珈琲もう一杯

3月6日、2010年Jリーグ開幕

名曲35.青春のいじわる 菊池桃子

2008-02-28 00:42:08 | 名曲
この曲、僕がまさに青春時代の真っ只中にいた頃にヒットしましてね。そして、その懐かしの名曲を
先日久しぶりに耳にしまして。

1984年にリリースされた桃子さんのデビュー曲。青春時代の情感を実にうまく切なく表現した詞と
なんとも胸がキュンとなるようなメロディーが折り重なり合って生まれた名曲。青春のいじわるが
強い印象として残っている人も多いのではないでしょうか。まさしく、この曲が発表された
当時に青春時代を過ごしていた人にとっては。

桃子さんが芸能界の最前線に登場した頃は、明菜さんやキョンキョン(カタカナで記すと、
なんとなく面白いですね(笑))が彼女から見て一世代上となり、かつ少し後にはおにゃん子の
人々が登場するといった時期で、女性アイドルの歴史の中でちょっと狭間的な部分があったのかも
しれません。ただ彼女の可愛らしさは当時から群を抜いていましたし(これはあくまで
僕の主観ですよ(笑))、今でも変わらぬ美しさを維持している。彼女の動向をずっとフォロー
していたわけではないですが、「ほんわか」とした雰囲気を保持し続けているのではないでしょうか。

この曲の詞で僕にとって特に印象深いのは、2番の最初の部分。

    「嫌いになったわけじゃないよと 細い肩につぶやいても
         僕の方から君へと吹いた 風の色は変えられない
            違う誰かを愛したら いつかわかってくれるだろう」

なんとも、切ない言葉ではあーりませんか。別れの日が近づいていることを、お互いに心の奥底では
感じている。なんとか風向きを変えたいと思っていても、実際にはもうそれはかなわないことだと
分かっている。いやー、切なすぎる情景が歌われていますね。これはホント「青春のいじわる」と
言いたくなる状況ですよ。どんな人にとっても、このような状況をくぐり抜けてきたことが、
一度や二度はあるのではないでしょうか。

最近の名曲シリーズで似たようなことをよく記している気がしますが(笑)、青春時代というものが
縁遠くなってしまった今の僕だからこそ、そのような時期が尊く思えるのかもしれません。
またこのような思いは、僕よりも先に大人になった人がすべからく持っていたのかなと感じます。
それこそ100年前でも、200年前でも、もっと昔の時代でも、過ぎ去った青春時代を愛しく思えると
いう情感は、変わらずあったに違いないでしょう。ただこの曲に関しては、青春時代の
真ん中にいた頃から好きでしたので、それこそ20年来愛する曲となりますが。

桃子さんといえば、あくまで菊池桃子さんだと、僕は思いますよ。最近は別の女性をイメージする
雰囲気も強いのでしょうが(笑)。
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ラグビーの名言

2008-02-25 22:45:58 | 雑記
僕はJがシーズンオフの時期は、ラグビーを観戦する機会を多く持つようにしています。
実は僕は、高校時代ラグビーをやっていたもので(笑)。まあ色々あって今はサッカー観戦が
圧倒的になっていますが、ラグビーにも関心は寄せております。ここしばらく当ブログにおいて
「思い出のフットボール」と題したエントリーを記していますが、今日は番外編的に
第一回ラグビーW杯での名言について触れてみます。

第一回ラグビーW杯は1987年に開催されました。昨年行われたW杯が第6回目となります。
87年の第一回の当時はNZ・オールブラックスが圧倒的な強さを誇っていた頃で、やはりというか
順当にというかブラックスが初代王者の座につきました。ちなみにこの時のブラックスのウイングで
物凄いインパクトを与えた人が、現在のラグビー日本代表ヘッドコーチ(実質的な監督)である
ジョン・カーワン氏ですね。

ただブラックスの決勝の相手は、戦前の大方の予想を覆すチームとなりました。それはフランス。
ブラックスの相手はオーストラリア代表・ワラビーズだろうと多くの人が思っていたのですが、
準決勝でフランスが見事な試合を展開、終了間際の決勝トライでワラビーズを破ったのでした。

