「不可視の両刃」放射線に挑む ~或る医学者の英国留学記~

福島原発事故被災地での臨床経験がきっかけとなって放射線医科学を研究しています

桜舞い散る道の上で

2017-04-18 | どうして留学しようと思ったのか
東北被災地でお世話になった方から写真を頂戴しました。
美しい桜ですね。残念ながら、このような光景は英国では望めません。

いつか日本に帰った時、また、この場所を訪ねます。必ず。

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Unconditional offer ~留学の動機3~

2016-05-08 | どうして留学しようと思ったのか
2016年春のある日、英国から1通のeメールが届きました。

願していた英国の大学院博士課程からUnconditional offer(無条件入学許可)を発行した旨の通知でした。すなわち大学院博士課程に公式に合格したという連絡でした。留学生は、このUnconditional offerをもとにして、英国学生ビザTier4の申請手続きを行うことができます。こうして私は念願の英国大学院博士課程への留学、そして博士号取得に向けた「第1歩」を進めることができたのでした。英国で博士号を取得することを夢見て、英語学力試験IELTSの勉強を始めてから、すでに1年以上が経過していました。

――どうして英国を選んだのか。
かつてサマースチューデントとして留学していた事も含めて様々な要因がありますが、もっとも大きな理由は共同研究者の横谷明徳博士の存在でした。横谷博士は、放射線生物学と放射線化学が交わるような学際的な領域で、「放射線が細胞にぶつかった時にどのようなことが起こるのか」を分子レベルで解明しようとしていました。私が医学部生だった頃、そのような彼の研究を詳しく知りたいと思って、突然、研究室を訪問してからのお付き合いがありました。
その後、私が福島原発被災地で臨床に従事した時も、共同研究をしたり、一緒に論文を書いたりと、かなり親しくさせてもらってきました。とくに一緒に書いた論文は、その後にOxford University Pressが選ぶ福島原発事故関連の学術論文30編にも選出され、個人的にも非常に印象的な仕事になりました。彼は放射線生化学の世界的権威であった英国オックスフォード大学のProf. Peter O'Neillの研究室にかつて留学していたこともあり、世界中に放射線研究者の知人が多く、国際的環境で研究者としてのトレーニングを受けたいと考えていた私が相談した時も、すぐに明確な指針を与えてくれたのでした。
すなわち「放射線研究で留学するならば、間違いなく英国クイーンズ大学のProf. Kevin Priseが良いですよ」と。
英国クイーンズ大学ベルファストのPrise教授は、国際放射線学会Radiation Research Societyの副会長も務める、放射線生物学の大御所でした。Prise門下の多くは、研究プロジェクトのリーダーとして、世界のあちこちで活躍していました。世界の放射線研究をリードする大研究者として、彼の名前を知らない放射線生物学者はいないだろうと思われるほどでした。
横谷博士は、そんなPrise教授と知己であるばかりでなく、私のことを紹介までしてくださったのです。まるで何かに導かれるようにして、英国留学の話がとんとん拍子で進み、そしてPrise教授に私が師事するという流れになりました。

最大の問題は、多くの日本人がそうであるように、やはり語学力と思われました。
たとえば英国クイーンズ大学ベルファストの大学院の場合、専攻にもよりますが英語圏外からの留学生は最低でもIELTSという語学力運用試験でOverall 6.0以上を取得しなければなりませんでした。私は前述の通り、英米への短期留学歴があり、その時点で英語論文も10編以上書いていたので、それなりに英語を運用する能力はあるだろうと思われました。自信があったのです。しかし、初めてIELTSを受験した際は、ListeningとSpeakingのセクションで点数が伸びず、恥ずかしながらギリギリでOverall 6.0でした。その点数でも目的の大学院に出願はできたのですが、他の大学院への併願も考慮に入れて、もっと点数が欲しいと思いました。
その後も2、3回受験しましたが、公立相馬総合病院のような急性期病院での臨床研修中だったこともあり、医学ではなく語学の勉強をするのは時間的に少々困難であり、Overall 6.0からなかなか点数は伸びませんでした。Listeningがうまくいっても、Speakingで失敗したりしたこともありました。Overall 6.5を取得出来たのは2015年秋でした。その点数であればオックスフォード大学やケンブリッジ大学を除けば大抵の大学院を受験することは出来ましたが、結局、英国の他大学院との併願は止めてクイーンズ大学ベルファストの大学院のみに出願したのでした。実は、一つの大学院しか受けないというのは、やはり不安ではありました。もちろん、入試ですから、落ちることもありえました。

