超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

着替えを盗撮してサイトにアップ、コンドームを上履きに… 先生も親も気がつかない「最新いじめ事情」

2008-04-23 05:27:46 | 週刊誌から
 ジャーナリスト 新郷由起

「次に受け持つクラスでいじめがないのを願うばかりです」(神奈川の中学教師)
 進級、新入学のシーズン、教師たちは新学年でいじめが起きないことを天にも祈る心持ちで迎えるという。
 近年のいじめは自殺や不登校まで至ってから、初めて発覚するケースが少なくない。この種の事件報道では毎回、「自殺まで気付けなかった」教師や親の怠慢が非難されるが、現代のいじめは従来と質も量も異なる。大人を欺く手段に長け、集団で巧妙かつ周到に行われる実態についてどれだけご存知だろうか。
     ◆
「私が万引きして捕まるのと、自殺してお葬式を出すのと、どっちが良かった?」 
 埼玉の中に女子が万引きで補導され、呼び出された両親が長時間詰問して、やっと聞けたのが先の言葉だ。
 母親(41)が当時を振り返る。
「いじめられていたなんて、まったく気付きませんでした。毎朝お友達が迎えに来るし、休日もメールや電話で誘われては出掛けていた。皆で写っているプリクラもあって、友達の多い、楽しい学校生活だと思っていた。まさか『連行』されていたなんて……」
 最初は「KY」から始まった。男子の一発逆に大爆笑してしばらく笑いが止まらなかった彼女は、直後から悲劇に見舞われる。
「あのギャグであんなに笑うなんて、頭おかしくない?」「ってか、空気読めって感じ?」
 主要女子グループに「KYの子」として“ターゲット”にされるや、「ムカつく」と、ことごとく邪険に扱われ出し、その後一切の存在を抹殺された。わずかでもかばおうとした子は、「身代わりになる?」の一言に萎縮して二度と近づかない。
 体育の授業ではペアが組めない。理科や家庭科の汎作りでも名前がない。プリントも配られず、席にいても“いない”風に机の上を横断される。あまりの辛さに耐え兼ねた頃、「友達になりたかったら、一緒に万引きしよう」と誘われた。
 「皆でやるから」と背中を押されてヘアピン一個を断腸の思いで万引きすると、「マジでやっちゃったの?」「怖ーい! 泥棒じゃん?」「どこまでKYなの!」とドン引きされ、「犯罪者だとバラされたくなかったら……」と、さらなる万引きの強制や小遣いの巻き上げへと続き、所持金が足りないと携帯サイトから生下着を売らされた。
 九ヵ月もの間、親にも先生にも打ち明けなかった彼女は、「『裏切ったら死んでお詫びします』という紙にサインさせられていた。何度も自殺しようとしたけど出来なくて、生きてるしかないなら、何でもやらなくちゃと思った」と言う。そのサインの後、ご褒美と周囲へのカモフラージュ用のプリクラ記念撮影では、「これで仲間になれた気がして嬉しかった」(同前)と話す。逃げ出さないようにスカートを脱がされ、笑顔すら強要されたものでも、だ。
    ◆
「長くいじめを受けている当事者は、既に正常な判断が下せる精神状態にはないことを理解すべきです」と指摘するのは、『いじめに負けない心理学』の著作を持つ、ハーヴァード大学準研究員の加藤諦三氏だ。
「現代のいじめは『感情的恐喝』が主流で、言いなりにしないと罪の意識を持つように感情操作して脅す。直に刃物を突き付けられての恐怖と脅しは分かりやすいが、時間をかけていって傷槌を抜くように追い詰める精神的恐怖は目に見えないものだけに厄介で、想像を絶するほど強力なのです」
 近年のいじめはターゲットを内面から崩壊させることに終始し、身体に直接危害を加える暴力行為は最小限に止められる。それも発覚を防ぐため、衣服から出る目につきやすい箇所には決して外傷をつけない。」
 水泳授業のない時期なら、男子の暴力はみぞおちや背中に集中し、女子ならスカートで隠れる太ももの内側や足の付け根、しり部が狙われ、髪で隠れた後頭部の頭皮を安全ピンで刺す実例もある。
