タミアのおもしろ日記

食文化・食育関係のお役立ちの話題や、食にまつわるデマ、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説するブログです!

西日本では昔から納豆を食べている?

2016年10月16日 | Weblog

ある雑誌に「よく聞かれる『西日本の人は昔は納豆を食べてなかった』なんて通説はうそ。ちゃんと記録に、西日本でも古くから納豆を食べていたと書いてあります。」という趣旨の記事が載っていました。その記録というのがいつ頃のなんという文献なのか一切書いてないので、なんともモゾモゾした気持ちになるのですが、この記事、糸引き納豆と別の納豆を混同している可能性が高いのです。

今日納豆と言えば、多くの読者が想像するのは「健康に良い」と盛んに宣伝されている糸引き納豆です。確かに西日本の熊本には糸引き納豆を食べる文化があるのですが、他の西日本各県では糸引き納豆はめったに食べませんでした。例えば、1987年に発行された山口米子先生の「日本の東西「食」気質」という研究書でも、このことは指摘されています。同書p60~63によると、関西では糸引き納豆は第二次世界大戦後に広まったそうです。ちなみにこの本によると、熊本で例外的に糸引き納豆を食べていた理由については、加藤清正の逸話にちなむと伝承されているそうです。

熊本以外の西日本では、糸引き納豆は戦後広まった「新しい食品」ですが、その代わり、大徳寺納豆などの糸を引かないしょっぱい納豆や、砂糖で煮込んで作る甘納豆などが古くから存在しました。そして、ここが重要なのですが、西日本では納豆というと暗黙の内に、こうした糸を引かない納豆のことを指すことがしばしばあったのです。

私が子どもの時、テレビのバラエティ番組で、ある人気タレントさんのしくじり談が放送されていましたが、確かこの様な内容です。そのタレントさんが駆け出しだった昭和40年代ごろ、ロケで四国のある県の旅館に泊まり、「僕は朝ご飯に納豆がないと食が進まないので、納豆を必ずかけてください。」と仲居さんに頼んだら、仲居さんは「本当に納豆をかけてよろしいのですか?」と怪訝な様子になりました。翌朝、朝食に出たのは甘納豆がけの白いご飯。ショックを受けたタレントさんが「どうして甘納豆?」と仲居さんに尋ねると、逆に仲居さんの方が不思議がって「当地では納豆といえばこれのことです。これを食べたいのでしょう?」と答えたのでした。

というわけで、冒頭の雑誌の話題に戻るのですが、原稿執筆者が西日本のどの地方の文献を読んだのかは定かでないのですが、熊本の記録を読んで西日本全体がそうだったと勘違いしたのか、そうでなければおそらくその文献での納豆とは、大徳寺納豆や甘納豆などだったのでしょう。

まあ、現代人が古い文献を読む時にはこの手のミスはよくあるのです。いつかそのうち、有名な和食研究者の同じパターンの失敗談もご紹介したいと思いますが、和食文化を研究する際には細心の注意が必要だと痛感し、自戒を込めて書きました。

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3 コメント

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Unknown (摂津国人)
2016-11-28 15:11:40
 こんにちは、おじゃまいたします。
   
 「西日本」の範囲はわかりませんが関西の古い糸引き納豆の文献としては上方と江戸の風俗を描いた「守貞謾稿(近世風俗志)」(1850年代成立)に「納豆売り 大豆を煮て室に一夜して これを売る 昔は冬のみ 近年夏もこれを売り巡る 汁に煮あるひは醤油をかけてこれを 食す 京坂には自製するのみ 店売りもこれなきか けだし寺納豆とは異なるなり」とあり当時の京阪では自製して食べられたとし、与謝蕪村の俳句に「朝霜や室の揚屋の納豆汁(安永4年・1775年)」と播州室津で納豆汁があったとし、1690年上方で出版された風俗事典「人倫訓蒙図彙」には京都で「叩納豆売り」がいたとし、16世紀後半の千利休に茶会の記録「利休百会記」の懐石に納豆汁が7回出てきます。
 14世紀に書かれ最古の糸引き納豆文献とされる「精進魚類物語」も京の貴族が書いたとされています。(参考「納豆の起源」「謎のアジア納豆」)
    
