墨汁日記

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徒然草 第四十三段 春の

2006-08-25 20:20:18 | 新訳 徒然草

 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

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<口語訳>

 春の暮れるころ、のどかに艶なる空に、賤しそうでない家の、奥深く、木立もの古びていて、庭に散りしおれてる花 見すごしがたくて、差し入って見れば、南面の格子みな下ろしてさみしげなのに、東に向いた妻戸がよい程にあいている、御簾の破れより見れば、かたち清げな男が、年はたちばかりで、うちとけてるけど、心にくい、のどかな様子して、机の上に文をくりひろげて見て居た。
 いかなる人だろう、尋ね聞きたい。
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<意訳>

 春の終わる頃。
 のどかで豊かな色の空の下にお屋敷がある。
 屋敷は広く古木が茂る。
 庭に、桜の花びらが散り萎れているのが見過ごしにくく、屋敷に立ち入ってみると南側正面の戸は全て閉じられて人気もなく、東に向いた戸のみが良い具合に開いている。
 そこには破れた御簾がかけられていて、その破れから見ると、年は二十歳ほどの美しい男がくつろぎ、心憎いほどに、のどかな様子をして本をくり広げて読んでいる。

 どういう人なのだろう、尋ね聞きたい。
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<感想>

 よくわからないというのが本音だ。

 この段を素直に読むなら兼好は見ず知らずの貴族のお屋敷の庭に、人がとがめないのを良い事に「不法侵入」した。
 理由は、その家の庭に散りしおれている桜の花びらを美しく思って、見逃せないと思ったからだ。

 さらにその上、屋敷の正面へまわり人気がないのを確認しつつ奥へ侵入。
 なんで奥まで侵入したのか、その理由は書かれていない。

 そして、東側にまで侵入して開いている扉を発見。
 その扉の奥で、若く美しい男が読書する様子を、兼好は「覗き見」した。
 ついには、美く若い男に「あなたは誰なんですか?」と聞きたくなったようだけど、さすがに聞かないで止めて帰ったらしい。

 えー、まんまなら、兼好は「不法侵入」と「覗き」の現行犯だ。

 だがもちろん。

 そんなもん現代の価値観や法律にすぎなくて、兼好当時の価値観では「見ても減らない」ってのが普通な価値観だったのかもしれない。
 いつ誰に見られても恥ずかしくない格好でいる事ことが素晴らしいのだ。
 逆に、どんな時であっても、常に誰かに見られているかもしれないと意識して行動する事が貴族のたしなみであったのかもしれない。

 これは、夏は暑くて戸を開けっ放しにしがちな我が国の伝統的価値観であった可能性もある。

 てか、もちろんこの段は、兼好のたんなる想像の話である場合もありえる。
 たんなる作り話かもしれない。
 たまたま散歩の途中で素敵なお屋敷を見つけて、「このすてきなお屋敷のご主人はどんな人なのかな?」と想像をたくましくして、こんな人かもと想像で屋敷に侵入して書いたのかもしれない。

 まぁ、どういうつもりで書いたのかは正確な推測はまったく不能で、どういうつもりで書いたのか出来るなら兼好に尋ね聞きたい。
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<受け売り>

『春の暮つかた』
 春の暮れる頃。晩春。

『のどやか』
 この段では、現代語の「のどか」に同じ。

『艶なる』(えんなる)
 風情があり美しい。

『賤しからぬ家』
 賤しそうでない家。つまり立派な家。

『南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる』
 この描写から、この家は寝殿造りのお屋敷だと推測できる。寝殿造りのほとんどは南を正面とした。「格子」は「しとみ」とも言い、上に押し上げて開くタイプの戸。つり上げてかけ金で固定した。角材を格子に組んで作り、家の内側のほうに板を貼って仕上げた。日中は開けたままにしておく事が多いという、それが下ろされているので人が居ない事を暗示している。「妻戸」は両開きになる板戸。
 若い美しい男は、東向きの部屋で読書しているので、兼好の「犯行時刻」は午前中と推定される。

『御簾』(みす)
 すだれのこと。

『廿』
 はたち。

『うちとけて』
 くつろいで。


徒然草 第四十二段 唐橋中将

2006-08-24 19:56:41 | 新訳 徒然草

 唐橋中将といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。気の上る病ありて、年のやうやう闌くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
 かかる病もある事にこそありけれ。

