20世紀ウラ・クラシック!<最新版>

このページは、19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音評を中心に紹介しています。

プロコフィエフ:トッカータ ニ短調 op.11

2017年02月25日 | Weblog
ブルショルリ(P)(meloclassic)1965/11/19live私的録音・CD

プロコフィエフのピアノ曲は絶対ハマるので聞かないことにしている。こうやってアンコールピースを一つ聴くだけでも新鮮まくりで沸き立つ。ブルショルリはしょっぱなから持ち味である重くて強い音を駆使して、曲の要求のまま打楽器的な音楽を推進していく。ただ指が回るとかスピードを見せつけるということはしない。音がすべてちゃんと実音として響く。だから短くても聴き応えがある。生誕100年記念盤収録。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」〜火祭りの踊り(ピアノソロ版)

2017年02月25日 | Weblog
ブルショルリ(P)(meloclassic)1965/11/19live私的録音・CD

これはちょっとやり過ぎかな。最初の主題ではテンポがよたり、第二パートでは表情を作り過ぎ。もっとも、面白い。この曲に私がルビンシュタイン的な勢いと力強さしか求めないのはかつてロシアの先生の実演で物凄くカッコの良い豪快な弾きっぷりを観たからで、こういう起伏を付けるソロピアノ演奏を聴いたのは初めてだった。録音は悪いが一応内容は聴き取れる。それほど音が細かく絡み合う曲ではない。生誕100年記念盤より。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

デュティユー:ピアノ・ソナタ

2017年02月25日 | Weblog
ブルショルリ(P)(meloclassic)1950年代パリ私的スタジオ録音・CD

私的録音だけありボロボロでかなり聴きづらい。私的演奏なのにまったく瑕疵の無い、目覚ましい技巧を示す一楽章などそちらに耳が行くので気にならないが、繊細で張り詰めた二楽章や深く重い響きから始まる(この響きがブルショルリを特徴付ける)三楽章では、メリットが損なわれる面もある。フランスのピアニストに多い、細かい音符を胡麻を撒くようにパラパラ示す演奏家ではなく、音のすべてにきちんと重さがあり、この速さと確かさはナンカロウがロール紙に打ち込んだ音なんじゃないかというくらい、物凄いところが聴かれる。指が20本あっておのおの30センチの長さがあるんじゃないかと思わせる。曲ははっきり言ってドビュッシーとメシアンの間にあるような没個性的なもので技巧的表現以外余り新しい工夫の重ねられた音楽には聴こえないし、三楽章20分は長いが、アイヴズのソナタが聴けるならじゅうぶん楽しめるだろう。この作曲家の時折折り挟む単純な美しさは、やはりボロボロの録音が目立って残念。ブルショルリ生誕100年記念盤収録。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ドビュッシー:前奏曲集第1巻〜Ⅹ.沈める寺

2017年02月25日 | Weblog
ブルショルリ(P)(meloclassic)1966/12/18live(事故直前の最後の公開演奏会)クルジュ・CD

生誕100年記念盤に収録。全般に録音が不明瞭なのは非正式記録とはいえ惜しい。冒頭、泡の主題(具象的でも神秘的でもなくはっきりしたタッチで抽象化された上向音形)の音量が極端に落ちているのも録音のせいだろう、これはこの曲の出だしとしては痛い。しかし、じきに総体的なクレッシェンドが松葉を開いていくうちこのソリストの大伽藍を聳え立たせるような表現に圧倒される。重く、いささかの不安も抱かせない和音、不明瞭な、狙ったような発音は一切なく幻想味はあくまで曲構造から醸し出されるものに限られ、明らか過ぎるくらい、リアル過ぎるくらいの発音で(録音のせいもあるが低音の残響はマノノーンの潮流のように聴こえる)、でも、ただ解釈を音にしているのではない、何かしら心にズシリとくるような要素をふくみ、深い水の底から現れそして沈む巨大なモノをじっさい眼前に幻視させる。単体で演奏されることが多い曲だからなお、存在感の大きな作品で内包する要素も、たくさんの方が多方向から分析されるくらいにはあるのだが、このスタイルだと衝突する要素が発生して自然さを失いかねないところ、バランスが良い。そもそもの設計が良くできている。その威容に、時間をかけてじっくり演奏されていると錯覚するが、計測上はかなり早い。あまり音楽外の要素を入れて聴きたくないのだが、この直後にブルショルリは事故で演奏家生命を絶たれる。技巧派で同時代作品の解釈表現に一家言あった人として、これが録音記録の最後になったというのは、不謹慎かもしれないが、意味のあったことのように思えてならない。最後に、巨大な寺院〜音楽性〜とともに、水底へ消えていったのである(聴衆からすると)。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

