スマホ

2017-06-25 | Weblog
1990年代に提唱された
モバイル・コンピューティングの概念には、
「有能で多忙な人々が
PCを用いて外出先でも
創造的な生産を行うこと」という
イメージがあった。

当時ある「識者」は、
東京から大阪へ向かう新幹線の
全車両を歩き回り、
モバイルのPCを開いている人が
少ないことについて、
「この国では、まだ、
モバイル・コンピューティングは
遅れている。」と評論し、
当時の素人消費者の
PC奉行たちも
それを丸コピーしたものだ。

けれども、
実際に普及した
「モバイル・コンピューティング」というのは、
今では、田舎の鈍行列車のなでも見られるように、
多くの人たちが、
スマホ等を見ながら暇を潰している、
その光景そのものだし、
それを可能にしたのは、
概念だらけのモバイル・コンピュータではなくて、
スマホ等の
持ち運びがうんと楽な道具のおかげだ。

知的、生産的、創造的云々、
長い間、いわゆる「純PC」は、
商品とともに、そんなイメージや概念も
消費者に提供してきたように思う。
ところが、
あまりにも、
実利のようなことが、
素直に認識されることがなかった。

そして、その一方で、
ここ10年くらいの間で、
実利に満ちたより小さな端末が
素直に評価され、
売れ行きにつながることになったのだと思う。
そして、売り手側の提唱ではなくて、
消費者の都合に合った
「モバイル・コンピューティング」が
普及したのだと思う。

ーーーーーーーーー
Written by "Qoheleth (♂ 1961-)"


Concept

2017-06-22 | Weblog


PC等についてのコンセプトは、
おおよそ売り手や
職業評論家が考え出すものだろう。
そのコンセプトについては、
おおむね、
知的だったり、
あるいは、創造的なイメージが
好まれるようだ。

職業人たちが職務として
考え出した
それらのコンセプトを広げるのは、
次には、
数多くの素人の
消費者や購買者の役目だ。
彼・彼女たちは、
話し相手が
よりもPC等について疎いと
察するや否や、
どこかで仕入れたコンセプトを
丸コピーして使い始める。
たいていの場合。
PC等に興味があるけれど
苦手と感じている人たちは、
けっこう効果があるようだ。

だだし、そんなふうに広がった
コンセプトの数々は、
その消費の実態とは
かなり異なってしまう場合の方が
多いと思う。

歴史自体はずいぶんと古い
"Mobile Computing" というコンセプトも、
前世紀には、
<有能で多忙な人が外出先でも
知的で創造的な生産活動をすること>
というニュアンスが意図されていたが、
21世紀になってから、
実際に普及した "Mobile Computing" は、
ご存知の通り、
スマホ等、純PCよりも可動性のある
端末で
<誰もがどこでも気軽に
必要な情報にたどり着くこと>だろう。

今世紀になってからだと思うが、
"Small Office Home Office " (SOHO)
というコンセプトが提示され、
やはり、
「有能で創造的な人たちが、
職場通勤から開放されて、
自宅でPCを用いて
生産活動を行うこと」
というい印象に
したかったのだろうが、
実態としては、

<失業者、開店休業の店主、有閑マダム>
のような人たちが、
文書についての賃作業の内職をかじって
それをE-Mailで納めること>

というのが正確なところであるようだ。

今では多くの人たちが
うすうす感じているように
PC等についてのコンセプトは、
しばしば、
現実の実態を知られたくない人たちの
ネット空間での自己申告の表現等に
たいへん都合の良いものだ
ということだろう。

だから、家族の誰かを
働かせているような居候、被扶養者、
隠居のような人たちでも、
「 "Mobile Computing" やSOHOで
仕事をしています。」と
自己申告すれば、
彼・彼女たちの実態からは程遠い
「平均的社会人」よりも
ずっと優秀なランクを演出できる。

