「不可視の両刃」放射線に挑む ~或る医学者の英国留学記~

福島原発事故被災地での臨床経験がきっかけとなって放射線医科学を研究しています

日本近代医学の源流を探して ~湖と遺跡の街エニスキレン~

2017-12-27 | 学術全般に関して
以前のブログ記事にも書きましたが、北アイルランドは明治日本が近代西洋医学を導入する上で大きな役割を果たしたウィリアム・ウィリス医師 Dr William Willisを輩出しています。今回、彼の故郷を訪ねて、「湖と遺跡の街」として知られるエニスキレン Enniskillenに足を運びました。
エニスキレンは北アイルランドの湖水地方の中心地であり、ベルファスト Belfastから南西に約150キロ離れた、歴史と伝統のある街です。近現代では文教都市として、とくにポートラ・ロイヤル・スクール Portora Royal School (現エニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクール Enniskillen Royal Grammar School)から高名な文人たちを輩出しています。
よく晴れた冬の日、ベルファストからバスで約2時間かけてエニスキレンに到達した私を待っていたのは、光をたたえた美しい湖水の景観でした。



エニスキレンは上下に分かれるアーン湖 Lough Erneの丁度中間に位置しており、とくに上アーン湖にあるデヴェニッシュ島にある遺跡群は、キリスト教黎明期の遺跡として、かなり有名です。私もその古代修道院跡に行ってみたかったのですが、残念ながら島に渡れるのは春から秋までとのことで、今回は無理でした。冬ですのであまり船が多く行き交っていませんでしたが、夏には水上交通も盛んとのことでした。
たしかに橋から見下ろすアーン川はとても綺麗で、ぜひ船に乗ってみたかったなと思いました。2013年に北アイルランドで開催されたG7はエニスキレンのアーン湖畔が会場だったそうですが、各国の首脳もこの美しい光景には感銘を受けたのではないでしょうか。



上の写真は、エニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクールの入り口です。
前身であるポートラ・ロイヤル・スクール(1618年にジェームズ1世によって創立、2016年にEnniskillen Collegiate Grammar Schoolと合併してエニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクールになった)からは、19世紀を代表する作家であるオスカー・ワイルド Oscar Wildeや、ノーベル賞受賞作家であるサミュエル・ベケット Samuel Beckettらが卒業しています。医学史に名を遺した人物ではデニス・バーキット医師 Dr Denis Parsons Burkitt, FRSがいるようです。彼は1958年にアフリカでバーキットリンパ腫 Burkitt lymphomaを発見した外科医です。

Burkitt, D. A sarcoma involving the jaws in African children. The British Journal of Surgery 1958;46 (197):218–223.

私がアーン川沿いをぶらぶらと散歩していたら、犬を連れたお爺さんがいきなり「エニスキレン・ロイヤル・スクール(ポートラ・ロイヤル・スクールの通称)はあっちだよ。この道をまっすぐ行って、あそこにバーがあるだろう、あそこを左に曲がって、まっすぐ進みなさい」と声をかけてきました。(えっ、いきなりエニスキレン・ロイヤル・スクールって、なんの話やねん?)とパニクる私。さらにお爺さんの犬が私の手をなめてきて、「フランクな犬だろう、わはは」と去って行きました。とにかく愉快な方でした。



話を戻しますが、ウィリアム・ウィリスは、1837年にエニスキレン郊外のマグワイアズブリッジ Maguiresbridgeに生まれました。
マグワイアズブリッジはエニスキレンから東に約12キロの距離にある村です。コールブルーク川 Colebrooke Riverという小さな川にマグワイア家が架けた橋が村の名前の由来と言われています。その小さな村に住んでいた赤髪のジョージの一家に生まれた7人の子供のうち5番目(四男)がウィリアムでした。
どうして、そのウィリアムが、今から約150年も昔に極東の小さな島国である日本に西洋医学を運んだのか。
医学史好きの私はそのことがずっと気になっていました。私がマグワイアズブリッジを訪ねた顛末記については、後日、きちんと原稿にまとめて、どこかに寄稿させて頂こうかなと思っています♪
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ConBio 2017 in Kobe

2017-12-10 | 学術全般に関して
12月9日まで神戸ポートアイランドで開催された2017年度生命科学系学会合同年次会 Consortium of Biological Sciences (ConBio) 2017に参加しました。残念ながら、私の発表後に聴衆の方々から沢山のフィードバックが得られたわけではありませんが、現在取り組んでいる研究について学外の場で初めて発表しました。ConBio 2017の大会長は私の医学部時代の恩師であり、この大会を盛り上げる一助になればという思いもあって海外から参加させて頂いたのでした。
神戸は久しぶりでした。関西まで足を運ぶことはあっても京都や大阪までが多く、なかなか神戸まで行く機会がこれまではありませんでした。港町という風情は、やはり横浜やBelfastに共通するものがあるように感じましたね。

