武勲は目覚しく、
最も輝かしい5度目の哨戒では、駆逐艦2隻(「水無月」と「早波」)を撃沈、
ほか2隻を大破させた功績によって、名誉勲章を授けられました。

「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り」らしく、ディーレイ艦長は
潜水艦に乗ったまま、壮烈な最後を遂げています。

 

1944年8月、「ヘイク」とともに哨戒していた「ハーダー」は、
民間船の護衛で付きそう第22号海防艦と第102号哨戒艇を発見しました。

 

第22号海防艦に潜望鏡を発見されたので「ハーダー」は魚雷を3本発射。
しかしいずれも脇ををかすめ、逆に海防艦から攻撃を受けます。
海防艦は爆雷を投射器から12個、
軌条から3個「ハーダー」に向けて投下しました。

やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が浮かび上がりました。
潜水艦「ハーダー」が15発の爆雷全てを浴び、撃沈された瞬間でした。


ディーレイが1943年に授与されたネイビークロス。

1945年8月22日、彼の功績に対して名誉勲章が与えられましたが、
授与式で勲章を受け取ったのは未亡人と三人の小さな子供達でした。

 

このとき「ハーダー」を撃沈した第22号海防艦と第102号哨戒艇は、
いずれもその後、大東亜戦争を無事に生き残ったということです。

 

 

 

 

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米海軍サブマリナーの肖像 その1

2017-06-20 | 海軍人物伝

「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。

以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。

このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。

銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。

指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。

戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。

ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。

さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。

 

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943 

軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官

潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは

旗艦「スカルピン」 USS-191

ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。

「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。

「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。

コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。

しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。

 

「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。

ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。


リチャード・H・オケイン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994

敵撃沈記録歴代一位の艦長

オケイン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。

「ワフー」が沈んだ時、オケインは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、

(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。

爆発の瞬間オケインはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオケイン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。

この時のイメージがイラストで表現されていました。
オケイン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。

しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。 

 

潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。

戦後帰国したオケインはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。

死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、

オケイン(USS O'KANE DDG-77)

とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。 



ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III  1913−2000

「サイレント・サービス」


ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。

ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。

Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch

 

この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。

実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。

このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。
 

イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。 

ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。


ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941

仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官

肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。

 

ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。

ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。

彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。

1923年、O-5は潜水艦隊、O-3  (SS-64) 、O-6  (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。

その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、 
メインのバラストタンクが破損しました。

艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。

蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。

近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。

爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。

彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。

ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。

彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。


サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。

生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。

当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。

しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。

ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。

米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。

彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。

 

 

続く。 

 

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初夏の味覚・鮎料理と明王院の太鼓回し

2017-06-19 | お出かけ

表題とは関係ないのですが、息子が今学校で募集したボランティアに参加していて、
その写真が引率者から送られてきたのでちょっとご紹介します。

場所はカンボジア。
プロジェクトは現地の家族のために家を建てること。

一週間で、しかも経験のない青少年が作る家というのも驚きですが、
ボランティアに家を建てて欲しいと申し込む人もいるのだそうです。

作業はリヤカーで建材を運ぶところから。

現地の大工さん?に作り方を指導されながら。

窓がつきました。
ガラスをはめるのか、網戸かはわかりません。

日中の作業の合間には、現地の人々との交流活動が持たれたようです。
説明はありませんでしたが、古老の知恵を知る会、みたいな?

地元学校への慰問もあり、すっかり仲良くなって最終日には泣いてしまう子もいるとか。

しかも家は予定より一日早く落成したとか・・・。
落成祝いに新居をデコレーションし、家族に引き渡し。
家を受け取る家族は祖父母と息子夫婦と孫という構成だそうです。
男たちは畑を耕して糧を得ているものの、貧しくて家を建てられませんでした。

ボランティアは今週で終わり、息子は羽田に帰国してきますが、話を聞くのが楽しみです。

 

さて本題、初夏の味覚、鮎を楽しむために京都に行ってまいりました。

まず前日夜、とある小料理屋が企画した「蛍を見ながらハモ鍋」のお席に。
坪庭に130匹の蛍を放つために前もって客から「蛍基金」を募り、
窓に乱舞する蛍を見ながらお酒と鍋をいただくという企画です。

水を打つたびに蛍の光が窓の外を乱舞する様子は大変風情がありました。

「こんなに一生懸命光っても、メスはこの中に1匹もいないんだよね」

「・・・で、目的を果たせないまま・・・」

「なんで蛍すぐ死んでしまうん?」

「そのセリフは禁止!」

その晩は市内のホテルに泊まりました。
ホテルの前にあった元小学校。
廃校になってしまった後も、趣のある校舎は市民のコミュニティの場として、
企画展を行うスペースやカフェになっているそうです。

校庭では盆踊り大会も行われるとか。

向かいの幼稚園跡では清掃局が資源物の回収を行っていました。

さて、この日は朝からレンタカーで郊外に遠出することになっています。
四条の角にあるレストラン菊水の建物、角の窓が昔は鏡だったんですよねー。

この日借りたのはアウディ。
国産の小型車に比べると、随分出足が鈍いなという印象でしたが、
京都の小路を走る時に威力を発揮しました。

で、市内を走ったのですが、京都ナンバー、特にタクシーの運転マナーがひどい。

関東ではウィンカーを出したらたいていの車は前に入れてくれますが、
京都の車は逆にスピードを出して、間に入れまいと前の車との距離を詰めるわけ。

右折するために車線変更しようとして3台の車にそれを立て続けにやられ、
こちらはウィンカーを出す車を普通に前に入れていたら、
先導してくれるはずの地元の人の車とあっという間にはぐれてしまいました。

まあナビがあったのでなんてことないんですけどね。

目的地となる料亭の横には神社があり、そこの境内に車を止めました。

これが本日鮎をいただく予定の料亭「比良山荘」でございます。
料亭の前の溝には清流といってもいい綺麗な水の流れが走っていました。

夏は鮎、秋は松茸、冬は熊料理がここの売り。

まずは冷たいジュンサイの一品が出されました。

「あの人ジュンサイみたいな人ですね、っていうことがあるらしいですね」

「してその心は」

「捉えどころのないというか、ようわからん人というか」

「少なくとも褒め言葉ではないね」

八寸では”なれ鮨”、筍や梅の蜜煮など。
右下は鯉こくの卵部分でしたが、これが意外なくらい鯉という感じがしませんでした。

ハモの焼き物(焦げ目が香ばしくてまた美味しい)と鯉の洗い。
弾力があり噛み応えのある刺身でした。

そしていよいよみなさんお待ちかねの鮎。

箱の蓋をとると、竹の木片を燻す煙が立ち上り、皆は一斉に歓声をあげました。

一人3匹づつ、と言われて、皆熱いうちに我先にと箸を延ばします。
実はこの前の晩の蛍ナイトでも鮎が出されたのですが、うちのTOは頭を残し、
女将さんに

「鮎の頭残すなんて勿体無い!」

と怒られ、わたしが彼女に

「明日の鮎では頭も食べるように、ちゃんと見張っておきます」

と、とりなしたという前振りがありました。
しかし、ここにきて鮎の頭を残すなんてことは、罰当たり以前に
本当に鮎を食べたことにすらならないのだと、彼も実感したようです。

鮎は器と趣向を変えて次々と出てきます。

頭から齧る鮎は、ほろ苦さはあっても、さっきまで清流を泳いでいたため、
コケ臭いなどということは全くあり得ません。

ひたすら清浄で、パリッとした皮の下に馥郁たる香りの柔らかな白身があり、
それらの食感も手伝ってえも言われぬ至福の味わいです。

同行した同好の士は、わたしたち夫婦をのぞいて全員が日本酒をガンガン飲みながら
盛んにうまいうまいと口の端に乗せながら鮎を楽しみました。

メンバーはその業界では誰でも知っている IT関係の会社の社長とその社員や、
Nのつく銀行から民間に出向し京都生活をエンジョイしている人などで、
つまりやたら口の肥えた美味しいもの好きの飲兵衛さんばかりだったのですが、
その人たちが一様にボキャ貧となって(笑)ひたすら鮎にかぶりついています。

結局、一人が大ぶりの鮎を7匹ずつ食べたことになるのですが、
誰も多いといったり残したりしませんでした。

そしてメインイベントというべき、シメの鮎ご飯登場。
板さんが直接土鍋を持ってきてくれます。

焦げ目がついているので後から乗せたものかもしれません。
ご飯には炊き込んだような味がついていました。

頭と尻尾を取ってしまい、(ご飯には頭は入れない方がいいらしい)
身だけをご飯に混ぜ込んでいただきます。

お味噌汁は鯉こく。
お汁の表面に脂が浮かぶほど、脂が乗っている身はとにかく甘かったです。
ご飯の美味しさは言わずもがな。

デザートがまた一風変わっていました。
木の芽の味のアイスクリームの上に、甘みのない道明寺を乗せて一緒にいただきます。
赤い実は山いちご。

部屋の床の間には、清流を泳ぐ鮎の姿が描かれた額がかけられていました。

掛け軸の下にはガラスの熊さん。
これはこの比良山荘の冬の名物が、熊肉の料理であることからです。

「クマー?」(AA略)

最初に聞いた時にはびっくりしましたが、冬眠前の熊は美味しいらしいですね。
ここでは熊鍋のことを「月鍋」(月の輪熊の月)と称するそうです。
この辺りの熊は害獣でもあるので、肉や漢方薬の(胃とか)材料にするために
年間に決められた数を捕獲することが許されています。

同行の方々はこういった味覚を求めて、年に何度もここに足を運ぶのだとか。

 

食後は一同で近隣の神社仏閣に足を向けてみました。
まずこの料亭の隣の「神主(じしゅ)神社」。

狛犬さんの苔むし方が神社の古さを物語っております。

案内によると、貞観(じょうがん)元年、つまり859年の創建だということで、
なんと1158年前にできたことになります。

貞観というと富士山が噴火し、貞観の大地震が起こったという頃ですね。

この社殿は文亀2年(1502)の建立ということですが、重要文化財と言いながら
祭礼が行われている様子がなく、神殿も舞台も虫食いだらけになっていました。

「こんなので大丈夫なんかね」

「保存しようってつもりが全く感じられませんね

ここで神楽などしようものなら、床を踏み抜くか、天井が落ちてきても不思議ではないような・・。

近くの渓流には足を水につけたり、山菜採りをしている人たちがいました。
この川は琵琶湖に向かって流れていく上流にあたります。

話を聞いた時はなんとなく京都だと思い込んでいたのですが、実は滋賀だったのです。

地主神社はこの奥にある「明王院」の鎮守だということで、
ここにもお参りさせていただくことに。

寺の鎮守が神社って、普通のことなんでしょうか。

手水を使おうとして体長2mくらいの蛇がいたのでびっくり。
どうも蛇は水を飲みにきていたようです。

「蛇は不動明王の使いだっていうね」

そういえばここは「明王院」・・・・。

本堂にもその周辺にも人の姿はなく、見学者は照明のスイッチを自分で点けます。

歴史ある寺院らしく奉納されたされた古くからの板絵を見ることができます。
右側の色褪せた合戦の絵は延長か延喜か・・・。
とにかく、鎧をつけた武士が合戦をしていた頃に奉納されたもの。

右で鬼と相撲取りが首に縄をつけて引き合いをしている絵は、
万治2年(1659)に奉納されました。

左は安政2年(1855)、京都の井筒屋小兵衛という人の奉納。
美術品のように保存をする気もないらしく、掛けっぱなしにするうちに
次第に描かれた絵が消えてしまった右側の額は、人々の服装から平安時代のものです。

これもほとんど消えかけていますが、天保15年(1844)の寄進。
元号が変わる頃、変わった直後に行われた奉納が多いのですが、気のせいでしょうか。

本堂の片隅に、時間があれば写経を行ないお納めください、というコーナーがありました。
ただし、持って帰らないように、とのことです。

本堂の床が、こういう無数の傷跡のようなもので覆われているのに気づきました。
まるで鎌倉彫の表面みたいです。

明王院は「葛川太鼓回し」という儀式を行うことで有名なのだそうです。

太鼓をとにかくぐるぐる回すのですが、太鼓の胴を床に付けてはいけないとか。
よくわかりませんが、回すだけ回したら上にお坊さんが乗って床に飛び降りるらしいです。

回廊の外側に太鼓回しに使う太鼓が収納してありました。

隣のラック?には回しすぎて縁が破れた御用済みの太鼓が。
きっと歴史のある(太鼓回しの初代太鼓とか)ものに違いありません。

なんのために太鼓を回すのか?

