ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

三井造船資料室~呂号44と橋本以行中佐

2014-07-31 | 海軍

呂号潜水艦というのは大日本帝国海軍の潜水艦型のなかで
艦体の規模で3つにわけた等級の2番目にあたります。


一等潜水艦はご存知「伊号」潜水艦で「海軍大型」を意味する「海大型」である

「伊号第51潜水艦」 全長91.44m、基準排水量1390トン

に対し、呂型は
冒頭写真の

「呂号44潜」で
全長80.50m、基準排水量960トン

というものです。


等級の3番目は日露戦争の際ロシアに対抗して作られた「ホランド型」潜水艦
1909年にヴィッカースから輸入したものとそれをひな形にして日本で作った「波型」で、

ホランド型 全長20.42m、103.25トン

波型 全長38.48m、排水量304トン

という可愛らしさです。
可愛らしいと云えば(笑)ついでにわれらが陸軍潜水艦、「ゆ」「まるゆ」も比較しておくと、

全長 41.41m 排水量 274トン

ですから、小さい小さいと言われていても「まるゆ」は日本が最初に作った
(技術がないのでアメリカの潜水艦を買ってきてばらして組み立てた)
ホランド型の2倍はあったということになり、波型よりも3mも大きかった、
ということですね。
あまり「まるゆ」を馬鹿にしないようにね。

余談ですが、これを書くために実に久しぶりにwikiの「三式潜行輸送艇」の記述を見たら、

わたしが最初に見たときの2倍に記事が増えており、当時はなかった

「汝は何者なるや?」「潜水可能なるや?」

と海軍艦にディスられた話もちゃんと掲載されてるうえ、お披露目の際

「すぽーんと潜っていったのを見て海軍は『沈んだ』と大騒ぎ、陸軍は万歳三唱」

というあのシーンにもちゃんと追加説明がなされているのに驚きました。


やはり「艦これ」のブームはこういうところにも影響しているのね。

「萌え化」というのは必要悪とでも言うのでしょうか、調子に乗って何でも
「そちらの方」に持っていこうとする
不逞の輩が後を絶たないため(オタクのヤオイ系?)、
顰蹙と、それゆえ支持する方にも一種の「疾しさ」がつきものの現象だと思うのですが、
「艦これ」が既に愛好者の一般化による「皆でやれば怖くない」状態に突入しているのは
先日のカレーグランプリイベントの人出を見ても明らかなところです。

功罪だけで語ればこういう知識の普及拡大という功績もあるわけですしね。

これも時代だし目くじらを立てるほどではないのではないかと思っています。

ただ、実際に軍艦に乗っていた軍人たちが生きてこれを見たらどう感じるのか、
ということをわたしとしては正直考えないわけではありませんが(笑)


さて、呂号潜水艦に付いてはこのブログで一度だけ、

「潜水艦ろ号未だ浮上せず」

という藤田進主演の映画について書いたときお話ししています。
最後に描いた「俊足芸者幸子」がごくごく一部の読者に受けたエントリですが、
この映画が伊潜ではなく呂号をテーマにした理由はなんでしょうか。

「潜水艦ろ号未だ浮上せず」のエピソードの中に、この呂潜が

「原子爆弾を積んで航行中のインディアナポリスを沈めた」

というフィクションがあるのですが、実際に原子爆弾をテニアンに輸送後
航行中の「インディアナポリス」を撃沈した伊58潜の艦長であった

橋本以行(はしもと・もちつら)海軍中佐(海兵59)

が、実際に呂号潜水艦の艦長をしていたこともある、という関係で
その著書から映画のエピソードを拾ったからではないかと思われます。

玉野の造船所で「ふゆづき」の自衛艦旗授与式があったと報告したとき、
ここで建造された呂号44に関連してある読者から橋本中佐の著書

「伊58帰投せり」

をご紹介いただきました。
橋本中佐はやはり中型の「呂31潜」を始めに、「伊158」を経て
冒頭写真の「呂44号」ができたときの艦長を務めています。

まだこの紹介していただいた本を手に入れていないので、
いただいたお便りからの引用になりますが、橋本中佐が偽装から係った潜水艦、

「伊24」「呂44」
伊58」

のうち、この「呂44」が

「 
最も無駄が少なく整然と建造された」

と書かれているのだそうです。
無駄がなく整然と、というのはどういうことかというと、
橋本艤装艦長にとって「伊24」(佐世保)「伊58」(横須賀)は 

 
いわゆる「親方日の丸」の言葉のもとに物資や時間の浪費が平気で行われ

その点三井造船はそうでもなかった、という意味らしいのです。
それでは民間工場はどうであったかというと、今度は反対に、 
杓子定規に契約したことだけを工期内にやることを第一義としていたようで、