 ただし、身体に痕を残すような証拠が明確な“幼稚的手口”は、露見と責任追及を恐れる昨今のいじめでは得策とされず、肉体よりは専ら精神を傷つけることが優先される。
 多感な成長期の人格形成時に、人としての尊厳や存在価値を根こそぎ否定されるダメージは計り知れない。
 大阪の中一男子は、夏休み明けから「人間と思い込んでる奴がいる」「人間じゃないのに学校に来てる」とクラス中で“異生物扱い”が始まった。二ヵ月も過ぎた頃、本人の知らないうちに持ち物が一円スタートのネットオークションに出品されるが、およそ値のつく品物ではなく落札者は出ない。すると「人間のものじゃないから買い手もつかない」「一円の価値もない奴」と蔑まれ、「一円未満は生きてる価値無し」「ドロンして」「溶けて消えちゃって」と、来る日も来る日も“消える”ことを強制された。
 密かに一円玉募金箱まで用意され、年末の朝に登校すると「これで消えて」と記された紙とともに、椅子と机の上に数百枚もの一円玉が山積みにされていた。
 神奈川の小六男子は半年以上、連日連夜「死ね」コールを受けた。携帯メールには、いくらアドレスを変えても執拗に「死ね」の文字が多数の不明送信者から送られて来る。クラスメイトが利用するネットの掲示板では、「いつ死ぬのか」といった書込みで盛り上がり、自殺推定時期を賭ける枠まで設けられた。
 靴箱には、「DIE」のステッカーが貼られ、自殺記事の切り抜きや本、墓地のチラシなどが机の中やロッカーに毎日詰め込まれる。ほかにも棺やドクロ、墓石など、死を連想させるものが次々と形を変えて二十四時間提供され、自殺を強要された。
 両者に共通するのは指一本触れられずに、神経症まで追い詰められた事実だ。
 小学校高学年以上の女子になると、羞恥心を巧みに利用した手口が特化して横行する。辱めによる絶大なダメージ効果と、思春期の少女が他人にはとても言葉に出来ない内容なのが発覚を防ぎ、いじめる側には一挙両得となる。
 東京の中二女子は登校早々に鞄の中から生理用品を奪われた。いじめグループの女子は休み時間中も談笑を装って教室に“軟禁”し、三時間目には彼女の制服のスカートに血液が滲んだのを見つけて「やだー、ハズーい(恥ずかしい)!」と囃し立てた。男子一同はもちろん、男性教師にも注目され、保健室でも泣きじゃくるのが精一杯。残りの授業を一人だけジャージ姿で受ける惨めさに加え、わざわざ名指しで冷やかしに来る他クラスの生徒まで現れる。先生一同にも知れ渡り「明日は忘れ物のないように」とたしなめられ、全てが彼女の過失としてあざ笑われた。
 別の中二女子(東京)は水泳の授業中、慕っていた男子の机の中に下着を隠され、茨城の中一女子に至っては、授業後の体操着を「(服の)中身もOKです」と添えて携帯サイトから売りに出されたため、たちまち<援交女>と誹謗中傷の嵐に晒された。着替えを盗撮されて「犯してください」と実名や住所、電話番号をサイトにアップされた中三女子(東京)も実在する。
 東京都児童相談センターの心理士で、『教室の悪魔』の著者・山脇由貴子氏は「携帯電話とインターネットの普及がいじめの質を変えた」と言及する。
「情報操作による手法が登場したことで、相手の性別、体格や腕力、知力はおろか、距離も時間も無関係でダイレクトに心理攻撃ができるようになったのです」
「死ね」「キモい」「ウザい」などの絶え間ない言葉の暴力もさることながら、壮絶な威力を発揮するのは携帯カメラの存在だ。
 屈辱的行為は「その場の出来事」だけに終わらず、映像として鮮明に残され、半永久的に残ってしまう。さらに恐ろしいことに、辱められた画像は一斉に、不特定多数の他人へと一瞬で大量に出回るのだ。
 学校のトイレで制服を脱がされ、下着姿で撮られた写真に「誰か私を買ってください♥」と全国へ向けて発信された中三女子の恥辱はどうだろう。
 陰毛を剃られ、自慰行為を強要された裸の写真を、好きな女生徒とクラス中の女子へ送り付けられた、中二男子(岐阜)の無念さはどうだろう。
