退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『参考』あるいは『資源』としての人」について

2017-01-17 02:21:06 | Weblog
晴れ。日中も気温が低いままで冷える。

昨日はまたまた眠ってしまう。
たいして疲れはないはずだけれど身体に従うのみ。

山根貞男「日本映画時評 2000―2010」を読む。

相米慎二、深作欣二の死に衝撃を受けつつ相変わらずの疾走感。
製作本数は増えたものの「映画未満」の作品が多いことを嘆く記述が目立つ。

どうやらその「基本」は「『活劇』であるかないか」だと大雑把にまとめておく。
もっともそれはただ単に「アクション」があることではなく「うねり」があること。

「ドラマ」はそもそも「台詞」ではなく「動き」や「ショット」によって生まれること。
そのことの「意味」をあらためて思い出したいところ。

「説教めいた言葉」でもなく「思い入れたっぷりのシーン」でもなく。
それにしても著者の「体力」には驚くばかり。

どこまでも「迷い続ける」その姿はまさに「職人」と言うべきか。
今後とも参考にしていきたい。

さて。

知り合いの若い女子はいささか情緒不安定。
ようやく落ち着き始めたところで言葉を交わす機会があり。

こちらの言い分にコントのように身体を震わせて笑うその姿はほぼ「発作」。
とりあえず「泣き伏す」よりはマシといった感じ。

「残念な家庭環境」が彼女をそうさせているのは確か。
ただし今のところそこから離れることはできず。

おそらく一足飛びに「健康」になるのは不可能だしそもそも誰しもが「不健康」。
どうにかそれを「飼い慣らせる」ようになってほしいもの。

かくしてそれぞれに「サバイバル」は続く。

「家庭」がある種の「ジャングル」になって久しい。
「ゆるいつながり」などというものがクローズアップされるのもそこに「原因」があり。

繰り返すがテレビCMがいつまでたっても「しあわせな家族」を描くのは
それが「普通」に存在しないから。

メディアが「現実」を描かない「事実」を忘れずに。
いたずらに「影響されない」ことが肝要。

とはいえ映画のみならず「圧倒的なリテラシーの欠如」はすでにありふれていて。
「『資源』としての人」をもっと有効利用しなければ。
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