というとそれは修行のためらしいです。
なぜそれが太鼓でなくてはいけないのか、
とか、
太鼓とは叩いて音を出すものだと思うのだけど、なぜ叩かず回すのかとか、

疑問をいい出したらキリがないのですが、そういうことも含め、地元には
理由については詳しい話は伝えられていないようです。

わたしとしては最初にやりだした人の単なる思いつきだった、に1和同開珎。


無理やり最初の話題にこじつけると、息子の学校のボランティアにも特に理由はありません。
そこに助けを求めている人がいるから、わざわざ飛行機でカンボジアまで行き、
一週間を費やして家を建てる意味があるのです。たぶん。

というわけで、初夏の鮎を楽しんだついでに、比叡山の僧の
伝統の荒行(ってか奇習)を知ることになった小旅行でした。

 

 

 

 

 

 

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呉軍港めぐり〜夕呉(ゆうぐれ)クルーズ

2017-06-17 | 自衛隊

 

「いせ」転籍に伴う懇親会と佐世保へのお見送りからそう日を分かたず、
わたしはまたしても呉に行っておりました。

スケジュールの合間に1時間ほど大和ミュージアムで時間を潰し、
(先日高松で伊藤元呉地方総監にいただいた無料パスポートがお役立ち)
その後ミュージアム前の広場でTOを待っていると、ターミナルから
艦船クルーズの人が6時過ぎの便に乗りませんか?と客引きにきました。

おお、これはあの、自衛艦旗を一斉に降下する軍港を見ることができるという
「夕呉クルーズ」のこと?

「まだ乗れますか?」

と聞くと、

「乗れないということは、ま・ず・ありません」

と力強く太鼓判を押されました。
まあ、それだからわざわざ外に客引きに来てるんだとは思いましたがね。

落ち合ったTOも筋金入りのクルーズ好きなので、参加は一も二もなく決まり、
わたしたちはまずチケットを買っておいて指定の時間にターミナルに向かいました。

ターミナルで待っていると、江田島から到着したフェリーから、
自衛官らしい雰囲気の私服の人たちが降りて呉の街に散っていきました。
これが呉の夕方の日常風景なんですね。


時間が来て、外で待っていたわたしたちが船に乗り込むため歩いていると、
わざわざ追い越して先頭に割り込もうとする一団がいました。

中国人みたいだなと思ったらやっぱり中国人でした。

前回は午前中に乗った軍港めぐり(正式名は艦船めぐりだけど)ですが、
今回は待望の日没クルーズです。

この日はまだ海の上を渡る風は冷たかったものの、素晴らしい夕焼けが見られそう。

呉地方総監部の発着所内に休んでいる支援艇も、夕日を受けて。

前回こちらの「ファルコン」一隻だった建造中の船が2隻に増えてる!

ポンツーンにブロックを積んでいた同型艦の「スワン」がもうこんな形に!
造船作業というのがこんなに進捗が早いとは初めて知りました。

この奥でもさらに一隻大型艦を建造中。
"ORIENT ARROW"という船名が読み取れます。
他の船ブログでは「オリエント・スカイ」という名前の船があるという記事を見つけました。

姉妹船でしょうか。

クルーズでは「大和の大屋根」の説明も必ず行われます。

3月ごろまではこの上にブロック工法のパーツが山盛りになっていましたが、
この時にはほぼ何も乗っていない状態でした。

さて、いよいよ自衛隊基地に差し掛かります。
最初に見えてくるのは練習艦「しまゆき」。

今年の練習艦隊には参加していませんが、かつて初めて女性艦長を戴いた練習艦です。

続いてはこの安定感のある後ろ姿。
船が女性ならまさに安産体型?の輸送艦「おおすみ」。
向こうには「しお」型らしい潜水艦の姿が確認できます。

掃海母艦「ぶんご」にはこの直前に高松で乗ったばかりでした。
全く違う場所でつい先日あの甲板の上にいたのに・・・と少し不思議な気分です。

先日横須賀で潜水隊員を困らせてたおじさんが言っていたように、
後ろのハッチから掃海艇が出てくると思う人がいても無理は・・さすがにあるな。

そもそも母艦で運べるようなものだけで掃海ができるなら、誰も苦労せんわ。

「かが」は先日「いせ」を見送った岸壁に「いせ」の代わりに入って、
ずっとそこを居場所としているようです。

やっぱりこうしてみると空母だわー。ヘリ空母だわー。

クルーズは自衛艦旗降下の時間にちょうど折り返して帰ってくるペースで行われます。
これはまだ往路なので、自衛艦旗の周りにも人影はありません。

「かが」後部にはSeaRAM(近接防空ミサイル)が設置されています。
ファランクスCIWSと似ていますが、それもそのはず、設計を踏襲しているのだとか。

この反対の右舷側にはCIWSがあって、解説の方は

「ミサイル(SeaRAM)と銃(CIWS)」

とあっさり説明していました。

護衛艦「いなづま」と敷設艦「むろと」が並んでいます。

先代の艦番号482も名前は「むろと」で、本艦は4年前の2013年から就役しています。
先日「そうや」という名前の機雷敷設艦があったという話を高松で伺いましたが、
敷設艦の命名基準は「岬」なので、「そうや」は

「つがる」「むろと」「えりも」

という流れで、宗谷岬からと付けられたことになります。

南極探検でおなじみの「宗谷」はどうも海峡の方からみたいですね。

ただし、敷設艦といっても「そうや」以外、この「むろと」もですが、
電纜敷設艦(でんらんふせつかん)といって、水中機器やケーブルを敷設するものなので、
掃海隊群ではなく、海洋業務・対戦支援群の所属になります。

色々と秘密なものを敷設する関係上一般公開はされませんし、その任務についても
自衛隊以外に詳細が伝わることがない怪しい艦です。

そもそも、海洋業務以下略という群そのものが

「対潜水艦線に必要な海洋データ(水質、水温、潮流、海底地形等)を
収集・分析・研究して護衛艦、航空機に資料として提供することが主たる任務」

ですので、いわゆる一つの潜水艦隊ばりに秘密の塊だったりするわけです。
もちろん「むろと」の任務も明らかにはされていません。

ここに勤務になっている幹部の前職とか見てると、他から来た人はほぼゼロ。
全員が海洋業務群出身で、いかに特殊な職かが現れている気がします。

アレイからすこじまが見えてきました。
夕方なので、潜水艦がほぼ全部帰ってきて繋留されています。


最近某所で呉の古地図をみる機会があったのですが、驚きましたね。
この呉軍港のあたり、全部海だったんですよ。
今陸地になっているところを埋め立てて港にしてしまったのは海軍だったのです。

この近辺もそうで、昔は海の中に「鳥(からす)小島」なる島があった場所でした。
多分カラスの巣になっている小さい島があったのでしょう。
島でもないのになぜ「小島」なのかという理由を初めて知りました。

かつて海だったところには今では岸壁ができ、潜水艦基地となっています。

 

この2隻も、実は海洋業務群所属となります。

「ひびき」と「はりま」は、海洋業務・対潜支援群の第1音響測定隊所属。
こちらも謎のベールに包まれた「音響測定艦」となります。
命名基準は「灘」。

音響測定艦だから「ひびき」をつけることを前提に、灘に決まったんでしょうね。

ちなみにこういう特化した名称の軍艦を持っているのは日本国自衛隊だけで、
例えばアメリカ海軍では単に「海洋監視艦(Ocean Surveillance Ship)」だそうです。

こちらももちろん潜水艦探知を行うわけですから、日頃の訓練においては隣の潜水艦群とは
「天敵」ということになります。

潜水艦基地があるので、音響測定艦も敷設艦もここ呉に置かれているのだと思うのですが、
対潜部隊の隊員と潜水艦隊員とは仲が悪い・・・なんてこと、あるのかな(笑)

護衛艦「あぶくま」と訓練支援艦「くろべ」。

訓練支援艦とは、対空射撃訓練支援用の艦で、無人標的を射出する役目です。
先ほどの「しらゆき」は練習艦として最初の女性艦長が就任しましたが、
こちらは1990年に最初の女性自衛官が通信士として乗り組んだ自衛艦であり、
「しらゆき」より5年も前に、同じ女性隊員が艦長になっています。

「しお」型潜水艦の横を通りかかったら、舷門で番をしている海士くんが
こちらから盛大に自衛艦旗を降るのに答えて手を振ってくれました。

「わーい!手を振ってくれてる!」

喜んで一層大きく旗を振り回すわたし。
気がつくと、右舷側に一列に座っている中国軍も手を振ってました(笑)

ただし向こうからはきっちり双眼鏡でチェックされていたようです。

ところで今更気がついたのですが、自衛艦旗って基本航行中は掲揚だけど、
潜水艦は揚げなくてもいい、となってるんでしょうか。

X舵(左)と十字舵(右)。

「はえー」という感じで我が日本軍の艦艇群に見とれる中国軍団。
独裁国家である貴国の軍には、軍施設を気前よく外国人に見せる度量はまずあるまい(笑)

ちょうど潜水艦基地の前で船が向きを変えた頃、夕日が沈み始めました。

船のデッキ後方には船上で振るための旭日旗の小旗が用意されています。
当然ながらわたしとTOは一本ずつ手にして、人の姿が見えると振りまくっていたのですが、
案内の方からは

「自衛艦旗降下のときには振らないでください」

と前もって注意がありました。

中国人たちはわたしたちが旗を振るのをまじまじと見ていましたが、
さすがに自分たちが手に取ることはしませんでした。

「むろと」の艦首では、艦首旗降下の用意です。
艦首旗は日没と同時に降下されます。

「いなづま」は海曹二人で降下を行うようです。
旗の降下に当たっては、自衛艦旗はもちろん艦首旗も、それを扱う者は必ず
作業服から制服に着替えて行います。

このとき初めて知ったのですが、このようにたくさん艦艇があるところで
自衛艦旗の掲揚降下を行うとき、合図を出す役割の艦艇があります。
その艦が揚げるのが、この黄色とブルーの旗。

これをなんというのか、説明があったのですが聞き逃してしまいました。
この旗の動きを見て、「時間!」という、とか決まっているのでしょうか。

ちなみに、マストに上がっているのは代将旗。
掃海隊群司令、護衛隊群司令又は練習艦隊司令官たる1等海佐の乗り組んでいる自衛艦に揚げられます。

「かが」の後方に差し掛かるとき、降下の準備が整い、合図を待つ状態でした。

「いなづま」の乗組員は皆上陸してしまったのですか?