やり直しを頼めば「ボーナスが減る」と返答する有様である。
無断で操作でもしたら、損害賠償といい
兼ねまじい有様であった。

というような状態。


こういう建造側の態度がではどう現場に悪影響を及ぼすかと云うと、

完成して引渡しがすむ
まではなに一つ練習させることも研究させることもできず、
急速訓練上には大いに支障があった。

と橋本艦長は嘆き節です。
 


橋本以行が冒頭写真の呂44
潜に着任したのはインディアナポリスを撃沈した
伊58潜に艦長就任するその前で、当時橋本は33歳。(一ヶ月後に34歳)

ここからもメールで頂いた著書からの内容になりますが、橋本は
艦長着任にあたって
艤装が済んだ艦に電探を装備するように、呉工廠等の各部署に要請をしたのですが、
結局電探は装備されることがないまま昭和19年ラバウルの前線に出ることになってしまいました。

その理由というのが内部の工事分担の縄張り争いなどのためだというのです。
橋本にとって他の海軍工廠よりも「無駄なく整然と建造された」と評価した
この三井造船においてもやはり 
所謂お役所仕事の弊害があった、ということでしょうか。

 戦争と云う国家の一大事に直面しようかというのに、とても現場では
己の主張ばかりが強く、とても「挙国一致」とは言いがたいのが実情だったというのは
後世の我々にしても、組織というものが陥りがちな事態というのは
たとえ非常時であってもいつの世も同じであるということの証左に思えます。

さて、呂型潜水艦のことを「海軍大型」の海大に対し「海中」型というのもあります。
海中型で戦線に投入されたのは最終型であった海中型6号の2隻だけでした。
44号の「35型」はいわゆる戦時量産タイプで、文献によっては

海中VII型二等潜水艦

と呼んでいるものもあります。
ここ三井造船では

呂号44、46、49、50、55、56

を建造しています。
特に橋本中佐が艦長であった呂号44については特に三井造船が

「技術の粋を集めて建造した当社の潜水艦1番艦です」

と記述をしているように、最初の潜水艦建造であったからこそ、
橋本のいうところの「縄張り争い」も起きたのかなという理解もできます。

この呂号は三井玉野にとって最初で最後の潜水艦建造となりました。
しかし量産効果で手際が良くなり、最後の呂56は1年弱で完成しています。




三井造船はこの頃、潜水艦だけでなく掃海艇や
この画像のような規格型戦時標準船の大量建造も行っていました。


量産型であれば何かと手抜きや不備も多かったのではないかと言う気もしますが、
案外この呂型は、大きさが手頃だったせいで運動性能にも優れ、
現場からの評判は悪くなかったということです。

ただし、潜水艦というものの宿命として、戦時中の頻繁な喪失は避けられませんでした。

ここ三井で建造された呂型の退役年と艦長名を記してみましょう。

呂44号・・・・1943年建造、1944年マーシャルで米護衛駆逐艦の攻撃を受け戦没。
      艦長 上杉貞夫 大尉:6月16日戦死 運用期間9ヶ月

呂46号・・・・1944年竣工、1945年沖縄で艦載機の攻撃を受け戦没。
      艦長 木村正男 少佐:4月25日戦死 運用期間1年2ヶ月

呂49号・・・・ 1944年竣工、1945年沖縄方面で沈没と認定。
      艦長 郷康夫 大尉:4月15日戦死認定 運用期間1年1ヶ月


呂50号・・・・ 1944年竣工、1946年4月1日 五島列島沖で海没処分。
      最終艦長 今井梅一 大尉:  


呂55号・・・・1944年竣工、1945年ルソン島西方で米護衛駆逐艦の攻撃を受け戦没。
      艦長 諏訪幸一郎 大尉:1945年2月7日戦死 運用期間4ヶ月

呂56号・・・・1944年竣工、1945年、沖縄南東で米護衛駆逐艦らの攻撃を受け戦没。
      艦長 永松正輝 大尉:1945年4月9日戦死 運用期間5ヶ月

 
橋本中佐が艤装艦長を務めた三井造船最初の潜水艦呂44ですが、
橋本が伊58潜の艦長に転勤して上杉大尉が艦長になって一ヶ月後、戦没しています。

このように、潜水艦の寿命は大変短いもので、 内海で訓練の後に第一線に投入し
初陣で戦没、あるいは竣工から数ヶ月で喪失という例も多かったということです。


橋本中佐がインディアナポリスを撃沈したのは有名ですが、これは
後にも先にも橋本が艦長としてあげた唯一の戦果でもあり、
呂号全体の戦果でも駆逐艦、輸送艦など数隻を撃沈したに留まります。

これに対し、最後の海中型である呂33、34型、
海軍小型である呂100型の18隻、
そしてこの呂50号を除く35型の17隻。

大戦中投入された計37隻の「呂型潜水艦」は、一隻を残して全て戦没しています。