フィンランド・デンマーク・スウェーデンの福祉施設を見学する機会があった時
ヘルシンキとコペンハーゲンで障がい児のための学校を見学した。
ヘルシンキの学校は、肢体不自由児を対象とした学校で、
療育プログラムのためのプールやサウナなど設備が整い、
「寄宿舎」(寮)もあり、遠方の子どもは寄宿舎に入ると説明を受けた。
コペンハーゲンの学校は、知的障がい、肢体不自由、重複障がいと、
さまざまなタイプの子ども達がいて、やはりとても大きな規模の学校だった。
そこで、日本人的発想というか、
北欧=福祉の最先端=ノーマライゼーションとまぁ
一方的に思いこんでいた私は、ちょっと不思議な感じを受けたのだ。
なんで、障がい児ばっかり全国的に集めて教育するの?って。
でも、その疑問はスタッフの説明を受けているうちになくなった。
まず、学校の規模としては大きいけれど、
クラスは一人一人の障がいの状況に応じて細かく小さなグループに分けられており、
その日の活動内容に応じても適宜グルーピングが異なるらしいことがわかった。
その意味では、文字どおりマンツーマンでの指導、
一人一人の能力や状況に応じた指導方針があって
それに応じてどのグループ活動に参加するのかが決められるようになっている。
初めにクラスありき、グループありきで分類されるのではない。
そして、この国の子ども達は、
「学校」という所属集団だけに頼るのではなく、
学校の時間が終わったら、
それぞれが「地域社会」の中にも所属する場所を持っている。
趣味の活動に参加する子ども、個人的な楽しみのために時間を使う子ども、
それぞれに必要な活動のためにボランティアを導入したりして、
障がいを持たない子どもが自分の意欲や関心に応じて地域活動に参加するのと同じように
障がいを持つ子どもにも参加の機会が保障され、地域もそれを受け入れているのだ。
(寄宿舎で生活している子ども達も、
学校が終わって寄宿舎に「帰宅」したあとに、
そうした地域活動に参加していくとのことだった。
週末は、親元に帰省する)
つまり、障がいを持っている子ども達は、
学校教育の面では、その障がいに応じた教育を受けるため、
健常児とは分離させられているけれども、
その子達の生活そのものは、地域社会の中で健常児との交流を持つ機会、
健常児と同じように活動に参加する機会がたくさんあるのだった。
日本の子ども達は、学校で過ごす時間以外(放課後や休日)でも、
学校での人間関係や所属集団を軸にした活動が中心になりがちで、
地元の学校に通っていない子(私立の小中学校とか)にとっては、
「○○野球チーム」とか、「△△サッカー教室」といったような
学校の枠を越えたメンバー募集をしているような活動であればともかく、
遊びとか地域の中の非定型的な活動には、なかなか参加しにくいのが現状だと思う。
(私自身、小学校から私立校に通っていたので
こうした地元からの疎外感は充分に感じている。
夏休みのラジオ体操とか・・・)
障がい児を養育している親御さんが、
「友達と同じ学校へ行かせたい」とこだわって
養護学校や障がい児学級に行くことへの抵抗が強いのは、
日本の子ども達の人間関係や活動範囲が、
あまりにも「学校中心」になりすぎているからなのかもしれない、と思ったりする。
また、デンマークでは、知的障がいを持つ人たちのためのグループホームを見学した。
グループホームとは言っても、
入所している人たちはそれぞれ1LDKの個室(というよりもワンルームマンションみたいな部屋)で
生活をし、真ん中に共有スペースがあって、そこにスタッフが常駐しているというスタイル。
個室はすべて専用の玄関があり、利用者が自分で鍵をかける。
自炊をしたい人は自分のキッチンで食事を作るし、
それが困難な人は、別棟の食堂(レストランみたい)に注文をして
そこで食事を食べる。