「かが」の後方を船が差し掛かったとき、「じか〜ん!」と
声がかかりました。
たくさんいるので、どこの艦艇の声が聞こえてきたのかはわかりません。

「かが」の甲板にはさすがに何人か人がいるんだろうなあ。 

「うみぎり」には呉阪急ホテルで二回も半熟卵を乗っけた「うみぎりカレー」を
食べたという関係で、大変親しみを感じております。

オランダ坂の上には当直士官がやはり白い制服で立ち、格納庫には
作業服の隊員たちが敬礼をしているのが確認できます。

着替えるのは旗を扱う三人とラッパを吹く人だけでいいみたいですね。

「ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソミードドドー
ソーソソソーソー ミードーミードー (繰り返し)
ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソミードドドー」

おなじみの喇叭譜「君が代」が、軍港中の艦艇、それこそ
小さな掃海艇から巨大なヘリ搭載型護衛艦に到るまで、呉軍港中の艦艇から
少しずつずれて聞こえてきました。

 

わたしのような人間にとって、これを至福の時と言わずしてなんというのでしょうか。
呉においては、海軍がここを文字通り「作って」以来、ごくわずかな間をのぞいて、
同じ場所で、同じ時間に、同じ旋律が1日2回連綿と奏でられてきたわけですから。

ちなみに現在でも海上自衛隊で使用されている「君が代」は明治28年に制定された
信号喇叭譜の第一号「君カ代」と全く同じものです。

 

余談ですが、これに対し、陸空自衛隊は警察予備隊ができた時

「旧軍のものは一切使用しないで、新しい感覚で」

と念を押されて急遽警視庁音楽隊によって作曲されたものを使っています。
元東音隊長の谷村征次郎氏によると、これは

毎日国旗の掲揚降下をする習慣がなかった陸軍出身者ばかりだったので
あまり抵抗がなかったものと思われる

ということですが、旋律の出来そのものについては作った本人がのちに

「まあおざなりのものを作ったがあれだけは今でも気が咎めてならない。
あれは旧に復するべきと思う」

と言っていた(−_−)とも著書に書かれています。

陸上自衛隊 ラッパ君が代

さて、あなたはどうお感じになりますか?

ちなみに陸軍で演奏されていた時、「君が代」は今の海自のテンポよりかなり早かったそうです。

「ドーミドー」

自衛艦旗降下終了です。
「しまゆき」には降下と同時に電灯が点きました。

そして港に帰ってきた頃、「てつのくじら」のフィンが光っているのが見えました。
夜になると「てつのくじら」は識別灯を点けるんですね!

その晩は「五十六」で夕食を取りました。

たっぷりのシラスが乗った冷奴(木綿)とか。美味しかったです。

おまけ*帰りの飛行機から見えたこの可愛い島は・・?

 なぜかこの日はすぐ近くに「風の塔」が見えました。

 

みなさん、呉に行ったら、ぜひ夕呉クルーズに!
旧軍からの海軍伝統を体感できるこの艦船めぐり、熱烈おすすめいたします。

 

 

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幻の駆逐艦「岩波」と「41フォーフリーダム」〜サブマリンミュージアム グロトン

2017-06-16 | アメリカ

コネチカット州はグロトンにあるサブマリンミュージアム、
前庭にある残りの展示品を全て紹介していくことにしましょう。 

サブマリンミュージアムの正確な名称は、

The United States Navy Submarine Force Library and Museum
(アメリカ合衆国海軍潜水艦隊図書館・博物館)

と言います。
実は展示もさることながら、潜水艦に関する蔵書や資料が閲覧できる
図書館となっており、その隣の潜水艦隊の軍人がしょっちゅうここに
出入りしている様子なのも、このためなのではないかと思われました。

テムズ河畔はご覧のように崖の山が迫っていて、
それゆえ水深が深く、潜水艦母港に選ばれた地形なのだと思いますが、
ミュージアムの敷地に迫った小高い崖の上にはマストが立てられ、
国旗の両側に、潜水艦隊旗と博物館の旗が掲げられています。 

創設は1955年。
元々は、ゼネラル・ダイナミクス社エレクトリックボート部門が、
当社で手がけた潜水艦などの資料を展示しているだけの博物館でした。

このゼネラルダイナミクス社の創業者はジョン・フィリップ・ホランド


この名前、聞いたことあるでしょう?
そう、SS−1となった米海軍最初の潜水艦「ホランド」にその名前を残す人物で、
GD社の最初の社名は

「ホランド魚雷艇会社」(Holland Torpedo Boat Company)

といいました。
1964年に博物館と図書館が海軍の潜水艦隊に寄付され、
そのときにここニューロンドンのグロトンに展示物が移転し、
元から海軍が持っていた展示品と合わせて公開されることになりました。

その後、引退した原潜ノーチラスが譲渡されてここに展示されることになり、
潜水艦博物博物館としては世界でも有数の規模となったのです。 

一度ご紹介しましたが、ミュージアム建物の前には

敵対艦潜水ミサイル UGM-84

が実に躍動感を感じさせる飛翔の様子で展示されています。 

崖を背に、そびえ立つポラリスA-1ミサイル

ポラリスは冷戦期にロッキード社が開発した潜水艦発射弾道ミサイルです。
2段式であり、固体推進薬を使用し、核弾頭を搭載していました。

前にもニューヨークのイントレピッド博物館にあった潜水艦に
搭載していたこのポラリスについてお話ししたことがあります。

ついでに、JFKがこれを最初に搭載した潜水艦を見学したとき
腰の悪い大統領のためにハッチにエレベーターをつけた話もしましたっけ?

ポラリスもポセイドンも過去のミサイルとなり、
現在の潜水艦ミサイルの主流はトライデントで、他には英海軍が運用しています。

ポラリスミサイル発射管のハッチです。
赤い凹と凸の組み合わせが実にアーティスティック。

USS SAM RAYBURN (SSBN-635)

の16の発射管のうちの3番管のハッチです。
原潜「サム・レイバーン」は1989年に除籍になりました。
廃艦の背景には、第二次戦略兵器制限交渉を受けて
原潜を削減すると決まった、という政府の決定があります。 


5インチ艦砲は、見ての通り、第二次大戦中の潜水艦の搭載。

USS FLASHER (SS-249)

はガトー級潜水艦で、この博物館を当初運営していた
ゼネラルダイナミクス社の建造によるものです。

ところでこの「フラッシャー」にはこんな逸話があります。

「フラッシャー」は1945年9月の就役後、対日本戦で大きな戦果をあげました。
あげすぎて、

 第二次世界大戦において10万トンを超える敵艦を撃沈したアメリカ海軍唯一の潜水艦

つまりアメリカ海軍でナンバーワンの潜水艦ということになっているのですが、
この記録には一部捏造操作があるらしい、じゃなくてあるのです。


それはこういうお話。

「フラッシャー」は帝国海軍の駆逐艦「イワナミ」を撃沈したことになっており、
そのため撃沈総量が10万トンを超す大台に乗ることになりました。

んが、そんな名前の駆逐艦はそもそも存在もしていないのはみなさんご存知の通り。
(多分岩波書店を知っているアメリカ人がいたんじゃないかな)

ところが「フラッシャー」、当時の情報システムではバレないと思ったのか、
しれっと駆逐艦「イワナミ」をカウントしたばかりでなく、戦後も
その記録を抹消せず現在に至ります。

いや、抹消しようよ。

もうインターネットで調べれば誰でもその嘘がわかる時代になったのだから、
いい加減に数字を訂正しておいた方が身のためだと思うんですが。

「イワナミ」がカウントされなければもしかしたらランクが下がるとかで
意地でもこのまま行こうと思っているのかもしれませんが、
それでは同時に捏造の証拠も残ってしまうんだけどそれはいいのか。

手前のアンカーは、

USS STURGEON (SSN- 637)

のもの。
変わったシェイプをしていますが、潜水艦の艦体に
ピタリと張り付くような形をしているのだそうです。 

スタージョン(チョウザメの意)もエレクトリックダイナミクス社の建造で、
ここグロトンで生まれ、ニューロンドンを母港としていました。 

冒頭写真にもあげましたが、我が日本の艦船と事故を起こしたことがある

USS GEORGE WASHINGTON (SSBN- 598)

のセイルです。
1981年、東シナ海で浮上したとき、日本の貨物船と衝突して貨物船は15分で沈没。
しかし事故発生から報告まで24時間もかかったことで日本側から非難が起きました。

米原子力潜水艦当て逃げ事件 

しかも、ジョージワシントンも、アメリカのPー3Cも乗員の救助を行わなかったため、
乗組員の救助のために護衛艦「あおくも」が出動することになりました。
この事故では、結局2人が行方不明となっています。

セイルにはこの事件の時に傷ができたというのですが、この角度からはわかりません。

ミュージアムのページにあるこの写真には、少し破損部分が確認できました。
(セイル後方に波打っている部分)

これが日本船と激突した跡か・・・・・・。


セイルにはポラリスミサイルのシルエットが16描かれていますが、
これは撃墜マークのようなものではなく、単に十六発のミサイルを
この潜水艦は搭載しているという意味だと思われます。

「ジョージ・ワシントン」はアメリカ海軍で初めて弾道ミサイルを
搭載した潜水艦であったので、それを誇らしげに表現したのかもしれません。 

こちらはあの!原子力潜水艦「ノーチラス」のプロペラ。

夏に見学した時には最初の原潜「ノーチラス」について
色々とお話してきたので改めていうまでもないですが、彼女は「オペレーション・サンシャイン」
で、南極の氷の下を潜り、北極点に達するという偉業を成し遂げた原潜です。

このプロペラで、通信が途絶え、少しでもミスると艦体をこすって全員おしまい、
というような狭い氷のトンネルのような海底をくぐり抜けていったのです。

 

館内には天井から吊られたトマホーク巡航ミサイルを見ることができます。
ミサイルが潜水艦から最初に水中発射されたのは1982年のこと。

水中を巡行して海面に達したトマホークミサイルは、その翼を広げ、
そのまま空高く飛翔していきます。(なんか詩的な文句だな)

そしてコンピュータと人工衛星のコントロール下、目標に到達し、爆破します。

説明がありませんでしたが、レバーの形状から察するに潜望鏡のスコープ部分でしょう。

これでテムズ川を眺めることもできます。
ちなみに川はこの位置からはずっと右手を流れているのですが、
この部分は入り組んだ川溜まりで、沼のように水が溜まっています。

 

再び外に出てみましょう。

フォーティワン・フォー・フリーダム(自由のための41隻)

