湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941)

2017年09月28日 | Weblog
◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiya/victor他)1975・CD

とても整って、緊密な演奏です。あらゆる面で同曲のスタンダードといえるでしょう。この人の演奏が一番バランスが良い。曲の多面性を鋭く捉え、どの角度からもしっかり照射している。弱音部の美麗さは比類無いもので、甘く感傷的なほどです。 1楽章の「ファシズムのテーマ」すら抒情性を失わない。そのため純粋な音楽としても楽しめます。<レニングラード>は非常にバランスの取れた抒情的交響曲。マーラーら魅力的な抒情作家へのオマージュを、とりわけ分かりやすい形で散りばめた傑作でもあります。(バルトークのようなヒネた老人にはわかるまい!前衛の空しさを身をもって体感したろうに、この感動的な曲を何故揶揄したのか?)大衆に分かりやすい形をとることにより、包囲網下の窮状を打破する勇気を皆に与えるように、作曲家としてできる限りのことをしたということでしょう。一市民として、消防士の格好をした大作曲家の写真に、連合国の誰しもが感激し、マイクロフィルムで送り届けられたスコアにより、トスカニーニを初めとする国外の指揮者によっても、早くからさかんに演奏されることになりました。(トスカニーニ盤の純音楽的空疎には少し異論があるのですが、別項に廻します。) 3楽章を聴くと、この楽章こそショスタコーヴィチの書いた最も美しい曲であるという感を強くします。冒頭木管の荘重な挽歌(葬送歌もしくは鎮魂のミサの始まり)、ブルックナー張りのヴァイオリンの強奏!!下では時折低音金管楽器の2拍3連の上昇音形、いわばワグナー的な対位フレーズが繰り返される。数々の過去要素の、独創的配合。さらに続くは、1楽章「人間の主題」提示後の牧歌をさらに純化したような・・・「大地の歌」のような、フルートによる息の長い旋律。暗い夢想に溢れた歌。二度と戻らない人への想い。静かなレクイエムが続く中ふと浮き上がる冒頭ヴァイオリンの回想。やがてそのまま展開し、勇壮なる闘争へと向かう。マーラーの残響である(ショスタコーヴィチの癖でもある)付点音符のリズム、ペットの絡み、中音域の抜けた高+低音だけの独特な響き。癖的には非常に近似した作曲家といえるプロコフィエフに繋がる要素もある。ここはもう格好が良いとしか言いようが無い!・・・だがやがて静寂が戻り、スネアのとおく響く中、葬列が通り過ぎる。そう一闘士の想い出に過ぎない。

静かに、冒頭ヴァイオリンの回想。最早叫ばない。挽歌と一緒になり、同化して、そのまま・・・

そのまま低弦の新たなテーマへ移る。静かで無調的な、ショスタコーヴィチ特有の瞑想的フレーズ。やがて少しずつ挽歌が蘇り、音を増す。ヴァイオリンが完全に冒頭のような強奏で蘇る。荒れ野の丘に、最後の葬送歌が響き渡る。低弦はワグナー~マーラー的対位性を保ち、荘重さを支える。葬送は最後の時を迎えた。白い墓銘碑は吹きすさぶ風の中で、無言のまま、寂しく立ち尽くす。重い足を引きずりながら、トラックに乗り込む。

無言の喪服の中を、荷台に揺られている。

言い表わせない感情に襲われて、どうにか端より顔を突き出す。両頬が妙に冷たく、丘はもう遠く霧に隠れてしまって、見えない。そのとき初めて、涙が流れていることに気がついた。・・・

4楽章。増して無調的だが、ヴォーン・ウィリアムズのようなたゆたう幻想、不安感。オーボエと線的に絡むファゴットの、マーラー的警句に導かれ、ヴァイオリンが走り出す。チェロも対位的に後を追う。ブラスのオスティナート・リズム、3拍子のフレーズから、線的対位的なアンサンブルの緊密さ。この充実ぶりはほんとにマーラーだ。木管からペットの闘争のテーマ、そのままブラスと弦、そしてシンバルの打撃。どうしようもない闘争。革命交響曲の終楽章前半のテーマがチラリ。もう格好良すぎる。弦の低音リズムに載せた木管アンサンブルの鼓舞するテーマが通り過ぎ、鞭、弦の
くぐもったリズムが枯れはてるさまを描く。これは敗北に向かう姿だ。そのままやつれ、重い鎖を引き擦る様な弦の低音域合奏。・・・死の気配。