数多くの医者や先生がいると
誤解されやすいネット空間だが、
実態としては、
そこは、おおかた、患者や生徒の
自己申告や自己顕示の巣窟の
ようなものだろう。

現実逃避を謳歌しつつ、
社会人や勤労者の体裁も
維持しようとする、
ずるい怠け者の人たちにとっては、
とても都合の良いパターンだと言える。

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ある意味、コンセプトの比重が
少なくない純PC商品に対して、
スマホ等の商品は、
もっともっと消費者の
ほんとうのニーズに近いところから
普及して行ったとも言える。

職業とは関係のない
純PCが高額な玩具として
たいした使い道もないのに、
それなりに販売台数を稼いでいた一方。
スマホは、ケータイ電話の実用性から、
どんどん消費者にとって
便利なものになり、
やがては、
インターネットの端末としての
代表格になったのは、
別に不思議なことでもなんでもない。

極端に言えば、
そこには、<怠け者の玩具>と
<勤労者の道具>というような
シンプルなイメージの差ある。

原理は、ほぼ同じ電子機器であるのに、
純PCの場合は、
<失業者、開店休業の店主、有閑マダム>
のような人たちが
「講習会」の先生になれたのに、
スマホには、
そういう「嘘っぱち」は存在せず、
とにかく、消費者のニーズを満たす
というような「商品の王道」に
しっかり立ち返っているところあがる。

この差というのは、
実に、様々な意味や理由から
発生したものだろうと想像する。

要するに、スマホに比べると、
純PCの多くは、
とにかく、おおげさで、
実用からはほとんど関係のないような
ネーミングやコンセプトが通用し、
そのことは、
そっくりそのなま「実労」とは
あまりご縁のないような
<失業者、開店休業の店主、有閑マダム>のような人たちの
心がけと似ているのだと思う。

職業安定所や精神科に行くのが
先であろうに、
そんな実態とはほぼ正反対の
自己申告や自己顕示を
繰り返すために
先ずネット空間に行ってしまうような
人々は、
ネット空間の発生以来
ずっと存在、残留し続けるかのようだ。

そして、しばしば、
ほとんど大嘘に近い、
過剰装飾で、
実態をわかりにくくする
心がけや方向性は、
ウィンドウズの
純PC一般と怠け者の人たちの
共通点のような気がして仕方ない。

マイクロソフトは、
今でも、たとえば、「改良版」のことを
「クリエーターズ・アップデート」
などとネーミングするが、
そのセンスは、
怠け者人たちが
慢性的な怠惰のなか
知らず知らずに身につけるような
ごまかしやすりかえのセンスと
似ているような気がして仕方ない。

つまりは、そのたいそうでおおげさな
ネーミングのバージョンアップを
やったろころで、
実際の生産性には
まったく変化がありえないと
多くの人々は薄々気づいているのに、
当事者連中のみは、
やがら、そのネーミングやコンセプトに
意味がありそうな自己申告の表現に
夢中になっている..... 。

それは、生産者としての社会人の
実態はごまかしたり、
すりかえたりしつつ、
それでも他人様の評価による
自己確認や自尊だけは手に入れようとする
慢性的な怠け者の無意識の手口に
そっくりだと思うのだ。

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Written by Qoheleth































ネット空間

2017-06-21 | Weblog
自分にとって、
ほんの少し前まで、
「ネット空間」といえば、
いわゆる「モバイルPC」の
小さなディスプレイの先に
広がっているものでしたが、
今では、やっと「人様並」に
スマホ越しの空間になりました。

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Written by Qoheleth

作文

2017-06-20 | Weblog
気軽にいろいろ作文できるのは、
ありがたい。
ほとんど誰も読まないだろうが、
読むかもしれないという「可能性」
だけでも、
けっこう、良い緊張のようなものを
与えてくれて、
できれば、できるだけ、
ほんの少しくらいは、
わかりやすく書いてみようとするから、
あとあと自分でも
読みやすいものになり、
日記としても、
少しマシなものになるように思う。

私たちの世代に、
「ネット・デビュー」なるものが
あるとすれば、
それは、ずいぶん昔の、
パソコン通信時代の、
NIFTY-Serve 等のメジャーだったり、
名もない草の根BBSだったりする。
MS-DOS上で動く、
けっこう使い勝手のよかった、
通信ソフト「まい・とーく」、
あるいはフリーウェアの
「Wterm」等、懐かしい
アプリケーションの名前だ。