と書かれたモニュメントがあります。
アメリカ人は国を護るという言葉を「自由を得る」と言い換えるのが好きです。

で、この41隻とは何かというと、

ジョージ・ワシントン級原子力潜水艦 SSBN598〜602 

イーサン・アレン級原子力潜水艦 SSN608〜618 

ラファイエット級原子力潜水艦 SSBN616〜626 

ジェームス・マディソン級原子力潜水艦 SSBN627〜636 

のことで、現役当時からこれが彼らのキャッチフレーズだったようです。
全部足しても数が合わなかったのですがまあいいや(適当)


ちなみにジョージ・ワシントン級は初の弾道ミサイル原子力潜水艦です。

艦隊弾道ミサイル潜水艦(FBM: Fleet Balistic Missile Submarine)

というのが正式名称で、1959年12月に1番艦が就役して以来、
冷戦期のアメリカに、巨大な核火力と強力な抑止力をもたらしました。

1960年代のマクナマラ国防長官の核抑止政策のもと、

「自由のための41隻(41 for Freedom)」

は冷戦下の水中核戦力におけるアメリカの優位の維持に寄与したといわれています。

潜水艦ミュージアムは、誰でもこのレンガに名前を残すことができます。
博物館の支援システムで、一番小さなレンガがわずか125ドル。 

大きなレンガでも275ドル!
少しだけ心が揺れ動きましたが、だからといって縁もゆかりもないここに名前を残しても、
と思い、
すんでのところでレンガ購入を断念しました。

日系人らしい家族のもの、ノーチラス乗員だったと称する人のもの、
ETCM SS、つまり潜水艦技術者のチーフだった人・・・・。

「4隻のボートを助けた」

と自分の海軍時代の功績を盛り込んでいるものもあります。

ミュージアムのお土産ショップには楽しい潜水艦グッズがたくさんあり、
わたしは潜水艦基地のマグカップと潜水艦模様の入ったカードを買いました。

もし潜水艦乗員の知り合いがいたらお土産に買って帰りたかった
駐車場のノーティスボード。

 
”潜水艦乗員専用駐車場

違反者には魚雷発射いたします”

 

 

 

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掃海艦「はちじょう」除籍〜最後の舫を放す手

2017-06-15 | 自衛隊

調達艦、除籍艦のリストを見つけました。

本年度に除籍になる掃海艦艇は、今回お伝えしている
掃海艦「はちじょう」一隻だけとなりますが、ただし来年に就役予定の

「あわじ」型掃海艦「ひらど」

が今年進水を行い、ことしの調達にカウントされることになるので、
掃海艦艇の総数は23隻のまま変わらない予定です。

ここで今後10年の掃海艦艇の調達&除籍情報を書いておきます。

(ただし、お節介船屋さんのご指摘を受けて改めて中期防衛力整備計画の資料を見たところ、
掃海艦艇の増減には触れられておらず、護衛艦6隻、潜水艦5隻、その他5隻としか
記載されていなかったので、以下資料が防衛大綱からの引用でないことをお断りしておきます。
資料の確実性については、引き続き調査していきますので、とりあえずこのまま掲載します)


17年度 【掃海艦艇23+1-1】 就役:ひらど(除籍:はちじょう)

18年度 【掃海艦艇24-3】 就役:なし(除籍:くめじま すがしま のとじま)

19年度 【掃海艦艇21-1】  就役:なし(除籍:つのしま)

20年度 【掃海艦艇23+1-3】就役:29MSO(除籍:ゆげしま ながしま なおしま)

21年度 【掃海艦艇21+1-1】就役:30MSO(除籍:とよしま)

22年度 【掃海艦艇21+1-2】就役:31MSO?(除籍:うくしま いずしま)

23年度 【掃海艦艇20+1-1】就役:32MSO?(除籍:あいしま)

24年度 【掃海艦艇20-2】  就役:(除籍:あおしま みやじま)


この間、高松で乗った「つのしま」も、隣にいた「あいしま」も、
何年かの間には除籍することが決まっているわけですね。

掃海艦艇の寿命は、一般的に掃海艦、及び掃海管制艇で24年、
掃海艇ではそれより大幅に短い20年となっているようです。
FRP素材になって寿命が延びたと思っていたのですが、思ったより
掃海艇の予想寿命が短いのに少しビックリです。

この表を見て気がつくのが、調達予定とされているのが、
退役していくのが全て掃海艇なのに対し、「?」の部分も含めて
全てが MSO、掃海「艦」であることです。

これは、これからの機雷掃海は掃海艦が主流になっていくと考えていいのでしょうか。

この資料によると、今後の10年で掃海艦艇はこれまでの上限25隻から、
7隻も減少の18隻体制になっていくとのことです。

これは掃海という業務そのものの規模が縮小するということなのか、
艦艇一隻の掃海能力が向上したということなのか。

(この部分の数字については、中期防衛力整備計画のP31に記載) 

ところでついでに、皆さんも興味をお持ちだと思うので、この際
護衛艦の調達と除籍計画についても転載しておきます。

2017年度 【護衛艦46+1 】 就役:あさひ(除籍:なし)

2018年度 【護衛艦47+1】  就役:26DD(除籍:なし)

2019年度 【護衛艦48+1-2 】 就役:27DDG(除籍:やまゆき まつゆき)

2020年度 【護衛艦47+1-3 】 就役:28DDG(除籍:せとゆき あさゆき しらゆき)

2021年度 【護衛艦45+2 】就役:30DX×2(除籍:なし)

2022年度 【護衛艦47+2 】就役:31DX×2(除籍:なし)

2023年度 【護衛艦49+2 】就役:32DX×2(除籍:なし)

2024年度 【護衛艦51+2-1】就役:33DX×2(除籍:はたかぜ)

 
いかがでしょうか。
これからわかることは、掃海艦艇の縮小に反比例するように護衛艦数は増し、
現在の基本47隻体制から54隻までの増加を目標としているということです。

こちらも一般的な寿命を書いておくと、「はつゆき」型が34年、
それ以外が39年ということになっております。

少し時間を戻して、艦番号塗りつぶし作業の時に見守っている人々。
ほぼ全員がカメラ持ちでしたが、そんなにたくさん残っているわけではありません。

さて、艦番号の塗りつぶし作業が終わりました。
いきなり生気を抜かれたが如くの姿になってしまった(と感じる)「はちじょう」が
いよいよ最後に岸壁を離れる瞬間が近づいてきています。

燃料がほぼない状態で、岸壁から繋留地点まで引かれた「はちじょう」は
解体業者に引き取られる日まで、わずかな時間を港内で過ごしますが、
岸壁をそれで塞ぐわけにはいかないので、どこか邪魔にならないところに繋ぐようです。
確認はしていませんが、おそらく投錨せずに繋留するのでしょう。

 

前回ご紹介した横須賀海軍カレー本舗さんは、解体される前になんとか
木製の艦体の一部を欲しいものだとおっしゃっていましたが、それは
もはや自衛艦籍のなくなった艦のことなので、自衛隊ではなく、そのあとの
解体業者との話になってくるはずです。

最後の木造製掃海艦の木の一部、ぜひこの世に残して欲しいものですが・・。

オレンジのカポックをつけた港湾業務の隊員たちがその準備中。
操舵室の上とかに立ってる人がいますが何をしているんだろう。

左舷側にはもう曳船がスタンバイしているようです。

先ほどまで艦名と艦番号の塗装作業を行なっていた隊員たちが、
番号がなくなった艦体の前で最後に集合写真を撮っていました。

 

撮っているのはミカさん(仮名)ですが、彼女に自分の携帯を渡して撮ってもらっています。

彼らの後ろの艦上では作業が進み、杭から舫が外されつつあります。

舳先から出ている舫の先には、女性隊員が確認のためか舫を外すためか、
(こちらは違うことがあとで判明)立っています。

向こうに立っている男性は、初回にもお話しした最初の木造製掃海艦である
「やえやま」の初代艦長を勤めた方で、昨年その「やえやま」が除籍になった日も
やはりこの同じ岸壁から、その最後の姿を見送ったと聞きました。

初代艦長は、ほとんどの来賓や関係者がいなくなってからも岸壁に立ち続け、
さらには全員で基地をでた後にも、フェンスの外から、引かれていく
最後の「やえやま」型掃海艦、「はちじょう」の艦影を見つめておられました。

まるで少しでも長くその姿を記憶にとどめようとするかのように。

艦上の曳航準備が整い、ついに最後の舫が放たれる時がやってきました。
塗装作業をした「はちじょう」乗組員が、それを行います。

この舫を外せば、残る陸との繋がりは艦首の一本だけになります。

「はちじょう」が最後に陸とつながっていた絆を放つ作業。
出航する時にはいつも艦上にいた乗組員にとって、岸壁から「はちじょう」の舫を外すのは
もしかしたら最初で最後のことだったかもしれません。

艦上の作業員は日常の任務としてそれを行なっているという様子でしたが、
地上から舫を離した隊員の左手に、わたしは万感の過る一瞬を見た気がしました。

そして最後の舫を乗組員二人で一緒に取り、同時に手離した瞬間。

さほど大きくない掃海艦(しかも燃料も機材も外した状態)は、
タグボートの索たった一本で軽々と岸壁を離れ、動き出しました。

艦上の人たちは繋留地点に到着したら・・・あれ?どうやって戻るんだろう。

1、タグボートに縄ばしごで乗り移る

2、輸送船がお迎えに行く

3、最後の力を振り絞って「はちじょう」が救命ボートを下ろす

4、泳いで帰る

あー、最後まで見ていればよかった。

ペンキを塗っていた人数からさらに減って、この3名が最後に舫を離しました。
正式に決まった儀礼ではないと思いますが、「はちじょう」を見送るようです。

もう自衛艦籍になく、艦名も艦番号も消された今、これは「はちじょう」ではなく、
そうであったところの除籍艦ですので、艦上からもなんの挨拶もありません。

見ている三人も、会話しながらとリラックスした佇まいです。

岸壁を離れてすぐ、敬礼しながらの記念写真を撮ってもらう一人。

「敬礼なしでも撮ってね」

 

こうしてこの日、わたしは掃海艦「はちじょう」の最後を見届けました。
最後に、元掃海隊指揮官だった方のメールの一部をご紹介して終わりたいと思います。

 

自衛艦は、艦旗を掲揚し、乗員が乗り組むことにより命を与えられ、
そして旗を降ろし、乗員が去るときに命を閉じるように感じます。

船の乗組員になることは、飛行機や車を操縦したり、乗り降りすることとは、
かなり違う次元のことだと思います。

宇宙船と同じく、そこは命のカプセルのように、外界から独立して自己完結する世界です。

海の上で勤務する者にとって、最大の“敵”は、海であり、大自然です。
陸棲生物である人間が、海で生活するのですから、当然です。

そうした感覚が、海軍軍人をして、国籍を問わず、敵味方を問わず、
「Blue Mafia」という信条の絆や、独特の共通した雰囲気や
面差しが生まれるのではないかと思います。

「スマートで、目先が利いて、几帳面で、負けじ魂」を持っていることは、
海の怖さを知り、海と共に生きるための知恵であると思います。



終わり。

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掃海艦「はちじょう」除籍〜艦名と艦番号 塗装抹消作業

2017-06-14 | 軍艦

去る6月6日に除籍になった掃海艦「はちじょう」の自衛艦旗返納式について、
お話ししています。


さて、こんな時でないと掃海艦についてお話しする機会がないので、
前回の防衛装備調達のためのカバーストーリーという話題についてもう少し。


当時、自衛隊は、新型掃海艦のあるべき姿を米海軍の掃海艦「アベンジャー」
その目標として据えていた、といわれています。
そのため、「頭脳」に相当する戦闘指揮システム、「目」であるソナー、レーダー、
「手」たる機雷処分用の水中ビークルを米海軍から一括導入しようと考えていました。

もちろん国産化の努力はしてきたものの、技本でのS-7、S-8の開発に失敗し、
一旦断念することになったので、やむをえず、といったところでした。

当然ながら予算がかさんでどうにもならなくなり、結局米海軍からの調達は

「全く実現性のない深々度対応のソナーと軍用GPSを除き」

断念することになりました。
(つまりこの二つは米海軍から調達したってことですねわかります)

 

ともあれ、これで深々度機雷排除能力を持つ掃海艦が
極東地域にも存在することになった!と大喜びしていたら、
あれよあれよとソ連は崩壊し、自動的に冷戦は終了してしまいました。

つまり掃海艦導入のための建前は結果として建前のまま終わったのか?

