400年間も門外不出だった「広瀬家伝」

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【広瀬兵庫助の事績を初公開しています】

2016-12-10 09:00:00 | 日本史
【広瀬兵庫助の事績を初公開しています】

「広瀬兵庫助」末裔の広瀬家には「広瀬兵庫助」に関する事績を記した史料が約400年間に亘り伝えられています。これまで広瀬家は「広瀬兵庫助」に関して積極的に公表してこなかったので、一般には文献等で知られる情報は少なく結果として門外不出でありました。このたび、広瀬兵庫助の事績を初公開しています。

(1)末裔として、代々の広瀬家に伝わる寺(真宗大谷派=東本願寺=所属寺院)の「過去帳」に記された「広瀬兵庫助」の事跡に基づく正しい情報をお伝えしたい、という純粋な気持ちでお知らせいたします。

(2)浄休寺 寺誌などの広瀬家史料は、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭」の事跡を区別なく記述しており、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物扱いで明記し、兵庫助の代々の子孫には真実を正確に伝えています。

(3)仮に「広瀬兵庫頭宗直」が別人で関わりがなければ、広瀬家一族の事績を時系列順に記す広瀬家史料に、「広瀬兵庫助」とは他家の事績を記すことは全く意味のないことで、その必要はありません。これが重要なポイントであります。 

(4)複数の歴史書には「広瀬兵庫助」が活躍した同じ時代に、『飛騨国(岐阜県)高堂城主の広瀬山城守宗城(むねくに)の子(弟)「広瀬兵庫頭宗直」がいた』とされますが、歴史上の人物の記述として、宗城の子か弟か明確でないことは、歴史書として基本的にありえないことであります。①宗城の子とする文献、②宗城の弟とする文献のそれぞれが複数存在しています。

(5)複数の歴史書等に、その後「広瀬兵庫頭宗直」は、「井伊家に仕官した」という記事がありますが、井伊家について詳細に調査のところ徳川家臣で遠江国(浜松・井伊谷)に居住し、関が原の戦い(1600年)後に家康の命で彦根へ移っています。20年弱の年代のずれがあり別人です。

(6)彦根藩井伊家の全家臣団(283一族)を詳細に調査のところ、家臣団の中に広瀬姓は次の3家の一族があります。
 ①広瀬郷左衛門(2000石)一族=郷左衛門は徳川家臣から井伊家臣になったとあります。後世の歴史家などにより、郷左衛門が広瀬兵庫頭と誤認された可能性が最も高いと考えます。
 ②広瀬助之進(200石)一族。③広瀬清兵衛(180石)一族。
 結論として「広瀬兵庫頭宗直」に関して、井伊家の家臣に該当者が見当らず、「井伊家に仕官したという」事実は全くありません。歴史家の推定による誤認記事であります。

(7)正確に事跡を把握していないと思われる「広瀬兵庫頭宗直」に関する史料の多くには、生年・没年不明、○○○の反乱で敗れて行方不明などとの誤認による記事が多数みうけられます。主たる通称名の「広瀬兵庫助」の史料が多く、別人扱いにされていることと推定しています。

(8)さらに「広瀬兵庫助」に関してインターネットや文献等には、広瀬家に伝わる史料とは異なるものが一部にあり、広瀬家史料とは異なる文献等には「…といわれる。」等の記述による誤認記事がみられます。
【広瀬兵庫助歴史館】
ジャンル:
話題の人
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 【長浜城歴史博物館は、誤発... | トップ | 「広瀬兵庫助」の活躍伝承と... »

日本史」カテゴリの最新記事