ETV特集「失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話」(後半)を観た。
朝観て、深夜にもう一度観直した。
シワブ ザンキ フル
咳くや慚愧に震ふまくらがり
ヒトヒ
蜘蛛一日出口探して見つけ得ず
カ
木犀の香を掻き乱す配膳車
天穹の剥落のごと春の雪
秋の日を映して暗き鴉の目
母の生前に執行されなかったこと、
つまり逆縁を回避できたことは
せめてもの慰めだと思っているのです
ぼくは加害者であることを
弁(ワキマ)えていますから
自己憐憫はすまいと心しています
コシタヤミ
その時の来て母還る木下闇
ハ ル シオンコウ
玻璃越しに片手合わすや四温光
身動きできない背景
ぼくたちが殺傷してしまった方々に
お詫びしなければならない
このような軽い言葉では
済まされるべきでないことは
百も承知です
ぼくの心中は言葉では表現できません
ヨギ
ででむしやまなうら過る死者の影
ヌカヅ
額衝くや氷雨たばしる胸のうち
イ ジショウ
寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり
瓦礫なし地の荒寥や秋暑く
原発に追わるる民や木下闇
暗闇の陰影刻む初蛍
カンイッキシコ
棺一基四顧茫々と霞みけり
番組で紹介された大道寺将司の句です。
現在、彼は、2メートル先のトイレに行くのに1時間もかかるらしい。
大道寺将司も辺見庸も癌を患っている。
訂正します。
(誤) 存在を賭して手を擦る冬の蠅
・・ ↓
(正) 実存を賭して手を擦る冬の蠅
以上です。失礼いたしました。
ありがとうございます。
今、あの句を直しました。
旗坊さんにメールをいただいてから、ずーっと大道寺夫婦(といっていいのか?)の2人のことを考えています。
高校時代につきあい結婚をした仲良かったあの2人が、
なぜあんな生き方をしてしまったのか。
時代がわるかったのか?
なんだったのだろうかと、わるい頭で考えています。
先日のETV特集を見て、「大道寺」を検索して伺いました。
aostaと申します。
何気なくスイッチを入れたテレビから流れてきた辺見氏の言葉の重さに、思わず居住いをただされる思いで、最後まで一気に見てしまいました。
その後も、なんだか泣きたいような気持ちのまま、なかなか眠ることができませんでした。
事件当時、私は大学生でした。
テレビを見る時間があったら本を読みたいと思っていた私の部屋にテレビはなく、新聞は図書館で読む事にしていたこともあって、事件を知ったのは、翌日でした。大変なことが起こった、という感覚はあったものの、所詮、人ごととしか感じることのできなかった自分も、既に遠い過去の記憶の中にしかありません。
私たちがとうの昔に置き忘れてきたものに対して、37年間、自責の念とともにひたすら向き合ってきた大道寺を責める資格があるのだろうか、といった内容の辺見氏の言葉が、今日も大きな岩のように胸にのしかかったままです。
番組で紹介され、九想さんも記して下さった大道寺の句にはどれにも、壮絶なまでの自責の念が彫琢されていると感じます。
よく「死んでお詫びします」という言い方をしますが、この大道寺の姿を見る限り、罪を自覚し、その罪とともに生きるということは、死ぬこと以上に苛烈なのではないかと思うのです。
「言葉は無力である。」
「言葉には力がある。」
相反する二つの言葉は、いずれも真実であると思いますが、自らの血を持って記された贖罪とも言うべき大道寺の句には激しく胸を打つ力がある、と思いました。
話は変わりますが、プロフィールのお写真で演奏なさっている楽器はなんでしょうか?
リコーダーにしては線が細く華奢な感じがします。日本の笛ではなさそう。う~~ん・・・気になります。
はないよね。
「こんにちは」に修正します。
失礼しました。
aostaさんと私はおそらく同じ世代のようですね。
三菱重工爆破事件のあった74年、私は22歳でした。
大道寺あや子と会ったのが3月、三菱重工爆破事件は8月30日、
ということは記録でわかるのですが、その頃の私の記憶があやふやです。
年金機構から送ってきた年金の記録でM化学薬品を退職したのが
昭和49年2月26日と書いてあります。
辺見氏の言葉重いですね。
私もテレビの動画を観て心が沈みました。
これからなにかにつけて考えてしまうでしょう。
大道寺将司のやった事件は許せませんが、
現在の彼の独居房での暮らしをいとおしく思っています。
私が吹いている笛は、ケーナといいます。
南米の民族楽器です。
私が初めて出会ったのは、
サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」という曲でです。
最近あまり吹いていません。
これからもよろしくお願い致します。
事件のあった74年、私はちょうど二十歳でした。
まさに九想さんと同じ時代、ですよね。
女子高から女子大へと進学した私は、学生運動や社会問題に疎く、大学の部室に残っていた落書きを見て初めて、そうした運動に身を呈した先輩がいたことを知ったようなありさまでした。
それでも、あまり実感はなかった。
今にして思えば、「世界」はゆるぎなく定まっていたかのごとく、また理想を掲げるには余りにも近視眼的な学生生活でした。
50をとうに過ぎた今、あの時の大道寺たちが目指したものを考えると、罪は罪としても、胸が詰まるような想いに捕らわれます。
九想さんが、同世代の方であることにくわえ、同じ県内にお住まいと知ってコメントさせていただいた、というのが正直なところです。
ケーナは風の楽器ですね!
「コンドル・カンキ」というペルーのグループが来日した時のコンサートに行きました。
もう社会人になっていた頃だったと思います。
哀愁に溢れた旋律の曲があるかと思えば、素朴な明るさに満ちたリズムもあって、本当に素敵なステージでした。
鮮やかな民族衣装、にこやかな笑顔。
でも歌の内容は、悲しく辛いものも少なくなかったような気がします。
その時買ったカセットテープが今でも手元にあります。カセット・テープ全盛の時代でした。
私は、あの会では清水哲男さんしか知り合いがいないので静かにしていました。
(あとで何人か知人をみつけましたが…)
あの日は、たくさんん俳句を愛するひとたちとお話ができて楽しかったです。
大道寺将司の句に、私も衝撃を受けました。
真剣に現在の自分の状態を確認・認識して生きているひとの俳句だなと思います。
私も、毎日の自分の状況を認めて句を作りたいと考えます。
現実を認めながらも“夢”も織り込みたいですね。
これからも九想話をよろしくお願い致します。
九想話を読んでいただいてうれしいです。
大道寺あや子さんは、私の会った印象では、
> 誰にでも優しく、心の澄んだ、美人さんだったそうです。
> 優秀な人だったとも言われてます。
そのような女性でした。
今は、どこでどうしているんでしょうね?