それについて、掃海艦の建造に関わる元海幕の装体課にいた元自衛官は
このようなことを言っています。

「ソ連は西側との軍拡競争で経済的破綻を来して破れた。
つまり、地勢的な特徴を鑑み自衛隊が配備した兵力は、これもまた
ボディブローのようにその破綻に効き目を表したのである。

我々は兵力整備をもって冷戦を戦い、勝ったと言っても過言ではない

 

正直、当初の建前とは全く別方向の勝利宣言という気がしないでもないですが、
冷戦というものを大きな目で見た場合、要するに宇宙開発を含む
軍拡競争による米ソの潰しあいという構図であったのは歴史の示すとおり。

その中でどの程度ソ連が日本の配備に対抗して「浪費」したのかは今となっては謎です。
しかし、あの石原莞爾の言葉を借りれば

「槌は槌でも小さな槌」(笑)

ながらに、とにかく自衛隊は勝利の鉄槌の一部となり得たということでしょうか。

さて、記念撮影、胴上げが終わり、掃海艦建造に携わった人々が甲板で別れを告げると、
自衛艦除籍において、ある意味もっともドラマチックといっても過言ではないイベントが行われます。

総員退艦したはずの艦上にまだ白い制服の乗組員の姿が見えますが、
これは最後の点検をしているのかもしれません。

そう、コメント欄でも予告をいただきましたし、先日の元艦長と横須賀カレー本舗の方が
「はちじょう」プレートを受け渡ししているシーンの後ろにも写っていたように、
除籍艦の艦体に書かれた艦名と艦番号を塗りつぶすという作業です。

先ほど退艦し、白い制服から作業用のブルーのつなぎに着替えてきた何人かが
なんの予告もなく、サクサクという感じで作業に入りました。

いわゆる来賓とか高級幹部の皆さんは、この時すでに岸壁から姿を消し、
(おそらくどこかで昼食会か何かがあったのだと思う)
赤リボンをつけてうろうろしているのはわたしだけでしたが、
カメラ関係の方々は、自衛艦旗降下と同じくらいこのシーンを待ち望んでいたはずです。

塗りつぶし係?の隊員たちは、灰色のペンキを長いローラーに付け、
艦尾の「はちじょう」から消していきます。

「やばい、『ちじょ』になった」

この瞬間近くのカメラ持ちがツッコミを入れていました。
おじさん、頭に浮かんだことをなんでもいっちゃう人とみた。

上にペンキを載せるのは案外に簡単な作業らしく、あっという間に艦名は消えていきます。
二人でほとんど全部消してしまいそうになったとき、左端で見ていた隊員くんが
最後に自分もやらせてほしい、といったらしく、ローラーを受け取りました。

「『はちじょう』艦名塗装作業、終わり!」(^_^)v

続いて同メンバーによる艦番号の塗りつぶし作業、かかれ!

・・・なのですが、さて、どうやって塗りつぶすかねー、とまずは
作業計画について皆さんで相談しているところ。

「3」は岸壁からなんとかなるのですが、右二つはブラシが届きません。

ちょうどタグボートが到着しました。
作業が終わった「はちじょう」を岸壁からドナドナしていくための船です。

それを見ながら隊員さんたち、

「(岸壁と艦体の間に)船入りませんかね」

「マストが舫に引っかかるからダメだろう」

自衛隊でも現場ではこんなこと言い合っているなんてと、親近感を持ちました。
そんなもんわたしでもダメに決まってると思うぞ。

「おい、海に落ちるなよ!」

という声をかけられつつ、とりあえず右端にブラシが届くかチェック。
やっぱり無理みたいです。

この時、もし彼が海に落ちたら、溺者救助がどのように行われるのか、
そういう事態を見てみたいと瞬間ですが思ったことをここに懺悔します。

岸からは無理ということがわかり、甲板から塗ることが決定。
隊員が急いで甲板に上がり、長いブラシを受け取ります。

おお、これならなんとか上から消すことができそうだね。
ただしこの態勢はものすごい腹筋と腕力を駆使していると思われ。

みている方は簡単だけど、こんなことを普通にできるのも、
彼らが常日頃走りまくって体力をつけているからこそ、ってことで、
わたしは自衛官の鍛えっぷりを垣間見た気がして猛烈に感動していました。

ちなみに全くこちらからは見えませんが、向こう側の艦番号は横付けした船上から塗ったようです。

応援が駆けつけ、落ちないように足を抑えてくれています。

「艦番号を塗りつぶす」

という作業に記念としてぜひ関わりたいという方もおられます。

一度でいいからこの作業をやってみたいと熱望していたミカさん(仮名)に
ついにその願いが叶う日がやってきました。
作業前最初のひと刷毛を塗るローラーを隊員に持たせてもらったのです。

「落ちないでくださいね!」

今度は先ほどよりも真剣な声があちこちから飛びました(笑)

岸壁の周りはこの通り、いかにも凶暴そうなくらげだらけだし。
しかし次の瞬間、

「お、重〜〜い!」

という彼女の叫びが・・・・・・・。
乗組員たちがなんてことない顔で持っていたローラー、言われて見れば
先端部分は金属製で、それがこんな長いのだから重いのは当たり前。

自衛官が使う作業用グッズは、基本一般ユーザーに全く配慮してません・・。

皆がハラハラしながらみていると、なんとか苦労して艦体にひと刷毛を刻みました。

わたし「全然消せてないし」

本人「内心番号を消したくないという心理の表れってことで・・・・・」

甲板からのローラー班は、苦労しつつもこのまま右二つの数字を消すことができそうです。

ふと気づくと、甲板にオレンジのベストをつけた隊員たちがたくさん上がってきていました。

 

この後、岸壁を離れてタグボートで繫留海面(岸壁にはつけないらしい)に
ドナドナするための作業を行う港湾の隊員たちが乗り込んで作業をしているのです。
舫は最後のものを残してもうはずし始めています。

このタグボートには「はちじょう」乗員らしき二人が乗っていました。
左舷側の艦番号塗りつぶし作業は終了したようです。

ベルト部分を持ってもらって「3」の上は消しましたが、この先が届きません。

岸壁に寝そべり、ブラシを思いっきり突き出して残りを。
これなら落ちる心配はなさそうですが、後ろの人が足を抑えていました。

自衛隊のカメラマンも記念にひと刷毛。
最初カメラを下げたまま塗ろうとしましたが、さすがにそれは無理ってもんでしょう。

ベルトを掴んで引き戻してもらっていました。

「俺も俺も〜」

こちらの海曹さんは後ろから抱きしめてもらう「タイタニック」スタイルで。

BGM ♪えんだ〜いやああ〜♪ ってそれは「ボディガード」や。

岸壁からの最後の塗装はこんな体勢で。
寝そべっている隊員さんの作業服にはペンキのシミがたくさんついていますが、
これはペンキ塗り作業専用の作業服ってことでしょうか。

これで元の番号がすっかり読み取れなくなりました。
最後に、うっすら残っていた白い部分を消して、作業終わり。

艦番号のなくなった「はちじょう」をバックに、副長が最後の記念写真を撮っておられました

 

いよいよ最終回に続く。

 

 

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掃海艦「はちじょう」除籍〜甲板の上の男たち

2017-06-12 | 自衛隊

 

さて、掃海艦「はちじょう」除籍に伴う艦旗返納式のレポートに戻ります。

前回、現場では聞き取れなかった艦長の「〇〇を解く」の◯に入るのが
「指揮」であることを、unknownさんのコメントでも教えていただいたわけですが、
これは、艦長たる指揮官が今まで「指揮を取っていた」状態から、

総員が艦艇の除籍と同時に「指揮を解かれる」ことになることを宣言しているのです。

ちなみに着任の際、指揮官は例えば

「海軍中尉エリス、ただいまから掃海艇『ちびしま』の指揮を執る

と宣言し、離任に際しては、「指揮を解く」ということになるのです。

なお、前回戦車や飛行機、無人のSAMなどに、このような儀式がない理由について
ブログ上で疑問を呈したところ、

「そこが“住み処”であるや否や」

がその分かれ道ではないか、というご意見をいただきました。

この話が大変興味深いものであったので、そのまま転載させていただきますと、


護衛艦や掃海艇、潜水艦勤務の発令は、

「護衛艦〇〇乗り組みを命ずる」

です。
科長以上は「補職の職」となり、

「護衛艦〇〇□□長を命ずる」

になります。
乗り組みの士官、乗員とも、船が勤務場所であり、家:住み処になり、
居住区があり、風呂も食堂もあり、食事も支給されます。

住民票も船の定繋港がある場所、例えば「はちじょう」乗員ならば、
横須賀市田浦港町国有無番地というところに届け出ます。

従って、「乗り組み手当」が支給されますが、独身者には、
下宿を持っていても、住居手当も通勤手当も支給されません。

ただし、保護すべき(養育する)家族ができた場合は、
そこに住むことが認められ、住居手当は出るようになりますが、
やはり本人は船に起居することが義務づけられているので、通勤手当は出ません。

船乗りにとって、船は単なる職場ではなく、海に生きるために乗員の命を守る住まいであり、
乗員は一家であり、憩いの場でもあり、究極のときは死に場所なのです。

戦闘機や戦車が同様に“死に場所”であっても、そこで日常を過ごしたり、
年月の単位で乗っていることはないでしょう。

こうして考えていただくと、船がどんなに特殊な勤務場所がわかっていただけると思います。

 

独身者は船に住むことを義務付けられるため手当が出ない、というのはかなり驚きました。

ともあれこのような船乗りの思想が根底にあるからこそ、艦艇の就役にも除籍にも、
いろんな思いと願いを込めた丁重な儀式が必要となってくるのでしょう。

 

さて、護衛艦旗返納の儀式が終わり、乗員が皆で記念写真を撮ったところからです。
この後、来賓と幹部の記念写真撮影が行われ、わらしべ長者並みにトントン拍子の()
偉い人扱いを受けていたところのわたくしも、一緒に写真に収まり、式典は終了しました。

写真を撮り終わった乗組員は全員でまず艦長を胴上げ。
周りの人たちも胴上げに合わせて手を挙げています。
実際に胴上げしているのは六人くらいでしょうかね。

「え?次、俺?」

階級が見えませんが先任伍長かな?