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<口語訳>

 唐橋中将という人の子に、行雅僧都といって、学僧の人の師する僧いた。気の上る病あって、年がようようたつうちに、鼻の中ふさがって、息も出にくくなれば、さまざまに治療すれど、わずらわしくなって、目・眉・額なども腫れまどって、打ちおおったらば、物も見えず、二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしく、鬼の顔になって、目は頂の方につき、額のあたり鼻になるなどして、後は、家の中の人にも見えなくこもり居って、年久しくあって、なおわずらわしくなって、死んだ。
 こんな病もある事にこそありだった。
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<意訳>

 唐橋中将という人の子に行雅僧都という学僧の師匠する僧がいた。
 この人、気の上がる病いを患い、年をとるほどに病いはだんだんと悪くなって、やがて鼻の中ふさがり呼吸も満足に出来なくなってしまった。
 さまざまに治療したが病状は悪化して、やがて、目や眉、額のあたりまで腫れ上がって覆いかぶさり目も開けられないような状態となった。
 その顔は、まるで舞楽に使われる「二の舞の面」のようにも見えたそうだが、ついにはただ恐ろしいだけの鬼のような顔に変わり果て、目は頭につき、鼻は額についたそうだ。
 その後、寺の中の誰とも会わずにしばらく引きこもり養生していたが、そのうちに、さらに病状が悪化して死んだそうだ。
 こんな病いもあることがある。
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<感想>

 とにかく怖い。「気の上がる病」って、どんな病気なんだろう。
 高血圧みたいなものなんだろうか。
 文章から想像するに、のぼせあがる病気であるらしいが、最後には鼻がふさがり顔は腫れ上がり、目鼻の位置すらわからなくなった末に、呼吸困難で目も見えないまま死んでしまうのだ。
 怖い、怖いぞ。「気の上がる病」。
 まったく正体不明な点もますます怖い。
 正体がわからないから予防のしようもない。
 とりあえず、「気の上がる病」にかかりませんようにと祈るしかない。

 まぁさて、兼好はとにもかくにも新展開を迎えてのりにのっている。なんにしろ、他人に目を向ける余裕ができている。
 読みが正しい自信はまったくないが、『徒然草』の世界観はこの辺りから大きく広がり、一番面白いあたりだ。
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<受け売り>

『唐橋中将』(からはしのちゅうじゃう)
 源雅清という人だと推定されている。
 彼は唐橋家の出身だが、唐橋家には「中将」になった人物が他にもいるので確定は危険だと三木紀人氏は注意をうながしている。

『行雅僧都』(ぎゃうがそうづ)
 僧都は、坊主の位であり僧正につぐ偉い位だ。
 なのにこの人の名は歴史に残っていない。
 残っていないから、その父親も確定できない。

『教相の人』
 教相は仏教の教えを学ぶ人。学僧の人とでも訳せばいいのか。

『気の上る病』
 のぼせあがる病い。正体は不明。

『年のやうやう闌つ程』
 年をだんだんととっていくほど。

『つくろひ』
 治す。治療。

『わずらわしくなりて』
 患い、病気が進行して。

『二の舞の面』
 舞楽で使う面。
 本番である「案摩」の舞の次に舞ったから、二の舞なんだそうだ。
 咲面(老人)と腫面(老婆)の二枚の面を使用した。
 この段で語られるのは、腫面の事だと推測されている。

『坊』
 坊主が住むところを「坊」と言った。
 ちゅーか、「坊」の主だから「坊主」なんであるらしい。

『かかる病もある事にこそありけれ』
 理解できる現代語に訳せません。
 こんな病気もある事もあったんだぜ。とでも理解して下さい。


Ninomai


 こんなんが二の舞の面。


徒然草 第四十一段 五月五日

2006-08-23 20:33:37 | 新訳 徒然草

 五月五日、賀茂の競べ馬を身侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
 かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
 かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