バッハ:フーガの技法BWV.1080(弦楽合奏版)〜 未完

2017年02月25日 | Weblog
カラヤン指揮大ドイツ放送国営ブルックナー管弦楽団(meloclassic)1944/12/14リンツ・放送用スタジオ録音・CD

実在のことで物議を醸した演奏だが録音は戦中ドイツの良好なもの、と言ってもこれを聴いていたら音が気持ち悪いと言われたので一般向きではないのだろう。言われてみれば浅くて音場は狭い。でもクーセヴィツキーのマタイを思い起こせばとんでもなくノイズレスである。非常に机上論的というか、私が言うまでもなく抽象化された作品で古典芸能の手本みたいな、最小限のスコアに演奏者が表現を付け加えて成立するたぐいの芸術である。そしてその幅はけして広くはない。45分でプツンと切れるまで(未完は未完でほんとに切れるし、順番も異なり全曲でもない)、まったく平板に同じような音楽が「違った動きをし続ける」。カラヤン(の時代のオケ)のイメージとして編成が大きすぎるとかアンサンブルが甘いとか、そんなものの有無はこの平準化された音符の羅列の前には何の意味も持たない。難曲だからまとまらないとか、原典は実はこうこうだからこうこうしたとか、そういう余地はこのスコアには無く(編成や楽器や奏法を変えたらともかく)、だからといって揺らぐものは無いのである。つまりこの「何もしない」のがカラヤンの解釈である、そして、聴いて思ったのはこれはやっぱりフーガの技法である。ただそれだけだ。ブルックナー信奉者ヒトラー肝入りのリンツのオケで戦局の悪化により3年しかもたなかったか、さすがに音が揃って下手ではなく(生気の有無は何とも言えない)、残響のせいもあるが教会音楽ふうの雰囲気もあり、かといって〜バッハの多くの作品には通俗的な側面があると思うがこれはそこが無い〜抽象音楽に徹した演奏ではなく、どっちつかず。まだ若い手練れのシェフが上等な素材を与えられたのでそこそこ美味い料理を作った、というか、せっかくブルックナーの名を冠したオケでカラヤン自身ブルックナー指揮者であったのに、ブルックナー的なロマンティックな面白味が余り持ち込まれず素材の良さのまま提示されている。「お仕事」という言葉が浮かんだ。録音のせいもあって今後あまり聴くことは無いと思う。そもバッハならもっと面白い曲はある。教科書のような作品はまだ私にはわからない。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

2017年02月25日 | Weblog
D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ORTF(ina)1959/6/1(1959/6/21放送)live