急いで写真撮影台の上から撮ったのですが、艦長ほど高くは上がりませんでした。
その理由は主に体重いや何でもない。

式典の間と違って、自衛官も自由に写真を撮ることができるので、皆が
スマートフォンで「はちじょう」最後の姿を収めていました。

改めて喫水線を見ると、燃料と機材がなくなった「はちじょう」のそれは、
こんなに艦体が浮き上がっています。

燃料は式典のため岸壁に横付けするだけのギリギリしか入っていなかったそうです。

23年もの間、何回も何回もペンキを塗り重ねられた艦首部分(ここだけ金属)は
地図のようなまだらな模様を艦体に浮かび上がらせています。

ここ倉島岸壁には自衛艦以外の船もいるようですが、敷地内工事現場の土を運搬するためでしょうか。

掃海関係の幹部だけで記念写真を撮るようです。

掃討具、これはS−7 の1タイプとなります。
この「やえやま」型と「うわじま」型掃海艇が搭載している機雷処分具で、
中深度の掃海を行うために1990年に開発され導入されたものです。

魚雷型をしているのは、流体力学的により優れた形を追求したからで、
ここからも見えている先端部分には、

超音波水中映像装置(イメージング・ソナー)

が搭載され、映像を光ファイバーケーブルを通して取り込むことができます。

新しい掃海艇には日進月歩で新型の装備が搭載されるので、
おそらくこの掃海具も、艦体とともに廃棄処分になるのだと思われます。

先日ご紹介した週末の「よこすかワイワイのりものフェスタ」の時には、
吉倉桟橋に繫留してあった「うらが」がこの時にはここにいました。

掃海母艦として、「はちじょう」の除籍を近くで見守っていたのでしょう。

気がつきませんでしたが、もしかしたら「うらが」からは護衛艦旗の降下を
乗組員がともに見送っていた可能性もあります。

のりものフェスタの時、潜水艦「ずいりゅう」の横に立っていた潜水艦乗員に
散々「うらが」のことを質問して困らせていたおじさんがいましたが、
あのとき「うらが」は一般人に姿を見てもらうためにわざわざあそこに移動したのでしょうか。

それなら、「うらが」に興味を持ったおじさんのような人がいたということは
自衛隊にとって『狙い通り』だったという考え方もできます。

まあ、おじさんの場合は質問した相手が大いに間違ってたんですけどね。

別の桟橋には「えのしま」もいます。
今年の3月に「あわじ」型掃海艦のネームシップが就役するまで、最新型の掃海艦艇で、
むろん掃海艇としては未だに最新型です。

港に「軍港めぐり」の遊覧船が入ってきました。
風に乗って聞こえてくるアナウンスを垣間聞くと、船内では
先ほど「はちじょう」の除籍が行われ、護衛艦旗が降ろされた、
というようなことを言っているようでした。

式典に使われた式台には、「はちじょう」の艦名プレートが掛けてありました。
ラッタルに掛けるバナーと同じく、こういうものの行き先は決まっておらず、
そのときその時で手を挙げた人がもらえるらしいのですが、今回、
このプレート、誰が持ち帰ることになったと思いますか?

それは、わたしがのりものフェスタでも購入した「はちじょうカレー」を
「はちじょう」艦長、もとい、「はちじょう」最後の艦長と一緒に持って
一緒に写真を撮っている、こちらの女性です。

本日の式典に、わたしはミカさん(仮名)とこちらのミカさん2(仮名)、
三人でやってきたのですが、ミカさん2(仮名)は皆さんもご存知、
スカレーくんでおなじみ、横須賀海軍カレー本舗の方であります。

この時には、艦長にプレゼントするためにカレーを授与しているのですが、
その後、プレートの行き先を決める段階になって、彼女が、
というか横須賀カレー本舗さんがその引き取り先に決まったというわけです。

海自カレーは呉と同じく横須賀でも主に本舗さんで発売されていて、
「はちじょう」カレーも、レシピを「はちじょう」の給養部から直伝され、
それを再現したレシピをレトルト並びにレストランでも出しています。

横須賀カレー本舗

HPトップ中央に「はちじょう」カレーの説明が。

ここを見て、以前一度行ったことのあるミリタリーショップが
カレー本舗の経営であることを初めて知りました。

本舗のミカさんによると、除籍になっても「はちじょう」ポークカレーは
廃番にせず、永久配備を続けるそうです。

この「はちじょう」ネームプレートとともに・・・。

「はちじょう」任務経験のあるみなさま、「はちじょう」プレートに会いたくなったら、
その時にはいつでも横須賀カレー本舗へ!(宣伝)

わたしが艦尾付近の写真を撮っていると、年配の一般男性の団体が
まとまって「はちじょう」に乗り込んでいくのが見えました。

まさか、一般人に中を見学させてくれるとか・・・・・?

近くにいた自衛官に聞いてみると、

「あれはこの『はちじょう』を作った造船関係の方々なんですよ」

わたしは衝撃のような深い感動を覚えました。
海上自衛隊が、23年前にこの掃海艦をゼロからその手で作り上げた方々を
自衛艦旗返納という、別れの式典に招待していたということに。

「そうだったんですか・・・・皆さんもう退職なさった方ばかりですか?」

「お二人だけまだ現役の方がおられるそうですが、そのほかは皆リタイアされたようです」

岸壁から見ていると、この方々は感慨深げに甲板の上を一回りし、
若き日に自分が手がけた艦体に時々話しかけるように手を触れながら、
最後には全員で甲板の上の記念写真を撮っておられました。

技術者、自衛隊側の設計者、もしかしたら木造の艦体を造った船大工・・?

一人一人がどのような形でこの最後の木製掃海艦に関わったかはわかりませんが、
一つ確かなことは、23年前、この同じ艦上にあったときに若く働き盛りであった人々が、
人生を重ね、そのほとんどが引退して、今ここに艦の終焉を見届けにきていることです。


このとき、彼らの心中に去来する23年の歳月の流れはどのようなものだったでしょうか。
わたしは甲板の上の男たちの姿を、なぜか泣きたいような気持ちで見ていました。

 


続く。



 

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よこすかYYのりものフェスタ

2017-06-11 | 自衛隊

掃海艦「はちじょう」除籍式典についてご報告の途中ですが、週末に
恒例のよこすかYY(わいわい)のりものフェスタに行ってきたので
ちょっと割り込みます。

週末の朝、「はちじょう」の時にも現地で会ったイベント仲間?から、
今日の午前中行くというメールをもらい、朝早くならそんな混雑もないだろう、
とすぐさま支度をして横須賀に出かけました。

当日の気温は27度、梅雨入りしたというのにはっきりいって夏日です。

岸壁では海自ゆるキャラ、パセリとピクルスが皆さんのお出迎えをしております。

ピクルスは確か某国から亡命、じゃなかった留学している王子だったと思うけど、
王族ならば自動的にこちらでの階級も幹部となるはずなのに、なぜ海士の制服?

などと、いきなり厳しくツッコミを入れるわたしであった。

後ろから見た体型のバランスの悪さがじわじわくる・・・・。

救難ヘリの地上展示は、操縦席に座らせてもらえます。
ずらりと並んだ希望者は見る限り全員が男性でした。

一般公開されていたのは「いかづち」。
この時間(0930)にはまだガラガラで、甲板の上も比較的空いています。

見学できるのはおそらく甲板だけで、艦橋は公開していないでしょう。

さすがは自衛隊!と思わず心の中で褒め称えた水補給コーナー。
水分補給をこまめに!とアナウンスでよびかけつつ、紙コップの水を配っていました。

「六甲のおいしい水」とかでないのは飲んでみて明らかでしたが、
とにかく冷たく冷やした水で喉を潤すことができるのは嬉しい心配りです。

「しらせ」の持って帰ってきた南極の石に触れるコーナー。
今年は南極の氷の展示はありませんでした。

ふと思ったのですが、「しらせ」に乗るのも、普通の自衛官なんでしょうかねえ・・。

小さいサイズの制服が変身コーナーには用意されております。

「みんなとーっても似合うYo!!」

とかいってるペンギンが可愛い。

艦番号1.74 の「ちびしま」については、何年か前ここでも詳しくご紹介しましたが、
今年来てみたら、大々的に台が仕様変更になっておりました。

展開式の救命ボートにはちゃんと「ちびしま」と書いてあるのが泣かせます。

台座のブルーは「海」という設定で、コーナーに穿たれた三角の窓から、
ミニ潜水艦、おそらく「ちびしお」とか「ちびりゅう」とかいうのが見えていました。

わざわざミニ潜水艦を投入して来た理由は、おそらくこれ。
今回ののりものフェスタ、なんと潜水艦「ずいりゅう」の展示があります!

のりものフェスタで潜水艦を見るのは、同行者によると初めてのことらしいです。

ここでふとわたしは昨年末赴任した横須賀地方総監の道満海将が、
潜水艦出身であることを思い出しました。

潜水艦の艦首旗は艦首にはない、と_φ(・_・

何か見られて困るものに覆いをかけているとみた。

見学は、ラッタルを渡って甲板の上を歩き・・・。

セイルの方まで行ってラッタルから退出するというコース。
実になんてことのない見学ですが、それでも独特の材質の甲板や、
セイルを間近でみられるのは一般人にとって貴重な体験です。

岸壁には自衛官が一人、ラッタルで立ち止まって写真を撮っている人に
撮らないでください、と注意するために立っていました。

ところが、そこにやって来たおじさん、なぜか向こう岸壁に停泊している
「うらが」についてその人に質問を始めるんだこれが。

「あの船は何?」

「あれは掃海母艦うらがですね」

「あの中から掃海艇がでてくるの」

「いや、それは違います」

俺は掃海隊員じゃねえええ!

という彼の心の叫びが聞こえてくるほどに、おじさんは潜水艦員の彼に向かって
くどくどと掃海について質問を続け、しまいには

「わたしはそれは知りません」

ときっぱり言われて去って行きました。

「・・・・・大変ですね」

一人残った自衛官に思わず声をかけると、彼は視線を海にやったまま、

「・・・・ありがとうございます」

その言葉にいろんな思いが込められているのをひしひしと感じました。

あとで同行者たちにそのことを報告すると、

「あー、よくある話ですね」

「自衛官ならなんでも知ってるだろうって思ってる人多いよね」

「僕なら救出に行きますよ」

「えー、どうやって助けるんですか」

「横から別の話題を振る」

「そうそう、すみません、あそこにあるあれのことなんですけど、とかいって」

みなさんイベントに行き慣れているだけあって、色々と経験してらっしゃいます。

フィンの翼端にはライトらしいものがあったのに今更気がつきました。

気温はぐんぐん上がっていきます。
そこで海上自衛隊横須賀地方総監部はこんな装備を投入してきました!