 糸引き納豆は江戸時代までは多くは納豆汁で食べられそれは関西にも有り、明治以降関西では廃れたと考えられます。
     
 それとついでに「一汁三菜」についてですが「一汁三菜」は室町時代に成立した本膳料理の「一の膳(又は本膳)」の基本的な構成とされ、そこから「二の膳」「三の膳」と増やされ「二汁五菜」「三汁七菜」などと格の高いものになるとされます。
 「一汁三菜」は「正式なお膳」の最低限の構成要素とされたといえます。
 利休は簡素な「懐石」を目指したので「一汁三菜」を懐石=最低限の料理構成としたとかんがえられます。
 現実に戦後までの庶民が日常的に「一汁三菜」を食べることはなく、ある程度豊かな人のみができたというのも事実です。江戸時代には公儀などから百姓などが「一汁三菜」を食べるのは奢侈であると禁令も出たようです。
  
 朝鮮王朝でも「正式」な配膳は行われ「飯床(パンサン)」といいます。「一汁三菜」は「三楪飯床(サムチョプパンサン)」と呼ばれます。「韓国観光公社http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/FO/FO_JA_3_1_8_3.jsp」「私を磨くテーブルマナー[http://www.table-manners.org/korean/」(参考「韓国料理文化史」)
 極東アジアでは「一汁三菜」が最低限の「正しい」膳であるとする認識があったようです。
 現代日本の「一汁三菜」論は儀礼的な「正しさ」と日常食の伝統、栄養学的な「正しさ」を混同したものなのでしょう。
   
 長文、失礼しました。
ありがとうございます。 (タミア)
2016-12-04 22:08:50
摂津国人様、ありがとうございます。大変勉強になるご指摘をいただきました。

納豆に関していえば、私の引いた参考文献は明治時代以降の食文化にフォーカスしていて、それ以前の記録について不足があったというご指摘ですね。ご指摘に感謝しております。また、例の雑誌で「西日本では・・・」と書いてあったこと自体が問題だった、というご指摘かと存じます。ご指摘の通り西日本は広くて、ひょっとすれば例えば四国では江戸時代も全く糸引き納豆を食べてなかったのかも知れません。

糸引き納豆の発酵には30度で約1日半かかけてさらに低温で1日寝かせる必要があります。ご指摘の文献に書いてある納豆は「室に一夜する」のみなので、おそらく糸はほとんどないと思われます。寺納豆とは異なるとのことですが、今日の糸引き納豆とも異なる食品と思われます。

江戸より前の記録にしても納豆と書いてあるだけで、今日の糸引き納豆と同じかどうかは分かりませんので、色々と考察するととても興味深い話です。

参考文献として紹介してくださった「謎のアジア納豆」(高野秀行先生著)によると、平安時代に藤原明衡氏が納豆という文字を記録に残したものの、それが糸引き納豆か、人を引かない塩辛納豆かは分からないとされています。

同著を読むと、室町時代に京都の公家等が糸引き納豆を食べたことは確定されますが、そのほかの古文献にある納豆については、高野先生は糸引きだと考えているようですが、そう判断した根拠は示されてませんので、なんとも言えないですね。例えば千利休が好んだ納豆や、蕪村が詠んだ室津の納豆について、この本だけでは糸引き納豆とは確定出来ません。いつか機会があれば原典に当たりたいと思います。江戸時代に京阪の庶民が食べていた納豆については先述の通り製造法が今日と違うことから、今日の私達が食べている糸引き納豆とは違う食品だったと考えるべきでしょう。

いずれにせよ貴重なご指摘に感謝しております。

また、一汁三菜についても詳しい情報をありがとうございます。
ご指摘通り、近年の「和食」についての原論空間は、儀礼面と日常食と栄養面をまぜこぜに議論していますね。全く同感です。

