湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2017年09月21日 | ショスタコーヴィチ
○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(KARNA:CD-R)1984/6/19ソフィア音楽祭LIVE

やはり客観性を感じる。厳しさはあるのだがムラヴィンほどの切れ味はなく、ややゆるい。このゆるさと、盛り上がりどころでも決して走らない客観的なところがあいまって、やや物足りない。ただ、この曲がかりそめのシニカルな盛り上がりを(またしても)作り上げ、スターリンが死んだことへの歓喜などと簡単に断じ得ないものと思わせる解釈にもなっている。カタルシスを与えるような2,4楽章のごく一部ではなく、1、3楽章など長い静かな部分に重点が置かれているのだ。フィナーレ最後の悲愴を模したようなヴァイオリンの音階表現など軽く粗く流され「チャイコ好きスターリンへのあてつけ?」とも深読みできるような感じすらある。謎。正直無印のような気もするのだが、○。

※2006/6/9の記事です
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☆エルガー:交響曲第2番(1910-11 )

2017年09月21日 | Weblog
ボールト指揮

<1番と間を空けずに着手されたが、書き上げる寸前に親友であったエドワード7世が崩御、 終楽章の最後に(いささか唐突ではあるが)美しく、そして遠く再現される1楽章第一主題は、 友情の想い出に花を手向けるエルガーそのものだ。献辞としてのシェリーの詩文は失う事の悲し みよりも戻っては来ない楽しい日々へのノスタルジーをひたすらに唄う。夫人を失ったときのチェロ協奏曲にみられるような心情吐露的で晦渋なものは感じられない。>

○ロンドン・フィル(nixa(Precision)NIXCD6011(PVCD8382))1956/8

ボールトのエルガーは私情抜きには語れない。RVWやホルスト同様スタンダードという言葉では語り尽くせないほどに曲と同化しきった名演中の名演だ。とくに2番終楽章の崇高な輝きと余韻は比類なく、比べて1番という曲の何と浅薄なことかと嘆きたくなるほどの出来だ。エルガー自身の録音すら凌ぐと言ってよい。イギリス人でもないのにこんなことを言うのは甚だ可笑しなことではあるが、黄昏のなかであくまで高貴さを失わない誇り高き英国紳士の横顔を想じると、涙を禁じ得ない。3楽章の瑞々しさの中にも威厳有る素晴らしい躍動は他に代え難いものがある。この緊張感溢れるロンドの演奏は恐らく今もって比肩しうる録音は無いと思う。其の生涯に5回ほどの録音を残しているが、私はこの盤によりエルガー2番という曲の素晴らしさに気付かされたという個人的理由より、この演奏を最初に挙げることにする。手塩にかけたロンドン・フィルとは1968、1975-6(前者Lyrita(LP)後者EMI)にもセッションを行っている。但し録音が貧弱で音の分離が余り良くないこと(ステレオ初期は仕方ないが)、解釈が即物性を帯びかなり率直であること、高弦の響きが薄いという点、好き嫌いが分かれるとは思う。初録音は前半生の伴侶BBC交響楽団との1944年のセッションだ(EMI、下記)。

◎ロンドン・フィル(EMI(CDM 7 64014 2))1975-76

新録は旧盤のインテンポ・アプローチを踏襲しつつ、より叙情的な表現を深めている。1楽章緩徐部(再現部前)の寂りょう感、2楽章後半の高潔な響きは感動的だ。3楽章は旧録同様他に代え難い超名演である。特筆すべきはホルンを始めとする金管群の充実ぶりだ。ペットなど開放的になりすぎず、緊密性を良く保っている。対して録音バランスの悪さを差し引いても、ファーストVnの薄さが目立つ。これも旧盤と同じだが、較べて中声部以下のふくよかな、しっかりとした音響は、きいていてじつに気持ちが良い。これはブラームスなどに見られるボールトの大きな特質であるが、この曲はメロディ楽器偏重に陥りかねない曲だから、尚更ボールトの造形力の確かさをより強調するバランスに仕上がったともいえよう。終楽章のあっさりした末尾は賛否あろうが、盛り上げすぎて全体構造を歪ませることがなく、却ってノスタルジックな気分を深くさせるように思う。録音は決して良くはないが、旧盤に比べればずっと聞き易い。

◎BBC交響楽団(EMI(CDH 7 63134 2))1944

或る意味超絶的な名演である。覇気に満ちた演奏で、他録音の円熟したボールトとは異質のもの。特に前半楽章が優れている。1楽章冒頭から強い意志を感じさせる。造形の起伏が激しく、個々のダイナミクスも相当にデフォルメされ、しかも細部まで指示が行き届いているのであろう、「型」が崩れない。BBC交響楽団も近年とは異なり音に「色」があり、技術的にも満点をあげたい。…凄く面白い!緩徐部の噎せ返るような艶は、ワグナーやリヒャルトSよりも、マーラーを思い起こす。その後の再現部へ至る雪崩のような轟音とのコントラストも凄い。しかし一貫して弦楽器にポルタメントはかけられない。そこに古典主義者ボールトを感じる。最後は意外に小さくまとまるが、曲の流れ上、納得できる解釈だ。2楽章も強烈な表現性が発揮される。荘厳さにおいては少し若いが、明るく古典的な響きを持ち、別の曲を聞いているような錯覚(これは1楽章にもある)に陥る瞬間がある。後半に向かっての壮大な造形は、後年のアプローチの萌芽を感じるが、より露骨だ。クライマックスでは音が割れる!3楽章は、後年の良い音の演奏が余りに完璧であるため、起伏の激しさはあっても、比して刹那的解釈という印象を受けてしまう。一歩譲るかもしれない。4楽章、低弦による第2主題の提示は気合に満ち、頂点までの勇壮な行進をしっかりとした足取りで支えていく。其の先の副主題はまさにエルガーの行進曲だ。しかしすぐにはらはらとおさまってゆく音楽。物語性すら感じる強大な演奏。展開部に入ると再び気合の応酬が始まり、終結まで突き進んでいく。やや表現が若い気もするが、聞ける演奏。最後の1楽章主題の再現は思い切りロマンティックに盛り上がる。無論ボールトであるから威厳は失わないが、後年の演奏には聴けないものだ。

ほめまくっているが、録音はかなり悪い。当然モノラルである。

スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(EMIほか(1963,CFP172))1963

録音バランスはステレオ録音中一番良い。楽器配置が透けて見えるし、高弦もしっかり聞き取れる。アプローチはロンドンと殆ど変わらない。というより寧ろ、さらに単刀直入な解釈だ。オケのせいであろうが、木管やペットなど、いささか開放的すぎて、情が薄く、冷たいように感じる。弦にしても、後半楽章で余りに明るく客観にすぎるきらいもある。殊更に取り上げて聴くべき演奏ではないかもしれないが、損はしまい。

※2004年以前の記事です
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