ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

多文化共生政策の展開と人権保障

2016年09月19日 16時15分32秒 | 報告書とか
多分、10年以上前に書かれたものだと思うので、もうすでに状況が変わっているところもあると思うけど、メモ。

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「多文化共生政策の展開と人権保障」近藤敦さんによると、外国人の流入をおおむね6つの時期に分けている。

1639−1853 鎖国における流入禁止
1853−1945 開国、大量の海外移住、植民地との間の流入と流出
1945−1951 占領期における出入国の厳しい制限
1951−1981 高度経済成長期にかかわらず、厳しい入国規制
1981ー1990 厳しい入国規制、難民への門戸開放、外国人の権利向上
1990ー     比較的厳しい入国規制、日系人(フロントドア)、研修生(サイドドア)、非正規滞在者(バックドア)の単純労働への就労

高度経済成長期に外国人労働者の流入がなかった要因
(1)大規模な国内の人の移動:農村から都市へ
(2)オートメーション化:ロボット化、オートメーション化
(3)外部労働市場への依存:主婦のパートタイム、学生アルバイト、高齢者の高い労働力化率、人材派遣の拡大
(4)長時間労働

1952年のサンフランシスコ平和条約に伴い日本国籍を喪失した在日韓国・朝鮮人も「外国人」として処遇され、その居住権は確実なものとはいえなかった。また、これらのオールドカマーは、日本の国籍を持たないことを理由として、多くの社会保障法制から排除された。義務教育を受ける権利も喪失し、公立学校への入学は認められたものの、民族教育を受ける権利は認められなかった。「公権力の公使または国家意思(公の意思)の形成への参画」にたずさわる公務員の職を失わないためには、帰化により日本国籍を取得する必要があるとされた。以前の帰化手続きは、日本的氏名に変えることを要求するなど、同化主義的な要素が強かった。雇用に関する国籍差別は、公務員に限らず、民間企業においても問題とされていた。いわば、実質的な職業選択の自由が大きく制限されていた。そこで、1970年代には、就職差別裁判や司法修習生採用問題などを通じて、職業選択の自由の幅を広げる試みがはじまった。一方、いくつかの地方自治体は、国に先立って、公営住宅の入居資格および児童手当の受給資格から国籍要件をなくす動きがみられた。

日本政府は、1979年の国際人権規約および1981年の難民条約への加入が、ない外人の平等を原則とする社会保障法の様々な改正を必要とすることを認識していた。たしかに、住宅金融公庫、国民年金、児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当、国民健康保険などから国籍要件が廃止された。しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法その他の戦争犠牲者援護立法の国籍要件は残された…また、女性差別撤廃所お役の批准は、父兄血統主義から父母両系血統主義に国籍法を変更させた。この国籍法改正は、日本語の「常用平易な文字」を使用すれば外国姓を戸籍に記載することを認める新たな戸籍法により、日本的氏名を強要する帰化手続きを廃止する副産物を伴った。しかし、人名漢字の制限から、後述するように、民族名を放棄しなければならない問題を依然として残した。

1996年に川崎市は…(管理職への就任制限が残るとはいえ)地方公務員の門戸を(消防職を除き)原則として外国人にも開放した。その後すべての政令指定都市が公務員の国籍条項を廃止…

1995年に最高裁は、外国人の地方選挙権を憲法が保障していることは否定しながらも、「永住者等」の地方選挙権を法律により認めることは憲法が禁止しておらず、立法政策の問題であるとの解釈を示した。また、1997年に東京高裁は、従来、参政権に類似の外国人への制約を「当然の法理」としてきた公務就任圏の問題について、「統治作用に関わる程度の管理職も存在する」ので、地方公務員の管理職選考試験を「特別永住者等」に認めないことは、職業選択の自由および法の下の平等に反するとした。もっとも、公立の学校の教員として、外国人は「常勤講師」にとどまる問題などが残っている。

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