実は、日本に帰ってきて早々にPCが壊れるという悲劇があり、ドタバタしている中での発表でした。データのバックアップは大事だなと改めて感じさせられました。まさかいきなり壊れるとは思わず、突如電源が入らなくなった時にはとても焦りました。
「備えあれば憂いなし」と言うは易く行うは難しですが、普段から留意しないといけませんね。
勉強になりました
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世界大学ランキング ~Times Higher Education World University Rankings 2018について

2017-09-08 | 学術全般に関して
最近、Times Higher Educationが世界大学ランキングを更新しました。
数ある大学ランキングの中でも有名な一つであり、様々な場面で「大学の格付け」の指標として使われています。例えば、英国のUniversity of Oxfordオックスフォード大学とUniversity of Cambridgeケンブリッジ大学がいわゆるワン・ツー・フィニッシュで1位、2位を占めており、英国の高等教育機関の強さを見せています。
ただ、少々うがった見方をすれば、このTimesとはもともと英国の雑誌ですから、「自国優勢の評価項目からランキングを作成して自己満足してるのではないか?」という疑念もあります。あくまで一つの目安として考えておけばいいと私は思ってきました。
しかし、日本でも報道されているのではないかと思いますが、今回は東大46位、京大74位というあまりにも悲惨な結果であり、シンガポール、香港、中国の後塵を拝すことになりました。シンガポール、香港は曲がりなりにも英語圏であり、国際性で有利でしょうから判らなくもありませんが、中国の大学にさえ劣る結果となったのは「日本の凋落」をはっきり印象付けるものとなりました。

私は以前から「米英主導の大学ランキングは国際性の重み付けを高く設定しているせいで英語圏有利が否めない」と感じており、日本の大学があまり高くランクしなかったとしても、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州非英語圏の大学のランクと比べて低くなければ、それほど問題がないのではないかと思っていました。実際、大学ランキングで苦戦しているのは、かの国々も同様ですが、それでも間違いなく先進国の立場を維持しており、科学大国であり続けています。だから、日本もそれでいいのではないかと思っていたのです。
しかし、今回のTimes Higher Education World University Rankings 2018を見ると、日本の大学の国際性が低いのは仕方ないとしても、例えば「論文引用数」でも伸び悩み、全ての項目で全体的に苦境に立たされているのが浮き彫りになったように感じました。つまり、日本の科学力が地盤沈下している兆候が明らかに目に見える形で示されているのですね。このことは、大学ランキングに限らず他の指標でも示唆されていることから、日本の科学力が相対的に低下しているのはもはや疑いようがないと思います。
日本は科学で負ける側になりつつあるのです。

さて、東大(46位)、京大(74位)、東北大(201-250位)を「指定国立大学法人」に指定して大学ランキングの向上を図る動きもありますが、それで日本の科学が救われるのでしょうか?

下手は作物を育てますが、上手は土壌を育てるものです。

大学ランキングの向上もたしかに目指すべき目標なのかもしれませんが、日本の科学の土壌を育てるべきではないかと私は思います。
私は子供から大人になる間にテレビゲーム、携帯電話、スマホなどの爆発的な普及を見てきた世代の1人であり、身をもって感じていることとして、明らかに若者の勉強時間や読書時間が平均的に低下したことが挙げられます。私の世代よりももっと上の30代、40代、50代でも思春期をテレビ全盛期で過ごしているわけですから、たとえエリート層であっても、昨今ノーベル賞を受賞されているような60代、70代の日本人科学者の世代と比べて、平均的に勉強時間が落ちていたはずです。
もちろん、勉強時間が減ったとしても、勉強の質が向上して、時間を有効に使えているならば問題ないのかもしれませんが、昔から日本の学生の「勉強の仕方」は良くも悪くもあまり変わっていないと思います。つまり、学生時代に勉強や思考に割く時間の減少が、そのまま卒業後の活躍に多かれ少なかれ影響してきているのではないかと感じています。すなわち、日本人は「馬鹿になっている」のではないかと疑ってさえいます。
中国などから英国の一流大学に留学してきているハングリー精神旺盛な人たちの話などを聞くと、はっきりと「日本人は勉強しなくなったんだな」と痛感させられます。発展途上国の方々はとにかく貪欲に人生を勝ちにきています。成功したいと強く願っています。激しい競争に勝つ精神的なタフさがあり、必死に努力しています。勉強しています。それに比べて、一般的に日本人は良くも悪くもかなり大人しくなり、勉強もしなくなり、伸び悩んでしまっているのではないでしょうか。もちろん、私自身もその一人として反省するところは大いにあるのですが。
したがって、あくまで私見ではありますが、日本の大学ランキングの向上を目指すには、もちろん大学で行われている研究、教育にもっと投資をするのも一つの方策ですが、同時に長期的な観点から抜本的なテコ入れをすべきなのではないかとも思うのですね。