下に水タンクを備えた噴霧式の扇風機で、前に立つと霧ヶ峰、
じゃなくて霧が吹き付けて大変涼しいという実に日本的な仕組みです。

わたしの知り合いは早くに地方総監部に到着したのですが、その時には
すでに開門され、どんどんと人を入れていたと言います。

何年か前は門前に長蛇の列ができていて、おじさんたちが
「日陰に並ばせないとダメだ!」とかブーブー怒ってたんですよね。

あとで広報の隊員が今年は早く入れることにした、といっていました。
毎年反省に鑑み状況を変えていこうとする姿勢、さすがは自衛隊です。



さて、わたしの今日のお目当は、横須賀音楽隊のミニコンサートです。
ヘリポートの横のスペースで、一日二回のコンサートを行います。

野外、しかものりものフェスタの一環として行われるコンサートなので、
当然ながらプログラムは、大変楽しいものになりました。

まず、1曲目はアース・ウィンド・アンド・ファイアのナンバーから、
ファンキーな「ゲッタウェイ」。

2曲めはフルートをフィーチャーして、「ワンノートサンバ」。

個人的にわたしが贔屓にしているカオルくん(なぜファーストネーム)も
バリッとソロを決めてくれました。

三曲めは「美女と野獣」メドレー。

横須賀音楽隊のボーカル、中川麻里子士長の最初の歌は、なんと

「残酷な天使のテーゼ」。

うーん・・・彼女の声と歌い方には、正直少し厳しい選曲だったかも・・・。
なんでもこなすのが自衛隊音楽隊とはいえ、人には、というかボーカルには向き不向きがあってだな・・。

歌っていない間、ずっと椅子に座って待機していた中川士長。

彼女にはこちらの方が向いていたかも・・・。

トロンボーンの「ミナミ」さんもソロで活躍。
最後の曲、キェンセラのオリジナルはマンボとかチャチャですが、
今日はなんと16ビートでのアレンジです。

「ユウキ」くんのトランペットソロは、途中で「キャラバン」入り(笑)

中川市長の曲で今日一番よかったのはアンコールの

「夢を叶えてドラえもん」

でした。

指揮はもちろん、横須賀音楽隊長、植田哲生三等海佐。

プログラム終了後、客席に向かって指を立て、「もう一曲」。
もちろん最後は行進曲軍艦で終了です。

のりものフェスタ中、音楽隊のコンサートは午前と午後一回ずつ行われます。
後からyoutubeなどを見たところ、午前と午後では少し曲目を変えていたようです。

ふと港内に、EODのゴムボートがいるのに気づきました。
小さいのにちゃんと自衛艦旗を掲げている不思議なボートです。

同行者が

「じゃー、何かジャンクなものでも食べますか!」

と目を輝かせていうので、お昼には少し早かったのですが、焼きそばを食べることにして
屋台に並んでいたら、わたしたちの寸前で売り切れ、新しく作り出しました。
時計を見たら、歯医者に行く息子をピックアップするのに戻らなくてはいけない時間。
わたしだけ焼きそばは諦めて、同行者に別れを告げることにしました。

物販テントの上にかかっていた「にんたいちゃん」とは?

自衛隊応援グッズ「にんたいちゃん」

一般公開されている「いかづち」の出口にいる隊員さんたちは案外暇そうです。

こういう日は舷門に立っていてもリラックスしていられるかもしれませんね。

この頃には「いかづち」の前も、潜水艦も見学のための長蛇の列ができていました。
画面の左から右端までずっと人が並んでいます。

この時のアナウンスでは

「護衛艦に入るのに待ち時間は40分、潜水艦は約1時間」

と言っていました。
護衛艦はまだいいとして、1時間並んで潜水艦の甲板を歩くだけとは・・。
まるでディズニーのアトラクション並みの虚しさ、いや何でもない。

もし、今日のりものフェスタに行こうと思っている方がおられましたら、
午前中、せいぜい10時までに入場することをオススメします。

今から複合艇がパフォーマンス、じゃなくて軍港の警備に出るようです。

ヴェルニー公園を歩いていたら、手を振りながら愛想を振り向いていましたが、
くるりとターンして全速力だとこんなにいけてるんだぜ!みたいに飛ばしていました。
やっぱりパフォーマンスだ・・・。

船首がほとんど浮き上がっています。
海上迷彩と言い、黒いカポックといい、かっこいいよねえ・・・。


さて、ヴェルニー公園で、スカレーくんで有名な横須賀海軍カレー本舗のテントを探しました。
先日「はちじょう」の除籍式典でご一緒したカレー本舗の方と、
そこに手伝いのためにいるという
ミカさん(仮名)に挨拶するためです。

時間がなかったので、本当に挨拶だけでしたが、せっかくなので本舗で

「横須賀海自カレー コンプリートボックス」

を買わせていただきました。
とにかく、誰が買うんだろうと思うくらい(わたしが買ったんですけどね)
立派な装幀を施した本のようなボックスに・・・、

8種類のカレーが収められています。

先日除籍になった「はちじょう」のカレーがありますが、本舗さん的には
「はちじょう」が除籍になってもカレーは永遠に販売するのだそうです。

その理由は、また後日。

この日の晩、噂の「はちじょう」ポークカレーを、こんにゃく麺にかけていただきましたが、
(カレーをご飯にかけないなんて、邪道だ!って?)まったりとして大変美味しかったです。
他の艦艇カレーを味見するのが楽しみです。


よこすかワイワイのりものフェスタ、今日も横須賀で行われていますので、
みなさまよろしければ(できれば早めに)足を向けてみてください。

 

 

 

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掃海艦「はちじょう」除籍〜自衛艦旗返納

2017-06-10 | 軍艦

掃海艦「はちじょう」除籍に伴う自衛艦旗返納式についてお話ししています。

 

掃海「艦」の建造に至る過程について、面白い話を見つけました。

専守防衛の我が日本国自衛隊が新しく装備を導入する時、そこにはあくまでも
「カバーストーリー」といいますか、つまり「建前の必要性」が必要になります。

掃海艦が企画されようとしていたころ、日本は西側諸国の一員として
冷戦を「戦って」おり、そのために、P3Cを増やし、イージス艦を整備し、
そう、掃海艦を建造するという必要があったのです。

防衛力整備達成のために必要なのは建前、いや理論武装です。

そこで掃海艦の整備に必要となったのは、ソ連の高い機雷敷設能力、
特にロケット上昇式の深々度機雷に対する「脅威論」でした。

「我が国の重要港湾のほとんどが本州の太平洋岸に集中しており、
通行船舶の輻輳、集中するチョークポイントも、その多くが
外洋につながる深々度海域を多く含んでいるため、もしここに
ソ連の有する深々度機雷が使われたら大変なことになる!
だからこそ深々ど機雷排除機能を持つ掃海艦が必要なのである!」

というのが、この場合の「カバーストーリー」となり、それは
内局にも大変歓迎されたといわれます。

ソ連の軍事的能力の高さは、当時の日本にいて否定できるものではなく、
それさえ言っておけば公式には反論・議論の余地もなくなるというわけです。

そもそもソ連がそんなことをする意図やその可能性があるかについては、
中の人に疑問を持つ向きがないでもなかったらしいのですが、(そらそーだ)
それを論証することもまた不可能、とうわけで、内局の部員の中には

「騙すなら、最後まで気持ちよく騙してね」

と冗談半分、実は本気で囁く者もいたという話でした。

 

閑話休題、

時は流れ、冷戦構造は終了し、時代の流れから掃海艦は次第に減勢に転じました。
現在建造中の「あわじ」型掃海艦は、「やえやま」型とほぼ同じ大きさでありながら、
艦体を木造からFRP構造に変えたため、基準排水量が3割低減し船体が長寿命化しています。

「あわじ」型のカバーストーリー、いや建造目的は、科学の発展に伴い日々開発される
新型機雷に対応するため、となっています。

さて、国歌「君が代」の演奏とともに、「はちじょう」の自衛艦旗が降下されました。
左手に三角に畳まれた旗を掲げ、副長がラッタルを渡ります。

副長を先頭に、「はちじょう」の乗組員が後に続いて退艦を行います。
この時の音楽はもちろん行進曲「軍艦」。

ところでこれを「総員退艦」と称してよろしいのでしょうか。
そういうと、何か今からよくないことになりそうな気がするのですが・・・。

掃海艦の乗員は全部で60名。
これが掃海艇となると48名となり、多めの一学級(しかも昔の)規模となります。

たったこれだけが一つの艦で、訓練と一日のほとんどをともに過ごすのですから、
掃海部隊が「家族」というような緊密な一体感で結ばれていたとしても当然です。

乗組員は、テントの前に整列し、自衛艦旗を掲げた副長は
前列一番左側でその姿勢のまま待機。

掃海艦からの60名の退艦はあっという間に終了し、行進曲「軍艦」は
中間部に入る前に終わってしまいました。

最後に退艦した艦長が、副長の前に歩みます。

自衛艦が就役するとき、防衛大臣、あるいはその代理から自衛艦旗が艦長に授与され、
艦長はそれを副長に渡し、最初に乗艦させます。

除籍はその逆で、乗員に先駆けて副長が自衛艦旗を艦から降ろし、
それを艦長が受け取って、執行官に返納することになっています。

「はちじょう」最後の艦長の手に副長から自衛艦旗が渡されました。

艦長は受け取った自衛艦旗を左手で掲げ、互いに右手で敬礼を交わします。

しかるのち、二人で正面にむきなおり・・・・、

艦長が受け取った自衛艦旗を持って中央に進み出ます。

まずは中央台の前で敬礼。

除籍の時にまで防衛大臣及びその代理が出席することは普通ないようです。
ということは、防衛省から受け取った旗を、自衛隊に返還するということになるのでしょうか。

横須賀地方総監に、自衛艦旗を返納する艦長。

地方総監はそれを横に控えていた副官に手渡します。
副官はそれを台の横に用意されていた白木の箱に納め・・・・、

持ち去ります。
この箱は、この後、車のハッチバックに置いてあるのを目撃しました。

そののち、地方総監からの訓示が行われました。

「『はちじょう』は、平成6年3月24日、『やえやま』型掃海艦の3番艦として就役した。
以後、23年間の永きにわたり、機雷戦部隊の主力艦として各種任務に従事し、
海上自衛隊の任務遂行に大きく貢献した。

23年間における総行程28万8千190マイル、総航海時間3万9千783時間。
二ヶ月に及ぶ、東日本大震災への派遣を含む災害派遣2回、
生存者捜索救助2回、航空機救難5回、海外派遣3回、
実機雷処分3回などの業績は、歴代艦長以下、乗組員が不屈の精神と誇りを持って、
一丸となって任務邁進した賜物であり、
海上自衛隊における掃海業務の発展に大きな足跡を残したことに
深い感謝と敬意を表する。

さらに、諸君が『はちじょう』最後の乗組員として、
有終の美を飾ったことに対し、その労をねぎらいたい。

まもなく、それぞれが新たな配置に向かうことになるが、
『はちじょう』乗組員であったことを誇りにし、
海上防衛の一旦を担うべくさらに精進努力することを期待する。
最後に、『はちじょう』の輝かしい業績と諸君の健闘に対し、
重ねて感謝と敬意を表するとともに、諸君の一層の活躍を祈念し、訓示とする」


東日本大震災発生時、「はちじょう」はシンガポールでの合同訓練に向けて航行中でした。
震災発生の一報を受け、すぐさま急遽引き返し被災地へ向かったと聞いています。

その時の「はちじょう」と「やえやま」の災害救助活動については、
このブログに詳しく書かれています。

EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL


横須賀地方総監に敬礼をした艦長は、振り向いて乗組員に正対し、

「ただいまをもって〇〇を解く。
『はちじょう』乗組員、解散!」

と声をかけ、その後乗組員の

「(敬)礼!」

という号令に対し、敬礼をしたまま左右に体を巡らせて総員を見回しました。
『〇〇』のところは聞き取れずわからなかったのですが、「任務」だったのでしょうか。

「まわれ〜みぎっ!」

もう一度号令が下され、全員が「はちじょう」の方をみて最後に敬礼を送ります。
これは「はちじょう」との別れに際し、その労をねぎらう敬意と感謝の意を表す敬礼です。
艦体に対して敬礼が送られるのは、もしかしたら23年の歴史で最初で最後のことかもしれません。