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<口語訳>

 五月五日、賀茂の競べ馬を見ましたら、車の前に雑人立ち隔てて見えなければ、おのおの下りて、柵のきわに寄ったけれど、ことに人が多く立ち込んで、分け入れない入りようもない。
 こんな折に、向いにある楝の木に、法師が、登って、木の股にしゃがんで、物見している。取りつきながら、ひどく眠って、落ちるべき時に目をさます事、度々である。これを見る人、あざけりあきれて、「世の痴れ者かな。あんな危い枝の上で、安心して眠ってるよ」と言うのに、我が心にふと思ったままに、「我等が生死の到来、ただ今にもあろうか。それを忘れて、物見して日を暮す、愚かな事はなお勝ってるものを」と言ったらば、前にいる人ども、「まことにそれでこそ御座いました。もっとも愚かに御座います」と言って、皆、後を見返って、「ここへ入られ給え」と言って、所を去って、呼び入れ下さった。
 これほどの理屈、誰かは思いつこうけれども、折からの、思いがけない心地して、胸に当たったのか。人、木石でなければ、時によって、物に感ずる事ないわけでない。
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<意訳>

 五月五日、賀茂神社の競馬見物に行ったところ、牛車の前に庶民が立ちふさがり人だかりでなにも見えない。各自、車を降りて柵のそばまで寄ってみるが、柵の前はとくに人が多く立ちこんでいて分け入る隙もない。

 そんな状況の中、向かいの楝の木に法師が登って、枝に座り込んで見物している。法師は木にしがみつきながら居眠りして、何度も落ちそうになるがその度に目を覚まして枝にしがみつく。
 その様子を見る人々は、あざけりあきれて、

「なんて馬鹿だ。あんな危ない木の上で、安心して寝ているよ」

 などと言っているで、ふと心に思いついた事を口にしてみた。

「我等の死の訪れだって今すぐかもしれない。それを忘れ、祭り見物をして日を暮らすのなら愚かさで彼に負けていない」

 すると、前にいた人達は、

「なるほど確かにごもっとも。私らも愚かでございます」

 そう言って後ろをふり返り「ここへ入られなさい」と場所を空け呼び入れて下さった。

 こんな理屈は誰だって思いつくようなものだけど、ああいう祭の時に言われると思いがけない気がしてありがたくも聞こえるのだろう。
 人は、木でも石でもないから、時によって感動する事もある。
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<感想1>

 まずは、この41段の内容を整理してみよう。

 5月5日は、賀茂の競べ馬の日であった。
 賀茂の競べ馬は、京都「上賀茂神社」の神前で行われた競馬だ。
 直線コースを二頭の馬が競う。
 神社主催のお祭りなので「馬券」は販売されない。

 さて、我らが兼好法師。知りあいの貴族の牛車に便乗して、賀茂の競べ馬の見物に向かった。
 だが、競馬コースの前はすごい人だかりで牛車から何も見えない。
 仕方ないので、各自くるまを降り、せめて馬の鼻面だけでも見ようと前へ前へと全身するが、雑人立ち込め前には進めない。

 ただ見えるのは、競馬コース対面の木によじ登って競馬を見物している法師だけ。
 しかし、この法師、せっかくの特等席の木の上で、コクリコクリと居眠りしている。今にも木から落ちて然るべきとなるその瞬間になると、法師ハッと気がつきハッシと幹にしがみついて落下をまのがれ、安心してまた居眠り。

 これを見ていた祭りの見物人達は法師の様子にあきれてあざけり笑う。

「なんて馬鹿だ。いつ落っこちるとも分かんねぇ木の上で安心して居眠りしてやがる」

 それを聞いた兼好法師は人々に語る。

「いや いや いや! 馬鹿なのはお互い様。私らだって今すぐ死んでも別におかしくないのに、こうやって祭りなんか見物している。馬鹿さかげんじゃ彼に負けちゃいない」

 ふと思いついたセリフがきっかけで、兼好は前に招き寄せてもらえた。

 というのが、この段の大筋である。では、次にこの段を簡単に検証してみよう。
 まず5月5日というだけで、何年の出来事なのかは書いていない。ために、この時の兼好の年齢は推定できないのだが、この段は出家した後の兼好法師の経験談と理解するのが妥当であると思われる。何故なら出家前の貴族であった兼好が、庶民あいてに説教めいたことを語るとは考えにくいからだ。

 兼好法師が牛車を所有していたという事はなさそうだ。
 法師である兼好の足は徒歩か馬であったろう。馬は借りるのか飼っていたのかは知らないが、遠出の時の足であったはずだ。近場なら徒歩ですましたと思われる。