ほんとうは、そんな一世代(約30年)
前の「ネット空間」と、
現行のものは、基本的には、
ほとんど違いない。
ただ、システムや端末が
跡形もないほど変化したと
いうことだろう。

かぶれ気味だったり、
中毒気味だったり、
ある程度病理的な関わり方や、
やがては、
それに自然に飽きてゆくプロセスも
昔のままで、
あまりなれない人から、
順番に極端に、
そういうことを
「深刻な問題」
にしておきたいかのようだ。

「インターネットはからっぽの洞窟」
という翻訳のタイトルの
書籍が出版されたのが、
1997年ごろで、
それは、人々が、
なんとかやっと「ネット空間」の
実態や、正体や、本質に
気づき始めたころの本だが、
それにしても、もう20年前の
ものになる。

まったく同一の性質ものの
まわりで、
それに関わる具体的な機器、
あるいは、インフラのシステム等が
どんどん変化したきた、
と解釈すればわかりやすいかもしれない。

そして、そんな本性に
照らし合わすとき、
ICQとフェースブックの違いは、
ほとんど、そのネーミングだけに
過ぎないようにも感じる。

徒歩であれ、馬であれ、
あるいは、クルマであれ、
新幹線であれ、
結局、東海道を
東から西まで行くというのは、
おおきな意味では、
やっぱり、同じことだと思うし、
「ネット空間」も、
きっとそうなのだと思う。

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Written by Qoheleth







Mobile PC

2017-06-19 | Weblog
つい最近まで
スマホではなくて、
いわゆる「Mobile PC」を
持ち歩くことが多かった。
用途は、普通の人がスマホを
使うのとほぼ同じで、
乗り物のなかで読む書籍や雑誌の
変わりだったり、
天気や電車の時刻調べの
ようなことだった。

長年「Mobile PC」を
使っていたので、
なかなかスマホに乗り換える
機会がなかった。

Windowsのタブレットから
Andoroid のタブレットに移行して、
それに慣れたら、
スマホとはそれを小さくして
通話の機能を持つものだと
理解して、慣れた。
タブレットでなじんだ、
Bluetooth 接続の
キーボードを繋げば、
もう、Mobile PCというのは
正直、要らなくなった。
ちょうどデスクトプPCのように
部屋に常設で使っている。

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Written by Qoheleth

実験室

2017-06-16 | Weblog

1990年代の
"Mobile Computing" は、
まだ実験段階ですから、
どうやってつないだとか
どーのこーの、
そういうこと自体が楽しみでした。

"Mobile Computing" といっても、
ほんとうに
外出先でも
パソコン通信に接続されたネットを
必要とするような職業の
人なんぞ限られていたから、
「PC好き」の趣味の
空間というほうが
正確だったと思います。

”Windows 10" (NT 10.0) の
アップデートに
最近「クリエーター」どーのこーの
というネーミングがされていますが、
今も当時も、
Windows関係のPCは特に
そういうネーミングや概念が
先行するかのようです。
売り手がそんなふうに提示したものを
職業書き手が繰り返します。
そして、それを目にした
ただの素人の購買者が
丸コピーして言いふらす..... 。
前世紀には、
"Mobile Computing" も
そんなふうにネーミングと
概念だけが先行した
イリュージョンでした。
ところが、
何も考えない人たちにとっては、
当然、 "Mobile Computing" は
20世紀から実態として
存在している何かの
ような感じです。

つまり、
<知的で創造的になった気分>や
<知的で創造的な勤労者ごっこ>の
キーワードだったわけです。
<有能で多忙な人が外出先でも知的で創造的な生産活動をするための道具>としての
Mobile PCというわけす。

ところが、
そういうイメージを
実際に必要とするのは、
有能でも多忙でもない種族の
人たちで、
その人たちが売り手にとっての
「無料広告塔」として、
自分たちよりも
PC等に疎い人を選んでは
いろいろ言いふらします。