日本は1990年代に経済的に失速して、残念ながら、2000年代には論文数、論文引用数などの統計資料を鑑みるに学術的にも失速の傾向がありました。2010年代になって、中国はじめ諸外国の追い上げもあって、はっきりと学術レベルの相対的な低下を突きつけられています。科学的な優位が保てなくなれば、おそらくは今後、技術レベルでも失速することでしょう。「ものつくりの国ニッポン」もいずれは過去の話になるのではないかと危惧しています。果たして、その時、日本はどうなるのか……

科学に国境はありませんが、科学者には祖国があります。
私も今は英国に居るとはいえ、日本には頑張ってほしいといつも思っています。
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今年のラスカー賞の栄冠はHPVワクチン研究者に ~がんを防ぐワクチン開発への功績を讃えて

2017-09-06 | 学術全般に関して
「ノーベル賞」にも勝るとも劣らない国際賞は幾つかありますが、そのうちの一つに米国ラスカー財団が授与する「ラスカー賞」があります。ラスカー賞は主に医学分野を対象としていますが、実際、例えば利根川進博士や山中伸弥博士のようにラスカー賞とノーベル賞を重複受賞するケースも多く、ノーベル生理学・医学賞やノーベル化学賞の将来の受賞者を予想する一つの指標となることもあります。
ラスカー賞の一つである「ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞(Lasker-DeBakey Clinical Medical Research Award)」は臨床医学の分野において世界最高峰の栄誉とされますが、本日、今年のラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞はDr. Douglas R. LowyとDr. John T. Schillerの2人の米国人医学者に授与されることが発表されました。
授与対象は「HPVワクチン研究開発の功績」です。言うまでもなく、このHPVワクチンは、ヒトパピローマウイルス(Human papillomavirus:HPV)を対象とした、女性の子宮頸がん罹患率の低下につながる画期的な予防ワクチンであり、「がんに対する予防ワクチン」としての先駆けになります。

世界的には、このワクチンに関しては、やはり、とても高く評価されています。ここで「世界的には」と敢えて書いたのは我が国の特異な現状を念頭に置いているからです。
「副作用のない薬は存在しない」ように、副作用のないワクチンは存在しません。HPVワクチンにも、当然、副作用が生じる可能性はあります。しかし、副作用/有害事象が生じる可能性と、子宮頸がんによって命を落とす可能性やHPV感染がコミュニティへ拡散する不利益などを天秤にかけて、公共の福祉の観点から予防ワクチンとして施行するか否かを総合的に判断すべきであり、「世界的には」HPVワクチンの普及によって女性の子宮頸がん罹患リスクを低下させることが出来るという共通理解があります。予防接種ワクチンによって、がんにかからずに済む、命を落とさずに済む人が統計学的に多くなるのであれば、それはやはり素晴らしいことでしょう。

しかしながら、我が国では……
HPVワクチンをめぐる日本の現状についてここでは詳しく書きませんが、個人的には、残念に思うのです。

たしかに、ごく稀な可能性とはいえ、いったん生じた副作用/有害事象のケースについては、深く同情します。日本ではこの報道がセンセーショナルでした。医療とは、ときに統計学的な観点や経済学的な観点を度外視してまでも、病に苦しむひとりひとりの患者さんに寄り添おうとする営みです。私も医療従事者の端くれとして、不幸にもHPVワクチンの副作用/有害事象で苦しむことになってしまった方々が、その辛さをなんとか乗り越えてほしいと祈っています。
一方で、ワクチンによってそのリスクを低減できる可能性があるにもかかわらず、性交渉の低年齢化と性感染症対策の未熟によって、若い女性たちを中心に広がるHPV感染の拡大と子宮頸がんリスクの増大への対応が遅れてしまった我が国の状況をとても残念にも思います。

率直に言って、我が国では副作用/有害事象に関する扇動的な報道がエスカレートし、HPVワクチンに対する正しい理解が損なわれたように感じています。将来、「HPV感染者の輸出国」である等と、日本が世界各国から不名誉なレッテルを貼られるようなことにならなければいいのですが……
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講演の上手いひと下手なひと

2017-07-28 | 学術全般に関して
当たり前の話ですが、面白い話を聞けば楽しいし、つまらない話を聞けば退屈を覚えるものです。それは、もちろん、科学の世界でも同様です。

