もうひとつの視点

教員の研修の場として始めましたが、現在は教育問題や時事問題など幅広く書いています。

大川小学校の教員たちに過失はない

2016年10月29日 | 社会(政治・外国)

 東日本大震災の際、宮城県石巻市の大川小学校の児童と教員が津波にのまれ、その多くが亡くなった。児童の親たちは裁判を起こし、仙台地裁は教員たちの過失を認め、総額十数億の賠償金支払いを命じた。

 裁判所は、「遅くとも津波が到達する7分前までには、(教員たちは)児童に危険が迫っていると予見できた」と判断したという。しかし、これが嘘であることは容易に想像できる。児童たちの命もあったが、教員たちにも自分の命がある。そのすべてを意図的に捨てて、危険である橋(本来の避難場所)の方へ逃げるはずもない。危険な津波が来ると予見できなかったから、橋のほうに逃げたのである。当たり前の論理だ。教員たちがもし本当に7分前に児童に危険が迫っていると予見できていたら、「今すぐ山のがけを駆け上れ!」と叫ぶにきまっているだろう。みすみす死を選ぶ馬鹿がどこにいるというのか。教員たちは児童に危険が迫っていると予見はできていなかった。だから橋のほうへ逃げた。

 児童の親たちは、大金を得られることになり、とても喜んでいた(教員に責任があることが認められたから喜んでいるようには私には見えなかったし、実際親たちも怒りの持っていく場(お金を払ってくれるところ)がないから仕方がなく教員を責めていると自覚しているのではないだろうか)。裁判官は、金の亡者と化した児童の親たちの迫力に負け、冷静な判断ができなかった。石巻市長は「一緒に亡くなった教員に責任を課すのはつらい」と、控訴する方針だ。まともな市長でよかった。

 仙台高裁では、金の話ではなく、災害緊急時の気象庁、警察、消防等と自治体や学校の連絡体制、本来の避難場所(橋)の指定が適切であったかなどの「しくみ」の合理性について争い、裁判官には今後に生きる判決を出してもらいたい。

ジャンル:
災害
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