彼/彼女たちには、
日常のなかでの地道でささやかな
達成の積み重ねのようなものが
ありませんから、
どうしても、自己認識や自己肯定や
自尊心のために、
やたら目立つ言動を
必要としがちなのだろうと想像します。

横文字のネーミングや
概念は
おおむねそういう人たちの
自己顕示に利用されることが多い。

売り手も
広告等については、
そのあたりをしっかり知っていますから、
あえて、"creators'" というような
表現を使ってみます。
そうすれば、創造的でもなんでもない、
<失業者、開店休業の店主、有閑マダム>のような人たちが
飛びついて言いふらしてくれるわけです。

Many Times

2017-06-09 | Weblog
何度か書いていますが、
私は、もともとは、
Mobile PC のファンでした。
Mobile PC というのは、
1990年代に登場した
ノートPCのジャンルで、
当時 "Mobile Computing" を
実現する道具として
定義されていました。

"Mobile Computing" は、
他の多くの場合同様、
当時は、
PCという実験室内での
有益な用途の実験段階に
あったともいえます。

小型のPCを
携帯可能なモデムや
当時のアナログの
ケータイ電話で接続して、
まだまだCUIが一般的だった
「パソコン通信」に
つなぐといいう
原始的な実験でしたが、
やがて、今世紀になって、
スマホ等の端末ごしに
ほとんどの人たちに
"Mobile Computing" の
実態を提供することとなります。

「実態」と表現しましたのは、
当時Mobile PCで
実現されていたような
"Mobile Computing" というのは、
もっともっと
趣味的というか実験的というか、
要するに、
現在スマホの先に広がる「ネット」
のような実益や恩恵は
ほとんど皆無の状態だったという
ことがあります。

前世紀に定義された
"Mobile Computing" というのは、
概念ばかりが先走りして、
まだまだ、
「誰もの役に立つ」ような
レベルのものではなかったのです。

ネーミングや概念、
そして、それに基づく
広告の表現だけが、
どんどん突っ走って、
より多くの人が得られる
実利の恩恵からはほど遠い
という状況は、
PC一般については、
しばしば起こることです。

純PC一般は、
そういうふうに、
ネーミングや概念だけで
あたかも未来像を
持っているかのように
売られ続けていたわけですが、
今世紀になってからは、
そういう現実味のなさは
そっぽを向かれて、
スマホのように
より多くの人たちが
恩恵を受けることのできる道具が
広告や宣伝ではなくて、
購買者にその実態を
認められて
売れ行きを拡大したのは、
ある意味、印象的なことだと
思います。

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Written by Qoheleth


‘’Truth Class‘’

2017-05-13 | Weblog
「真実」という概念さえも、
もしかすると、
人工的な「仮説」のようなものではないか、
と考えてみることがある。

このような「概念」は、
例えば「愛」という概念のように、
<Q史料>的に、
しばしば、人間の思考や感性の
内容を裏付けてくれるタイプの
ものだからだ。

ただ、我が人生の作者自身は
神様に違いないとしても、
そのなかの日々の
思考と感性の producer 自体は、
自分自身のはずだと思うので、
上記のようなことも、
Yes-No Question の方法で
認識できる類でもないだろう。

それぞれの思考や感性が
その表現者自体のものであるとき、
「ほんとは」というような
議論は、なんとも、こっけいになってくる。

「Aさんは良い人だ。」とは、
正確に言えば、
常に、その話者について、
「私は、Aさんを、<良い人>だと
認識する。」ということだから、
別の人の
「Aさんは、悪い人だ。」という内容と
対立の果て、
「では、 <本当は>、どっちなんだ?」
というような
「議論」は、成立しえない。
任意の対象について
ある人は<良い人>だと認識し、
別の人は<悪い人>だと認識する、
というだけのことだろうし、
更に、ある人と別の人では、
「良い」「悪い」の概念さえ、
一致するわけではない。

もう30年近く前から存在するような
ネット上の「議論」の類が
たとえ何を扱おうと、
おおむね、くだらないのは、
そういうことが理由だろう。

ネット上で、
哲学者気取りで、
「戦争と平和の関係性」などと
知らないもの同士が
言葉の表現で
やりとりしているようなことは、
当事者たちが望むような
高尚な「議論」にはなり得ない。
「議論」というのは、
そうではなくて、
魚屋の親父と息子が、
魚の値付けについて
口げんかしているようなことだろう。

