退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「不安しかない老後あるいは圧倒的な『無責任』」について

2017-07-17 02:22:46 | Weblog
晴れ。図書館の帰りに「狐の嫁入り」。

昨日は仕事場の研修で老舗バーへは行かず。

このところ暑さのせいで最寄りの地下鉄の駅まで歩かず
バスに乗っているのだけれど。

首筋がチクッとしたので手をやるとアリ。
もちろんヒアリではないので今こうしている次第。

たまには「流行」に付き合えということか。
妙なところから「お呼び」がかかるもの。

NHKスペシャル取材班「老後破産 長寿という悪夢」を読む。

夫婦揃っていればまだ生活はどうにかなるものの
片方がいなくなってしまうだけで生活が「崩壊する」現実よ。

毎年熱中症になるお年寄りが多いのかは
実はこうした「貧困問題」のせいだと知っておこう。

少ない年金のみでギリギリの生活をしていると
エアコンもかけられない「現実」があったりするのだということ。

あるいは年をとってからの病気。
それが「致命傷」になることも同様に。

どのような人であろうと憲法25条の「生存権」が確保されるのは当然のはずが。
「本当の憲法問題」はこのあたりにあるのだと思っていい。

「自己責任」などと束の間のカタルシスに酔っていると
やがて自分がそういう存在になることを忘れてしまうことにもなり。

つくづくわが国には「最低限を維持する」という考えがないことを思う。
その「当然」が認められないのだとしたら「貧しい」のだと言わざるをえず。

マル激を観る。

「『森友、加計問題の本質は情報公開と公文書管理にアリ』というタイトルがすべてを語る。
都合の悪い書類は「燃やして」しまった「過去」がいまだに。

要は「公の場」で「責任追及」されないための「慣習」が続いているということ。
これでは「大事なこと」がすべて「秘密あるいはなかったこと」になるのもむべなるかな。

「無責任体制」もここに極まれりといった具合。
「表に出して恥ずかしくないこと」がどこでも保障されていないのだからいやはや。

「公」に関わるというのは本来その種の「倫理」がなければならず。
そうでなければ各人が好き勝手にやるだけ。

ここでもわが国の「前近代ぶり」が顔を出し。
明治以降の無理矢理な近代化の「後遺症」でもあるとはいえ。

誰が何をやろうと基本的には「自由」。
ただし「公」に関してはそれをあとから検証する材料を残さないとどうにも。

つまり。

少なくとも現政府には「後世の検証」を俟つような「心構え」は一切なく
結局は「その場しのぎ」しかないという事実が残る。

道理で「歴史の積み重ね」がないわけだ。
なるほどそこに肝心な問題があったのかと気付かされる。

「民度」についてもあてはまることなのでよろしく。
われわれはかくも愚かでいいのだろうか。
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