退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「按配もしくは大事なゆとり」について

2016-10-20 02:13:26 | Weblog
晴れ。今日も上着は手に持つ。

「アメリカの反知性主義」読了。

デューイの読み取りにくさが「誤読」を生んだあたりにふむふむ。
「子どもの成長に任せる」のはいいとして「目標」がなくなったのに問題が。

アメリカにおける「教師の地位と給料の低さ」はそのあたりからか。
ほとんど「羊飼い」の扱いと思ってよさそう。

「疎外」されることで活きるはずの「知識人」が「権力」に取り込まれてしまうことも。
一方で「疎外」という「環境」が必要以上に「現場」を持ち上げることも同様に。

本書にはあれこれ教えてもらってありがたい限り。
「反知性主義」という言葉の意味についてはそれなりに理解できたつもり。

「外にいる」からこそわかることがあり「中にいる」からこそわかることがある。
いたずらに対立するのではなくいい具合に混ざり合えば面白い考えも出て来そう。

その種の「化学反応」は各地でもっとあれこれあっていいはず。
とりあえず「熟議」が可能ならした方がいいことは確か。

ちょいと話を変えて。

「専門家と素人」について考えてみよう。

「物事の複雑さ」に慣れている前者は「断言」を避ける傾向にあり
「物事の単純さ」に慣れている後者は「断言」を求める傾向がある。

ある種の「現実」に対して何らかの決断を下さねばならない時に
この両者はどう「和解」するのだろう。

前者でさえ判断が付きかねることに「素人」が判断を下さねばならない「現実」はいくらでもある。
今さら問答無用に「専門家」を信用することも出来ず。

それでも何事かを頼りに素人は「決断」するよりなく。
そうした時に「基準」となる「信頼性」とは何なのだろう。

もちろん個々の持っている「基準」ではあるのだろうが
それだけではいかにも心許ない。

そこで。

専門家は「判断材料」を提供する役割に徹し
素人はそれを元に話し合いを重ねて決断する。

大事な「態度」は「疑わしいと思える点」について
「非難」ではなく「疑問」を投げかけること。

なぜなら「望ましい結果」はすでに「一致」しているので
あとはどうやってそこにたどり着くかだから。

忘れてならないのは「間違えたら元の場所にまで戻ること」。
そのゆとりがないと人は無暗に「正しさ」を求めて「暴れる」。
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