湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付」

2017年12月16日 | ドイツ・オーストリア
○イワーノフ指揮モスクワ放送交響楽団他(MELODIYA)1972/10/12live

非常に充実した演奏ぶりでさすがベートーヴェン指揮者として国内でならしたイワーノフの「第九」である。ライヴならではの迫真味がありまるでフルヴェン先生のもののように力強く迫ってくる、もっとも解釈は一直線の棒状のもので剛速球スタイル、だから緩徐部・楽章では少し飽きる。ただこの超スピードは魅力的で、弦・打がまた素晴らしくキレている。ロシアのライヴものというとグダグダな箇所が一箇所はあるものだが、曲が曲とはいえ(ロシアでもベートーヴェンは昔から楽聖なのである)、この集中力とそれをリズミカルにドライヴするイワーノフの力量は並ならぬものがある。録音バランスのせいだろう、ブラスがやや引きで入っており篭る感じもあって◎にはできないが、あきらかなロシア奏法で19世紀的に処理される音響も含め、現代の耳には新鮮で面白く聞こえる。ロシア語歌唱。ハラショーが僅かに聞こえる。イワーノフは世界に一握りくらいマニアがいるらしく、たまに出物があるとすぐ売り切れるから要注意だ。私も3枚ほど探しているがいつも出遅れる。左欄にシェヘラザードなどを挙げているが、リムスキー指揮者としても有名だった。○。

※2007/11/12の記事です
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☆ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム

2017年12月16日 | イギリス
○カンテルリ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/PRSC他)1953/1/3カーネギーホールlive

カンテッリ唯一の指揮記録とされるもの。Pristine配信データはキース・ベネット・コレクションのテープから起こし周到なリマスタリングを施したもので、いつものことだが極めて良好で迫力のあるものとなっている。私はMP3で聴いているが形式やメディアを指定することもでき安価ゆえお勧めである(ただリマスターの都合でラインナップが遅遅として増えないのと一部権利的にどうなのかというものがある(解決はしていると思うが))。この音源自体はDA以前にCDで出ていたことがあると思うが、手元にすぐ出てこなかったので今回再びダウンロードして聴いてみた。改めて音質というものは印象を良くも悪くも正確な方向に軌道修正する。これはカンテッリというトスカニーニの申し子が慣れない曲を才気と流儀で立派にやりきった演奏であり、それ以下では決して無いが、それ以上でも無いというものである。ガンガン叩きつける重量感を伴うインテンポで突き進む感じはトスカニーニに更に一味加えた新鮮な印象を与えるが、2楽章で前のめりに機関銃を乱射するような十六分音符の連打がそれほど活きずテンポがやや沈滞する様子、3楽章終盤のロマンティックな幻想が(ブリテンの書法の問題でもあるが)音色のリアル感により損なわれてしまっているところは凡百の演奏に接近していて、完成された指揮者ではやはりない、という最終的な印象に帰結する。しかし全体として充実感はあり、この時代のアメリカならではの無茶に詰め込んだプログラムの中でのこの曲、ということを鑑みても悪い位置には置けないが。ちなみにDAはプログラム全曲で出していた。Pristineは未完成とリエンツィ序曲の三曲のみにまとめている。それぞれのサイトで確認できるのでググってみてください。○。

※2009-06-13 10:28:05の記事です
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☆ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ

2017年12月16日 | ドビュッシー
○シゲティ(Vn)ボーガス(P)(mercury)

CDになっていると思う。ステレオ盤ということは技術的に既に問題が発露していた時期ということであり、音色の不安定な艶めかしさと新即物主義的な非人間性がアンバランスな状態で同居しているさまは、ドビュッシー好きの極右極左双方に受け容れられないかもしれない。ステレオ期のシゲティについてはメニューヒン同様評価がなかなか難しい・・・表現力はあるのだ、指圧だけの問題なのだ。

曲的にも非常に独特であり譜面も何か変で、2声部をただ小節線とハーモニーを揃え、併置しただけのような単純さと、不安定感があり、ラヴェルで言えば混迷期に書かれたデュオソナタを極度に素朴化したような印象が残る。まさにピアニスティックでヴァイオリンで表現するには余りに機械的すぎる細かい音符や和声的な動きを、ピアノの極めて単純化された「伴奏」に載せていくさいの非アンサンブル的な重層性は、トリルやアルペジオをヴァイオリン独奏だけに多用するRVWの狂詩曲ふう「あげひばり」に似ているけれども、この人弦楽器のメリットがわかんなくなっちゃったんじゃないか、という「不自然な横の流れ」がまったく違う。まあ、これを曲に聴かせられる人はティボーくらいだったんじゃないか。

特徴的なエスパーニャな曲想さえそれとわかるように浮き彫りにするのが難しい(即物主義者シゲティは当然そういう生臭要素は無視して全編同じ調子で弾き切っている)。ラヴェルのように楽譜を音にすれば自然にそうなる、ということが無く、演奏者が無理やり楽想の「継ぎ目」を意識して演奏法を変えていかなければ、最初から最後までのんべんだらりとした枯れた曲になる(単純さと奏者の表現力任せという点ちょっとディーリアスのソナタの3番に似ている)。最晩年新古典主義期の末尾に位置する曲だが、白鳥の歌ならではの未完成の感すらある。そうそう名演のない、いや恐らくちゃんと名演と評価できる演奏録音の無い曲であり、シゲティのこのステレオ録音においてはただその晩年の不安定な音の独特さを楽しみ、しかし指はしっかり回っている、小節線の間の音符を全部ちゃんと音にしている、そういった即物表現をボガスの確かな伴奏の上に楽しむ、それだけでよいのだろう。

○。

※2009-01-20 10:07:37の記事です
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