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離島の高校で学び直す=松江支局・御園生枝里

2009年06月25日 | スクラップ


 

◇弱さを力に変えたい

 日本海に浮かぶ島根県の離島・隠岐の海士(あま)町にある県立隠岐島前(どうぜん)高校(石田和也校長、91人)に、親元を離れ、学び直しに取り組む少年がいる。和歌山出身の畑中晨吾さん(18)。大阪の有名進学校に通っていたが不登校になり、自宅に引きこもっていた。今は、ゆっくりと流れる島の時間と人のぬくもりに抱かれ、「家以外で初めて自分の居場所ができた」と語る。畑中さんの高校生活を追った。

 


■一通の手紙から

 「すべてのことから逃げ出したくなる衝動にかられ、体調不良で学校を休んだのをきっかけに、僕は学校に行かなくなりました」

 07年冬、隠岐島前高の田中利徳前校長のもとに一通の手紙が届いた。畑中さんからだった。不登校になった経緯に触れながら「将来のために高校生としての自分の生活をやり直したいのです」と、再起にかける強い思いが記されていた。

 畑中さんは和歌山県海南市出身。04年春、大阪市内の私立中高一貫校の中学部に入学、自宅から片道2時間半かけて通学していた。

 入学当初は都会の何もかもが新鮮に映ったが、中2になると息苦しさを感じ始めた。「時間も勉強もその速さについていけなかった」。自分から人を避けるようにもなった。欠席を繰り返し、高校は入学式に出たあと数日しか通わなかった。家に引きこもり、本を読んだり、音楽を聴いて過ごした。「このままでいいわけがない」。分かっていても、行動できなかった。

 「家から離れて甘えのきかないところでやり直したい」。葛藤(かっとう)していた時、インターネットで隠岐島前高を偶然見つけた。校内には寮もある。「手紙を書こう」。切実な思いをつづった。

 


■ここならやれる

 隠岐島前高は西ノ島町、海士町、知夫村からなる島前で唯一の高校。少子化に加え、進学希望の中学生が島外に流出するなどして生徒数が減っていた。08年度に全学年が1学年1学級となり、09年度の入学者数は33人。畑中さんから手紙が届いたのは偶然にも、県の統廃合ライン21人を切ることを懸念する町などが、県外から入学者を募ろうと考え始めた矢先だった。

 田中前校長は早速、返事を書いた。「あなたの手紙の文面から将来への思いを持ち、再び、歩みだそうとする力強い気持ちを感じ取り、できる限りの応援をする覚悟を決めました」。手紙には生徒や町の写真、学校要覧も添えた。畑中さんは年が明けた08年2月、一人で島を下見に訪れた。

 海士町は、面積約33平方キロ。人口2370人(3月末現在)。高齢化率は4割近い。一方で、町の積極的呼びかけによりこの5年間で全国から約200人がIターンして、起業やまちおこしに取り組んでいた。

 Iターン者の一人で東京から移り住んだ海士町教委高校魅力化プロデューサーの岩本悠さん(29)は「高校や町には、何かやろうと思ったら手伝ってくれる人がたくさんいる。自分らしく、自分のペースで生きられる」と畑中さんに語りかけた。畑中さんは不安より「面白いことが待ってそうだ」と期待を膨らませた。

 


■周囲とのきずな

 転入学試験を受け合格した畑中さんは昨年4月、高1からやり直すことにした。しかし、同級生より一つ年上で「大人に見せなければ」と緊張し、溶け込めなかった。

 ある日、一人の女子生徒が話しかけてくれた。
 「学校に慣れた?」
 「うん」

 ぎこちない会話から、打ち解けていった。不登校のことも打ち明けた。「がんばって」の言葉が返ってきた。「心が軽くなって、すごくうれしかった」。友達の輪が広がっていった。

 寮で暮らす畑中さんの夜や土日の楽しみは、宿直の先生とのふれあいだ。進路や勉強、友達の話を聞いてくれる。弱音を吐くと「しゃきっとせんか」と励まされたこともある。大阪の学校では普段先生と話すことはなかった。

 落ち込むことがあった日、近くの商店のおばちゃんはいつもと違う様子に、「まぁ、人生いろいろあるから」とパンを何個もかごに入れてくれた。友達の両親は「こっちの親と思って、頼って」と声をかけてくれる。大阪では「うっとうしい」と感じた人間関係を「あったかい」と思えるようになっていた。

 私が畑中さんに初めて会ったのは今年2月だった。彼は卒業生を送る「予餞(よせん)会」の出し物を決める話し合いをリーダーとして引っ張っていた。2年になった今春からも、図書室の整備活動などにかかわり「目の前のことでいっぱいいっぱい」と充実した日々を送る。

 「自分は弱いから、強い人間になりたい」。島で明るく振る舞う畑中さんの言葉だ。今も悩みや葛藤があるのだろう。今年3月には、和歌山の母親が体調を崩し、入院した。傷つき、苦しみながら自分の弱さを知り、乗り越えようとする畑中さんは、今でも十分たくましい。

 石田校長は「問題を抱えてやり直したいと思う生徒が、自分を見つめ直す機会になれば」と、島の高校生活の意味を語る。

 取材の最後、畑中さんは「卒業しても一度は島に戻り、居場所をくれた恩返しがしたい」とその目に明るい決意をにじませて、同級生らが待つ教室へと駆けていった。その後ろ姿を眺めながら、島での生活が、一つの希望に思えてきた。

 


 
毎日新聞 2009年6月3日 大阪朝刊

 

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