退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「多様なコミュニケーションあるいは価値の基本もしくはいたずらな『念』」について

2017-03-08 02:09:27 | Weblog
くもりのち晴れ。家を出るときに霙が降る。

岩田健太郎「医療につける薬」を再読。

内田樹と鷲田清一との対談は以前とはちょいと異なる印象も。
まあ読むたびに違うのは当然ではあるけれど。

ふたりとも「身体で感じることができるタイプ」なので
おのずと話はそちらへ。

いわゆる「『文字通り』でないコミュニケーション」のいい実例。
「経験を積み重ねた上での直観の『正しさ』」についても。

「聞き上手」になれない現在の医者たちの「数字」でしか判断できない貧しさよ。
もっともこれは「経済の世界」でもよくあることではある。

「聞かれたことに答える上手さ」だけならおそらく人工知能が勝るはず。
要は「さまざまな形のコミュニケーション能力」を持とうというお話。

人と人とが出会うというのはそれぞれの「歴史」の交錯でもある。
できればそういうお付き合いが各地でもっとたくさんありますように。

アメリカの金持ちが「不老不死」に大枚をはたく事実に嗤う。
「幸せな老人」が好まれるのは「好ましくない長生き」が多いからだと知れ。

どんな種類の「価値」であろうとそれを支えるのは「まれ=レアであること」。
「犬が人を噛む」のでなく「人が犬を噛む」というのが「基本」。

さて。

ある種の人々は「試験」が終わった後の結果についてあれこれ思い悩む模様。
すでに「終わったこと」に対してはいくら祈っても悩んでもすべて無駄。

結果はもう出ていて変わりようがない。
そんなに悩むくらいなら事前にもっと努力すればいいだけのこと。

もちろん「もう少し努力できたのではないか」という「反省」はあっていい。
ただし大した努力もせぬまま「いい結果を念じる」のは明らかに間違っている。

これはどうやら最近の「ひき逃げ犯」の在り様に似ている。

たとえば「酒を飲んでいるのがバレたら大変だ」と思ったとか
「事故を起こしたことがバレたら大変だ」とか思うらしいが。

いずれ「バレる」のは明白ではないのか。
「おとなしく事実を認めること」がなぜこんなにも難しいのだろう。

「間違えました」もしくは「失敗しました」というのが「タブー」だとしたら
そもそも怖ろしすぎて「生きていられない」はず。

われわれはどれほど努力しても間違えるというのが「本当」。
ならばそこから次にどう進むかが重要で。

「無謬であること」を「普通」だとすれば歪まざるをえず。
そのことはわが国の検察あるいは警察を見ればよくわかる「事実」。
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