くだらないコトにあえて熱くなろうじゃないか

青春プログレバンド「ナミダロジック」ギター山崎のブログ。

美味しんぼで学ぶ

2007年01月10日 12時04分53秒 | この日記が熱い
先日

「マンガで何かを学んだか?」

という議論がなされた。

なんと暇な議論をしているんだという突っ込みはおいといて、結論から申し上げるに僕はマンガから色んな事を学んでおります。

今回はそんな1エピソード




1月20日に「美味しんぼ」がTOKIOの松岡くん主演で特番でドラマ化されるらしい。原作のいくつかのエピソードをつなげた内容のようなのだが、その中で使われている「鍋対決」のエピソードを選んだセンスを評価したいです。

(ネタばれ)

相変わらず究極のメニューと至高のメニューで対決するわけですが、今回は「鍋」で勝負となります。

ところが鍋と言っても地方によって様々なメニューがあるどころか各家庭においても各々の拘りがあるのが鍋というものです。下手な鍋でもだして「これが究極だ」といっても、逆に反感を買ってしまい万人が納得するものを作るのは難しいものです。

そこで山岡は希代の茶人・ノ貫(へちかん)のもとでもてなしの心を学びます。

へちかんが街角でホームレスにも分け隔てなくお茶を出す姿をみて、真のもてなしとは堅苦しいものではなく、自然体でその人その人がくつろげるような空間を作る事だと学びます。

そこで究極のメニュー側が用意したのが「よろず鍋」

古今東西様々な食材を用意し、自分たちの好きなように自由に食べて美味しい鍋です。

これならばすべての人々が喧嘩せず納得できる鍋であると考えて勝利を確信しますが・・・



対する海原雄山の至高のメニューは「至高の五大鍋」

すなわちスッポン鍋、フグチリ、アワビのしゃぶしゃぶ、ハモとマツタケの鍋、カニ鍋の五種類の鍋

最高の食材で最高の味をもつ五種類の鍋こそが最高の鍋と称します。

たしかに下手な鍋を出せばこれぞ究極・至高とは言えないが、これらの鍋はすでに次元の違う鍋。レベルの違うものの前では自分たちの拘りなど吹き飛んで素直に味に感動するものなのです。

ここでへちかんの言葉が。

「ほうほうほう。ま、簡単に言えば私は海原さんの料理が好きだな。山岡君たちの料理よりずっと素直だよ」

自然体のくつろぎを重視した山岡たちはあんな高価な材料をつかった鍋が真のもてなしなのかと反論します。

「ほうほうほう。仏の心の前ではマツタケもシイタケも松葉ガニも豚のひき肉も同じ。高い安いは市場の原理。お二人はもてなす心と相手に気に入られようと媚を売る気持ちを取り違えたのではないかな。あれこれとりそろえてあるが、もてなされるほうはうんざりする。それはお二人の心が見えないからじゃ。一方、海原さんの料理は単純豪快。これ以上の物はない、美味しい鍋料理を食べさせてやりたいというその心がみなぎっている。自分の裸の心まで広々と開いてそこに招いている。黄金の茶室がしみじみ落ち着いて素朴に見えるもてなしもあれば、わらぶき屋根の草庵が鼻持ちならぬ虚飾と媚に満ちているもてなしもあるぞよ。」

思えばノ貫のもてなしの水も米もお茶もノ貫の手に入る最高のものだった。




例えばこれを音楽にあてはめてみてはどうでしょう?

万人に受け入れられるように媚びへつらって作られた音楽は一見聴きやすく、心地よく感じるかもしれませんが中身が無く、その姿勢にうんざりします。

かといって自分勝手な下手な(上手い下手じゃなくて)音楽を聴かされてもなっとくはできないでしょうし、反感も買うでしょう。

今もてる最高の情熱を傾けて「どうだ、この曲は最高だろう。ぜひ聴いてみてくれ!」という紛れも無く自己の主張のある音楽。

音楽にかける情熱とそれを裏付ける努力と技術とセンス。そして自己主張のある音楽はとてもすばらしいと思うのです。

表現者たるもの、いったい何を表現したかったのか

聴いている人、見ている人に何を感じてもらいたかったのか

それを忘れてはならないと思います。

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