エミール・ガボリオ ライブラリ

ホームズに先立ち、「推理する探偵」を生み出した19世紀フランスの作家ガボリオの未邦訳作品をフランス語から翻訳しています。

第一部  第三章 16

2017-03-20 11:16:42 | 「ファイルナンバー1...
物語の中では、このようなヒロインは常に変わらぬ心を持ち続けるものだが、現実には、そのような奇跡はまず起こらない。ヴァランティーヌの心の中で、長い間ガストンは憧れの英雄のように燦然と光を放つ存在であったが、時という名前の霧が少しずつ偶像の光を鈍らせ、今では彼女の心の底に横たわる冷たい遺骨にすぎなくなっていた。
それでも、悶々と眠れぬ一夜を過ごした翌朝、苦痛に顔を蒼ざめさせながらも、彼女は告白することに殆ど心を決めていた。しかし夜になり、アンドレ・フォヴェルを前にし、母親の目に威嚇と哀願が代わる代わる現れるのを見ると、彼女は勇気を出すことが出来なかった。それでもまだ彼女は自分に言い聞かせていた。そのうちに話すわ、と。しかしこうも思っていた。明日になったら、別の日に、もっと後で。
これらの葛藤が伯爵夫人の目を逃れることはなかったが、彼女はもう殆ど心配していなかった。年を取った彼女はおそらく経験から知っていたのであろう。辛く困難な仕事を先延ばしする人間は、敗北しているのであり、達成することは決してないであろうことを。
おそらくヴァランティーヌは、自分の置かれた状況への恐怖に言い訳を見出していたのであろう。もしかしたら彼女自身気づかぬうちに、根拠のない希望が心の内で蠢いていたのかもしれない。結婚すれば、たとえそれが不幸な結婚であっても、何らかの変化をもたらすもの、新しい生活、今の耐え難い苦痛を和らげてくれるものになる、という予想が立つ。
時折、何事にも無知な彼女はこう考えることもあった。時が経ち、親密さが増せば、あの恐ろしい告白が殆ど自然に出来るかもしれず、アンドレは彼女を許してくれ、彼女との結婚を予定通り行うことになるのではないか。何となれば彼は彼女を愛しているから、と。
アンドレは本当にヴァランティーヌを愛しており、彼女もそれに気づかずにはいられなかった。確かに、それはガストンの恐ろしいような、恍惚とした、酔いしれるような情熱的な愛情とは違っており、穏やかで思慮深く、おそらくより深く、まっとうで持続性のある感情に根差したものであった。
ヴァランティーヌはゆっくりアンドレと会うことに慣れて行き、いつも自分に思いやりのある注意を注いでくれ、自分の気持ちに先立って気配りしてくれることへの、今まで知らなかった喜びを感じて驚いた。彼女はまだアンドレを愛してはいなかったが、彼と離れているのは苦しく感じた。
青年技師アンドレがヴァランティーヌに求愛するのを許されていたこの間中の伯爵夫人の振る舞いは完璧だった。したたかな計算に基づき、彼女は突然うるさく言うのをやめた。異議を差し挟むこともやめ、涙を浮かべながらヴァランティーヌの決心をとやかく言うことはもうしない、と断言した。しかし貧乏は嘆いてみせた。前日パンも十分に食べられなかったかのように泣き言を言った。執達吏から執拗に催促が来るようにきちんと計算していた。差し押さえ状や執達吏送達状がラ・ヴェルブリーに雨のように降り注いだ。これら証紙を貼られた文書をすべてヴァランティーヌに見せながら、彼女はこう言った。
「お前の結婚の前に、私たちがこの祖先から受け継いだ城から追い出されないよう、神様に祈りましょう、愛する娘や」
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