私も、これまでに色々な機会に、様々な話をしてきました。話題も違えば、聴衆も異なるものですから、いつも同じ話をするわけにはいきません。したがって、毎回、それなりに工夫して準備して、本番に臨むわけです。
私は今までにも幾つか講演賞や発表賞なるものを頂戴していますので、客観的に見て、どうしようもなく下手というわけではないのでしょうが、しかし、上手いかと言われるとあまり自信がありません。準備が上手く行っても本番にミスしてしまうことがあるし、逆もまた然りです。とはいえ、もちろん、準備を入念にした方が上手く運ぶ可能性が高まるのは判っています。常に抜群のパフォーマンスが出来るわけではありませんが、聴衆に「時間の無駄」とは感じさせないように、それなりに頑張ることにはしています。
ただ、私がどんなに努力しても「上には上がいる」ということもよく判っています。したがって、一番であろうとするのは無理だと重々承知しています。

あくまで私見ですが、欧米人の方が講演が上手い人が多い気がします。ユーモアがあるし、全体のバランスもいい。講演というものが一方通行ではなく双方向性であることを教えてくれるように、いつも聴衆とのコミュニケーションを意識している方が多いように感じます。一方で、日本人は下手くそが多いと思います。

その原因としてはおそらく「聴衆は黙って聞け」というスタンスがどうしても多いからでしょうか。
この傾向は著明な科学者であってもそうで、ノーベル財団が配信している受賞者講演などを観ていても、僭越ながら、「日本人受賞者の先生方の講演は残念ながら圧倒的につまらないことが多い」と感じます。ノーベル賞以外の高名な科学賞、例えばガードナー国際賞や京都賞などでも、Youtubeなどで受賞者講演が配信されているのですが、日本人の大御所の先生方の英語の講演ははっきり言って稚拙です。科学的にはとても重要な発見や技術についてお話しされているのに、伝え方が下手な方が多いです。
つまり、淡々と、一方的に自分の研究の話を垂れ流しているだけなのです。

一方で、もちろん、業績に優れるだけでなく講演もとても上手な著明科学者もいます。
たとえば、iPS細胞の開発の業績でノーベル賞を受賞された山中伸弥教授です。留学時代にプレゼンテーション技術に関する講義・実習で学ばれたことがあるという話を伺ったことがありますが、おそらく努力されたのだと思いますが、たしかにユーモアを交えて、面白くお話しする術に長けていらっしゃいます。私も幾度か彼の講演を聞いたことがありますが、そのたびに「凄いな」と率直に思ったものです。話の内容はもちろん、そのプレゼンテーションの巧みさに対しても。
また、東北大学加齢医学研究所の所長で、いわゆる「脳トレ」で高名な川島隆太教授のプレゼンテーションも素晴らしいと私は思っています。一時は上司の上司でもあったので(もちろん先方は末端の私の存在なんてご存知なかったと思いますが)、彼の話を聞く機会は幾度かありましたし、英国のUniversity of Readingから配信されている彼のレクチャーを観て改めて「凄い」と感じたのでした。
お二人に共通されるのは、もちろん科学的な業績もありますが、やはり聴衆とのコミュニケーションの上手さだと思います。おそらく場数も相当踏んでいらっしゃるのでしょう、大舞台でも動じずに堂々としていらっしゃるのは確かな経験があってのものでしょう。

私も、講演の上手い先生方の真似をして、すこしでも良い話が出来るようになりたいなと願っています。
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"医"の中の蛙

2017-05-23 | 学術全般に関して
普段から私は、一応、目上の方には出来るだけ丁寧な敬称を用いるようにはしています。例えば、ここ英国でも指導教官には常にProfessorを付けてメールしたりしていますし(professorshipはとても重要な意味を持ちますので)、医師免許や博士号を持つ方には基本的にはDrを付けています。
また、これまでに母国でお世話になった医師の方々や指導を仰いだ先生方、あまり親しくない方々に対しては、「~先生」あるいはちょっと他人行儀に「~先生御侍史」「~先生御机下」などを用います。とくに患者さんを紹介する紹介状の宛名は、やはり自分が携わった患者さんを委ねる形になりますから、「~先生御机下」から始まる丁寧な文面を必要とすることもあります。
しかし、後輩や同期などを相手にする際には、紹介状などでない限りは、医師免許や博士号を持っていても「~君」や「~さん」をメールで用いることが多いです。これは別に私に限ったことではありません。

私は、さすがに自分が診た患者さんや、教育的指導に携わった方々、あるいは病院のスタッフたちからは「~先生」と呼ばれるがままにしていますが(病院のスタッフたちは、医師に対して先生と呼ぶことで、誰が医師なのかを患者さんやご家族に対して判りやすく明らかにする必要があることから)、それ以外は基本的に「~さん」と呼んでもらうようにしています。
したがって、最近はもっぱら「~さん」と呼ばれていますし、それが普通だろうと思っています。
これは、私の尊敬する先生(もう亡くなられてしまいました)が、「医師同士で~先生と呼び合うのはちょっとおかしいし、そういう形式的なことに拘るよりも、もっと人間関係の本質をみなさい」と仰っていたのに倣っているからであり、実際、私も同感です。「~先生」と小馬鹿にしながら呼びかけるよりも、「~さん」と丁寧に呼びかける方が、よほど敬意が込められているものです。敬称なんて些事に過ぎませんし、敬意は自然と向けられるべき対象に向けられるものです。「敬意を示せ」と他者に要求するアホは、その前に鏡をよくご覧になって、どうして自分に敬意が向けられないのか、そもそも自分が他者からの敬意に値するのかをよく考えるべきでしょう。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞者の山中伸弥教授が「私に敬意を示しなさい」などと仰ることがあるでしょうか、私はそんなことは絶対にないだろうと思うし、そんなことを仰らなくても自然と彼には敬意が集まるでしょう。