 時間を追って、二次、三次とダメージを拡充させていくのが現代の“いじめ”の特徴のひとつで、まるで濡れた髪に滲むインクのようにじわじわと広がっていつまでも汚点として残る。
 それでも携帯やネットの活用度が低く、性意識が覚醒する前の小学校低学年では、まだ手法も内容も稚拙で露呈しやすい。
 二十四年にわたって多くのいじめ問題を解決してきた千葉県の元小学校校長は、「なかでも『靴隠し』は確実なサイン」と話す。
「注意すべきはほぼ九割以上、隠されたほうがいじめっ子であること。靴隠しは単独でもっとも確実に行える仕返しで、いじめられている子の“せめてもの抵抗”的反抗が多いのです」
 ただし、糸口を見つけて追求しても、
「いじめっ子はまず『遊び』『ふざけ』としらを切る。常習犯はなかなか本音を出さず、ウソにも慣れているので目も泳ぎません。このため、全員を一人ずつ個別に呼んで穏やかに話を聞く。子供はしゃべらせるほどに必ず矛盾が出るので、その綻びを根気よく見つけるしかないのです」
 しかし、高学年になるにつれ、教師より“一枚上手”な強者も育って行く。
「いじめてるときって、自分が生きてる感じがしてゾグゾクする」と話す小六女子(神奈川)は、いじめで味わえる独特の“高揚感”は、その他の何からも得られないと告白し、「先生は一番チョロイ(=侮り易い)よ」と笑う。曰く、「先生が生徒から『一番聞きたい言葉』を並べれば、すぐに安心して鵜呑みにするから」。
 思いやりの言葉、人を気遣う文句、助け合いのフレーズは、代表格の三本柱と言い、「やり過ぎて(いじめてる子が)学校を休んでも、『どうしたのかな?』『プリント持って行ってあげる』『女の子同士は助け合わなきゃ』みたいな“友達思い”な風にしてればまず大丈夫」
 また、「先生は最初に泣いた方の味方になる」と言い切る中二女子(東京)は、「先生たちは指導者ぶりたいだけ。『疑うなんて酷い』と涙目で見つめ返すだけで十分。よく『命の大切さ』とか言うけど、そんなの分からなくていいし、知らなくていいと思う。だって、死んだからって何なの?」とあっけらかんと話す。
 では、どんな子供が何の理由でいじめられるのか。
 まず「特異性のある子がいじめられる」「一芸に秀でている者はいじめられない」といった、従来の定説は現代では無効だ。肌の色や親の職業への偏見などから発するケースは稀で、未熟な体格、スポーツや勉強が不得手といった弱者が常に狙われる事実もなく、逆に何か一つ抜きん出ていると妬みからターゲットに転じる場合もある。運動会でヒーローになるようなスポーツ万能少年も、一目置かれるよりは「目立ってウザイ」と標的にされる時代なのだ。
 さらに、「いじめられる理由を自分で解決しろ」というのもかなり無茶な相談だ。冒頭の少女も「ただ笑っただけ」だったように、昨今のいじめの理由は難癖、言い掛かりでしかなく、「携帯の着信音が気に入らない」「持ち物のセンスが悪い」など、何でも“理由”にしてしまう。「生きてるのがムカつく」に至っては、どう対処しろというのか。
「大人はとかく『原因探し』をしたがります。原因さえ取り除けばいじめはなくなると思い込んでいるが、そもそも原因も理由もないため、その発想自体が意味を成さない」(前出・山脇氏) 
 少子化の実態も状況の悪化に拍車を掛ける。一クラス二十~三十余名で、一学年一~二クラスでは、「クラス替え」でも逃げ場がなく、たとえば小学生のときにいったんいじめられれば途中で事態が改善されても、卒業、あるいは中学進学後もずっと同じメンツと特異な関係性を引きずらざるを得ない。
 いつ誰でも、何らかの拍子でターゲットになり得る状況下で、「狙われたら最後」の現実に直面しているがゆえに、正義感のある、または中立でありたい子供も、己の保身のためにはやむなくいじめる側に加担する現実がある。教師を含む大人は「誰か一人が立ち向かえば事態は好転する」と安易に考えがちだが、子供社会での生真面目さは時として反感を買い、どっちつかずの曖昧さは次のターゲットになる確率を増すだけだ。