 牛車のない兼好が牛車で出かけることはないはずなのだが、兼好はただの坊主ではない。歌人として、貴族とつながりがある。
 そのつながりで一緒に競馬見物に出かけましょうよと、どっかの貴族に誘われその人の牛車に便乗して祭に出かけたのではないだろうか。

 この段で面白いのは「雑人」と書かれている一般庶民達が貴族を特に優遇していないという点だ。
 貴族が来ようと庶民は無視して競馬見物を続けている。
 公共の場においては庶民と貴族はお互いに自分たちとは別世界に住む人間として、無視しあい生活していたものと思われる。なんだかとても中世とは思えないほどに都会的だ。

 だけど、法師はそれとは違う種類の人間だったのではなかろうか。
 教えを与える人間として、貴族・庶民を問わずに、当時の教養の頂点であった。だがもちろん、乞食坊主なんかの言葉にいちいち耳をかしていたら聞く方だって馬鹿を見る。一応、相手を見てから話しを聞く。
 だから、庶民は後ろを振り返り、兼好を確認した。
 そして、牛車で貴族と一緒に来た事から察して、兼好をそれなりの坊主であると判断した。
 なので、兼好の言葉を庶民はすんなり受け入れたのではないだろうか。

 兼好は坊主であるが、布教に精をだすタイプの坊主ではなかった。
 ただ自分自身の心の安定の為だけに出家したような人間だ。だから、庶民に説教などしたこともないだろうし、しようとも思わなかっただろう。
 たまたま、その日は思いついた事を口にしただけで、それがきっかけで兼好は祭り見物の前列に招き寄せてもらえた。

 ところで、兼好は何故この段を書いたのだろう?
 次にそれを考えてみたい。
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<感想2>

 この第41段は重要な段である。
 兼好の考え方がこれまでとは違ってきている事を、兼好は自覚して意識的に書き示している。
 序段から38段までの『徒然草』の文章からは、兼好の悩みや悲しみなどが読み取れる。
 だが、39段以降の『徒然草』からは、心の動揺はほとんど読み見れなくなる。兼好は書く事に徹していて、彼の心の動揺を文面から察する事はできない。

 その理由は兼好が「心の安定」を手に入れたからではないかと俺は考える。逆に言うなら序段から38段までの兼好はスゲー不安定であったとも言える。
 その不安定さの例をあげるなら、第19段なんか良い例で、四季の話をしているのかと思ったらいきなり自己嫌悪に落ち入って自分が書いた文章なんて「人の見るべきにもあらず」とか言い出し、いいもん破り捨てちゃうからと勝手にヤケクソになっている。はじめて読んだときは、これで古典なのかよと驚いたほどだ。こんな古典もあんまり他に例がないだろう。
 他にも29段あたりじゃ、亡くした人を思い出してなんだかセンチメンタルだし。
 まぁ、『徒然草』初期の兼好が情緒不安定な例なんて他にいくらでもあげられるんだけど、可哀想だからもうやめておこう。

 兼好は何を悟って、安定して執筆できる境地に達したのだろう。それは必ずしも1つではないと思う。
 だが、兼好が変わった理由のその1つと思われるものがこの段から読み取れる。それを探る為に41段の原文から気になる言葉を選び出し、ちょいとチョイスしてみる。

『雑人』
『我等が生死の到来』
『人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』

 この3つが気になる、少し調べてみよう。

『雑人』
「主として鎌倉時代に行われた身分上の総称。侍の身分に属さない一般庶民をいう。(岩波古語辞典)」
「身分の低い者。庶民。(三省堂全訳解読古語辞典)」
 「雑人」とは身分の高い人間から一般庶民を見たときの呼び方であると理解すれば良さそうだ。兼好は祭り見物に来た一般庶民連中を「雑人」呼ばわりしているが、これは他に適切な呼び方がなかった為だと思われる。

『我等が生死の到来』
 適切な呼び方がなかったと思った理由は、「雑人」よばわりした連中に対して兼好は「我等が」と呼びかけているからだ。本来の身分の差も考えずに「我等が」と呼びかけられるのは兼好が世間も身分も捨てた法師だからであるが、それだけでもないだろうと思う。

『人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』
「人は木でも石でもないんだから、時によって感動する事もあったりなかったり」というようなことを兼好は言っている。すなわち、人は誰だって感動するのだと兼好は言いたいらしい。