しかし、日本では形式的なことに拘る方々が実に多いものです。とくに医療界では、意外と権威主義者が多くて、形式的なものに拘り勝ちです。
大した医師(あるいは薬剤師)でもないくせに「~先生」と呼ばれないと怒る方々は少なくないですし、時々、研修医の分際にもかかわらず「~先生」と呼ばれないと不機嫌になる奴までいます。中には、一人称が「~先生」(自分のことを先生と呼んでいる状態)になっている人までいました(さすがに冗談だと信じたいですが)。馬鹿な奴ほど「形式的なことに拘っている」という印象があって、その様子はまるでちっぽけなプライドを必死に握りしめているかのようです。

海外でも、もちろん、フォーマルな場所では敬称などの形式的なことが大事ですが、基本的にはすこしでも親しければファーストネームやニックネームで呼び合うのが普通です。お堅いイメージの英国も、もちろん日本に比べれば、その点ではるかにおおらかです。
日本の慣習としての過剰な権威主義や形式主義、とくに「面子を大事にする」姿勢にはもともとすこし辟易していましたし、中でも医学部や医療界でのそれにはいつも違和感を覚えていましたが、最近、海外の方々と接する中で改めて感じるのは私たちは「もっと本質的なことを大事にしていくべきだ」ということです。
もちろん、医師の資格や博士の学位は、それを授与されている人物の高度な専門的知識や技能を証明するものですから、ある程度の敬意が自然と集まりやすいのだろうとは思いますが、それは決して他人に強要するものではないのです。例えば、患者さんが普段からお世話になっている医師に対して「~先生」と自然に呼ぶのはいいでしょう。しかし、もし仮に医師の方から患者さんに「~先生と呼びなさい」などと強要することがあったとしたら、私としてはとても遺憾に思います。

"井"の中というか、"医"の中の蛙にはなりたくないものです。
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IFとトップジャーナルとハイインパクト

2017-05-08 | 学術全般に関して
7日に行われたフランス大統領選挙ではエマニュエル・マクロン氏(Emmanuel Jean-Michel Frédéric Macron)が勝利しました。史上最年少、元恩師の奥様との年の差婚など、様々な話題をもつマクロン氏のニュースはここ英国でもかなり熱いようでした。8日からは日本もGWが終わって平常業務体制に戻ったようで、今朝は日本からのメールが沢山届きました。
今日も今日とて、世界は動いています。

さて、本日、日本から届いていたメールの1つに興味深いものがありました。「平成28年度にIFが10以上のトップジャーナルに掲載された論文の数」を報告せよというものです。私は昨年度にそのようなジャーナルに掲載した実績は、残念ながら、ありません。

IFとはインパクトファクター(Impact Factor)のことですが、クラリベイト・アナリティクスのHP(http://ip-science.thomsonreuters.jp/ssr/impact_factor/)によると、「毎年Journal Citation Reports が公開するインパクトファクターは、被引用数と最近出版された論文との比率です。特定のジャーナルのインパクトファクターは、対象年における引用回数を、対象年に先立つ 2 年間にそのジャーナルが掲載したソース項目の総数で割ることによって計算します」と説明されています。たとえば、世界最高峰の総合科学誌であるNatureとScieceの最新IFは、それぞれ38.138、34.661です。

IFが10以上の総合科学誌がわずかにNature、Science、Nature Communications(Nature姉妹紙の1つ)の3誌しかないことからも判るように、「IFが10以上」というのは極めてハイインパクトになります。この基準だと、米国科学アカデミー紀要PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences,USA)さえ外れてしまいます。もちろん、実際には、PNASはトップジャーナルの1つであると見做す研究者が多いでしょう。
また、たとえば免疫学、再生医学などのメジャーな専門学術分野の専門誌ならば幾つか10以上のジャーナルがありますが、一方で我々の放射線科学などのマイナーな分野では最高峰の専門誌でも4台に留まります。IFには科学分野の流行や科学者人口を反映する面もあり、分野間格差が生じています。また、Nature姉妹紙の幾つかは総合科学誌であるNature本誌よりも高いIFを示してきましたが(総合科学誌ではあまり論文引用が伸びない分野の論文も掲載するため)、姉妹紙の方が本誌よりも上と見做す研究者ははっきり言って皆無でしょう。繰り返しますが、IFだけで評価すると、分野によってはトップジャーナルが存在しない(?)ということさえなりかねません。実際には、どの分野にも世界最高峰の専門ジャーナル、すなわちトップジャーナル、が存在するにもかかわらず。