ina配信でもAmazonデジタル配信でも聴ける。コンサート冒頭を飾ったせいか、まだ熱していない感および余力を残している感。最初は音がメロウで意外(豪胆な音よりこのくらいの柔らかく適度に細いほうが耳に優しい気もするが贅沢な物言いだ)。解釈表現的に少し堅い感じもする。プロコフィエフの冒険的な時代のトリッキーな仕掛けが、確かな技術により鮮やかに浮き彫りにされてゆく。鮮やか過ぎてすんなり通り過ぎてしまう。しかし技巧を見せつける二楽章にてオイストラフここにあり、というとんでもない曲芸的な表現を披露する。曲芸、というと小手先のイメージがあるがすべて「実音を伴う」。あまりの速さに小手先の動きが省かれるところまで聴いてしまうのはヘッドフォン派の悪いところだが、演奏精度は全般にあくまでライヴであり、オイストラフの録音でもあまり上には置けないと思われるかもしれないが、そのように聴くべきだ。三楽章は変な楽章でソロヴァイオリンが冒頭と最後の主旋律以外は高音アルペジオや変なトリルや装飾音でオケの伴奏にまわるようなところがある。シゲティの技術的限界と表裏一体のギリギリ切羽詰まった表現とは違い落ち着いた安定感が内容的な部分に何か足りないものを感じさせるが(この演奏はオイストラフにしては集中度の高さはなくいつも以上に灰汁が抜けている、前プロだからだろう)これは普通はこれでいいのだろう。客席反応も曲への馴染み無さもあってか普通で、長い拍手の後の方が少し盛り上がる程度である(舞台上に戻ってきたタイミング)。書き忘れたがブールのバックは素晴らしい。やや複雑な曲を鮮やかに処理、響きの透明感を維持し技巧的解れを許さない。同オケ同時代にこの高精度の演奏は素晴らしい。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ピエルネ:バレエ音楽「シダリーズと牧羊神」第一組曲〜Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ

2017年02月25日 | Weblog
デルヴォ指揮ORTF(ina)1955/4/4

朝にはぴったり。デジタルアルバム(Amazon等)でもina配信でも聴けるコンサート中の一曲(ルフェーブルのシューマン協奏曲をふくむ)。通常演奏される第一組曲冒頭の無邪気な四曲が選ばれている。内容はいかにもドロドロらしいのだが、このあたりでは学校を舞台にした爽やかで印象派的な響きの音楽であり、特に一曲目「小牧神の入場」は古くからお馴染みの鮮やかな色彩の映える小品である。ちなみに「牧羊神の学校(小牧神の入場)」「パンの笛のレッスン」「ニンフの生徒たちの行進」「ダンスのレッスン(ヒポリディア旋法に基づく)」以上になる。この演奏だとコンサート中盤であるせいかオケが乗っていて、ちょっと気が強すぎる感じもする。派手なリズムでダンスの気を煽るデルヴォーの指揮のせいもあるかもしれないが、これはこれで、よく耳に届く音楽になっている。もともと決してリリカルな内容ではないので、リリカルな場面だけ取り出したとはいえ正しいのかもしれない。劇場張りにやってくれるデルヴォーの同曲録音は貴重だ。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年02月24日 | Weblog
モントゥ指揮ACO(RCO)1939/10/12live放送・CD

冒頭から性急で意思的な強い表現に驚いたがオケの性格もモントゥーの年なりのところもあるのだろう。あけすけなトランペットの響きにもびっくりする。真っ直ぐ突き進むのではなく、縦に音を叩き付け続けるようなミュンシュとは違うスタイル。二楽章のリズムには舞踏的な要素も強く感じる。リアルな音色で楽想変化が明瞭な一方、とくに弦に技術的雑味が多い古い演奏、さらに、ノイジーな録音で余りに状態がひどく、テジ化音源で聴いていると盤面の問題なのかリッピングミスなのか識別できないほど多様なノイズが重なり、多くの部分が耐え難い。ダイナミックな志向の一方で例えばハープや低弦のかもす幻想味が損なわれまくっているのも悲しい。正直鑑賞には値しないが、モントゥー壮年期のフォルムの緩い前のめりっぷり、気を煽るせっかちな芸風はそれなりの色彩味を放ち魅力が無いわけではない。速すぎて吹けないなど三楽章にも技術的問題は多々きかれるのだが、とにかく私の盤の単なる劣化による悪印象かもしれないので、そこは少し割り引いて読んでください。正規盤にしてはひどすぎる。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ヒンデミット:気高き幻想組曲

2017年02月24日 | Weblog
マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1967/10/25・CD