Prise教授とはスカイプやメールなどで幾度も連絡をとりながら、彼のもとでの大学院進学、博士号取得できるように懸命な努力を続けてきました。さすがの彼も、日本人医師を大学院博士課程学生PhD studentとして受け入れるのは初めてでした。色々ありましたが、最終的には彼が大学当局の事務部門にも色々と働きかけてくださったおかげで、今回の大学院博士課程の入学許可は特例として認められたのでした。
入学許可書を読むと、私の氏名欄はDr.○○となっていました。医師とはいえ、これから博士号を得ようとする者をDrの敬称で大学院に迎えてくださるのはなんだか不思議な心地でしたから、それを見て思わずくすりと笑ってしまいました。Prise教授はなぜか最初から私のことをDr.○○と呼んでくれていました。医師として、医学者として、私がやってきたことをある程度認めてくださっているかのようでした。
彼の期待に応えたいと心から思いました。

このようにして、留学を検討した当初は思いもよらなかったような、素晴らしい環境が与えられました。背中を押して下さった方々のことを思い出して、感謝して、そして一生懸命に頑張りたい。不退転の覚悟で挑みたい。たとえ自分が報われなかったとしても、福島の原発問題に少しでも貢献できるような成果を挙げたいと心から願いました。

今秋からの研究留学に向けて、仙台でこれから数か月間、準備を着実に進めていこうと思っています。

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医師の留学事情 ~留学の動機2~

2016-04-17 | どうして留学しようと思ったのか
明治以来の伝統もあって、医師のキャリアパスの中で「留学」はそれほど珍しいものではありませんでした。
医師のキャリアパスはどんどん多様化してきていますが、医局に在籍する医師らを中心として、留学する者は常に一定数いると思われます。研究であったり、臨床であったり、MPHなどの専門職学位取得であったりと留学の目的は様々ですが、いずれにせよ専門分野への理解を深めるだけでなく、語学力を養い、国際感覚を身につけ、自身の蒙を啓くという意味で古今やはり重要なステップでしょう。

我が国の場合、国内臨床系大学院で博士(医学)号を取得してから「Postdoctoral fellow」(ポスドク)として留学するパターンがこれまで最も多かったと思われます。博士号の前後で専門医資格を併せて取得できますから、いわゆる一人前の医師として確立してから「よし、留学しよう」と自分で考えたり、他人から「そろそろ、どうか」と勧められることが多かったからでしょう。留学助成金の種類も、日本ではポスドクを対象としたものがほとんどなので、経済的な理由もあったのかもしれません。医師免許は各国で共通ではありませんから、日本の医師が海外でそのまま医療行為をすることはできません。したがって、ポスドクとして主に基礎研究を海外の研究機関で行う、いわゆる「研究留学」をする医師が大多数でした。
また、海外でも「Medical Doctor」(医師)として活躍したいと考える日本人医師も昔から少なからずいました。横須賀や沖縄の米国海軍病院でインターンを行いながら、米国の医師免許取得試験を突破して、米国内のレジデントドクターに採用されるというコースが確立されており、このキャリアパスで現在も米国を中心に世界中で活躍されている方々がいます。
私自身も医学部時代にこの臨床留学に憧れていた時期があり、実際に、在沖縄米国海軍病院エクスターンシップ(内科コース)に参加したことがあります。英語を使って診療をすることは格好良く見えたのですが、現実には母国語以外で診療を行うのはとても大変なことですし、「日本の医学部で学んだ者が日本で診療せずにどうするのだ」という想いが自分の中に出てきたので、沖縄での貴重な体験を最後に臨床留学の希望はなくなりました。
そして、21世紀以降で増加してきたのが、MPHなどの専門職学位の取得を目指して1~2年間を海外の大学院で学ぶというパターンです。専門職学位とは、学術的な学位とは異なり、実務的な専門職に与えられる学位のことで、たとえば経営学修士課程のMBAなどが有名ですね。医師の場合、もちろんMBAを取得することもありますが、公衆衛生学修士課程のMPHの取得を目指す場合の方が多いかもしれません。医局によっては、キャリアアップの一環として、このようにMPHを海外で取得することを推奨しているようです。