 出家する前の、仏教に触れる前の若い兼好の心には苦しみしかなかった。
 常に満たされない苦しさだけが心にあった。
 苦しみから逃れたい一心で兼好は苦しみの原因を考えた。
 その答えは「願はしかるべき事」(欲望)が叶えられない事による絶望だと兼好はとりあえず結論した。そして、欲望さえ抱かなければ絶望もしないから楽になれると直感したけれど、無欲になる方法が分からない。
 兼好は仏教に欲望から逃れられる知恵があるに違いないと確信し、仏門に入る事を決意した。

 決意はしたけど、でもこれは正しい選択だったのかなと少し迷いながら兼好は出家している。
 仏の教えにより、誰もが平等に生まれて死ぬものだと教えられる。
 だが、それは単なる教えであり、貴族社会に生まれた兼好には「誰もが平等である」という「実感」はすぐに得られなかっただろう。

 出家した兼好法師は仏の教えを自分なりに理解して心の安定を得るまでに、10年以上の月日をかけたようだ。『徒然草』の文章がそれを語っている。

 ところが、この41段に登場する兼好は「死」の前での「平等」をたしかに「実感」している。だから、この段の文章を書いたのだろう。
 身分なんか関係なく、賤しい「雑人」も、元貴族の「自分」も、等しくして「我等が」と呼びかけているのは、それが法師ってものだからという見かたも出来るけど、俺はやはり違うと思う。

 兼好は「平等」を「実感」していたから、「我等が」と呼びかけたのだ。
 この段の最後を、兼好は「人は誰でも感動する」としめくくっている。そんな事を言うのは相手に「心」がある事を認めている証拠で、兼好はどんな人間にだって「心」があると認めているのだ。

 ある日ある時、兼好は誰にでも「心」があると「実感」してしまった。それは「賀茂の競べ馬」の前の出来事であろう。

 誰にでも「心」がある。
 自分にも「心」がある。

 自分を含めた誰にだって「心」がある。
 自分にあるように誰にも「心」がある。

 今その道を歩いているあの人にも「心」がある。
 今座ってそれを見ている自分にも「心」はある。

 心とは何だ?
 感じる事だ!

 誰もが感じる。
 自分も感じる。

 苦しみ、悲しみ、醜さ故の葛藤。
 楽しみ、よろこび、人に恋する。

 誰もが自分と同じように苦しむ。
 自分は他人と同じように楽しむ。

 なぜ感じるのか?
 心があるからだ!

 感じるのは誰だ?
 感じるのは人だ!

 人はなんだ?
 自分も人だ!

 誰もが感じる。
 自分も感じる。

 ならば、誰もが人であり自分も人である。
 そして、自分は誰もと同じくただの人だ。

 ある日ふと兼好は実感した。
 自分はただの人でしかない。

 そういう実感を抱いた兼好は賀茂の比べ馬の日に、その実感を証明する場面にめぐりあわせた。もう一度、原文にもどろう。

『皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき』

 この時、みんなから呼び入れられた兼好はどんなに嬉しかったことか。
 自分は1人孤独な「心」などではない。たくさんの苦しむ「心」の中のその1つの「心」に過ぎない。
 兼好は人々に呼び入れてもらえたのが、よほど嬉しかったのか照れながら最後に語る。

『かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』
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<受け売り>

『五月五日、賀茂の競べ馬』
 毎年5月初旬に、京都の上賀茂神社で競馬が行われた。一の鳥居から二の鳥居までの直線コースを、2頭の馬を競わせて走らせる。

『埒』
 馬場のまわりの柵。

『楝の木』(あふちのき)
 栴檀(センダン)という木の古名。「あふち」は現在「おうち」と発音する。


徒然草 第四十段 因幡国

2006-08-10 19:02:23 | 新訳 徒然草

 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、ただ、栗をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりければ、「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。
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<口語訳>

 因幡の国に、何の入道とかいう者の娘、かたちよいと聞いて、人多数言い渡ったけれども、この娘、ただ、栗のみ食って、さらに、米のたぐいを食べなければ、「こんな異様の者、人に見せるべきでない」として、親許さなかった。
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<意訳>

 因幡の国に住む、なんとか入道とかいう者の娘は美人だと評判になって、大勢の男が求婚したのだけれど、この娘はただ栗ばかり食べていて、まったく米のたぐいを食べなかったので、