ホームのルールは、共有スペースの使用方法についての取り決めだけ。
つまり、生活している人たちはみな、何らかの障がいを抱えていて、
社会生活を送る上での援助を必要とはしているけれど、
「施設に入所」しているのではなく、「自分のおうちに住んでいる」感覚なのだ。
そして、その生活のための経費はすべて、
障がい者本人に支給される年金で充分に支払うことが出来るので、
親からの負担はないという。
そこで生活する人たちが皆、
18歳までは親元で暮らしていたと聞いて、これまた私はびっくりだったのだ。
これだけ在宅ケアの整った国で、なんで親元にいられなくなるのだろうか?と。
その疑問をスタッフにぶつけてみたところ、こんな答えが返ってきた。
この国では、18歳を過ぎたら親から独立するのが通常です。
大学に通う場合も、学費を自分で働いて出しています。
(もっとも大学進学率も20%未満ぐらいで
多くの子どもが高校卒業と同時に就職しているし
大学の学費は相当に安い)
障がいのない子ども達がみな、18歳で自立していくのですから、
障がいを持つ彼らにも、18歳になったら自立する権利があります。
親も自分の子どもが障がいを持っているからと言って、
ずっと責任を持ち続ける必要はないのです。
親が子の養育に果たす責任は18歳までです。
そして、
18歳になっても何らかの支援を受けなければ自立できない子どもには
社会がその生活に対して責任を持つのです。
グループホームに入所後の障がい者とその家族の関係は?と尋ねると、
「一緒に生活していた時よりも、お互いを客観的に見ることが出来るようになり、
親子関係がさらに良くなったケースの方がずっと多い」とのこと。
加えてスタッフは、
「子どもが18歳になったのに、
いつまでも子どもを手放そうとしない親の方に問題があり、援助が難しいのです」という。
「これなら、親も安心して死ねるわ」とっさにそんなことを思ってしまった。
なんだかんだ言っても、
まだまだ日本では親の頑張りが強く要求されているように思えてならない。
障がい児教育や、療育の場では、よく「障がい受容」という言葉を聞く。
障がい受容が困難な状態にある時、
その子の障がいに応じたプログラムや治療への参加を促しても、なかなか難しい。
「障がいは個性」と、言葉では言っていても、
その「個性」を受け入れる場がなければ、八方ふさがりになる。
あえて、大げさな言い方をしてしまえば、
障がいを持った子が「社会で受け入れられるために」は、
障がいを持たない子の基準で作られているルールや活動に、
「頑張って」合わせていかねばならない。
親は子の現状がどうこうよりも、
いかに「合わせられるか」ということに頑張ってしまいやすいのではないだろうか。
昨年、私は、あるテレビドラマに出演したダウン症児を取り上げた番組を学生に見せた。
その子は、ものすごく頑張って、大役を成し遂げた。
小学校の入学に際しても、お母さんは、その子が周りから受け入れてもらえるようになるために
あらゆる努力を惜しまず、時には厳しくその子を叱責し、
なんとか「周り」についていけるようにと、子どもを頑張らせている。
学生達は、その子が見せるかわいらしい仕草に笑い、
その子の頑張りに感動しながらその番組を見ていた。
私はあえて、こう問いかけてみた。
ねぇ、私たちって、頑張ってる障がい児しか受け入れられないの?
障がいを持たない子が、嫌なことを断ったり、
我が儘を言ったり、時々何かさぼったりした時、
「子どもだから」とか「誰だって頑張れない時あるもんね」って思えても、
同じことを、障がい児がしたら、どう感じる?
同じように「子どもだから」とか「誰だって・・・」って思える?
なんで、あの子はダウン症というだけで、
他の子よりもたくさん我慢して、頑張らなくちゃいけないの?
なんで、お母さんはあんなにあの子を頑張らせてるの?
