へたくそなスペイン語で~サラマンカ・レオンfeat西野カナ

へたなスペイン語で半年間留学。くだらないことや、スペインあるある、スペイン視点からの経済。今後のスペイン留学前にはぜひ。

「風立ちぬ」をみて。

2013年09月09日 00時50分01秒 | 日記

この間は、「風立ちぬ」を見てきました。

 

そして、久しぶりのデートという感じで、年上社会人お姉さんといっしょに行ってきました。

しかし、うまく消化できていないので、もう一度行こうと思っています。

とりあえず、今思っていることをメモ書き風に書いてみようと思います。

 

「『風立ちぬ』をみて。」

 

宮崎駿監督が引退を正式に表明したことで、同監督の最後のアニメ作品と言えるであろうこの「風立ちぬ」。率直な感想をいえば、「わからない」という思いが残った。 今回は、この「わからなさ」をキーワードに僕なりに「風立ちぬ」にアプローチしてみたい。

 

まずはこの映画の概要から(ネタバレと、基礎情報を知っている方は飛ばしてください)。 

この作品は、堀辰雄の『風立ちぬ』、『菜穂子』と、日本の第二次大戦において重要な役割を果たした零戦の設計士である堀越二郎の二つの物語を組み合わせたものである。

戦間期の日本を描いた作品でもあり、宮崎監督は、「同じ時代が来た」ことをこの作品を作り上げることになったきっかけとも話している。 また、原作はとある雑誌に連載していた監督自身の漫画である。このマンガを見たプロデューサの鈴木敏夫が映画化を提案。

エンディングには、松任谷由美の「ひこうき雲」を採用。

 

本論(メモ的なもの)

 

私はこの作品を見終わってまずはじめに、「おそろしい」映画だな、と感じた。 この映画には、宮崎監督の強い悪意が見受けられた。 この点については後述することになるが、同時に本映画についての解釈については多様を極めるだろうなと思った。 つまり、この映画は、「試写会で映画を見終わったあとに監督自身がはじめて泣いたこと」、監督自身が「これまでとは違う映画をつくりたい」言っていたこと、さらには「子供のことなんてどうだっていいんだ」とマスメディアでの特番で言っていたことなどから、これまでの作品の延長上として「風立ちぬ」を位置づけるべきか立場が分かれると思ったからだ。 

これまでの作品では、日本の民俗学的な視点から(アニミズム的とでも言ってしまうのは暴力的だろうか)、半植民地主義など、ある種の左翼的な立場からアニメを制作していたように思える。そこでは多彩なキャラクターを用いて人間と自然、人間と動物の調和の重要性が描かれていると同時に、子供にも楽しめるようなキャラクターや物語をある種の教養小説風に描きつつ、反戦などの左翼的メッセージも多く込められいた。 しかし、今回の映画ではそういった視点から物語を眺めて良いものか、私自身も非常に迷った。 なぜなら、「風立ちぬ」にはラブシーンなどがあり子供向けとは言い難いこと、そして強いメッセージ性もないからだ。 本編をみればわかるとおり、そこにはあらゆるイデオロギー的メッセージが排除され、「美しいもの」だけが映し出される。 例えば、戦闘機の話なのに戦争のシーンは一切でてこないし、結核で苦しむ菜穂子が死ぬところはもちろん血を吐く以外は苦しむ姿も描かれていない。 ただ「美しいもの」が映し出される。美しい飛行機、美しい女、困難な時代を実直に美しく生きる人々。  しかし、さんざん「美しいもの」を描いた本編のおわりに、次郎のつくった零戦が戦争で無残にも焼けてしまったあとが映し出される。 そして最後のシーンで菜穂子が「生きて」と次郎に呼びかける。 この「生きろ」というメッセージは「生きねば」という文句とともに、マスメディアや予告編でも強調されているし、ポスターの言葉にも採用されている。  こうしたことからこの「生きろ」という言葉は一般には非常にメッセージ性の強いものであり、「生きねば」がこの映画の本質である”かのように”受け取られているかと思う。 だが私はこの言葉に猛烈に違和を感じたと同時に、ここにこそ「おそろしさ」も感じた。そしてそういった推論からこの映画はこれまでの作品の延長上として捉えることは難しいのではないかと私は、思う。 