私の場合、前記に当てはまらないパターンとして、海外の大学院で博士号を取得を目的とした留学を志しました。
実は、私の母校の医学部には、日本の医学部を卒業した後で米国イェール大学大学院で博士号を取得されたという異色の経歴を持つ教授がいらっしゃいました。私も医学部在学中にサマースチューデントとして英国に3カ月間滞在しましたが、彼も医学部6年生時にスイスで3カ月間サマースチューデントをしていたそうです。彼と同じように、私も海外の大学院で博士号を取得しようと考えましたが、彼と違うのは、私は英国の大学院に行くことを希望している点でした。私には英国でなければならない理由がありました。

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いつか世界へ ~留学の動機1~

2016-04-10 | どうして留学しようと思ったのか
しがらみなく過ごした少年時代、夜明けの向こうから素晴らしい明日が来ると疑問もなく無邪気に信じていた頃、野茂英雄投手が日本から米国に渡って活躍されている姿をテレビで見て、よく判らぬままに「海外で活躍するなんて凄いな」と私は思ったものでした。ただ同時に、自分の周囲とは違う、遠く離れた世界のことなのだろうと漠然と感じていました。そもそも世界の広大さを知りませんでしたし、世界の多様さについての関心もありませんでした。
それから長い年月が流れて、紆余曲折を経て、私は地元の医学部に進みました。念願の医学部に入学した頃はまだ、卒業後には地元の病院で働き、ずっと地元に住むのだろうと思っていました。英語はもちろん外国語は全般的に苦手だったし、観光旅行はともかく海外に滞在するつもりなんてありませんでした。
相変わらず世界には興味がない一方、医科学研究には関心がありました。入学してすぐに医療現場を垣間見る機会があり、「今は治せないとしてもいつか治せるようになりますように」と願いながら、地道に研究する必要性をその際につくづく感じました。研究という営みには、もちろん辛い時、苦しい時もありますが、患者の苦しみに比べたら大したことはありません。また、サイエンスには知的好奇心を満たすことが出来るという魅力がありました。医師として臨床と研究に従事し、社会に貢献していきたいという想いが、いつの間にか、私の心の中にはありました。
色々な先生方とのご縁にも恵まれて、医学部の幾つかの研究室に自由気ままに出入りするようになり、培養細胞の扱い方、生化学・分子生物学的実験の仕方、臨床統計学の考え方など、医科学研究における「視座」というものを教えて頂きました。研究がますます面白く、楽しくなり、そしてやり甲斐というものが判ってきました。

そんなある日、私は医学部長賞を受賞することになりました。しかも金賞でした。つまり、医学部生にとって最高峰の栄誉でした。当時の医学部長の黒岩義之教授といえば、「日本神経内科学の父」と呼ばれた御尊父の黒岩義五郎九州大学名誉教授譲りの臨床家であり、学究肌の厳格な神経内科医として尊敬を広く集めていました。したがって、医学部教授陣の目前で、黒岩医学部長から賞状を手渡された時はたいへん緊張しました。その賞状の正確な文面は覚えていませんが、一読して、内容に驚愕しました。「世界に羽ばたく医師になれ」と書いてあったのです。

――世界に羽ばたけと言われても、一体全体、どうすればいいのだろうか?

