この間は、「風立ちぬ」を見てきました。
そして、久しぶりのデートという感じで、年上社会人お姉さんといっしょに行ってきました。
しかし、うまく消化できていないので、もう一度行こうと思っています。
とりあえず、今思っていることをメモ書き風に書いてみようと思います。
「『風立ちぬ』をみて。」
宮崎駿監督が引退を正式に表明したことで、同監督の最後のアニメ作品と言えるであろうこの「風立ちぬ」。率直な感想をいえば、「わからない」という思いが残った。 今回は、この「わからなさ」をキーワードに僕なりに「風立ちぬ」にアプローチしてみたい。
まずはこの映画の概要から(ネタバレと、基礎情報を知っている方は飛ばしてください)。
この作品は、堀辰雄の『風立ちぬ』、『菜穂子』と、日本の第二次大戦において重要な役割を果たした零戦の設計士である堀越二郎の二つの物語を組み合わせたものである。
戦間期の日本を描いた作品でもあり、宮崎監督は、「同じ時代が来た」ことをこの作品を作り上げることになったきっかけとも話している。 また、原作はとある雑誌に連載していた監督自身の漫画である。このマンガを見たプロデューサの鈴木敏夫が映画化を提案。
エンディングには、松任谷由美の「ひこうき雲」を採用。
本論(メモ的なもの)
私はこの作品を見終わってまずはじめに、「おそろしい」映画だな、と感じた。 この映画には、宮崎監督の強い悪意が見受けられた。 この点については後述することになるが、同時に本映画についての解釈については多様を極めるだろうなと思った。 つまり、この映画は、「試写会で映画を見終わったあとに監督自身がはじめて泣いたこと」、監督自身が「これまでとは違う映画をつくりたい」言っていたこと、さらには「子供のことなんてどうだっていいんだ」とマスメディアでの特番で言っていたことなどから、これまでの作品の延長上として「風立ちぬ」を位置づけるべきか立場が分かれると思ったからだ。
これまでの作品では、日本の民俗学的な視点から(アニミズム的とでも言ってしまうのは暴力的だろうか)、半植民地主義など、ある種の左翼的な立場からアニメを制作していたように思える。そこでは多彩なキャラクターを用いて人間と自然、人間と動物の調和の重要性が描かれていると同時に、子供にも楽しめるようなキャラクターや物語をある種の教養小説風に描きつつ、反戦などの左翼的メッセージも多く込められいた。 しかし、今回の映画ではそういった視点から物語を眺めて良いものか、私自身も非常に迷った。 なぜなら、「風立ちぬ」にはラブシーンなどがあり子供向けとは言い難いこと、そして強いメッセージ性もないからだ。 本編をみればわかるとおり、そこにはあらゆるイデオロギー的メッセージが排除され、「美しいもの」だけが映し出される。 例えば、戦闘機の話なのに戦争のシーンは一切でてこないし、結核で苦しむ菜穂子が死ぬところはもちろん血を吐く以外は苦しむ姿も描かれていない。 ただ「美しいもの」が映し出される。美しい飛行機、美しい女、困難な時代を実直に美しく生きる人々。 しかし、さんざん「美しいもの」を描いた本編のおわりに、次郎のつくった零戦が戦争で無残にも焼けてしまったあとが映し出される。 そして最後のシーンで菜穂子が「生きて」と次郎に呼びかける。 この「生きろ」というメッセージは「生きねば」という文句とともに、マスメディアや予告編でも強調されているし、ポスターの言葉にも採用されている。 こうしたことからこの「生きろ」という言葉は一般には非常にメッセージ性の強いものであり、「生きねば」がこの映画の本質である”かのように”受け取られているかと思う。 だが私はこの言葉に猛烈に違和を感じたと同時に、ここにこそ「おそろしさ」も感じた。そしてそういった推論からこの映画はこれまでの作品の延長上として捉えることは難しいのではないかと私は、思う。
では、私はなぜ「おそろしさ」を感じたのだろうか。 率直に言えば、この映画は、観客のことを馬鹿にしたような映画であると思ったからだ。
あとは箇条書きでいきまーす
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中沢新一を引用しながら、)わたしは、以上のように、映画そのものはこれまでの宮崎作品の延長上に位置づけることはできないが、宮崎監督がこれまでの仕事の矛盾をどのように捉えまたどのような苦悩を抱いていたのかを隠れたメッセージとして描いた点で、これまでの映画も大きな影響を与えているというような、両者の折衷案をとりたいと思う。