この試合は本当に素晴らしい試合で、フランス、ワラビーズとも積極的に展開していくラグビーを進め、
そして最後にフランスが劇的な勝利を収めたというものでした。この試合が珠玉の名勝負として
語られる背景には、当時のブラックスが非常に手堅いラグビーを主としていたため、フランス、
ワラビーズ両チームのランニング主体のラグビーがより輝きを感じさせたという面もあるのでしょう。

フランスはラグビーも人気スポーツの一角ではあるのでしょうが、第一回W杯時にフランスの
メディアが、大きな注目を寄せていたわけではなかったと聞きます。しかし、あまりにも劇的な
この試合のフランスの戦いぶりを見て、フランスのメディアも考えを変えたようなんですね。
おそらく「レキップ」紙だろうと思うのですが、フランスの劇的な勝利を伝える紙面において、
こんな見出しが躍ったそうです。

      「我々は間違っていた。地球は楕円だった」

なんと美しく、詞的な表現でしょうか…。
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思い出のフットボール4 磐田のアジア制覇

2008-02-22 00:42:45 | 思い出のフットボール
平塚、フリューゲルスに続き、今回は磐田のアジアの戦いについて記します。1999年の
ことだったでしょうか。

この頃の磐田はほぼ日本人のみで戦い、抜群の強さを示していた時期でした。この頃は
アジアクラブ選手権(当時)の開催時期が毎年変わるような状況だったのですが、この年は4月28日に
UAEのアルアインと準決勝を戦った後、中1日でイランのエステグラルとテヘランにおいて
対戦したんですね。もちろん、スタジアムは超満員状態。磐田は10万人とも、12万人とも
いわれるアウェー状況の中での試合に臨んだわけです。

超満員のテヘランでの試合といえば、ドイツW杯予選でのイラン代表‐日本代表の試合が
記憶に新しいですが、あの試合はかなりの数の日本人サポーターがスタジアムを埋めていた。
しかしこの試合での日本人というか磐田のサポーターは聞くところによると100人前後だった
といいます。またご存知の通りイランは女性のサッカー観戦が極めて難しく、せっかくテヘランまで
足を運びながら、試合を観戦できなかった女性サポーターもいるとかいないとか。
普段のJの試合とはまさしく、全く異質な条件下だったのですね。

なんともタフな戦いながら、試合は磐田が前半に2点をリード、後半のエステグラルの反撃を
1点に抑え、2-1と見事勝利を収めたのでした。磐田の2点はいずれも名波のFKからで、
鈴木と中山のゴールとなっています。

僕はこの試合のハイライト(おそらくフットボール・ムンディアルだったと思います)を
見ることができたのですが、試合前に中山がインタビューを受けていました。その頃の
Jクラブに対して、アジア各国が多少なりとも思っていたであろうことを、インタビュアーが
質問します。「この大会に勝ちたいと思っているのか」といった意味の質問を。それに対し、
中山は「もちろん勝ちたい。勝つために来ている」といった意味の言葉を返しておりました。
当時はまだ、クラブレベルでのアジアの戦いに対する注目度は それほど高くなかったですが、
きっぱりと勝ちたいと言い切った中山に対して、よく言ってくれたと思ったことを覚えています。
もちろん、その状況において「勝つ気ない」などと言うわけはないですが(笑)。

またこの試合の入場時に、エステグラルの選手がイランの男性の特徴的な装束なのか、
頭に月桂冠的な、ハチマキのようでもあるものを巻いて登場、それが実に凛々しく
格好よかったことを覚えています。僕は知識がないのですが、あの巻き物はイランにおいて
伝統的かつ重要な装束なんじゃないか、なんてことを感じました。またあのような姿を
見ることができたのも、磐田がアジアの戦いを勝ち進んでくれたからだ、なんてことも思ったり。

当時の磐田のユニフォームスポンサーはネスレだったと思いますが、この試合でのスポンサーは
YAMAHAが入っていました。契約上の関係なのでしょうが、新鮮に映りましたね。磐田が
このユニフォームのレプリカをアジア優勝記念に発売したというような動きはあったのでしょうか。
かなり人気を博したと思うのですが。そのユニフォームを着て、中山がカップを掲げた写真を
添えておきます。

