1969年
巨人の種部が南海にトレードされることになった。昭和三十七年に鳥取県の倉吉農高から米子鉄道管理局を経て、巨人入りした。二年間多摩川でファーム暮らしを続け、三十九年には一軍入りを果たし、念願の一勝をマーク。翌四十年には自己最高の四勝をマークした。サイドハンドから繰り出されるコーナーぎりぎりをつくクセ球(とくにシュート)には威力があり、各バッターからは嫌がられるピッチャーとして、活躍したが、その後巨人ではあまり陽の日をみることもなく、もっぱらバッティング投手として巨人打撃陣の縁の下の力持ち的な役割を果たしていた。南海の新監督になった野村は「この貴重な投手を埋もれさせるのは惜しい」と、巨人側がトレード要員にしているのをいち早く察知して、譲渡を申込み、金銭トレードが成立。契約金は二百万(推定)だが「ワンポイントやリリーフに貴重な戦力として期待される」(野村監督)種部である。
巨人の種部が南海にトレードされることになった。昭和三十七年に鳥取県の倉吉農高から米子鉄道管理局を経て、巨人入りした。二年間多摩川でファーム暮らしを続け、三十九年には一軍入りを果たし、念願の一勝をマーク。翌四十年には自己最高の四勝をマークした。サイドハンドから繰り出されるコーナーぎりぎりをつくクセ球(とくにシュート)には威力があり、各バッターからは嫌がられるピッチャーとして、活躍したが、その後巨人ではあまり陽の日をみることもなく、もっぱらバッティング投手として巨人打撃陣の縁の下の力持ち的な役割を果たしていた。南海の新監督になった野村は「この貴重な投手を埋もれさせるのは惜しい」と、巨人側がトレード要員にしているのをいち早く察知して、譲渡を申込み、金銭トレードが成立。契約金は二百万(推定)だが「ワンポイントやリリーフに貴重な戦力として期待される」(野村監督)種部である。