退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「わかりやすさに対する圧倒的な勘違いあるいは鈍感さ」について

2016-10-29 02:26:17 | Weblog
くもりのち雨。夜になって止む。

「桂東雑記Ⅱ」読了。

文字はそもそも神に訴えるために生まれたこと。
わが国の文字の始まりは百済人によるものだと推察されること。

そして文字にはさまざまな生活ぶりが「記録」されていること。
ベトナムや朝鮮半島ではすでに漢字が失われ「古典とのつながり」がないことなど。

今後も楽しいことが待ち構えている予感が濃い。
このシリーズだけでも結構な数があるのでぼちぼち読んでいくつもり。

あらためて「漢字にルビを振る=ふりがなをつける」という印刷形態を復活させることが
漢籍に接することの少なくなった現在では重要だと思う。

意味はわからなくても読めていれば
やがて後から意味が付いてくるというのが「素読」のいいところ。

少なくとも「水よう液」などという不細工な文字の配列を
至極当然だと思える「鈍感さ」を免れることはできるはず。

いたずらに漢字をかなにしさえすればいいという
「わかりやすさ」に対する勘違いをそろそろ改めてはいかが。

同様なことが言えるのは先日も採り上げた「NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来」。

全3回を再放送ですべて観てみたのだけれどまるで「幼稚園児への解説」。
少しはBBCの「わかる人にわかればいい態度」を見習ったらどうか。

最終回では「トリクルダウン=富のこぼれ落ち」をわざわざ「シャンパンタワー」で説明するアホらしさ。
何か決定的な勘違いがあるとしか思えず。

他の番組ではそうでもないことを考え合わせると
残念ながらこのシリーズを作ったプロデューサーがダメなのかも。

ロバート・ライシュにわざわざインタビューして「絞りカス」だけ伝えるくらいなら
彼の著書をきちんと読めばいいだけだし。

重要なのは「結論」ではなく「なぜそこに至ったのかということ」。
その「理路」もないのだとすれば「エラい学者の言うことを信じよう」にしかならないのに。

つい最近「土人」という言葉がメディアで流れたりしたが
「天に唾する」ことになっているような。

さて。

いつの時代でも「正統性=まともであること」が求められるのはそれなりの理由がある。
誰もがそれぞれに旗を掲げた上でどこかに「落ち着く」しかないから。

どんなインチキであろうと「理」がなければ。
その「最低限」が破られて久しいのだとすればすべては「気分次第」で終わるのみ。
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