 では、私はなぜ「おそろしさ」を感じたのだろうか。 率直に言えば、この映画は、観客のことを馬鹿にしたような映画であると思ったからだ。 

あとは箇条書きでいきまーす

そしてこの「わからなさ」は、マスメディアを使って本編の本質をずらしてしまうほどに、監督自身のことが描かれているからだと私は推測している。 
他にもいくつか理由は考えられる。(鈴木敏夫Pが提案したであろう、あるいは、ジブリのことを気遣ったこと、あるいは、どーせ今までのアニメも誤解されているのだから、こうやって誤解してくれてもかまわないよ、という開き直り)
 
 
あとの解釈。 監督自身のマッチョイズムについてはどうか。 これは反面では納得できない。 宇野は、結核の少女と結婚することのマッチョイズム=自分に尽くしてくれること、と述べているが、本編では、菜穂子が結核であることを知る前に菜穂子に告白している。 当時の社会的風習をみれば、告白することは結婚を前提ということであり、宇野の視点は宮崎監督が小説『風立ちぬ』をもとにしていると公言していることで当時のエリートの性格なども表現している点を見逃しているように思われる。
 
岡田斗司夫の解釈。 
格差問題に広げている。 たしかに本編冒頭では次郎がエリートであること、あるいは菜穂子もお嬢さんであること、女中がいることなどから当時の格差問題も描かれていることは容易に推測できる。 しかし、その格差問題は本編全体にまで及ぶようなものなのだろうか。 私にはそうは思えない。 これは、彼が最近『評価経済社会』などの本を執筆したことや、それに関する対談をしたことから、彼自身の関心が格差社会にあるためにそれに引きずられてしまったのではないだろか。 しかし、一部では認めたい部分もある。 例えば、次郎は、新聞をみないで、部品に熱中するのだ。
 
町山はこういう。 モネの絵画など、わからないことをたくさんやっている。
 
堀越二郎にとっての飛行機=宮崎駿にとってのアニメ 
 
一方、レヴィナス研究者として有名である内田樹氏も言うように、多様な解釈を巻き起こす映画作品が優れたものであることは間違いないだろう。 私の解釈も以上述べたように、また岡田のように自分の関心に引きずられていることは認めるし、それだけ多様な解釈を生むほどに、多くの問題を孕みまた現代社会に多くの問題提起をしている作品ということもできるだろう。(それを1930年代の日本を題材にして描いた才能は恐るべきものであると感嘆せざるをえない。)
 
私の現段階での解釈はこうだ。
美しいと思えるものにはつねに醜悪なものが潜んでいること、それが本質である。 結果として醜悪なものになったとしてもそれでもぼくは美しいものを探求したい(ピラミッドがある世界がいい)。 だけど、自分がアニメを制作してきて、日本における伝統的民俗学的な視点からアニメをつくってきた立場から言えば、日本のいまのアニメは自分がやっていることとまったく異なってしまっている。 自分がアニメで成功したためにアニメの現状はこのようになってしまった、というような、アニメ業界やアニメの批評家などをも射程にいれた、自分がしてきたことの矛盾。 
そして、あらゆる個人的なメッセージをけむに巻くためのメディア戦略。 「生きねば」というメッセージを繰り返すこと、あるいは「ひこうき雲」という曲を使って注意をそちらに向けること。こういった戦略であらゆる注意を背けながら監督自身の個人的なメッセージを隠そうとする一方で、だからこそ思いの詰まった非常に感慨深い作品であるように私には思われたし、私自身はこの作品の登場人物には共感できるところが少ないが、素敵な映画だなぁと思っている(もちろんこういう感想も唾棄したいのでしょうね) 。 そして、監督のことなのだから、「わからない」に決まっているのだ。 そして、それすらも隠蔽するために、美しいものを描いて最後にそれをひっくり返す描写、「純愛」や、「飛行機」について観客に語らせよう、というあえて誤解を招くような表現をしていていながらメディアでは笑顔をみせる宮崎駿監督が、ぼくには「おそろしく」見えたのだった。
 

 

中沢新一を引用しながら、)わたしは、以上のように、映画そのものはこれまでの宮崎作品の延長上に位置づけることはできないが、宮崎監督がこれまでの仕事の矛盾をどのように捉えまたどのような苦悩を抱いていたのかを隠れたメッセージとして描いた点で、これまでの映画も大きな影響を与えているというような、両者の折衷案をとりたいと思う。