磐田はこの試合の5日後、5月5日には51,575人を集めた国立での鹿島戦で延長Vゴール勝ちを
収めています。この試合はJリーグの歴史に残る素晴らしい試合で、鹿島に先制を許しながら、
名波の見事な直接FKで84分に追いつき、俊哉のゴールデンゴールで勝利を得たのでした。
テヘランの超アウェー、鹿島相手のJリーグをわずか6日間のうちに乗り切ったという当時の磐田の
凄さに、改めて敬意を表します。また磐田相手の試合というと、この試合も忘れられない。
最終スコアこそ差がついたものの、これも素晴らしい試合でした。当時の東京としては。

それにしても、この時期の意味のよく分からない試合で、前田遼一が痛んでしまうとは…。
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サッカーと呼べない試合

2008-02-21 01:53:01 | サッカー
日本代表が中国の連中いや、中国代表と戦った試合について、触れないでおこうと思いましたが…。
あまりにも酷すぎる。これは黙っていてはいけない。

前半からきな臭い雰囲気はありましたが、後半はもう目を覆わんばかりのラフプレーの
連続。なぜあそこまで、相手選手の体を傷つけることを目的にした動きができるのか。
中国代表の連中だって、日本の選手と同じくサッカー人ではないのか。サッカー人としての誇りが
矜持があるのなら、ボールを無視し相手選手の体をめがけてぶつかりにいくことなど
出来ないと思うのですが…。僕は後半途中から試合を見ながらこう言っていました。
「結果などどうでもいいから、この試合が早く終わってくれ。日本の選手全員がケガすることなく
終わってくれ」と。安田が残念なことになってしまいましたが、彼の具合がヒドいもので
なことを願うばかりです。

この大会は一体何のためにあるのかといえば、アジア・AFCの中での東西の勢力争いが
背景にあったはずです。西アジアというかアラブ諸国はガルフカップなど多くの交流を持ち、
その結果西アジアのとしての意見を述べる発言力を強めている。それに対抗し、日本をはじめとする
東アジアも交流を深め、西アジアに対抗する発言力を備える必要があるという考えから、
東アジアサッカー連盟が組織され、東アジアサッカー選手権もスタートしたわけですね。

確かにその趣旨は理解できるし、正当なことだ。しかしながら、このようなダーティーな
プレーが横行するならば、今後日本はこの大会に参加してほしくない。この大会に自分のクラブの
選手を出すのが怖い。東京からは今ちゃんと羽生が出ていましたが、彼らがボールを持つたびに
ダーティーなチャージを受けて壊されるのでは、と怖くて仕方なかった。これは今日出場していた
選手を持つJクラブ全てのサポーターが思っていたことでしょう。あれはもう、サッカーではない。
サッカーをしようとしている選手同士が対戦して、初めてサッカーは成立するものです。
相手を傷つけることだけを意図している選手と対峙して、サッカーをしろというのは酷だ。
選手は人身御供ではない。

僕は当ブログにおいて、このような発言は極力控えてきました。しかし今日は我慢することができない。
そしてこんなことを言わざるを得ない。「これだから中国サッカーはダメなのだ」と。
サッカーの技術で、あるいは組織力で上回って勝利を目指すという発想がなぜできないのか。
相手を傷つけられればそれでいいのだ、という方向に流れるのは何故なのか。重ねて言いますが、
そんな考えしか持てないようでは、いつまでたっても中国サッカーはダメだ。

あのような卑劣極まりないプレーを散々受けながら、冷静に対処し勝利を収めた日本代表に
敬意を表します。ただ、大怪我が出なかったことが最大の収穫(安田の具合を詳しくつかんでは
いないのですが…)などという総括を国際試合においてせざるを得ない状況は、明らかに
間違っている。こんな試合は百害あって一利なしだ。もう2度と見たくはないですね。
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思い出のフットボール3 フリューゲルスのアジア制覇