それは、現実の暮らしのなかで、
お互いの共有するビジネスの
利益をめぐっての、
働き者の人たちの
真摯な心がけから発するものであるから、
ネット上での、
いかにも注目を引きそうなタイトルを
利用した
暇人たちの「自己顕示」と
それによる「自己認識」とは
まったく次元の違うものだと思う。

オンラインで、
面識のないもの同士が
思考や感性や情報の
やりとりをするに
あたっては、
すでに、パソコン通信の時代から、
多くの題材が揃っていて、
それは、現在の題材の数と
さほど相違はないと思う。

今同様に、
「概念」交換系と
「情報」交換系が存在していたが、
常に、無粋でこっけいであり続けるのは、
その「概念」交換系だ。

現実味と具体性に欠けているような
話題は、おおむね、いつの時代でも、
当事者たちの現実逃避の餌になりがちだ。

パソコン通信の時代から、
たとえ面識のない他人同士の
発信であっても、
「情報系」は、しばしば、
それなりの価値を持ち、
その内容が出版されるようなことも
珍しくなかった。

今以上に、
PCについての話題交換が
それなりに「趣味」になりえた時代には、
数多くのユーザーによる
「使用」についての情報の集積は、
その商品を「製造」した
メーカーの人間も参考にしたがるほどの
価値を持っていた。

IBM の ‘’ThinkPad‘’ や、
Panasonic の ‘’Let's Note‘’ のような
ノートPC個性やオリジナリティについて、
上記のような素人発信の
オンラインの情報が果たした役割は
小さくないと思う。

そして、いっぽう、
「概念系」の表現交換は、
おおから、相変わらずの、
暇人にとってのアイデンティティ確保の
手段の域から抜け出していない。

普通の人々が必ずしも神聖であったり、
純度が高いわけではない暮らしを
生きる一方、
限定的な少数派の
<現実からの逃避者>たちは、
神聖さや純度について
ただ、言葉の「表現」だけを
羅列している。

実態としての実績ではなくて、
自己申告の内容だけで、
「誰か」になれてしまうような
ネット空間の概念系は、
もう長い間、
<怠け者たちの温床>
のようになっているものも
多い。

誰でも生きて行くには、
程度の差はあれど、
自己認識、
あるいは、その結果の自尊心が
不可欠であるけれども、
ネットの空間で
面識の無いような他人さん対象に
自己申告の言葉だけで
それを行おうとする人たちは、
ある意味、病的でさえある。

オンラインで閲覧される表現には、
実態を反映した真摯な説明がある一方、
とてもレベルが低く、
ほとんど虚偽にも近い
自己申告の類のものも少なくない。

しばしば、
「スピリチャル」と呼ばれるような
ジャンルについては、
特別、その傾向が強いと思う。

例えば、
自らが大工であることを証明するためには、
実際に自分が建てた家が必要になるし、
それが、現実のパターンの典型だが、
「スピリチャル」系はそれとは違い、
「神さまと対話した。」
「イエス・キリストと交流した」と
自己申告しておけば、
ネットの時代には、
それだけで、
「虚しさを感じている怠け者」たちの
かぶれを得ることができる。

だから、ある意味、
労働以外のもので
自己認識を得ようとする人
あるいは
そうしたつもりの人たちの数は、
ネット空間の普及で
増加したのだろうと思う。

ネット空間では、
現実の世界では考えられないほど、
実態よりも、表現やネーミングが
力を持っている。

実態としては、
不徳な姦淫の人たちであっても、
オンラインで
「ソウル・メイト」と
自己申告しておけば、
面識のない他人様たちには、
当事者にとって都合よく
伝わるようなことが多い。

ただ、ネット空間が
どんどん広がってきた時期とは違い、
今では、多くの人々が
その類の「素人の虚偽広告」については、
敏感にもなってきていると思う。

むしろ、それに今でも気づかないほど、
低能であるからこそ、
今でも実態と美辞麗句をすり替えることに
たいして疑問を抱かない人たちも
少数残留しているのだろう。

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Written by "Qoheleth (♂ 1961-)"