「こんな変な娘は、人前に出せない!」

 と、親は結婚を許さなかったそうだ。
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<感想>

 因幡の国は、現在の鳥取県。
 距離的には京都に近いが、京都の人にしてみるとわざわざ行く用事もない土地である。ある意味、辺境のそんな土地のうわさ話を書きとめたのが、この第40段なのであるが、この段のヒロインである「栗食い姫」は謎が多い。
 だいたい一年中、栗が食べられるものなのだろうか。栗はそんなに保存のきく食品なのか?
 保存がきいたとして、栗ばかりじゃ飽きるだろうし、体だって壊しそうだ。
 ただ、「栗」を、季節の果物や野菜などの総称として理解していいなら、なんとなく納得できる。「米の類を食はざりければ」と原文にあるが、穀物を食わなくても、野菜と果物を食っていれば生きていける。

 きっと「栗食い姫」の父親は、経済力のある人間だったのだろう。「何の入道」と書かれる「栗食い姫」の父親は、因幡の地方権力者だったのだろうとテキストでも推測されている。
 地方権力者の娘が、「栗食い姫」の正体だとすると、なんで「栗食い姫」は穀物を食べなかったのであろうか。ホクホク炊きたてのご飯はおいしいのに。

 もしかしたら、「栗食い姫」は、あんまり偏食が激しいので、親からちゃんとご飯も食べなきゃ結婚させませんよとか言われちゃったのかもしれない。その為にかえって、なかば意地になって、栗ばかり食べ続けた。
 わがまま金持ち娘の、自意識過剰による親への無意識な反抗心。
 それに金持ちの娘なので、生活に余裕もあるから、いらない事までつい考えてしまう。
 そして、自分の将来を見た。

(男と結婚して、子供を産み、やがて老いて死ぬ)

 なんてつまらない一生!
 家の為に子を殖やすだけが私の人生か?
 なら、好きな事して、好きな物だけ食べて暮らしている方がずっといい。
 結婚さえしなければ、この先ずっと好きに暮らしていて良いらしいと「栗食い姫」はなんとなく悟った。

 因幡の国の「栗食い姫」は、親の希望を無視して栗を食べ続ける事をわざと選んだのかもしれない。
 家の為に子孫を残す事を当たり前としていた当時の女性からは、完璧に外れてしまっている。

 京都の貴族社会での出世をあきらめて出家した兼好も、貴族社会から外れた人間だ。同じはぐれもの同士、「栗食い姫」に感情移入しながら兼行はこの段を書いたのかもしれない。
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<受け売り>

『因幡国』
 現在の鳥取県。砂丘があると言う。

『入道』
 坊主なんだけど、頭丸めて仏教に入門だけして、生活は変えずに妻子と暮らしているオジさんなどを「入道」と呼んだ。

『言ひわたり』
 漢字で書くと「言い渡り」。
 言い続ける事。
 この段では、結婚を望んで言い寄り続けるの意。

『かかる異様の者』
 かかるは、かくある、こんなであるという意。「異様(ことやう)」は現代語の異様(いよう)と、しても意味が通じるが現代語の異様よりやわらかい表現だったようで、「変な」ぐらいの意味だろう。


徒然草 第三十九段 或人

2006-08-09 19:58:42 | 新訳 徒然草

 或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
 また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思えば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

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<口語訳>

 ある人、法然上人に、「念仏の時、眠りにおかされて、行を怠ります事、いかがして、この障りを止めましょう」と申したらば、「目の醒めてるとき、念仏したまえ」と答えられた、とても尊かった。
 また、「往生は、一定と思えば一定、不定と思えば不定である」と言われた。これも尊い。
 また、「疑いながらも、念仏すれば、往生する」とも言われた。これもまた尊い。
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<意訳>

 ある人が、法然上人に質問した。

「念仏を唱えると、ねむくなってしまい修行に身が入りません。どうすればこの障害を止められるでしょうか?」

「目が覚めている時に、念仏しなさい」

 とても尊い言葉である。

 また、「極楽往生は、決定と思えば決定、不定と思えば不定である」と言われている。これも尊い。

 また、「疑いながらも、念仏を唱えれば往生できる」とも言われている。これまた尊い。
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<感想>

 この39段の文章は仏教を知らないと理解しにくい。
 仕方がないので、「念仏」を「勉強」に、「往生」を「合格」にと置き換え現代風に意訳してみよう。
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<現代風訳>