「IFが10以上だとトップジャーナルなのか?」という深刻な疑問もありますが、IFは科学ジャーナルの質を示す指標の1つとして、今でも日本などでは最重要視されながら運用されていることは確かです(英国ではIFとは違った指標が主流になりつつありますが、それはまたの機会に説明します)。そして、「IFはあくまでジャーナルの質を示す指標であり論文の質を示す指標でないにもかかわらず、日本ではなぜか研究者の論文業績を評価するのにIFが使われている」という深刻な疑問も無視すれば、上記のようなメールの意図も薄々とは判ります。
つまり、研究者はこのような「ハイインパクトな」研究業績が求められているわけです。
昨今、このようなハイインパクトを求める風潮は日本に限らず世界的に強くなって、ここ英国でもハイインパクトなジャーナルに論文を通すことが、研究費やアカデミックポスト・好待遇の獲得を有利にします。しかし、IFで重視されるような、ある意味で性急かつ分野間不公平な「ハイインパクトさ」は、同時に、とても危ういものを秘めているのかもしれません。
色々と考えさせられますね。

私はかつてNatureやCellが嫌いであると宣言していました。
ハイインパクトな商業誌は、ある意味で、研究者にとっては悪魔のような存在であると思っていました。
今でもそのような気持ちはちょっぴりあるにはありますが、最近の私を取り巻く状況をご存知の方は判ってくれるかもしれませんが、もはやLondonに足を向けて眠れない状態になっており、「Nature? うん、素晴らしいジャーナルですよね」とか言っています。はっきり媚びています。
すなわり、私もまた、「ハイインパクトの強制力」に抗うことが出来なかったわけです。
言い訳すると、研究者として自由奔放に生きようとするのは、昨今とても厳しいのです。いつまでも子供のままではいられないのであります。大人になるしかないのであります。つまり、悪魔に魂を売るしかなかったのであります。
……ああ、汚れちまった悲しみに。
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男子は生涯、一事を成せば足る

2017-04-03 | 学術全般に関して
かの秋山好古の口癖だったと伺います。
かつて私もそういう生き方をしたいとたしかに願ったはずなのに。今、我が身を振り返れば、余計なことばかりを気にしています。我ながら随分と愚かな真似をしてきたものです。

ここ英国に来て、今まさに、その一事を成そうと足掻いています。
あと5年か、あと10年か、おそらく20年まではかからないでしょう。放射線科学の教科書を書き換えることで、福島原子力災害の被害を最小限に留め、我が国のこれからの発展の礎になりたいと願っています。
放射線の単位を変え、放射線防護の在り方を変えます。
私には、あの放射線禍の悲しみを無駄にしない方法は、結局、それくらいしか思いつきませんでしたから。

浅学非才ではありますが、この命を賭してでも、為すべきことを為します。
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自己満足なのかもしれないけれど

2017-01-23 | 学術全般に関して
研究を続けたいと願うなら、研究計画を描いて申請し、審査され採択されなければ、研究費は得られません。そして、研究計画書には、必ずその研究の「背景」を記さなければならない――その度に、いま取り組んでいる放射線研究の原点を振り返ります。
それは残念ながら、決して、楽しい作業ではありません。

私のやっている事なんて、所詮、自己満足なのかもしれません。

死の間際で故郷に帰りたいと願った人たちの希望を語って、その思いを自分自身の放射線研究の成果と共に残そうとする。浅はかな行いなのかもしれませんし、何よりも私が看取ってきた人たちの遺志ではないかもしれません。こんな事して誰が喜ぶのかと言えば、それはたぶん、自分だけでしょう。
故郷に帰りたかった人たちは、最期まで故郷に返してあげられなかったままです。それは変わりません。でも、これから私に出来る事なんて、そのくらいしかありませんから。つまり、研究して前へ進むしかない。

たしかに亡くなられた人たちにはもうその感想を聞く事は出来ませんが、もしも天国で聞くことが出来たならばあるいは「まあ、先生もそれなりに頑張ったんじゃないか」って、もしかしたら赦してくれるかもしれません。喜んでくれるかもしれません。それもまた、結局、自己満足にしか過ぎないとしても。

しかし、私にはそうするしか、ここまで来る方法を見つけられなかった。
あの原子力災害の被災地で失われたもの全てを無駄にしないために。前へ進むために。
私に出来ることをしようと思いました。
それこそがきっと、私が為すべきことだと信じて。

