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映画・舞台の感想や俳優さん情報等。基本各種メディア込みのレ・ミゼラブル廃。近頃は「ただの日記」多し。

『アメリカン・サイコ』(2000)

2007-02-06 14:08:12 | クリスチャン・ベイル
アメリカン・サイコ

アミューズソフトエンタテインメント

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続行中の私的クリスチャン・ベイル祭り。今回は彼の出演作中最大の問題作かも知れないこれです。

ストーリイは……実のところ無きに等しいです。
ウォール街のエリート証券マンであるパトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベイル)の優雅でおしゃれな生活と、その裏で繰り広げられる乱れたセックス・ライフ、そして殺人鬼としての顔がひたすら描かれる、それだけの話。

ブレット・イーストン・スミスの原作(1991)については、KKベストセラーズの『サイコ・スリラー読本』(1995)が要領よく解説してくれていますので、そちらを引用します。

『 この小説、はっきり言ってストーリーはほとんどない。物語は主人公のベイトマンのトレンディな消費生活(本当にありとあらゆるモノのブランド名や性能、その価値が延々と語られる)と、めまいがするほどの悪虐な惨殺シーンが延々と続くだけ。それが完全に狂っているベイトマンの一人称によって語られるので、異様なリアルさをもって読む側に伝わって来るのだ。
 ベイトマンの仕事風景がいっさい登場せず、ひたすらクラブや家で、くだらないトレンドウンチクを繰り広げるというだけでもじゅうぶん異常なのに、彼の殺しぶりがそれに輪をかけた凄まじさ。』(同書 p.61 国領雄二郎・筆)


この解説に恐れをなし、また当時アメリカでは、フェミニスト団体を中心に(その中にはサラ・パレツキー等の実作家たちも含まれる)不買運動まで起きた、という話も聞いていたので、原作は読んでいません。そもそもサイコ物は苦手だし。(じゃあ、なんで『サイコ・スリラー読本』などという本(ムック)を持っているか、とかは訊かないで下さい。)
でも、その本でレビューされている作品の大部分が、現在は影も形もなくなっているんですよね。
あれほど世間を席巻した(「猖獗を極めた」という表現の方が適切かも)ブームだったのに、このジャンルで後世まで残るものと言ったら、好き嫌いはさておき、結局『羊たちの沈黙』までのトマス・ハリス作品と、ジェイムス・エルロイ、スティーブン・キングのそれぞれ一部、そして孤高の先駆者ジム・トンプスンの作品くらいなんじゃないでしょうか。

それはともかく、映画の内容の説明も、上の原作解説でほぼ事足ります。
連続する惨殺シーンのため「映像化不可能」と言われていた作品ですが、映画に於けるその描写は案外あっさり(?)したものです。
どこに力点が置かれているかと言えば、「ベイトマンのトレンディな消費生活」の方で、高級マンションに住み、フィットネスに余念がなく、有名レストランの予約を取ることに全力を傾け、誰が最も「いけてる」名刺を持っているか、紙質や字体など部外者には殆ど区別がつかない僅かな差異にこだわり、神経をすり減らす「ヤング・エグセクティブ」たちの姿が、ブラック・ユーモアの味わいで戯画的に描写されています。
ベイトマンの残虐な殺戮の数々も、そのストレスや空虚感を晴らすため、と言えますが、ライバルを斧で惨殺し、街で拾った娼婦たちに変態的行為を強い、ホームレスやその飼い犬まで痛めつけて憂さ晴らしをする彼に同情の余地はなく、感情移入も出来ません。

ハンサムだけど印象に残らず、様々な蘊蓄を傾けつつ、話の内容自体はひどく退屈な、中身の空っぽな男。娼婦たちと3Pに励みながら、彼が見ているのは女たちではなく、鏡に映った自分の姿でしかない。思わず笑ってしまうシーンですが、メアリー・ハロン監督の演出及びベイルの演技は、ベイトマンをまさにそういう笑うべき存在として、冷徹に突き放しています。
監督は特典インタビューで「バッシングされている原作が真に描きたかったものを、映画で表現できたと思う」という意味のことを語っていますが、一人称の小説と、物語の視点はベイトマンにあっても、カメラ=第三者の目でそれが映し出されるのとではやはり異なり、映画はその距離感ゆえに批評性を持たせることが可能だったのではないでしょうか。

ベイトマン自身が思い描く自己像と、それを客観的に見た時の愚かしさ滑稽さの乖離。常に演技を重ね、自己を演出し続けるベイトマンを、更にその外側から演じるベイルの、役に対する距離の取り方は絶妙で、ベイトマンという男の本質はまさにその「乖離」の部分にしかないということを、的確に表現しています。
しかし彼の演技は、客観性や批評性だけにとどまってはいません。

映画はその終盤に来て、作品に潜んでいた或る「仕掛け」を明らかにします。(原作にも同様の仕掛けがあったのかどうかは、未読につき判りません。)
それは、ベイトマンのサイコ性とは、その残虐行為自体にではなく、実は別の所にあったのではないか、(以下ネタバレ)つまり、すべては彼の妄想だったのではないか、ということです。
すべて「なかったこと」にされる、おまえなどいてもいなくても同じだと言われる──精魂傾けて「トレンディ」な生活を維持し、妄想かも知れないけれど、精魂傾けて(?)殺戮を重ねて来たベイトマンにとって、それを知ることこそ最大の恐怖だったのではないでしょうか。
(←ここまで)

おまえは何者でもない。
おまえのすべては空虚だ。

それこそがベイトマンの抱える真の闇です。
ラストシーンで、ぽっかり口を開けた深淵の前に立ちすくむ者の虚ろな眼差しにすべてを集約させたベイルの演技も見事でした。

上でも書きましたが、役に対する彼のスタンスは神業です。
狂気のナルシシストを演じつつ、その狂気に淫しない。自らも惑溺せず、観る側にも安易な感情移入を許さない、あらゆる意味で「クール」な演技。
映画全体を通してそのスタンスが揺らぐことはなく、細部まできちんと構成された演技。
キレて暴力を振るおうと、全裸でチェインソーを持って走り回ろうと、彼が「怪優」にならないのは、その冷徹な視点と表現力あればこそです。
当時25歳という年齢にしてなぜこのような演技が出来たのか、ただ驚嘆するしかありません。
また、その若さでこういう役を演じたことが、キャリアの傷とならず、以後この手の役ばかり回って来るなどということがなかったのも、大したものだと思います。

という訳で、クリスチャン・ベイルという俳優に関しては、今のところ何をとっても絶賛モードにはいってしまいます。
ちょっと前、この人の演技を完璧に構成された「絵画」にたとえたことがありましたが、それより「建築物」とか「建造物」と言った方が近いか、という気もして来ました。
一枚の絵を、ああ綺麗だ……と眺めると言うより、たとえば薬師寺の東塔とかエッフェル塔を仰ぎ見て「おお~!」と声を上げてしまう感じ。細部まで綿密な計算に基づいて設計されている筈だけど、見る側としてはただ全体として完成された形に感嘆するのみ──って、また判りにくいたとえですみません。
一人の俳優の演技について、と言うより、その有りようについて、ここまで「これは凄い」と思い、入れ込むことはなかったので、自分でも驚いています。

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