 一流名門の「極楽大学」合格を目指す生徒が、法然先生に質問した。

「勉強をはじめると眠くなって、勉強に身が入りません。どうすれば良いでしょうか?」

「目が覚めている時に、勉強しなさい」

 ものすごい言葉である。

 また、法然先生は「合格は、すると思えばするし、無理と思えば無理」と言われている。これもすごい。

 また、「疑いながらも、勉強すれば合格できる」とも言われている。これもまたすごい。
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<また感想>

 中世を生きた貧しい人達にとって、死んだ後の極楽往生は、受験生の志望校合格以上の悲願であった。
 誰もが、極楽往生を願っていた。「一生に一度は本気だぜ」とマジに極楽往生を望んだのだ。
 その「極楽往生」の方法を「念仏を唱えるだけ」という簡単な方法にしたのが、法然上人という偉いお坊さんなのである。

 まず、そもそも、「転生輪廻」の考え方は大陸から伝わったもので、昔の日本人は死んでも魂くらいは残るよねとまでは考えたけど、その先は考えなかったようだ。死ねば土地の神にでもなるんだろぐらいに思っていた。
 死んでも魂がリサイクルされ、また肉体をもってこの世に生まれ変わるなんてこと、思いつきもしなかったのだ。
 仏教は、「転生輪廻」を生死観の基本としているが、じつは「転生輪廻」という「永遠の生まれ変わりの輪」から逃れる為にブッダが考案した方法が「仏の教え」なのである。
 考えてもみなさい、永遠不滅の魂を持ち、何度も何べんも何千何万回と産まれて死ぬ事を繰り返す事の空恐ろしさを。
 そんないちいち生き死がともなう苦しい「転生輪廻」から解放される為に、「仏」という魂の高次元をブッダは発見したのだ。

 たぶん、仏教伝来まえの日本の多くの人は、死んだらどうなるということに明確な答えを持っていなかったのだろう。
 死を、あまり深く考えなかったのかもしれないし、考えている余裕もなかったのかもしれない。
 そこへ、大陸から「仏教」が輸入されて、一緒に「極楽」という考え方も輸入された。
 本来のブッダの教えから言うなら、「極楽」なんて「転生輪廻」の輪から抜け出せないかぎり単なる通過点にすぎない、じきに生まれ変わりまた苦しい一生を送らねばならないからだ。
 だが、当時の普通の日本の人にとって「極楽」は、ものすごく魅力的に思えた。なんだか、死んでそこに行きさえすればすごく楽になれるらしいと「極楽」はそのように理解された。

 当時の普通の人達は、死んだ後ぐらいは楽させてくれよと本気で願うぐらいに、毎日の労働がきつくて、なんの希望も持てないまま、ただただ働いていたのだろう。

「いーなぁ極楽。もっこす極楽っすよ、いぃっーすなぁ!」

 ぐらいに「極楽」は、当時の普通の人にとって憧れだった。
 だって、いきなり戦火に追われて虫けらみたいに殺されたりするし、飢饉もあれば天変地異もある。当時の庶民はあんまり夢も希望もなかった。
 行きたいなぁ「極楽」。
 でも、なんだか「極楽」へは、寺へ多くの貢ぎ物をしないと行けないらしい。
 なぁ~んだ、しょせんこの世は銭か。
 貧乏人は、なにをどうしても「極楽」には行けないんだ。

 そこに登場したのが、法然上人である。

「ナムアミダブツと念仏を唱えるだけで、憧れの極楽に行けるよ」

 ナムアミダブツと唱え続けるだけで「極楽」に行けるのなら、もうなにも怖いことはない。死んでも楽になれると思えば、つらい日常もなんとなくハッピーだ。
 彼によって、救われた心は幾万とあることか。
 あー、せめて死んだ後ぐらいは楽したいよなぁ。と、庶民がホンキで望んでいた頃の「救世主」が法然上人である。

 そして法然上人の基本スタイルは「リラックス」だったようだ。カリカリと極楽往生めざして修行にはげむのでなく、「気楽」に行こうよと言っている。
 そんなラフなかんじを「尊い」と兼好は言う。
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<受け売り>

『法然上人』
 浄土宗の開祖のえらい人。

『行』
 仏教の修行。

『一定』
 確実であること「決定」ともいう。「不定」はその反対で不確実であること。