だから、今日も今日とて、私は拙い研究計画書を申請しました。
それは残念ながら、決して、楽しい作業ではありません。
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強いられた言語と勝てる土俵

2016-11-26 | 学術全般に関して
日本語が第一言語になる我々にとっては残念ながら、現代の科学界では英語こそが世界の中心です。
科学はその性質からして否応なしに競争を強いるものであり、我々もまた、その競争の中で英語での表現を強いられています。医学を含めた自然科学では、社会科学、人文科学ほどに英語表現・パフォーマンスの優秀を問われることはありませんが、それでもある程度は英語での表現力を問われることになります。
この「強いられた言語」を使わざるをえない状況で、英語を第一言語にする人たち所謂ネイティブスピーカーを上回る表現力を発揮するのは、不可能とは言いませんが至難です。費用対効果を考えると、そこに必要以上の労を費やすのは、無駄になることも多いでしょう。

それなら、どうすればいいのか。

多くの先達が同様の結論に達していますが、逆境を好機に変えればいい、つまり「日本語による思考の強みを活かすべき」なのでしょう。英語での表現力はある程度捨てて、思考の質で勝負するしかないと思われます。
日本語はおそらく世界で一番複雑怪奇な言語の一つであり、例えば表意文字である漢字と、表音文字である仮名を併用しているように、とても柔軟な表現と思考を可能にします。この日本語の特徴あるいは恩恵をこそ我々は大事にすべきです。
もはや科学の分野で欧米のキャッチアップをすればいいという時代はとっくに終わっています。すでに英語で書かれた内容を日本語に書き直すだけの作業を期待される時代ではなく、これまでの世界になかった日本発の新しい内容を生み出す作業こそが日本の科学者には求められています。その時、「日本語で考える」「日本の文化的背景から着想を得る」ということは、英語をはじめとする他の言語を第一言語とする人たちには真似できないという意味で、一つの強みになりえるのです。
おそらくは、そこに「勝てる土俵」があります。

我々は、勝てる土俵の上でこそ、勝負すべきでしょう。すなわち、「日本語で考えたことを英語で発信する」というスタンスで勝負すべきであり、英語で考えて英語で発信するのはやはり避けるべきなのではないかと考えています。数式で考える数学や理論物理学などの分野はともかく、他国語での論理的思考はどうしても科学的に質が落ちますから。他国語思考による脳への負荷の影響とも言われます。日常生活においては思考レベルが多少低下しても問題にならなければ構いませんが、研究の最先端で最高峰の勝負をするには間違いなく不利であり、真剣勝負に挑む際にわざわざ負ける土俵を選ぶのは愚かしいでしょう。

一点付け加えると、私は他国語から日本語への変換もとても大事な作業であると思っています。
かつて「Physics」という英語をただフィズィクスと仮名表記するのではなく「物理学」あるいは「究理学」と訳したように、日本文化外に現れた概念を日本語に取り込む作業は、未来の日本語を豊かにし、日本文化を幅広いものにする意味で、欠かせないものです。日本の科学者は、かつても、今も、そしてこれからも、この作業を行っていかなければならないでしょう。
それがきっと、日本が明日勝てる土俵を作ることにもなりますから。
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11月8日は国際放射線医学の日

2016-11-08 | 学術全般に関して
今日は11月8日であり、おそらく多くの方々は第45代米国大統領選挙の日と記憶していることと思われますが、それだけではありません。本日は国際放射線医学の日(International Day of Radiology)です。1895年11月8日にドイツ人物理学者のヴィルヘルム・レントゲン博士(Dr. Wilhelm Conrad Röntgen)がX線を発見したことを記念して、各国の放射線医学に関連する学会が参画しています。
言わずと知れた第1回ノーベル物理学賞に輝いた「X線の発見」ですが、この不可視の両刃の発見はまさに人類の科学史上に残るものでした。X線という「目に見えないもの」を利用して、人類はそれまで見通すことが出来なかった「多くの影を見る」ことが出来るようになったわけですね。

Seeing is believing.
(見ることは信ずることである → 「百聞は一見に如かず」)

私の好きな言葉です。教科書に書いてあるものを疑い、他者が言うことを信じず、最終的には自分自身が見て、感じて、考えてから、はじめて納得するのが科学者です。私もその端くれとして、やはり「自分の目で見てから信じたい」といつも願っています。そのような性を鑑みると、「目に見えないX線が写し出した未知の影」が当時の科学者たちに与えたインパクトはさだめし大きかったことだろうと思うのです。

レントゲン博士が人類に遺したプレゼントは、今日も今日とて、我々の医療を支えています。彼は、X線の特許を取得せず(万民が使えるようにするため)、巨額のノーベル賞金を大学に全額寄付した、清貧の士でもありました。
ですから、皆で彼に感謝する日があってもいいんじゃないかなと、個人的には思っています。
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科学者の良心 ~査読制度~

