ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

彗星、桜花そして回天〜靖国神社遊就館展示

2017-01-30 | 日本のこと

防衛団体で靖国神社の昇殿参拝をした後、遊就館を見学しました。
いつも昇殿参拝にはセットとして遊就館見学がついてくるのですが、
崇敬奉賛会の会員の特典としていつでも無料で入れるということもあり、
団体の皆さまとご一緒させていただいたのは初めてです。

何度も来ているので、わたしはいつも遊就館見学では
前回の見学から今回までの間にこのブログ製作を通じて深まった知識を
ここで改めて確認するというような見方をします。
展示を通り過ぎながら見ていき、ピンと来たところで立ち止まり
そこだけじっくり資料を眺める、という感じ。

でないと、あまりに展示が膨大すぎて、最初しか見ることはできなくなります。

 

さて、遊就館内部は基本撮影禁止となっていますが、最後の展示だけは
写真が許可されていたので、今日はそれをご紹介します。

遊就館の回廊展示を全部見終わって人々が最後に足を踏み入れるのは
高い天井には明かりとりの窓を設けた大展示室です。


まず入ってすぐ鎮座するのは

艦上爆撃機「彗星」

中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島のジャングルで発見され、
昭和56年にここに展示されてからもはや35年が経過しているので、
経年劣化が激しく、今年は修復作業に入るそうです。

6月の19日から25日まで、現場で機体を動かさず作業するそうですが、
平常の営業日にもかかるので、マニアな人はこの時に行くかも(笑) 

戦後何十年もジャングルの中に放置してあった3機の彗星の部品を継ぎ合せ、
1機にして不足部分は手作りで補っているということが他サイトでわかりました。
錆を落とし歪みのその上からペンキを塗っているので機体表面はボコボコしています。



アツタ(熱田)21型発動機

ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造されたDB 600とDB 601エンジンを、
大日本帝国海軍の指示で愛知航空機がライセンス生産した航空機用エンジン。

ボコボコの彗星とこのエンジンを見て、

「作りが雑だ!∴ 武器も満足に作れない日本人は戦争に向いていない」

とそれなんて三段論法?みたいな結論を出しているサイトを検索の段階で発見しましたが、
どちらについてもその来歴を調べてから言って欲しかったかな。 

昭和20年1月、Bー29爆撃機とP-51護衛戦闘機の編隊が本土を空襲しました。

常陸教導飛行団の小林雄一軍曹及び鯉淵夏夫兵長は、「屠龍」でこれを迎撃、
体当たり攻撃を敢行して散華しました。

本土防空

機体の部分は、51年経った平成20年に千葉県八千代から発掘されたものです。 
小林少尉(戦死後)のご遺骨もそのとき初めて見つかりました。 

これも本土決戦における邀撃で戦死した命の愛機だったものです。

昭和20年4月、米軍爆撃機の編隊に五式戦で邀撃に上がった陸軍曹長平馬康雄は、
撃墜された乗機が埼玉県新方村の水田の泥中深く埋没して戦死。
その機体は長年放置されて来ましたが、27年後の昭和47年2月、
この場から機体の一部とご遺骨がご遺骨が発掘され機体の部品はここに展示されています。

機体の搭乗者が明らかになったのは、遺品にはっきりと
名前が残っていたからであろうと思われます。

ご遺骨が身につけていた右側の姓名入り被服は、27年の長きにわたり
水田の底10メートル地点に眠っていたにもかかわらず、
不思議なくらい鮮やかにその主の名前を留めています。

左は、縛帯(ばくたい)つまりシートベルトの一部。 

平馬機のプロペラ。
先が折れ曲り、衝撃のすごさを物語ります。 

平馬曹長についての詳細はこちら

 

ロケット式推進機「桜花」模型

専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われ、
開発者の三木忠直氏は戦後

「日本の技術者全体の名誉の為にも、
桜花は我が技術史から抹殺されるべきである」

として桜花について語ることを拒んだこともありました。
ただ、実際にこの飛行機に乗ることになった要員や開発者本人はじめ、
我々日本人が自虐的にこの兵器の性能をただ貶める傾向にあるのに対し、
米軍が一定の脅威を感じていたことは間違いありません。

ちなみに「桜花」の戦果は、真っ二つになり轟沈した
駆逐艦「マナート・エーベル」 DD-733
を含む軍艦7隻(1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)、
戦死者149名、負傷者197名 というものでした。

この数字以外にも米側の記録に残らない民間船を撃沈したという日本側の記録もあります。

これに対し、日本側の10回にわたる桜花出撃の結果、
桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死しました。

ところで、世界で最初に音速を突破した航空機となったベル X-1
母機B-29から発射されるそのシステムの着想を「桜花」から得たらしい、
という説があります。

X‐1号の開発が始まったのは終戦直後の1946年であったこと。

そしてもう一つはベル X-1が音速を超えた飛行時のパイロット、
チャック・イェーガーが三木氏との会談において、

「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。
アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります」

と述べたことからも、かなり信憑性が高いと言われているようです。


三木氏はこのことを知った時、その技術が未知の音速突破に挑む
機体のシステムの一部となったことに救われた気持ちになった、
と語ったそうです。

 

回天4型の輪切りが展示してありました。

回天はご存知の通り搭乗員が爆弾を頭部に搭載して敵艦に突入するために
特殊潜航艇から発展して作られていますが、4型は、
戦時中に開発された「1型」の改良版で、6隻建造され、
まだ使用されないうちに終戦を迎えたので海中投棄されたものです。 

この4型は建造途中で放置されていたものだそうです。

内部の艤装などには全く至っていなかったものですが、
わかりやすいように潜望鏡だけを後付けしたようです。 

潜水艦搭載用の気蓄器
浮上するときには、このタンクからメインタンクに空気を送り込み、
海水を放出して浮き上がります。

「メインタンク・ブロー」というやつですね。

中には圧縮された空気が入っていて、非常用も加えて数個、
搭載されていました。 

大展示室の様子です。

平日にもかかわらず、見学者はかなりいました。
(他の軍事博物館と比較して)
若い人たちや白人の男性が目立ったのですが、最近の傾向でしょうか。
中韓からの観光客は境内では時々見ますが、今まで一度も
遊就館の中で騒いでいたのを見たことがありません。 
(外の売店では一度あり)

もし入館料が無料なら、この傾向も変わってくるのかもしれませんが。

回天1型改1を後ろから。
終戦後ハワイの米陸軍博物館で展示されていたものが、
1979年遊就館に「永久貸与」されて今日に至ります。 

わたしはいつも遊就館に来ると、大展示室を出たところで命の顔写真を
できるだけ多く目に留め、あるいは知っている名を求めてそこで
しばらく過ごすことを決めています。

この見学の後、その写真の中に、今まで見たことがなかった
回天の開発者、黒木博司大尉の見覚えのある姿を見つけ、思わず

「ああ、ここに・・」

と口に出して呟き手をさしのべました。 
気がつけば同じ区画のすぐ下にシドニー湾に突入して散華した
松尾敬宇大尉の写真もあります。
そのときわたしはニューロンドンで見た特殊潜航艇について
エントリを製作するために調べた直後でした。

以前黒木大尉について書いたとき、それが偶然にも大尉が回天の事故で
殉職したのと同じ日だったことに続き、少し不思議な因縁を感じたものです。 

大型潜水艦の艦上に搭載された「回天」4隻。
「特攻の島」でも出撃シーンに搭乗員が4名描かれていましたが、
このような状態から発進したということがわかります。

回天艦内には内部から続くハッチをくぐって搭乗しました。 

 

遊就館の展示、後半に続きます。

 

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