2008-02-20 02:15:49 | 思い出のフットボール
一つ下のエントリーで平塚のアジア制覇について記した際、フリューゲルスについても
若干触れました。そこで今回はフリューゲルスのアジア制覇についてエントリーします。

フリューゲルスは93-94年の天皇杯(J開幕後最初の天皇杯ですね)を制覇、その優勝で得た
ACWCも制覇し、アジアクラブ選手権王者とのアジアスーパーカップに進出したものでした。
相手はタイのタイ・ファーマーズ・バンク。僕が観戦したのは三ツ沢での2ndレグで、
平日の夜開催。Jの日程の合間を縫っての開催ですね。ちなみにこの時のフリューゲルスは
セザール・サンパイオ、ジーニョ、山口素弘、楢崎、三浦淳といった錚々たるメンバーが
顔を揃えておりました。

僕はアジアNo.1クラブ決定戦を日本で見られるということで、この試合についてはかなり
気合を入れており、三ツ沢のバック真ん中あたりの指定席を早い段階で購入しておりました。
そして試合当日、楽しみにしながら入場したところ、スタジアムはガラガラ状態(笑)。
観客数は5000人行くか行かないかぐらいだったのではないでしょうか。平塚のエントリーでも
同様のことを記しましたが、この頃はまだアジアのカップ戦が浸透していなかった状況。
これは他のアジア諸国も似たようなものだったでしょう。そこにうまくターゲットをあわせ
勝ち抜いてきたのが、当時のタイ・ファーマーズだったといえるのでしょう。失礼ながら、
今タイのクラブがACLを勝ち上がれるとはちょっと想像しがたいから。

三ツ沢での試合に話を戻しますが、タイでの1stレグは確かドローでした。ただそれはあくまで
慣れないタイでの戦いだったからで、三ツ沢なら楽勝だろうと僕は捉えておりました。
ところが、この試合は非常に緊迫した展開となり、フリューゲルスが勝利を収めたものの、
最後までどうなるか分からない内容でした。試合終了間際にボールがタッチを割って、
タイ・ファーマーズのスローインで再開される際、急いでボールを返そうとしたボールボーイに
「勝ってるんだから急がなくていい」という声が飛んだことを覚えています(笑)。それぐらい、
競った試合だったんですね。少なくともこの時のタイ・ファーマーズはスーパーカップに
出場するに値するチームでした。

試合終了後、喜んだ選手がウイニングランを行いましたが、サンパイオと山口が肩を組みながら
スタンドのサポーターからの祝福に応えていた場面を今でもはっきりと覚えています。
この2人のコンビは本当に良かったなぁ。そしてブラジル代表としてW杯に出場するほどの
選手であるサンパイオが、アジアでのタイトルをこんなに喜んでくれるということに
嬉しさを感じたのも覚えています。それはやはり彼が本当のプロだからではないでしょうか。
どんなものであれ、タイトルを獲得することの大変さとその価値を知っているのだという。

この勝利でフリューゲルスはこのシーズンのアジアNo,1クラブとなったわけですが、
当時それが大きな話題になったという記憶はありません。前述しましたが、アジアのカップ戦に
対しての認識がまだまだピンと来なかった時期ではありましたので、これはまあ仕方ないでしょう。
「Jリーグの合間に行われるアジアのよくわかんない試合」的な感覚が強かっただろうし。
ただフリューゲルスのその後を思うと、アジアチャンピオンという事実をもっと強く打ち出して
いても良かったか、という気はしなくもないですが…。

それにしても、三ツ沢でアジア王者同士の激突が見られたとは、なんとも贅沢な話です。
三ツ沢に行くたびに専用スタジアムはいいなと思いますから。

PS-ジュビロのアジアクラブ選手権制覇についても、改めて記します。もちろん、テヘランで
試合を観戦したわけではないですけど(笑)。
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思い出のフットボール2 平塚のアジア制覇

2008-02-19 00:12:15 | 思い出のフットボール
一つ下のエントリーで、ベルマーレ関連の話をと記しました。諸事情により路線変更しましたが、
ここでベルマーレ平塚の想い出について記すことにします。

