20世紀ウラ・クラシック!<最新版>

このページは、19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音評を中心に紹介しています。

☆マーラー:交響曲第5番

2017年06月09日 | マーラー
○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(TOKYOFM)1984/4/13大阪フェスティバルホールLIVE・CD 

mpeg/HDプレイヤーを使うようになったがプレイヤーの仕様でアルバム名等参照しづらく誰なのかわからないまま聞くことが多い。それでもなんとなくわかるというか、「ドギツすぎるなー」と思って表現を控えた感想を述べていたものを、時をへて無名で聞くと、まさにその「ドギツい」感想そのものが直に頭に浮かぶ、それは後でデータを調べ奏者が明らかになった時点ではじめて一致を確認できるのだが、こうなると控えたこと自体がどうなのかと考えてしまう。「自分の好み」と「客観的事実」の区分すら明確と思えなくなってきた今、さらに後者における様様な指標、演奏面、演奏環境面、録音面、奏者のコンディション、伝える媒体特性、変換方式、更には聴取側のコンディションなどなど無数の決定要素を一趣味人が網羅し勘案することなど不可能と考えると、「自分の好み」しか残らない。音楽を知れば知るほど書けなくなってくる。アナライゼーションを音楽の楽しみとしている人々が私は羨ましい。私は音楽を聴くことによってしか楽しめない不具者である。

テンシュテは隅々まで解釈され尽くしたスコアに基づき音楽をガチガチに組み上げる。しなやかな整形が加わるため嫌味にはならないもののロマン派音楽の表現においてそのやり方は両刃である。横の流れの音楽の場合裏目に出ることもあるし、横の流れの音楽を好む「歌謡派」の人たちには受け容れづらい芸風になっている。だがやはり名演は名演だ。このオケの何と締まったアンサンブル、ドイツ系楽団には出せない明るく美しい音、テンポ的には緩く、それが客観的な演奏との印象を与えがちだが、漫然と聞き流せない「何か」が時折顔を出す。「時折」というのは多少否定的な意味合いも含んでいるのだが、バーンスタイン・マーラーが好きな人は、つまらないがライヴにしては異常に完成度が高い、と思うだろうし、逆の人はまさにこの「バランス」を求めていた、と思うだろう。カンタービレの噴出せざるを得ない弦楽によるアダージエットも、素晴らしい感情移入の音が覆い被さってくるものの、没入させるような情緒的な要素は解釈面では薄い。かといってもっとドイツ的な演奏に比べれば、オケの関係だろうが美しく流れよく素直に聞ける。素直に入ってこさせるというのは、奇をてらい強引に惹きつけるよりも数倍難しい。その芸当が、芸当と思わせずにここにある。この長大で一見散漫な曲の冒頭葬送ファンファーレからきっぱり明るく断ち切る終始音まで途切れずにある。それが凄い。

これは現代の演奏である。現代最高峰のマーラーである。この場に居合わせた聴衆は幸せだ。そこで叫ばれるブラヴォには他のテンシュテ・マーラーのライヴ盤できかれるものと同じひびきがする。それは一テンポ置いたもので、決して熱狂で我を忘れた愚かな声ではない。しかし音楽そのものに対する賛美であったか?寧ろ指揮者個人への想いが強く伝わる。上品な拍手こそがふさわしい演奏なのに、漠然と思う、そんな印象だった。長く書いたが稀なる完成度は認めるし音はいいけど結局惹かれなかったということでした。クリアな音なのに強奏部での内声部の動きが余り聞き取れないのも理由のひとつか。終楽章など明快な対位的構造と主として伴奏部分での弦楽器のマニアックなアンサンブルが聴きモノなのに、音が重なれば重なるほどブラスや太鼓だけしか聞こえなくなっていった。旋律偏重と聞こえないように旋律偏重にしている、巧い録音操作だと思うけどそれでは長さのわりに楽想に乏しいこの楽章は浅薄になる。

難しいけどね。真実を伝えるだけが音盤の目的じゃない。一般聴取者が楽しんで聞けるものに仕上げるためにはマニアックに読んでくるマニアの嗜好なんて排除されて当たり前。ソレが嫌なら懐の許す限り生聴こう生!

※2005/7/14の記事です
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