マルティノンのイメージ通りの演奏となっている。マーラーを得意としただけに中欧音楽でも期待させるものがあるが、これは莫大であまり曲の芯を捉えていないように聴こえる。退屈なのだ。理知的に構築してはいるが楽団はそれを譜面通りに演奏している、そこに加えるものはなく、遅いインテンポで壮麗さを演出しようとするとそこでヒンデミットのわかりやすい曲の内蔵するマンネリズムが表面化し、1枚CDではあわせて収録されたバルトークやヴァレーズにくらべて聴き劣りは否めない。中低音のひびかない楽団の性格もあるのだろう。ヒンデミットはやはり中欧の作曲家であり想定されているのは重い響きである。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ヴァレーズ:アルカナ

2017年02月24日 | Weblog
マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1966/3/21・CD

新奇な音要素を騒音主義的に加え、前衛に必要な理知性より、結局勢いを重視した楽曲に聴こえてしまう。明晰な表現を持ち味とするマルティノンでさえこうなってしまうのだから(トランペットの駆使や複雑なリズムなどアイヴズのようにうるさく、打楽器に頼るような表現は強引で、全体の構成感も希薄)これはあとは好みだろう。この楽団がやっているのだから、これ以上の技術も求められない。ピアニッシモの響きの美しさはヴァレーズ独自のもので、マルティノンらしい精緻さが有利に働いている。ジョリヴェが好きなら聴ける音楽です。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」

2017年02月24日 | Weblog
○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1967/4/26・CD

マルティノンの演奏には覇気漲る演奏とまったく無い演奏があるがこれは前者。世界屈指の技巧的オケを相手にギリギリ締め上げてバルトークの音響を余すところなく引き出しており、録音的にも優秀なステレオで、万人に勧められる。オケコンなど耳馴染み良い曲ではないが室内楽ほど頭でっかちの精緻さも際立たず、騒音主義やオリエンタリズムを計算し直して正確なスコアに起こしたような音楽で、主題はどこへ行ったというウイットの無さは気になる人は気になるだろうが、ややもすると煩いだけの平板な印象になるところ、めくるめく管弦楽の色彩変化を変な色を加えず明瞭に示していて、抽象的に仕上げてなお魅力的であり、同じ盤のヴァレーズとの内容の質の落差がはからずも明確になっている。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン

2017年02月23日 | Weblog
作曲家(Vn)不詳(P)(HMV/EMI他)1903・CD

鈴木清順翁鎮魂、というわけではないが取り上げる。あまりに有名なSP原盤だが(録音は蝋管だろう)演奏自体は手堅くオールドスタイルの踏み外したところは皆無。中年のサラサーテがもはや技巧をひけらかす年ではなかったのもあるだろうが録音時間制約や当時の録音に対する意識が「いつもと違う」演奏を記録させた可能性はある。細かい音はもちろん聴こえず、ピアノを識別することすら難しい局面まであるが、想像力で補って聴けば左手指は回りまくり、きっちり時間通り四角くおさめた職人的上手さに納得する。冒頭こそあっさりしすぎているように聴こえるが一貫してそのスタイルなのである。この復刻(1991)は裏表を返す時に何か言葉が入るのをそのまま入れてあるが、内田百閒の不安を醸す暗喩的想像を掻き立てる程の代物ではない。三音程度の声である。音楽家の声という意味ではチャイコフスキーの方が喋っている。
Comments (2)
この記事をはてなブックマークに追加