ベルマーレはご承知のとおりJリーグ2年目の94年から、Jでの戦いをスタートさせました。
上がって最初のサントリーシリーズ(この名称も懐かしい)ではJとしての経験不足を露呈したものの、
ニコスシリーズでは生まれ変わったように躍進、ニコス2位の成績を残しました。そしてその勢いで
臨んだ天皇杯で見事にタイトルを獲得、その結果アジアのカップウィナー同士が戦っていく
アジア・カップ・ウィナーズ・カップの95年シーズンに出場することになったのでした。

今となってはもはや、ベルマーレがどのような推移を経て、ACWCを勝ち上がっていったのかは
覚えていません。そのため、いきなり準決勝の想い出からこのエントリーはスタートします(笑)。

準決勝がホーム&アウェイだったのか、それとも一発勝負だったのかさえ覚えていませんが(笑)、
準決勝は平塚で開催されました。僕も平日開催のこの試合を見に行くため、仕事を終えて
東京駅からの東海道線に乗り込み、一路平塚を目指します。ところが、なんということか、
東海道線で事故が発生、平塚駅に向かうはずの僕が乗車した電車が立ち往生します。

止まった直後は「とにかく早く復旧してくれ」の思いで一杯でしたが、ある程度の時間が経過しても
電車が動き出す気配がない。試合が始まってるよと気は焦るものの、ずっと止まっている
電車の中で、いつしかもう「今日は仕方ない」と諦めの境地に達しました。そりゃ悔しいし
腹も立ったけど、僕だけが災難を受けているわけでもないのでね。

僕が見れなかった準決勝を平塚は勝ち抜き、決勝進出。その決勝は準決勝からさほど間隔をおかずに
日本で開催されたのですが、スタジアムはなぜか三ツ沢でした。なぜ平塚でなかったのか、今でも
分かりません(笑)。もしかしたら、フリューゲルスが勝ち上がることを想定していたのかもしれません。

平塚の相手はイラクのアル・タラバ。細かな内容は覚えていませんが、2-1で平塚の勝利。
1-1で迎えた後半の押し詰まった時間に平塚が決勝ゴールを上げたのですが、その決勝ゴールを
決めた選手がルーキーだった中田英寿選手。この局面、この時間でルーキーが決勝ゴールを
決めてしまえることに、本当に驚いたものでした。この選手は凄いのかもしれないな、
なんてことを思ったような。まあ、実際に凄い選手だったんですけど(笑)。

当時はまだ、アジア各国のリーグ王者が戦うアジアクラブ選手権と、カップウィナーが戦う
ACWCがそれぞれに行われていました。その後両者は発展的統合を遂げ、今ではACLに統一された
わけですね。クラブ選手権の方はJクラブがなかなか勝てませんでしたが、ACWCについては
Jリーグスタート後に平塚のほか、フリューゲルスや清水も優勝しており、日本勢に相性のいい
大会だったと言っていいでしょう。フリューゲルスが制したACWCについては決勝がどんな内容だったか
記憶にないのですが、ACWCの勝者としてフリューゲルスがクラブ選手権の勝者と対戦した
アジアスーパーカップの三ツ沢での試合は観戦しましたので、日を改めてそちらの記憶も
エントリーすることにします。

平塚が優勝した三ツ沢での決勝は、4-5000人程度の入りだったと記憶しています。
当時はまだまだJのタイトルがアジアへの戦いに直結しているという意識は薄く、Jの試合の
合間を縫って行われる「よく分かんないアジアの試合」にさほど関心が寄せられていなかったのは
事実でした。僕としても、サッカーの試合が見られるから行ったというだけのことで。
ただ、Jの代表がアジアを制したことに、大きな喜びを感じたのは覚えていますね。

ACWCを制した95年当時の平塚は小島がいて、名塚がいて、名良橋がいて、テルがいて、野口がいて、
そしてベッチーニョがいた。そこにさらに中田ヒデが加わって。なんとも煌びやかなタレントを
抱えていたものでした。彼らがアジアのタイトルを手に入れたのは、決して偶然ではない。
今思えば、あの頃がベルマーレ平塚の絶頂期だったのでしょう。ただ最近の湘南はきちんとした
サッカーをやっていますし、湘南ベルマーレとして彼らがJ1の舞台に戻ってもおかしくはない。 
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思い出のフットボール1