それでも時折立ち上がる気配を見せる。一旦音域は高く昇ってゆく。しかしすぐにやつれる。低く沈んでゆく。静まり返る・・・まさに、ショスタコ的静寂だ。ヴァイオリンが、死にかけたパンの笛の様に、兵士の転がる荒野に空しく響く。完全なる死の世界が残る。血の匂いだけが唯一の生の残照だったけれども、消え去る。屍は草木よりも数多く地面を被い、墓標すらも立てられぬままに捨て置かれる。降り始めた雪。静寂の野に優しいヴェールが舞い降りて、何事もなかったかのように・・・。

・・・だが、春になると、少しずつ大地の底から生命の息吹が聞こえはじめる。

理不尽さと闘争する心はけして止まない。

半音階的で哀しい音の中にも少しずつ光明が差し、ティンパニと弦の明彩は厚い雲を割り、兵士の死骸を覆う雪は溶け出し、中から力強く立ち上がる草の芽。死骸のひとつひとつから、無数に芽生え出していく。草ぐさはかつてここに暮らした人間たちの生まれ変わりだ。新たな生命は人々の死の上に新たな大地を創り出そうとしている。野はやがて緑に還るだろう。空しさの上にも光明が差し、かすかな希望が遠く雲間に見えたような気がする。雲間は薄く光るだけだけれども、決して勝利はしなかったけれども、物語は・・・この時代、フィクションではなかった地獄の記録は(日本だってそうだ)・・・エンディングを迎える。

最後のアプローチについて私は、ショスタコーヴィチの美学が非常にはっきりと反映されている演奏と思います。通常、最後に、疲弊し伏していた同士たちが力強く立ち上がり(トロンボーンとチューバによる「人間の主題」の再現)、手に手に勝利の矛を持って壮大な夜明けを迎えるというようにいわれます。そのように明るく壮麗に盛り上げた方が、どん詰まりの「人間の主題大復活」が生きてきて、聴衆も感動するし、正統だとは思います。だけれども、同曲、人間の
主題の復活、余りに遅すぎるのではないでしょうか。2楽章からのち、断片がポリフォニックに挿入あるいは奇怪に変容した形で俄かに出現することはあっても、明確にわかる形では殆ど再現されていない。それを曲も終わりの最後の最後にいきなり完全復活させるというのは、構成上唐突ではないか?非常に速筆のショスタコですし、情勢柄もあって勢いで書いてしまったゆえ構成の弱さが出た、とかいうよりも、これは意図的に思えてならないのです。

これは本来「死滅」で終わる音楽ではないか。

無理矢理ベートーヴェン的勝利の交響曲として「完結させる」為、まるでプロコフィエフの「青春」終楽章末尾のように、あるいは英雄映画のエンディング的に、冒頭主題の再現を挿入しただけなのではないか。…お得意の仮面だ(消防帽か)。

コンドラシン盤での「人間の主題」再現は、1楽章冒頭のそれとは余り共通性を感じない。それまでの十分な盛り上がりに吸収されるように組み込まれてしまう。それが凄くはまっている。唐突さのない演奏。瑞逸だ。これらクライマックスでの異様な迫力、強奏ぶり。暗く悲壮な大音響が最後まで心に何かを蟠りつつ深い諦念を伴って突き刺さってくる。「人間の再生」などではなく、人類の「エピローグ」。それが本来のこの曲の姿ではないかと思う。

・・・滅んだのは恐らく味方だけではないだろう。敵も全員、そこで生きていた民間人も全員、行きとし生ける、全ての人間だろう・・・

(以上、主観が過ぎますね・・・ひとつの聞き方として、参考程度に。)

2楽章の途中で混ざるリズムに「大地の歌」の「告別」が聞けます。

※2000年頃の記事です
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