Q

2017-05-12 | Weblog
私は、ときどき、
いわゆる「Q and A」式の考え方に
疲れてしまう。
特に、正答・誤答のような
「結論付け」は、しんどい。

日常の様々の場面、
「問いと答え」のスタイルで
考えることは、
便宜上都合のよいことも多い。

例えば、
休日に、
「今日は、家でゆっくりしていて、
正解だった。
疲れもすっかり取れたし.... 。」と
感じることには、
一切の不平・不満もない。

けれども、自分の、あるいは、
他の誰かの人生が、
正解だったかどうかを
問うてみることなんぞ、
なんだか、不自然で、傲慢で、
そして、こっけいで、
無粋な気もする。

「Q and A」式の発想が、
必要以上に強調されるとき、
私の心のなかには、
なんとなく、虚しい風が吹いてしまう。

日常のちょっとした知恵の数々が
あたかも限れれた人たちだけに
語ることが許される哲学のように
表現されることは、
なんとなく落ち着かないのだ。

ーーーーー

もっとも、多くの「表現」は、
しばしば、その表現者の職務の一つであり、
本人の個人的な思いは、
まったく別のこともあろうかと思う。

前世紀のPCの普及機に
必要以上にPCに価値や意義を置くような
PC屋の店員に不快感を覚えたが、
よくよく考えれば、
私はただ顧客なり消費者の立場で
そのメッセージの内容に接しただけでで、
そういう宣伝文句の羅列で、
店員は給与を得て、
幼い子供や年老いた両親まで
養っていたかもしれない。

Written by "Qoheleth (♂ 1961-)"









Somewhere on the Internet

2017-05-11 | Weblog
電子機器依存の
「つながり」にもっとも早くハマり、
そして、もっとも早く飽きてしまったのは、
私たちの世代の
私のようなタイプの人々だと
思うことがある。

ネット空間に関しては、
いわば「現実と仮想現実の間」の
ような部分があり、
例えば、ネット空間が提供し、
そしてしばしば悪用さえされるような
匿名性は、その大きな特徴のひとつだろう。

ネット空間の発生以来
長らく続いたそういう性質も、
やがては、その虚しさのようなものが
あまりにも多くの人たちに
痛感されてしまい、
ネット空間の二次的な普及は、
こんどは、もう少し、
現実味をまして、
たとえば「実名」や「本人の特定」
自体に依存するものになったかのようだ。

ネットへの入り口が、
旧来のPCから、
より持ち運びに楽な
小さな端末へと移行するのと同時に、
旧来のメディア同様の
現実味への移行も進んだように感じるが、
その時期には、
すでに私たちの世代の
私のような人たちの多くは、
ネット空間での
人との関わり自体に
すでにあまり魅力を感じなくなっていた
ように思う。

ツイッターやフェースブックに
無関心で無縁な人間は、
食わず嫌いや時代遅ればかりではなくて、
なにかしらいいようのない虚しさを
ネット空間そのものに感じていることが
多いと思う。

ネット空間の商用の有効性の
ようなものが証明されるにつれて、
それと反比例するように、
ネット空間の私用については、
消極的になる人は、
決して少なくないようにも思う。

Written by "Qoheleth (♂ 1961-)"




Writings by FUJITA

2017-03-25 | On-Line 【ネット空間】

1995年末
ユーザーが
深夜店舗の外で
列を作るほど待望された
ウィンドウズだったが、
20年後の新ウィンドウズは、
無償配布になった。

安全性については
旧ウィンドウズの不都合を指摘し、
オンラインでは、
社会問題になるほどの半強制を伴いつつ、
配布された。

この20年間、最初の10年間は、
ハードウェアの推奨最低スペックは
どんどん上昇したが、
後半10年間は、あまり変わっていない。

ウィンドウズに関わる
PC一般のイメージも
ずいぶん変化した。

PCは1年経てばただの箱

と川柳にも読まれた時期があったが、
今世紀になってからは、
時の経過とともにより
多くの人たちたちが
自らの用途とPCの関係性を
意識的に、
または、無意識に認識するに至り、
ネット空間というプラットフォームは、
いわゆる<純PC>よりも、
スマホやタブレット等の
比較的低速でも、割安で、
しかも、
携帯性に優れた端末で
アクセスするのが一般的になった。