2008-02-14 01:04:53 | 思い出のフットボール
名良橋引退のエントリーにて「Jおよび日本サッカー懐かし話的なものを、これからしばらく…」と
述べました。当初は名良橋のエントリーで記したのだから、最初はベルマーレ関連の話をと
考えていましたが、過去の様々な資料を掘り返すなかで面白いものが出てきましたので、
そちらから始めることにします。

僕はサッカー観戦の際、両チームの選手、監督、レフェリーなどをメモしているのですが、
1997年のサッカー観戦のまとめが出てきました。今から11年前となりますが、僕はこの年の
8月23日土曜にJFL第17節の東京ガス‐甲府戦を観戦しておりました。ちなみに会場は西が丘。

97年というと、東京がJの舞台に進むかどうかも、まだはっきりと分かっていなかった、
少なくとも僕は。もちろん今思えば、もうこの時期からJへの準備はされていたのですが。
ただ、Jに行くかどうか分からない状況でも、僕は東京のサポーターだという意識はありましたね。
僕の記録においても、もうこの時期からすでにチーム名を「東京」と記していますから(笑)。
この試合は東京が3-0で勝ったのですが、試合内容は全く覚えておりません。けれども、
メンバーを見ると興味深い顔ぶれが並んでいるんですね。以下に記します。

GK22.鈴木、DF6.新條、3.ビルッカ、5.本吉、8.藤山、MF15.浅利、19.蓮見、24.小林、12.エドウィン、
26.塚野、FW11.アマラオ  SUB GK21.浅野DF4.石井、MF10.奥原18.岡元、FW9.和田
ちなみにこの試合のゴールは16分新條、19分塚野、66分アマとなっています。(時間は全て、
僕の手元の時計によります) 

懐かしいメンバーですね。この16人の中で、現在も東京に在籍するのは藤山と浅利の2人のみ。
浅利はこの年に東京に入団したんですね。浅利の立場を考えると、東京ガスに入社した年と
いうべきなんでしょうけど(笑)。またGKは確か堀池が負傷していた時期で鈴木がずっとゴールを
守っていた頃。エドの背番号に関してはまだ12番がサポーターの番号という概念がなかった、
蓮見はヴェルディユース出身でテクニックに優れた選手、塚野は神戸からの移籍でかつ
現在は小澤が期限付移籍したガイナーレ鳥取の社長、サブの奥原はFC東京の初代10番で
今シーズンからトップチームコーチ、岡元はJクラブとしての東京の公式戦初ゴールを決めた選手、
そしてもちろん、監督は大熊清。もう一ついうと、サブのGKの浅野は営団地下鉄時代に
営団の駆け込み乗車防止を訴えるポスターのモデルとなった選手でしたね。

一方、甲府のメンバーにもおっと思う名前があります。GKの坂本は現在の甲府のGKコーチ、
またFWには大柴克友の名前があります。さらにサブですがDF4.山尾という名前があったりして。

ただこの記録を見返して最も驚いたのは、観客数ですね。その数、914人。10,914人でも、
20,914人でもなく、3ケタの914人。今の東京と甲府の対戦なら、どんな状況であっても
絶対にこの数字はないですわね。ところが97年には、れっきとしたリーグ戦で観客数が
3ケタ台なんて試合があったのですから。状況の変化に改めて驚くとともに、今のこの環境を
大事にしなければ、なんてことを感じますね。

ナツカシ話は別にオフシーズンだけのものということもないでしょうから、これからも
折に触れ記したいと考えております。また、97年の記録ノートを今見返すと、実に面白いし(笑)。

PS-現実からの逃避を目論んで、ナツカシ話を上げているわけではないですよ(笑)。
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明日は特別スペシャルデイ