「和食」と異なり、宴会などのもてなし料理でありハレの料理である「日本料理」においては、ご指摘の通り一の膳、二の膳、三の膳がありましたが、京都の老舗で京風の日本料理を究めた「つきじ田村」主、田村平治先生のご著書「日本料理」(女性栄養大出版部昭和37年 発行)においても、特に一の膳の一汁三菜が儀礼上の基本であるとは書いてございません。田村先生はp207において、「土地土地の郷土料理こそ本当の日本料理」と述べておられます。言うまでも無く、日本は各土地において独自のおもてなし料理やお祝いの料理を生み出して参りました。それは一汁三菜という形式にはとどまりません。

一の膳が儀礼上基本であると唱えた流派もあったかもしれませんが、あの食文化研究の大家の熊倉功夫先生でさえも、その証拠を見つけることは出来なかったそうです。かりに、一汁三菜が基本だと唱える記録があったとしても、それはその流派の中の話ですので、それをもって全国統一ルールと捉えることは、各地に栄えた日本料理の文化に軽重をつけることとなります。

「和食」においては、さらに複雑になります。「和食」という言葉さえ、明治以降に西洋文化の流入に対抗して創作された語句ですし、その語の成立過程において、和食の定義は各人各様に唱えられたことから、和食の定義に確固たる定説はない、というのが2,3年前までの常識でした。ただ、多くの人の論調で一致していたのは、多様性に富み、日常食(ケの食)を含む概念であるという点です。

それが1,2年前から急に「和食の基本は一汁三菜」と言われ始め、各地の多様な食文化が否定されかねない風潮が生じたため、この奇妙な現象についてブログでご紹介していた次第です。
今回コメントをいただき、大変参考になり、励みになりました。これからも研鑽して、読者の方々の御参考になるような情報を提供していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
Unknown (摂津国人)
2016-12-06 01:03:46
 こんばんは
 「守貞謾稿」は作者が江戸に移住してから京阪と江戸の風俗について書いたものです。
 この文は前半が江戸の納豆の説明、後段の「京坂には」以降が京阪の納豆を書いたものです、前半に「これを売る」とあり京阪については「自製するのみ 店売りもこれなきか」とあり対比させて描かれています。もし「大豆を煮て室に一夜して」を「糸引き納豆とも異なる食品」とされるなら近世江戸の「納豆」は現在の糸引き納豆と「異なる食品」だといわれるのでしょうか。だとするとそれは誤読されていると思います。この文では江戸の納豆と京阪の納豆は同じものだとしていると読めます。
 製法が正確に書かれているわけではないかもしれませんがおそらくどちらも糸引き納豆でしょう
   
 近世の関西で糸引き納豆が食べられていたとするのは他にも「石塚修 納豆のはなし」や「石毛直道 日本の食文化史――旧石器時代から現代まで」でも書かれており後者によると現在の京都北部では現代にいたるまで自家製糸引き納豆を作っていると現地調査で確認されているとあります(参考http://blog.livedoor.jp/kyotomode/archives/51657674.html )。
 関西で糸引き納豆が食べられていたというのは食文化史的にはすでに定説といえると思います。
   
 「一汁三菜」については「江原恵 江戸料理史・考」67ページに「寛永十七(1640)年1月」に幕府は旗本に対して「今後客に馳走するときには一汁三菜まで、酒は三杯以上飲まないこと」と「禁制を布告」したとしています。
  
 国立国会図書館デジタルコレクションによると一汁三菜の例は「大正5年 立志の経路活ける奮闘http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953480/36?viewMode=」と「昭和3年 礼儀作法一切の心得 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456958/66?viewMode=」にあり、前者は貴人の最低限の膳、後者は正式の饗宴の最低限の単位として描かれそのころにも最低限の正式な膳といているように読めます。
 現実の一般の饗宴の膳では「一汁三菜」が常に行われていたわけではないでしょうが「一汁三菜」の概念はあったといえるでしょう。
   
 それと上のコメントで(参考「韓国料理文化史」)と書きましたが(参考「韓国の食生活文化の歴史」)の誤記です。すみません。

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