ごく一般的な用途の上に、
何か特別高度な性能を要するような
用途がある..... 。
というようなQ資料的仮説を
今では、
まともに信じているような人たちは、
ほとんどいない。

「メールの送受信、
WEBの閲覧、
基本的なアプリケーションを使う用途」
に限定的なすれば..... 。

と丸コピーの尺度を使う人たちも、
じゃあ、それ以外の用途といえば、
せいぜいベンチマークの数値競争くらいしか
思い浮かばないのが正直なところだろう。

実用性と縁のないような
売手側の都合による
<コンセプト>をそのまま引用しても、
今では、
すでに人に笑われるのがオチかもしれない。

モバイル・コンピューティングとは、
最初のコンセプトとして定義されたような

<多忙で有能な人たちのが
外出先での創造的な生産活動>

ではなくて、

<誰もがそ都度必要な情報に
アクセスすること>

であるということは、
すでに、
スマホやタブレットの販売台数が
証明している。

またまた、
かつて<PC奉行>として
優越感を披露できた、
〈失業者や、開店休業の店主や、
恩恵・免除に満ちた有閑マダム〉
のような人たちは、
穴があれば入りたいような
恥ずかしさを覚える。

だいたい、
道具について、
特にPCのような<OA機器>
にも該当するような商品について、
<限定的で特殊な暇人>が
<普通の社会人>に
何かを教えるということ自体が
異常だったのだ。

今や、過剰性能、過剰価格の商品は、
それだけでは売れることもなく、
メーカーは、
その類の商品に、
割安なタブレットのスタイルを
取り入れたり、
ベンチマーク競争遊びを提案して、
ゲームPCというようなジャンルを
作り上げるなどしないと、
その価値や意義に説得力を
持たせることができない。

それは、
前世紀、
本来必要でもないのに
PCを購入してしまった人のために、
あるいは
本来必要でもないのに
PCを購入させるために
売手側が提案した
<年賀状のカラー印刷>や
<ホームページ発信>のように
とてもこっけいに見えて仕方ない。

とにかく、
PCのハードウェアの性能一般が、
動画の切り貼りを
DVD等に焼き付けるというような
<クリエータごっこ>を可能にしたあとは、
ますます、
いわゆる最新の高性能を
売り込むことは難しいことだろう。

それに、今までとは違い、
すでに、
原理は同じでも
ジャンルの違う
スマホやタブレットのようなジャンルが、
しっかりと、
ユーザーに<便利さ>や<実用性>を
提供しきった後だ。
ゲームマシンの
数値スペック競争遊びというような提案は、
もう、
背に腹を代えられない苦肉の策
であるかのようだ。

とにもかくにも、
特にウィンドウズ系周辺は、
今でも、最新/高性能のPCには、
代えがたい価値と意義がある
と言いたいように見える。
これだけ、
市場で、
消費者のシンプルで素直な選択の結果、
スマホやタブレットに
いわゆる<純PC>の売れ行きを
奪われても、
今でも、きっと、
かつてのPC奉行の残党のような人たちが、
特別苦手な人たちたちだけを相手に、
売手側のコンセプトを
丸コピーで伝えてくれる
とでもいうのだろう。

あるいは、
最新のウィンドウズに至っても、まだ、
アニバーサリーだの、
クリエータだのと、
実利や実用性とは
ほとんど無縁のコンセプトの
付録作りに明け暮れているかのようだ。
そして、
たいしたことなんぞしていなくても、
そのコンセプトだけで
クリエーティブな人間になれたと
錯覚できるような
低脳のユーザーたちを
探しているかのようだ。

ある意味、
滑稽な、笑い話だと思う。

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Qohelth 2017

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2017-03-25 | Weblog
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