こう問いかけた時、それまでざわついていた100人近い教室が静まりかえった。
教室中にピーンと張りつめた空気が走るようだった。
多くの学生が、リアクションペーパーの中で、
「知らず知らずのうちに、『頑張っている障がい児』を期待していた自分がいた」と
正直に答えてくれ、
今年になってからも、
「あの時の先生の問いかけは衝撃的だった。
勝手に障がい児はこうあるべきだと多くの人が思っていた。
今でもそのことを時々友達と話し合っている」と言って来てくれた学生もいた。
そのお母さんにも、そんなに頑張らないで、と言ってあげたい。
けど、まずは私達の社会が変わって行かなくちゃ、と思うこのごろ。
それにしても、
「障がい児にも自立する権利があるのです」と言ったスタッフさん、素敵でした。
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「疑問」(家族になるまで)
ヘルシンキとコペンハーゲンで障がい児のための学校を見学した。
ヘルシンキの学校は、肢体不自由児を対象とした学校で、
療育プログラムのためのプールやサウナなど設備が整い、
「寄宿舎」(寮)もあり、遠方の子どもは寄宿舎に入ると説明を受けた。
コペンハーゲンの学校は、知的障がい、肢体不自由、重複障がいと、
さまざまなタイプの子ども達がいて、やはりとても大きな規模の学校だった。
そこで、日本人的発想というか、
北欧=福祉の最先端=ノーマライゼーションとまぁ
一方的に思いこんでいた私は、ちょっと不思議な感じを受けたのだ。
なんで、障がい児ばっかり全国的に集めて教育するの?って。
でも、その疑問はスタッフの説明を受けているうちになくなった。
まず、学校の規模としては大きいけれど、
クラスは一人一人の障がいの状況に応じて細かく小さなグループに分けられており、
その日の活動内容に応じても適宜グルーピングが異なるらしいことがわかった。
その意味では、文字どおりマンツーマンでの指導、
一人一人の能力や状況に応じた指導方針があって
それに応じてどのグループ活動に参加するのかが決められるようになっている。
初めにクラスありき、グループありきで分類されるのではない。
そして、この国の子ども達は、
「学校」という所属集団だけに頼るのではなく、
学校の時間が終わったら、
それぞれが「地域社会」の中にも所属する場所を持っている。
趣味の活動に参加する子ども、個人的な楽しみのために時間を使う子ども、
それぞれに必要な活動のためにボランティアを導入したりして、
障がいを持たない子どもが自分の意欲や関心に応じて地域活動に参加するのと同じように
障がいを持つ子どもにも参加の機会が保障され、地域もそれを受け入れているのだ。
(寄宿舎で生活している子ども達も、
学校が終わって寄宿舎に「帰宅」したあとに、
そうした地域活動に参加していくとのことだった。
週末は、親元に帰省する)
つまり、障がいを持っている子ども達は、
学校教育の面では、その障がいに応じた教育を受けるため、
健常児とは分離させられているけれども、
その子達の生活そのものは、地域社会の中で健常児との交流を持つ機会、
健常児と同じように活動に参加する機会がたくさんあるのだった。
日本の子ども達は、学校で過ごす時間以外(放課後や休日)でも、
学校での人間関係や所属集団を軸にした活動が中心になりがちで、
地元の学校に通っていない子(私立の小中学校とか)にとっては、
「○○野球チーム」とか、「△△サッカー教室」といったような
学校の枠を越えたメンバー募集をしているような活動であればともかく、
遊びとか地域の中の非定型的な活動には、なかなか参加しにくいのが現状だと思う。
(私自身、小学校から私立校に通っていたので
こうした地元からの疎外感は充分に感じている。
夏休みのラジオ体操とか・・・)
障がい児を養育している親御さんが、
「友達と同じ学校へ行かせたい」とこだわって
養護学校や障がい児学級に行くことへの抵抗が強いのは、
日本の子ども達の人間関係や活動範囲が、
あまりにも「学校中心」になりすぎているからなのかもしれない、と思ったりする。
また、デンマークでは、知的障がいを持つ人たちのためのグループホームを見学した。
グループホームとは言っても、
入所している人たちはそれぞれ1LDKの個室(というよりもワンルームマンションみたいな部屋)で
生活をし、真ん中に共有スペースがあって、そこにスタッフが常駐しているというスタイル。
個室はすべて専用の玄関があり、利用者が自分で鍵をかける。
自炊をしたい人は自分のキッチンで食事を作るし、
それが困難な人は、別棟の食堂(レストランみたい)に注文をして
そこで食事を食べる。
ホームのルールは、共有スペースの使用方法についての取り決めだけ。