私はその時になって初めて世界を意識しました。そして、自分の目で世界を見てみようと思ったのでした。
それから医学部の制度を利用して、米国のカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)に1か月間留学する機会があり、米国の大学に集う人たちに度肝を抜かれました。なるほど、世界とはなんと広大で、なんと多様なのだろうかと。
UCSDといえば、日本人初のノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進博士の母校でもありますが、ノーベル賞受賞者数十名を擁する世界屈指の学究都市サンディエゴの中核を占める研究機関です。UCSDに限らず、DNA二重らせん構造の提唱で有名なフランシス・クリック博士が晩年を過ごしたソーク研究所、世界をリードするスクリプス研究所など、サンディエゴには世界中から最先端の科学を志向する研究者たちが集まっていたのでした。
私もいつかこういう方々と肩を並べて研究したいとつくづく思いました。

2013年、私は再度、海外留学する機会を得ました。英国のダンディー大学遺伝子発現制御研究所で3か月間の国際サマースクールが開催されるということを知り、医学部長の推薦状をもって応募してみたところ、幸運にも、夏季給費留学生として採択されたのでした。世界中から集まったサマースチューデントの中で日本人は私だけでした。この間、福島のことを幾度も聞かれるという経験をしましたが、もう一つ、自分の心の中に強烈に刻まれたのが「競争心」でした。つまり、世界と戦って、勝ちたいと思うようになりました。
サマースクールの期間中、他のサマースチューデントと話す機会がよくありましたが、ある日、英語が稚拙な私に対して、オランダから来た女学生がイライラした表情で「あなた、本気で研究者になる気があるの? 遊びに来たなら中国に帰れば? 私は世界一の研究者になるためにここにいるのよ」と言いました。その時まで私のことを中国人だと思っていた彼女に正直呆れましたが、侮られてはさすがに頭に来たので、「大口をたたくだけなら、誰でもできるのでは? 少なくとも私はお前よりはハードワーカーだ」と私も言い返しました。実際、サマースチューデントの中で私はもっともハードワークしており、夜中や休日に研究所の警備スタッフから「お願いだから、そろそろ帰って下さい」と言われたこともしばしばありました。結局、私と違って彼女はサマースクールでは大した実験成果を残していませんでしたが、その苛烈なまでの向上心、競争心には見習うべきところがあると思ったのでした。つまり、我々は常に世界中のライバルたちと競争して、新しい何かを見つけていかなければならないのだということを。こちらが敵視しようがしまいが、そんなことはお構いなしに、我々はすでに競争しているのだということを気づかせてくれたのでした。

言うまでもなく、私は負けず嫌いです。戦わざるをえないならば、やはり勝ちたい。

ダンディー大学では田中智之教授にたいへんお世話になりました。東京大学医学部を卒業され、日本で血液腫瘍内科の医師として臨床に従事された経歴を持つ彼は、細胞生物学の研究に取り組まれてから、華々しい活躍をされ、英国でもっとも高名な生命科学者の一人になっていました。実際、エジンバラ王立協会フェロー「FRSE」の称号を贈られ、Cell(細胞)という用語を名付けたロバート・フック博士の名を関した「フック・メダル」を受賞されていました。
凄い。いつか田中教授のように私もなれたらいいなと憧れました。

その後、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故の被災地で臨床に従事してから、私は放射線被ばく影響の研究をしようと思いました。そして、その研究分野で世界の研究者と肩を並べて、従来の教科書を書き換えなければならないと気付きました。しかし、そのためにはどうすればいいのか。放射線生命科学、放射線医学において、広島、長崎、福島の記憶を持つ日本が世界をリードするにはどうすればいいのか。
私の出した結論は、海外の大学院博士課程に進み、世界と戦うすべを学ぼうということでした。とくに米国や英国のように世界中から研究者が集う場所で、国際的な研究者になるためのトレーニングを受けることで、いつか彼らと競争して、最終的に勝つ方法を見出したいと考えたのでした。それがいつか福島原発事故被災者のためになると信じて。無念のうちに亡くなられた方々のためになると信じて。
――こうして、留学をしたいと思うようになったのです。

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