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勇敢なる水兵異聞

2011-03-05 | 海軍

「勇敢なる水兵」という唄は戦後世代でもいつの間にかメロディを耳にしているくらい
日本人にはなじみの深い曲です。

映画「連合艦隊」では、18年奉職し予備役で今は船大工をしている小田切武市(財津一郎)が
「煙も見えず~雲も無く~」
とこの歌をご機嫌で歌いながら登場します。


この唄で歌われた勇敢なる一人の水兵について今日はお話ししましょう。

本日画像は北蓮造画伯描くところの「勇敢なる水兵」から、周りの光景を全てカットして
心象風景風にアレンジしたエリス中尉バージョンです。
(周りのややこしい光景を描くのが面倒だったとかそういうことでは・・・ありません)


ここで、一般に世間に伝えられてきた「勇敢なる水兵の最後」はこのようなものです。


1894年(明治27年)9月17日、日清戦争における黄海海戦のさなか、午後3時26分
敵艦「鎮遠」の砲弾が旗艦「松島」左舷前部下甲板に命中、一瞬にして30名が戦死、70名が負傷した。

「松島」に砲員として乗り組んでいた三浦虎次郎海軍三等水兵は腹部に重傷を負い、激痛に耐えながら
「副長、まだ沈みませんか。定遠は」と尋ねた。向山副長が
「定遠は戦闘力が弱ったから安心せい」と答えると、三浦三等水兵は
「天皇陛下万歳」と叫び微笑みながら息を引き取った。


この黄海作戦とは、できて間もない連合艦隊が黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、
激戦の末にこれを破ったもので、鴨緑江作戦ともいわれます。

帝国海軍が経験する初めての本格的な近代海戦だったため、敵の射程内に足の遅い艦が取り残されたり、
こちらの射線上に味方が割り込んで砲撃の邪魔をしたり、という混乱があったものの、
戦艦も持たない海軍が軽装甲の巡洋艦で「定遠」「望遠」という巨艦を速射砲だけで撃沈し、
この戦法はその後の艦隊戦にも大きな影響を与えたと言われています。

旗艦松島は甲板上に積み上げてあった発射薬に引火、大火災を起こし、死傷90余名、
しかし、決死の消火により十数分後に鎮火。
そのとき水兵三浦虎次郎は敵弾の破片で横腹をえぐられます。


苦しき声をはりあげて 彼はさけびぬ副長よ

呼び止められし副長は 彼のかたへにたたずめり 声をしぼりて彼は問う まだ沈まずや定遠は

副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難く為し果てき




この海戦の勝利は国民に熱狂を持って迎えられましたが、そのシンボルとしてこの「勇敢なる水兵」
松島虎次郎の話は、それこそ国民に深い感動とそれに続くブームとしての熱狂を与えたのです。


ここで、この海戦から半世紀を待たず「開戦のシンボルとしての犠牲」、
真珠湾の九軍神ブームが起こったのを彷彿とされた方もおられるでしょうか。
「肉弾三勇士」。「敷島隊」。あるいは米軍の「硫黄島に星条旗を立てた兵士」。

いつも、そして、洋の東西を問わず、戦争を遂行するために国民の意識を煽り、熱狂させるための
「象徴としての一兵士」がいました。
三浦三等水兵は、近代戦を戦いぬき勝利した帝国海軍の最初の「聖なる犠牲者」になったのです。


ここで考えずにいられないのは、この三浦水兵は、言わばこの戦いに一水兵として参加し死んでいった、
というそれだけの人物です。
ほとんどの海軍軍人が、そして日本人がそうであったように自分が瀕死の傷を負っているのにもかかわらず
戦況を気にしながら死んでいったという、いわばワン・オブ・ゼムの戦死者でした。
勇敢と言うならそれはここにいて戦って死んだ水兵全員であり、士官将官であり、
彼ただ一人が勇敢な働きをした、というわけではないのです。

しかし、当時すでに国民の意識をある方向に操作するという機能を果たしていたマスコミは
この逸話を大きく取り上げ、ここに国民のヒーローとしての「勇敢なる水兵」が誕生するのです。




この歌の作詞者はこの報道に感動し、一晩でこの歌詞を作り上げました。
冒頭画像の元になった有名な絵も、同じような経緯で制作されたものでしょう。
勇敢なる水兵三浦虎次郎の故郷佐賀県にはその死を悼む碑が建てられ、その歌は唄いつがれ、
彼の名は永遠に歴史に刻まれることになりました。



しかし、というのが適当かどうかは分かりませんが、当時報道されなかった事実はこうです。

倒れた三浦水兵の元に巡回してきた副長の向山慎吉少佐は、かれを抱き上げようとします。
しかし、傷が痛そうで動かすことはできませんでした。
そのとき三浦水兵は

「いたい、いたい、おかあさん」

とうわごとをつぶやきました。向山副長が
「三浦どうした、鹿児島男児がお母さんなんて泣く奴があるか」
(鹿児島は副長の勘違いで、実際三浦水兵は佐賀県出身)
と叱咤激励するとかれはそのとき

「定遠はどうしましたか」

と初めて問うたのです。副長が
「大丈夫、定遠はやっつけた。これから鎮遠をやるんだ」
これを聴いた三浦水兵は

「カタキを討って下さい」

の一言を遺して瞑目したのだそうです。

享年一八歳と九カ月。
子供のようなこの水兵が母の名を呼んでいたことは報じられず、かれが言わなかった
「天皇陛下万歳」という台詞を付け足して、この英雄の死は麗々しく讃えられました。
もし事実が事実通り報じられていたら、
「勇敢なる水兵」
という唄は生まれなかったかもしれません。
国民もヒーローとしてかれを讃えることはなかったかもしれませんが、その代わり
おそらくこれを知る全ての人々に一層深い哀悼の気持ちを与えずにはいられなかったのではないでしょうか。


勇敢なる水兵

作詞:佐佐木信綱 作曲:奥 好義


一、煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず 鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に

二、空に知られぬいかずちか 波にきらめくいなづまか 煙は空を立こめて 天津日影も色くらし

三、戦い今かたけなわに 勉め尽せる丈夫の 尊き血もて甲板は から紅に飾られつ

四、弾丸の砕片の飛び散りて 数多の傷を身に負えど その玉の緒を勇気もて つなぎ止めたる水兵は

五、副艦長のすぎゆくを 痛むまなこに見とめけむ 苦しき声をはりあげて 彼はさけびぬ副長よ

六、呼び止められし副長は 彼のかたへにたたずめり 声をしぼりて彼は問う まだ沈まずや定遠は

七、副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難くなしはてき

八、聞きえし彼は嬉しげに 最後の微笑をもらしつつ いかで仇を討ちてよと 言う程もなく息絶えぬ

九、皇国につくす皇軍の 向う所に敵もなく 日の大御旗うらうらと 東の洋をてらすなり

十、まだ沈まずや定遠は この言の葉は短きも 皇国を思う国民の 心に長くしるされん