 現在、「クラスで『死ね』コールを受けてる男子がいる」と話す埼玉の小六女子は、「先生たちはキレイごとばっかり」と嘆息する。
「『“やめろ”と言う勇気が大事』とか言うけど、そんなことしたら次は自分がやられるだけ。教室に『みんな仲良く』の標語があるけど、多くのコと仲良くやっていくためには一人を犠牲にしなくちゃならない」
 本心では「関わりたくない」ものの、仲間の協定意識からターゲットの男子へ「『死ね』コールをすることもある」と明かす彼女に、「もし本当にその子が死んじゃったらどう思う?」と筆者が質したところ、「自分じゃなくて良かったと思う」と即答し、小首を傾げて「次は誰になるんだろう、と考える」と続けた。
 また、「女子の間でハブ(仲間外れ)にされているコがいる」という中三男子(千葉)も「可哀想だとは思うけど、とばっちりを受けたくない」と、シカトや隠ぺいの一員に加わっていると話す。
「以前に全校集会で『いじめはカッコ悪い」と書かれたプリントが配られたけど、こんな理屈で説得できると思っているのが情けない。そんなレベルの先生へ密告なんかしたら、見当違いな対処をされてロクでもないことになるだけ。「いじめはいけない」って言われても、実際にあるんだから仕方ない」
 ここに「中立者不在で唯一人を集団で攻撃する」現代のいじめの構造が成り立ち、「皆やってること」と麻痺した感覚では、概していじめをイベントとして楽しむ趣向まで生まれてしまう。さらにまずいことに、日々持て余しているストレスと情熱、金銭的余裕を、一部の子供たちはいじめに注ぎ込んで熱中する。
 朝、教室に来ると、机上に花の飾られた花瓶が置かれている。ターゲットを「死人」に見立てるいじめの手口だが、小道具の造花や花瓶、白黒の布地、写真立て、香典袋一式は、わざわざ百円ショップで買い揃えられたものだ。見張り役が先生の来るのを知らせれば、たちまち皆が各々の小道具を分散して隠す。一式をまとめて隠すよりはるかに発覚しにくく、先生は一ヵ月以上に及ぶ毎朝の“慣習”に気づかない。
 七夕の学校行事では、「○○が死にますように」とお金をかけて豪華にデコレーションされた短冊が先生不在の時だけ密かに吊るされる。中学生なら、水泳なら、授業の後に下着を淫らな物にすり替えられる。「汚い」「臭い」と、机の中や鞄に大量の抗菌剤や消臭剤を詰め込まれる。乳酸菌飲料を入れて“使用済み”に見立てたコンドームが上履きの中に入れられる……等、効果を上げるための“仕掛け”には手間も出費も厭わない。
 主犯筋はいじめを“生き甲斐”として知恵を絞り、策を巡らす。それに追従した集団が一丸となって攻め入るのだから、心身未熟な少年少女が一人で非力を奮い立たせても、到底太刀打ちできるものではない。
 前出の加藤氏が言う。
「もともといじめられる子は心の優しい子が多く、『仲良くなろう』と思って対応するが、いじめる側ははなから相手を支配する目的しかないため、両者が健全な関係を築けるはずがないのです。しかも今のいじめは非社会的で、最低限の定義すら崩れているため、限度もタブーもなく、罪悪感もないから何でもできてしまう』
 弱い子が狙われ、弱いから自殺するのではなく、立ち向う気力や“間”も与えないほど多勢が、執拗に心理的に追い込んで生気を抜いて行く。ターゲットの心を蝕ませ、徹底的に孤立化し、慰み者にして、最終的には生きる力を奪って自死へ追いやるのが実状だ。
 先の山脇氏が断言する。
「『いじめに立ち向かえ』と鼓舞する大人でも、自分を殺すために大勢が集団で一斉に襲って来たら、誰でもまず逃げるでしょう。今のいじめは、本人の努力によって乗り越えられるものではないし、立ち向かうだけの価値も意味も無いもの。たとえ克服しても何も得られない『地獄の心理ゲーム』でしかないのです」
「たかが子供のいじめ」と軽視するには現実はあまりにも酷く、闇は深い。

週刊文春08年4月10日号より
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