この時のマストからは、すでに長旗は降ろされていました。

そして、自衛艦旗が降ろされ、乗組員のいなくなった「はちじょう」。
気のせいか、もうすでにそこからは魂が抜けかけているように見えます。

解散した乗組員たちは、艦首側でこれから記念撮影をするようです。

テントの中の方々は三々五々語らったり、写真を取り合ったりしていましたが、
わたしは記念写真を撮る彼らの写真を撮るためにそーっと近づいてみました。

昔護衛艦の引き渡し式でお会いした陸自の方から、

「戦車などを導入するときでも、別にこんな式典はしないので少し驚いた」

という発言を聞いたことがあります。
海自は船舶と基本同じ慣例を導入しているので、導入にも除籍にも海の儀礼にしたがって
荘重ともいえる儀式を行うことは海軍以来の伝統となっています。

しかし、そういえば、海自であってもヘリや固定翼機の導入にあたって、
広く人を招いて式典を行うなどという話は聞いたことがありません。

 LCACもかつてのカルガモ艦隊のMSBももちろん SAMも行わないのですから、
こういう一連の式典で遇される艦艇の基準はなんなのだろうとふと思います。

とにかく、これが海軍以来の伝統であり、その度ごとにこうやって
集団写真を撮るわけです。

海軍関係の資料を読んでいたとき、

「海軍というところは何かというと集団写真を撮る団体で」

と元海軍軍人が書いていたのをこの光景を見ながら思い出しました。

掃海艦「はちじょう」、最後の乗組員の、最後の記念写真です。

何枚か真面目な写真を撮り、最後に

「笑ってください」

と注文をつけられて。
皆さん、とってもいい笑顔ですね。(特に3列目右から2番目)

 

続く。

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掃海艦「はちじょう」除籍 最後の自衛艦旗降下

2017-06-09 | 軍艦

高松で行われた一連の掃海隊員追悼式から帰ってすぐ、
掃海艦「はちじょう」の除籍が横須賀地方総監部で行われました。

この式典に参加させていただきましたので、ご報告します。

「はちじょう」は掃海「艦」。
掃海艇より大型の掃海任務を行う艦です。
英語でも名称は

掃海艦 Mine Sweeper Ocean (MSO)

掃海艇 Mine Sweeper Coastal (MSC)

となっており、掃海艇の「中型」に対し「大型」に分類されます。
大型艦が「大洋」、中型艦が「沿岸」となっていますが、つまりは
大型はより深々度の機雷に対応すると考えれば良いでしょう。

かつては「中型」より小さい「小型」(MSB、BはBoats)掃海艇もあり、
対応困難な浅海域・内水域の掃海や、MSCの安全確保のための
前駆掃海を担当する役目を負っていました。

掃海ヘリコプターや遠隔操縦式掃海具がそれに代わるようになったため、
90年には小型の掃海艇はなくなりましたが、この小型艇について
高松のうどんの夜(笑)、ご一緒した「偉い人」から、

「小型艇には台所がないので、母艇が調理した料理をバッカンという
缶に入れて、みんなに順番に手渡しで配っていた

という話を聞いて、わたしはもう胸キュンで萌えたものですよ。
また、「みほ」という母艇の後ろをコガモのようについていく様子から
彼らは「カルガモ艦隊」とも呼ばれていたそうで・・・(;´д`)

 

前置きが長くなりました。

掃海艦の建造目的は、一言でいうと深々度機雷への対処でした。
掃海艦構想に関わった当時の研究開発幕僚の追想録によると、
当時その対処能力を有していない状況から、

「現実的に起するかもしれない脅威に対抗するための演習」

を行う必要を想定して、米海軍の機雷戦過程に留学した幕僚が
米軍の司令官と鋭意構想を進め、米側からも

「東京湾外域における空母の運用を考えてもぜひ正式に要望する」

という掃海艦建造へのゴーサインを取り付けた、ということらしいです。

この時代においても(もしかしたら今も?)アメリカ海軍の「お墨付き」
というか「要望」が、新造艦建造の後押しとなったってことですね。


ともあれ、東西冷戦構造の終焉の時期に計画された「やえやま」という名の
掃海艦が初めて海自に導入されたのは、平成5年のことでした。

そして「はちじょう」は2番艦「つしま」に続く「やえやま」型の3番艦です。
姉二人は、「やえやま」=2016年6月28日、「つしま」=同7月1日と
すでに除籍となっており、最後の木造製掃海艦となった末っ子の
「はちじょう」も、ついに今日をもって引退することになったのでした。

 

「はちじょう」の除籍に伴う自衛艦旗変換の儀式は横須賀地方総監部の
船越岸壁と呼ばれる、地方分遣隊所在基地で行われます。

昨年、実は「やえやま」除籍が同じ船越岸壁で行われることになり、
わたしにも出席のチャンスがあったのですが、その時アメリカにいたため
涙を飲んでお話をお断りしたという経緯がありました。

今回の「はちじょう」除籍に立ち会うことになったため、
わたしは初めて船越岸壁にくることができたのでした。

 

写真の台地が今工事中ですが、ここには護衛艦隊指令部ができるそうです。
グーグルマップで空から見ると、今工事中のこの部分は広大な空き地で
くず鉄が大量に放置されているのがわかります。

 

自衛隊基地入り口のセキュリティは民間の警備会社が請け負っているのですが、
これがだねえ・・・。

わたしはある方のおかげで来賓として呼ばれたという形であり、
後から考えると、別に門の前で待っていなくてもよかったのですが、
来賓以外の入場者と報道陣と一緒に開門まで門のところに立っていました。
その後、わたしの名前を名簿と照合した自衛官が

「中に入って受付で名前を言ってください」

というのでそのまま入っていこうとしたら、警備の人が入れてくれないんだよ。

「いや、来賓なので中で受付するらしいんですけど」

といっても、それでは入れることはできない!の一点張り。
押し問答のすえ、「臨時」と書かれたタグをもらって中に入っていき、
さらに中で赤いリボンをもらってそれも付けるという妙なことに。

とはいえなんとか無事に中に入れたので、ホッとしました。

除籍になる「やえやま」の前には式典に出席する幹部と音楽隊の姿が見えます。

掃海艇、掃海艦の後甲板は岸壁より低いのが普通。
そのため、自衛艦旗降下のために甲板にいる乗組員たちがよく見えます。

まだ人が集まっていないので、後甲板にいる乗員たちを見にいきました。

この後自衛艦旗を降下し、それを持った副長に続いて下艦したら
それが彼らにとって最後になるのです。

最後の自衛艦旗降下を待ちながら、皆どのような思いを持つのでしょうか。

赤いリボンと黄色い入門証をダブルでつけた怪しい来賓(笑)


お誘いくださったのは高松でもご一緒だったミカさん(仮名)ですが、
中に別の知り合いがいて、撮ってあげると言われたので撮ってもらいました。

基本自分の写真を撮ることに全く興味がないので、実は珍しい一枚です。


自衛艦旗降下を撮るために、艦尾近くの岸壁はカメラを持った人でいっぱいでした。
わたしも実はここにいたかったのですが、なまじ来賓なのでそれはできず(涙)

その代わり、ミカさん(仮名)がyoutubeにあげた動画を共有させていただきました。
どうぞご覧ください。

この写真を撮った時にはまだ来賓が席についていない頃だったので、
乗員も整列はしていますが、皆リラックスした様子で岸壁の様子を見たりしています。

ところで白いシェルフみたいな物体はなんなのかしら。

時間通りに返納式は始まりました。
わたしの席は「はちじょう」と書かれたラッタル越しに乗員が見える位置です。

このラッタルのバナーですが、基本的に船が除籍になるともう役目が済むので、
式典に参加している人が手を挙げてもらうことができるようです。

この日二枚あるうちの一枚のバナーを持ち帰った方は、
「やえやま」の初代艦長で、もう退官されたという男性でした。
岸壁で伺ったところによると、もちろん「やえやま」のバナーも
去年の除籍の後ちゃんと持って帰られたということです。

初代艦長ということは、艤装艦長から始まって掃海艦が自衛隊に
生まれる瞬間の目撃者であったということになるのですが、それから四半世紀が過ぎ、
その方が今日ここに最後の「やえやま」型掃海艦の終焉を見届けることになったのです。

自分が艦長を務めた木造製掃海艦の最後の一隻が海上自衛隊の籍を解かれる日。
元艦長にとってもその感慨はひとしおであることとお察ししました。

舷門には海曹と海士が一人ずつ。
腕章をしていますが、もちろん最後の当直となります。

ということは、この二人が自衛艦旗を降下するのでしょうか。

群司令、隊司令などはテントの中に座り、その他は外で式典を見守るようです。
音楽隊員は遠く見えませんが、練習艦隊の時と同じ服装をしているように見えます。

長旗がはためいているのに気づきました。
こんな風に揚がっている長旗を見るのは初めてです。

そういえば長旗とは旧海軍時代から

「海軍将校が指揮する 艦船に掲げられる」

と決められています。
艦船の長が幹部である掃海艦なので、これが掲揚されているというわけです。

ちなみに自衛隊の旗章規則によると、

第26条

個々の自衛艦等を指揮する者が、幹部海上自衛官である場合には、
当該自衛艦等に長旗を掲揚するものとする。

とあります。

長旗は艦長が下艦すると同時に降下されたと思うのですが、
いつ降ろされたのか結局その瞬間を見逃しました。

執行は横須賀地方総監ということになるようです。
来賓はじめ全員が席に着いてから現れる横須賀地方総監、道満誠一海将。

道満海将は(『も』という感じ?)潜水艦出身です。

式の開始となって次の瞬間、自衛艦旗の降下が始まりました。
もっと色々とセレモニーがあるのだろうと思っていたので、実のところ結構驚きました。

わたしのところからは、こんな光景が見えていました。

アナウンスをしていた女性隊員が珍しい白のスカート姿です。
こんなバージョンもあったんですね。

さて、冒頭のyoutubeをご覧いただいた方はお気づきだと思いますが、
通常、自衛艦旗降下のときに吹鳴される喇叭譜「君が代」ではなく、
音楽隊による国歌「君が代」の演奏が行われています。

この理由は明白で、護衛艦旗が艦に授与され、副長に掲げられて乗艦し、
初めて掲揚されるときに演奏されるのは国歌「君が代」ですから、
返納の時にも喇叭譜でない「君が代」でないといけないのです。


ふと、日常の護衛艦旗掲揚降下で演奏される「喇叭譜君が代」は、
つまり国歌「君が代」演奏の代用、或いは簡易版という位置付けなのか、
ということについて考えたのですが、正解はわかりませんでした。

 

さて、この後、降下された自衛艦旗を先頭に、総員がいよいよ
永遠に「はちじょう」から去る時がやってきます。

 

続く。

 


 

 

 

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