2016-10-25 | 学術全般に関して
久しぶりに「査読(peer review)」を依頼されたので引き受けることにしました。
渡英してからは初めてです。以前に私の論文を掲載してくれた医学誌からの依頼でしたので、正直申し上げれば若干面倒ではありますが、浅学非才の身の上と知りながら査読者になることにしました。インパクトファクターはそれほど高くはありませんが、歴史と伝統のある医学誌ですので、かなりの時間と労力を割いて、しっかり査読する必要があります。

査読は、研究者にとっては馴染み深いものですが、一般の人々はよく判らないものだと思います。
我々研究者は、研究者としての存在意義をかけて、自分たちの論文を学術誌に投稿します。しかし、そのようにして寄せられた論文全てが学術誌に掲載されるわけではありません。掲載前に論文の内容が科学的に妥当であるかどうか、学術的に価値があるかどうか、ミスがないかどうか、それらを様々な観点から同業の研究者たちが評価して、その評価をもとに編集者が論文の採否を決めます。したがって、一般的には、評価が高い論文ほど有名な学術誌いわゆるトップジャーナルにすぐに掲載され、それほど評価が高くなくても重要な論文は中堅の学術誌に紆余曲折を経て掲載され、評価が低い論文はどこにも掲載されないあるいは名も知れない学術誌になんとか掲載ということになります。このような同業の研究者による掲載前の評価システムを査読と言います。

この査読という作業は、ほぼ完全に研究者たちの良心に委ねられており、つまりはただのボランティアです。どれだけ一生懸命に時間をかけて行ったとしても、基本的に、謝礼などはもらえません。作業後に編集者から「ありがとう」というメールを頂戴するだけです。
それではどうしてそのような奉仕活動をするのかというと、「自分の論文も誰かが査読してくれるから」という一点に尽きると思います。私もこれまでに筆頭著者として書いてきた論文は、15報が既に世に出ていて、1報が採択されて印刷待ちであり、3報が査読中で、1報が投稿する直前の状態です。おそらく多数の査読者の方々にこれまでお世話になってきたはずであり、これからもそうなるでしょう。だから、私もまた、誰かの論文のお世話をするのは当然というべきです。
とはいえ、正直言って、やはり楽しい作業ではありません。自分の研究と関連した分野の論文について査読を依頼されるのが一般的ですが、それでも読みたい論文ばかりではありませんから。査読も勉強の一環と言いたいところですが、自分自身も論文を投稿する直前の最終調整段階なので気忙しいところです。さっさと作業して、出来るだけ早く、査読評価を編集部にお送りしたいと思います。

振り返ると、英国にいても、日本にいても、やっていることはあまり変わらないのかもしれません。
たしかに臨床はしなくなりましたが、研究活動自体は世界のどこにいても大体同じです。実験をして、論文を書いて、査読して……
街中で救急車を見かけるたびに、ちょっと「ドキッ」として、医療従事者の血が騒ぎますが、英国での免許がなくて何もできない自分がいます。
医療人として必要とされないのは、やはり、寂しいものです
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2016ノーベル生理学・医学賞の単独受賞 ~大隅良典教授とオートファジー~

2016-10-03 | 学術全般に関して
大隅良典教授が今年のノーベル生理学・医学賞を単独受賞されました。
単独受賞というと、湯川秀樹博士、利根川進博士に続く3人目です。「単独だから3人分の価値がある」というと言い過ぎかもしれませんが、その分野で突出した貢献が認められたのだろうと思います。たしかに水島昇、Daniel J. Klionskyの両氏にも受賞の可能性はあったと思いますが、単独ということならば、それはやはり「大隅良典」の名前だけだったのでしょう。

医学部生だった頃、たしか2009年だったと思いますが、大隅先生の「オートファジー(autophagy)」の講義を初めて拝聴した時のことを思い出しました。
ご子息も医師ですが、私の大先輩です。私の同級生もたしか東工大の大隅研にお世話になっていましたし(飲み会が多いとぼやいていましたが)、これまでのノーベル賞受賞者の中では最も親近感を抱くことが出来る先生です。「オートファジー」という言葉は一般にはあまり知られていないかもしれませんが、タンパク質の再利用は細胞にとって非常に重要な意義があり、このメカニズムの破綻は多くの疾患病態に関連します。大隅先生は、このオートファジーに関わる遺伝子の多くを同定し、その分子基盤を明らかにされたのでした。生理学・医学賞の受賞に相応しいテーマだと思います。おそらく今後多くのテレビ番組などで採り上げられるでしょうから、一般の人々はそちらを参考にされると宜しいでしょう。

「誰もやらないことをやりなさい」と、大隅先生はかつて我々に話してくれました。
他人と違うことを恐れずに、私もまた自分だけの道を進もうと思います。
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