20世紀ウラ・クラシック!<最新版>

このページは、19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音評を中心に紹介しています。

☆ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調(1931)

2017年05月17日 | Weblog
※2004年以前の記事です。

<ラヴェル晩年の傑作。ダフニスの頃を思わせるリリカルな旋律と明快な新古典的楽想を持ち、同時期の「左手」よりも親しみやすく、万人を受け容れる喜遊性に満ちている。これですら(曲想のあけすけな明るさに対する好き嫌いを別とすれば)気に入らないのならラヴェルにそもそも縁が無いのかもしれない。どちらかといえば不作といわれる20年代、その終わりとともに「ラヴェルが戻ってきた」と感じさせる作である・・・これが「左手」と共に最後の大輪となってしまうのだが。諸所の技巧的な問題点など指摘されようが(ニコルス著渋谷訳「ラヴェル」泰流社刊参照)、一般的な聴衆にとってどうでもよいことで、特に2楽章アダージオ・アッサイの淡々とした、諦めにも似た感傷は、繊細な表現の巧い演奏家・・・フランソワなど・・・の演奏で聞くと、いてもたってもいられなくなる。本当に堪らないものがある。軽く透明で、情緒など微塵も混じえぬ演奏ほど、深く染み込むようにずっしりと、魂を揺さぶってくる。一方終楽章の律動的で余りにあっさりきっぱりとしたすっきりプレストは(あきらかなリズム構成は「ゴジラ」に剽窃されたといわれる名リズム)、高雅なフランセというような雰囲気で、それゆえいくぶん皮肉めいてはいるけれども、ジャズなどの軽音楽的要素を巧みに織り込みながら(1楽章のブルースもそうだが)、ひたすらの運動性をもって終幕を盛り上げる。引き締まった筋肉質な音楽、しかしプロコフィエフほど肉感的ではなく寧ろ武道格闘家のような「一見優男的」音楽。壮絶な闘いも高度に洗練されると美的色感を帯びて来るように、ここにはめまぐるしい極度の技巧を乗り越えた上にたとえようも無く美しい夢幻が広がっている。全編明るく眩い光に満ちているがゆえ・・・このあと作曲家が歩んだ壮絶な死への道のりが、余りに切なく、哀れに思われてならない。「左手」を作曲家晩年の傑作とする向きも多いようだが、ラヴェルらしい「複雑だが煩雑ではない」明快な美を求めるなら、くぐもった同曲よりもこのト長調を選ぶべきだろう。>

◎ワイエンベルグ(P)ブール指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団(DUCRET THOMSON/EMI)

EMIのバジェット盤で出たが不良品だったためすぐに店頭回収になったワイエンベルグの演奏です。私のLPは非常に状態が悪い。けれどもこの曲における鮮やかな色彩性、感傷性、ブールが客観的な立場から厳しく音楽を律しているにもかかわらずそこから溢れ出る香気、熱気は並大抵のものではない。ミケランジェリのような即物スタイルの演奏を多く聴いてきたせいかとくにそう感じる。ワイエンベルグの音楽はテンポを決して崩さないながらもその音量音色によって非常に多彩な表情を見せ、いかにもラヴェルらしい詩情を掻き立てられるものがある。2楽章の感傷性はワイエンベルグのみならず木管を始めとするオケ側も共感を込めて、優しく、哀しく演奏している。ブールの現代音楽指揮者らしい正確さへの希求が、ここでは音楽そのものの秘めた感傷性と全く離反せずに共存し融和しあっている。弦の音色も懐かしい。この2楽章があまりにスバラシイので他の楽章の演奏ぶりを忘れてしまった。とにかくゴマを撒くようにぱらぱらと鍵盤を鳴らし無理も狂いもなくやってのけるスタイル(まあうるさい事を言えば全般にタッチが繊細なため全ての音を鳴らしきれていない場面もあるにはあるのだが、遅くても弾けてない演奏の多い中、これだけ表現できれば十分でしょう)。テンポが若干遅いため醒めた客観性を感じるが、3楽章などオケとソロのスリリングなアンサンブルには手に汗握る。こんなに構造的にかかれた曲だったのか、と改めて認識させられるが、そんなことを考えているうちにあっというまにエンディング。これは名演だ。◎。
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