つまり、生活している人たちはみな、何らかの障がいを抱えていて、
社会生活を送る上での援助を必要とはしているけれど、
「施設に入所」しているのではなく、「自分のおうちに住んでいる」感覚なのだ。
そして、その生活のための経費はすべて、
障がい者本人に支給される年金で充分に支払うことが出来るので、
親からの負担はないという。
そこで生活する人たちが皆、
18歳までは親元で暮らしていたと聞いて、これまた私はびっくりだったのだ。
これだけ在宅ケアの整った国で、なんで親元にいられなくなるのだろうか?と。
その疑問をスタッフにぶつけてみたところ、こんな答えが返ってきた。
この国では、18歳を過ぎたら親から独立するのが通常です。
大学に通う場合も、学費を自分で働いて出しています。
(もっとも大学進学率も20%未満ぐらいで
多くの子どもが高校卒業と同時に就職しているし
大学の学費は相当に安い)
障がいのない子ども達がみな、18歳で自立していくのですから、
障がいを持つ彼らにも、18歳になったら自立する権利があります。
親も自分の子どもが障がいを持っているからと言って、
ずっと責任を持ち続ける必要はないのです。
親が子の養育に果たす責任は18歳までです。
そして、
18歳になっても何らかの支援を受けなければ自立できない子どもには
社会がその生活に対して責任を持つのです。
グループホームに入所後の障がい者とその家族の関係は?と尋ねると、
「一緒に生活していた時よりも、お互いを客観的に見ることが出来るようになり、
親子関係がさらに良くなったケースの方がずっと多い」とのこと。
加えてスタッフは、
「子どもが18歳になったのに、
いつまでも子どもを手放そうとしない親の方に問題があり、援助が難しいのです」という。
「これなら、親も安心して死ねるわ」とっさにそんなことを思ってしまった。
なんだかんだ言っても、
まだまだ日本では親の頑張りが強く要求されているように思えてならない。
障がい児教育や、療育の場では、よく「障がい受容」という言葉を聞く。
障がい受容が困難な状態にある時、
その子の障がいに応じたプログラムや治療への参加を促しても、なかなか難しい。
「障がいは個性」と、言葉では言っていても、
その「個性」を受け入れる場がなければ、八方ふさがりになる。
あえて、大げさな言い方をしてしまえば、
障がいを持った子が「社会で受け入れられるために」は、
障がいを持たない子の基準で作られているルールや活動に、
「頑張って」合わせていかねばならない。
親は子の現状がどうこうよりも、
いかに「合わせられるか」ということに頑張ってしまいやすいのではないだろうか。
昨年、私は、あるテレビドラマに出演したダウン症児を取り上げた番組を学生に見せた。
その子は、ものすごく頑張って、大役を成し遂げた。
小学校の入学に際しても、お母さんは、その子が周りから受け入れてもらえるようになるために
あらゆる努力を惜しまず、時には厳しくその子を叱責し、
なんとか「周り」についていけるようにと、子どもを頑張らせている。
学生達は、その子が見せるかわいらしい仕草に笑い、
その子の頑張りに感動しながらその番組を見ていた。
私はあえて、こう問いかけてみた。
ねぇ、私たちって、頑張ってる障がい児しか受け入れられないの?
障がいを持たない子が、嫌なことを断ったり、
我が儘を言ったり、時々何かさぼったりした時、
「子どもだから」とか「誰だって頑張れない時あるもんね」って思えても、
同じことを、障がい児がしたら、どう感じる?
同じように「子どもだから」とか「誰だって・・・」って思える?
なんで、あの子はダウン症というだけで、
他の子よりもたくさん我慢して、頑張らなくちゃいけないの?
なんで、お母さんはあんなにあの子を頑張らせてるの?
こう問いかけた時、それまでざわついていた100人近い教室が静まりかえった。
教室中にピーンと張りつめた空気が走るようだった。
多くの学生が、リアクションペーパーの中で、
「知らず知らずのうちに、『頑張っている障がい児』を期待していた自分がいた」と
正直に答えてくれ、
今年になってからも、
「あの時の先生の問いかけは衝撃的だった。
勝手に障がい児はこうあるべきだと多くの人が思っていた。
今でもそのことを時々友達と話し合っている」と言って来てくれた学生もいた。
そのお母さんにも、そんなに頑張らないで、と言ってあげたい。
けど、まずは私達の社会が変わって行かなくちゃ、と思うこのごろ。
それにしても、
「障がい児にも自立する権利があるのです」と言ったスタッフさん、素敵でした。
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