2008-02-13 01:59:04 | 映画・音楽
1つ下のエントリーでJ.Iの「Everyday's Valentine ~思い焦がれて~」について記しましたが、
その中で国生さゆりの「バレンタイン・キッス」についても若干触れました。僕は40代に
差し掛かったところという世代ですが、僕と同世代の人で、国生のこの曲が大きな印象として
残っていると感じる方も多いでしょう。

この曲は、実はバレンタイン当日を歌ったものではないですよね。「明日は特別スペシャルデイ」と
いう歌い出しからも分かるとおり。この曲で歌われている男の子は、女の子に非常にモテる人。
そのため、バレンタインデイ当日は多くの女の子との競争になるから、誰よりも早く1日前の
2月13日にチョコレートを渡したいという女の子の気持ちが歌われているといえましょう。
ああ、なんとも甘酸っぱい青春のひとコマと言いましょうか(笑)。

この曲に関連する懐かしい思い出として、ちょっと想像できないアーティストが歌っている姿を
テレビで目にしたことを覚えています。それはハイファイセット。フジテレビのミュージックフェアで
歌われたのですが、まさかハイファイセットがおにゃン子の人の歌を歌うとは思いませんでした。
ただ、さすがだなと思ったのは、ハイファイセットのお三方が、ちゃんと自分たちが
歌う歌として捉え、きちんとこの曲をハイファイセットのレパートリーに昇華して歌っていたこと。
これは全く僕の憶測に過ぎませんが、率直に言って彼らからすれば何故私たちがおにゃン子の
歌を歌わなきゃいけないの?といった気持ちが少しはあったと思う。しかしながら、
そんな雰囲気は微塵も感じさせず、いつもの彼らのように楽しくこの歌を歌っておられましたね。
プロだからといえばそれまでですが、さすがだなと思いましたよ。一流のアーティストとは
こういうものなんだとね。

J.Iの名曲シリーズの際にも記しましたが、たまには時節柄を意識したエントリーもあっていいなと
思い、バレンタインソング関連の話題を2日続けて記した次第。2月13日にこの曲に関しての
エントリーをあげたかったので(笑)。
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名曲34.Everyday's Valentine ~思い焦がれて~

2008-02-12 01:38:21 | 名曲
J.Iこと稲垣潤一が歌った名曲。たまには時節柄を意識したエントリーを上げてみたいと思い、
この曲について記すことにします。

バレンタインデーを歌った曲はそれほど多くないと思いますが、世界的に最もポピュラーなのは、
なんといっても「マイ・ファニー・バレンタイン」でしょう。また日本の代表としてあがるのは、
国生の「バレンタイン・キッス」ではないでしょうか(笑)。真面目な話、国生のこの曲も
名曲だと思いますよ。

J.Iに話を戻すと、この「Everyday's Valentine ~思い焦がれて~」は1983年に発表された
彼の3枚目のアルバムである「J.I」に収録されたもの。彼のイニシャルをそのままストレートに
アルバムタイトルとして冠したことからも分かるとおり、このアルバムは当時の彼にとって
大きな手応えを感じた内容だったでしょう。「MARIA」、「夏の行方」、「夏のクラクション」、
「蒼い雨」、「一人のままで ~There's no shoulder~」など錚々たる楽曲が並びます。
その中で「Everyday's Valentine ~思い焦がれて~」も味わい深い印象を与える曲となっています。

バレンタインソングはその性質上、女性が男性に秘めた想いを伝えるというテーマが殆どでしょうが、
この曲はちょっとそのイメージとは異なる世界が描かれています。このようなコトバが歌われて
いきますが、男性の女性に対する想いを綴っていくこの曲は、バレンタインソングとしては
異質なものかもしれません。ただ、異性への想いの告白が1年に1度、この日だけは許されると
考えれば、男性が女性への想いをバレンタインデーに語っても決しておかしくはないのでしょう。

また「Everyday's Valentine」というコトバを考えれば、愛する人への想いはバレンタインの日のみ
強まるものではなく、常に心の中にあるともいえるはず。その意味でこの曲は、バレンタインという
コトバを使いながら、必ずしも2月14日を歌ったわけではない、という解釈ができるのかも
しれません。 Everyday's Valentineなのだから。