ペンデレツキ:広島の犠牲者に寄せる哀歌

2017年02月23日 | Weblog
作曲家指揮ポーランド国立放送管弦楽団(EMI)1975/2/3-7・CD

明晰な録音であるがゆえに相当の覚悟をして聴いたほうがよい。心臓が弱いならスピーカーよりむしろイヤフォンで聴いたほうがいいだろう。弦楽器だけでこれだけの音が出せるのか、驚嘆する「音響」であり、実際明滅する、あるいは起伏する斬新な響きに驚嘆しっぱなしである。不安と焦燥、シェーンベルク以降音楽の一部はかつてなかった人類の直面する悲惨な状況に対し、それを慰めるのではなく、寄り添った「荒んだ響き」を選んだ。一度でも、飛び降りてしまいたいほど追い詰められた経験のある者、また、絶望的な気分がえんえんと続いて終わりの予感すらしない者には、甘い歌やロマンティックな夢は何の意味も持たない、逆に唾棄すべき「頭上に胡座をかいた貴族の遊び」にきこえてしまう。このての現代音楽にそういった要素は一切ない。殺伐とした気分そのものであり、「わかるわかる!」とホッとする。同曲はそれでも行き過ぎたもので(若干は解釈によるがこの演奏は指定より遅いながらかなり先鋒をいっている方)さすがにここまでの荒み方は、後付けの題名に従えば唯一人生き残るも原爆病に蝕まれ心をも病み生活もままならない状況に寄り添う、あるいは、日々サイレンに苛まれ体中を傷つけられながらついに最後に打倒され意識が遠のいていく者の心象風景なのである。ただの机上論的な音響実験でも記譜実験でもない。何か一貫したものを持っている。これはさらに、連続した三部を三部ときちんと意識させながらも、フィナーレは少しも解決をみない。終わりなき苦痛の静かな持続を思わせる。永遠性を感じさせる。ビビッドで耳を突き刺す音でも、こんな私にも、とても響く時があるのである。ホールで聴く気にはならないが。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版・ストコフスキ編)

2017年02月23日 | Weblog
ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor)1924/10/13・SP

悪名高いストコフスキーのストラヴィンスキー編曲(編成)だがこんな時期から既にやっていたのである。時代柄録音用編成であることに言を待たないが、状態は悪く、ほぼ同時期のオスカー・フリートの復刻のほうがよほど明晰でストラヴィンスキーらしさが聴き取れる。ただ、困難なフレーズでの各パートの技巧のとんでもないレベル(このスピードで音楽の流れが止まらない!)、アンサンブルのスマートかつ力強い仕上がり、むせ返るような音色、水際立ったリズム処理(ピチカートなど短い音符のキレっぷりが凄い)、前衛的な響きの再現はストコフスキーがひときわ強調する処理を加えていたとしても(普通にやったらここまで聞こえないだろうというような水際立った色彩性がノイズの奥からしっかり実音として届く)この曲をあくまで筋のあるバレエ音楽として理解させる上での見識ではあろう。ストラヴィンスキーが後年志向したあくまで音楽は音楽として、という抽象性はないが、具象的な表現が前時代的な感興と前衛的な耳新しさを併せ持つ同曲、リムスキーとスクリアビンを前提としフランスの和声を消化した同曲を、蓄音機を前にした家庭の聴衆にちゃんと理解できる形で伝えるものとして、良くできている。フリードをはじめとする同時代の欧州録音にみられた大曲におけるごちゃっと潰れる弦楽器を中心としたアンサンブルが、無いとは言わないがほとんどメロらないのは技術陣の成果でもあるだろう。ノイズをうまく取り去ればとても現代的に聴こえそうだ。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加

シェーンベルク:主題と変奏op43b

2017年02月23日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1944/10/21放送(1944/10/20)live

シェーンベルクが室内交響曲第二番のように調性的な作品に回帰「しようとした」作品で原曲は吹奏楽、これはオーケストラ版の初演である(初演アナウンスがあるので記載上の21日は放送日と思われる)。初期に立ち返るには書法が簡素化しすぎ、これは音に色を籠めないクーセヴィツキーがやっているせいもあるがウィーン時代のローカル色がすっかり抜けて抽象化されて、主題とその半音階的な動きには同時代アメリカアカデミズムに横溢していた晦渋さが滲み、交響曲のように強引にでも聴き通させようという明確な構成を持たない変奏曲という形式を用いた結果、ただダラダラとしてパッとしない音楽になってしまった。
Comment
この記事をはてなブックマークに追加