            「日毎に 愛し合うたびに 深まる想いを
               言葉に出来ない毎日が
                 僕のValentine's day」

今になって、このコトバの意味が理解できるような気がしています。この曲が発表された
当時のティーンエイジャーだった僕もこのコトバには強い印象を持ったものの、当時とは
また違った感傷を憶えています。僕が名曲シリーズで記してきた多くの曲もそうなのですが、
若い頃に聴いて受けた印象とまた違った思いを、いいトシになった今、感じることが
よくありますね。

良きバレンタインデーが訪れることを願って。
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名良橋引退

2008-02-09 02:49:12 | サッカー
遅まきながら、名良橋の引退について記します。

僕は思うのですが、Jスタート後の日本サッカー界において「攻撃的サイドバック」という
概念を確立させたのは、彼ではないでしょうか。正確には、右の名良橋と左のテルがセットで
語られるべきかもしれませんけど。彼が最初に所属していたベルマーレ平塚(当時)はとにかく
攻撃を前面に押し出したチームで、両サイドバックが揃って攻撃大好きなんてチームでしたね。
そのチームで名良橋は突貫小僧的なイメージでガンガンサイドを駆け上がり、ゴール前で待つ
ベッチーニョや野口にクロスを供給、また時には自らシュートを放ったりもしておりました。
テルとあわせ、イキのいい選手が出てきたなという印象を持ちましたね。

ただ彼はJでのプレーを始めた当初は攻撃への比重が極めて高い選手でしたが、経験を重ねるにつれ
守備においても質の高いプレーを見せるように進化していきました。それはやはり、移籍した
鹿島でジョルジーニョとともにプレーしたことが彼に大きな影響を与えたのでしょうね。
ジョルジーニョの存在が、彼が鹿島移籍を決断した大きな要因の一つだったようですし。
また彼は97年から鹿島でのプレーを始めましたが、当時においては彼クラスの選手が
移籍するというのはかなりのインパクトがあったように記憶しています。今でこそ、
ビッグネームの移籍は当たり前になっていますが。また余談ながら、城が市原(当時)から
マリノスに移籍したのも97年でしたね。

フランスW杯にも3試合全てに出場するなど、鹿島時代の名良橋が彼の選手生活でピークだったのは
間違いないでしょう。鹿島の黄金期を支えた存在ですし。ただ、僕としてはベルマーレ時代の
「やんちゃな」(笑)雰囲気をにじませて右サイドをガンガン駆け上がっていた頃の彼の印象が
非常に強い。東京サポーターとしての立場からは鹿島での彼の熟練のプレーに苦しめられたという
思いもありますが(笑)、長年にわたり優れたプレーでサッカー好きを楽しませてくれた彼に
改めて感謝の意を表します。また手元の資料では身長が170cmとなっていますが、そのサイズで
10年以上も一線で活躍を続けるには多くの努力があったことでしょう。その部分にも拍手を送ります。

彼およびベルマーレがJの舞台に登場したのは、Jが2シーズン目となる94年のこと。
まだまだ始まったばかりのJにおいて、彼とテルの両サイドバックの攻撃参加に象徴される
ベルマーレの攻撃サッカーは、今にして思えばJ全体のアピールという意味でも十分に
意味を持つものだったと感じます。

今後の彼は指導者の道を目指すとのことですが、ライセンス取得のための海外研修などについて、
鹿島がサポートしていく予定だそうで。前述のとおり彼は鹿島の黄金時代を支えた功労者ですが、
鹿島生え抜きでもなければ、鹿島が現役最後のクラブだったわけでもない。それでも、
このようなサポートを惜しまないというのは、さすがに鹿島だと感じますね。大げさでなく、
このような姿勢が鹿島の力、伝統といったものを形作っているのでしょうね。

今までお疲れ様の言葉を。そして指導者としての名良橋にも期待したい。

PS-オフシーズン企画(というほどのものでもないですが(笑))的な意味合いで、僕にとっての
Jおよび日本サッカー懐かし話的なものを、これからしばらく記していこうと考えています。
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