国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測

「日本とは何か、どんな役割があるのか」と考えると、「縄文人・弥生人とは何者か」という問いに行き当たる

2017年07月09日 | 21世紀の日本の進むべき進路
●淡路島の銅鐸、紀元前4世紀ごろ埋めたか 付着植物片で判明  :日本経済新聞 2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/




●銅鐸 - Wikipedia
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。

出土[編集]





加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(国宝、島根県立古代出雲歴史博物館展示)
これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平成13年(2001年)3月末時点での主な出土数は以下の通りである[2]。
兵庫県 56点
島根県 54点
徳島県 42点
滋賀県 41点
和歌山県 41点

形状[編集]






滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土 突線紐5式銅鐸
(国の重要文化財)
東京国立博物館展示。
大きさは12センチから1メートルを越すものまである。1世紀頃には高さが60センチに達し、その後さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直後鋳造が止んでいる。現存する最大のものは、滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸で、高さ144センチ、重量45キログラムに達する。

近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられている。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。その前は流水文であった。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っている。また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっている(I式:菱環鈕式、りょうかんちゅうしき)[3]。しかし、大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形は円形である。その後、II式:外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)[4]、III式:扁平鈕式[5]、IV式:突線鈕式[6]と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わる。このように銅鐸は、紐の形態が変化するとともに、銅鐸全体が大型化して、吊り下げて鳴らす楽器から、据えつける祭器に変化したことがわかる。

紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。この文様は紀元前1世紀頃に衰退する。当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもある。銅鐸の絵画の意味は、「生きとし生けるもの、すべて己の生きんがためには、弱者の生を奪うこともさけがたく、われら人もまた、鹿を狩り猪を追う生活に永い月日を送ってきたが、いま農耕の業を教えられてより、年々の実りは豊かに倉に満ち、明日の食を憂うることもなきにいたった。いざ、わが祖神の恩沢を讃えようではないか」[7]と解釈し、農耕により弱肉強食の時代が終わったことを感謝する農耕賛歌説が定説である。

2015年に兵庫県南あわじ市で発見された「松帆銅鐸(紀元前4世紀~前2世紀前半頃と推定)」[8][9][10]は、入れ子状になっていた2組(4個)をCTスキャンで調査した結果、その全てに「舌(ぜつ)」が残されていた[11][12][13]。その後の調査で「舌」に残った紐の一部が実際に確認され、「鈕」からは紐を巻きつけた事を示す繊維片や痕跡が見つかっている[14] 。

歴史[編集]

中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している[15]。

1世紀末ごろを境にして急に大型化する(IV式:突線紐式)。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある[16]。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。

銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8








●青銅器の分布:神庭荒神谷・加茂岩倉遺跡の秘密


http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90204.htm







●出雲王朝を滅亡させた大和王朝 (princeofwales1941)2014-09-19 00:16:17

●「スサノオノミコトは朝鮮半島からやってきた」と梅原猛氏 - Ameba News [アメーバース] 2014年09月16日 07時00分
提供:NEWSポストセブン

『週刊ポスト』で平成4年から20年以上にわたり連載が続く歴史ノンフィクション『逆説の日本史』。単行本、文庫本等のシリーズ累計部数がついに500万部を突破したこの大人気作品の原点は、著者・井沢元彦氏が「師」と仰ぐ哲学者・梅原猛氏との「出会い」にあった。今回、2人が出雲王朝の謎について改めて語り合った。

井沢:梅原先生は『葬られた王朝』で、出雲王朝が実在したと述べておられますが、どのような政権だったととらえていらっしゃいますか?

梅原:現在の天皇家につながるのがヤマト王朝ですね。そのヤマト王朝が奈良時代に編纂したのが『古事記』や『日本書紀』です。これら『記紀』に述べられている神話を読んでみますと、ヤマト王朝以前に出雲王朝があったとしか考えられません。

井沢:それは間違いないと思います。

梅原:その出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』を読むと、どうやら朝鮮半島からやってきたらしい。
 さらに、出雲王朝でもっとも大切にされていた宝器は銅鐸です。銅鐸は朝鮮半島で使っていた馬の鈴がその原型と考えられます。馬の鈴が大きく立派になって銅鐸になった。だから、出雲王朝というのは朝鮮半島からやって来た人たちの王朝であって、はじめは出雲を中心とした地域を治めていた。

 そしてスサノオの子孫のオオクニヌシノミコトが日本をはじめて統一した人物でしょう。東日本はまだ治めてなかったとしても、西日本をほぼ統一した国家をつくっていたはずです。

井沢:つまり、出雲王朝とは先住開拓民による王朝だったのですね。

梅原:その出雲王朝を、南九州からやって来た王朝が滅ぼして新しい統一国家をつくった。これがヤマト王朝だと思います。彼らがもっとも大切にした宝器は銅鏡です。

井沢:「銅鏡」という考古学用語は、大和言葉(漢語などの外来の言葉を除く、日本固有の言葉)でいえば「かがみ」ですね。同様に「銅剣」は「つるぎ」です。ところが、「銅鐸」に対応する大和言葉はないのですね。

梅原:ありません。

井沢:ということは、銅鐸は存在そのものを消されたのでは?

梅原:銅鐸は明らかに破壊されてから埋められたものが、あちこちから出土しています。これは銅鐸の信仰、すなわち出雲王朝の権威を否定したのでしょう。それを行なったのは、言うまでもなくヤマト王朝です。

井沢:ヤマト王朝は、出雲王朝の王であるオオクニヌシを滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけないという“梅原の定理”に従えば、出雲大社はオオクニヌシ鎮魂のための神社、いいかえればオオクニヌシを封じ込めている場所、と言えますね。

梅原:そうです。前代の王朝を鎮魂することは代々の中国の王朝でもやってきたことですしね。

井沢:そうだとすれば、合点がいくことがあります。出雲大社の大きなしめ縄は、撚り方が普通の神社のしめ縄と逆になっているんですね。普通の神社のしめ縄は「外から神殿の中へ入るな」という意味ですが、それが逆に撚ってあるということは、「神殿の中から外へ出るな」ということなのではないかと。

梅原:そうかもしれませんね。

井沢:出雲大社の社殿は十世紀の史料に日本最大の建築であると記されています。推定では高さが約四十八メートルもあって、これは現在の社殿の二倍の大きさです。

 これも、かつては多くの歴史学者が否定していました。私は、前王朝の王であるオオクニヌシの怨霊を封じるためには日本最大の社殿を建てる必要があったのだろうから、その説は正しいはずだと書きました(『逆説の日本史 1 古代黎明編』参照)。

 すると、平成十二年に出雲大社の境内から鎌倉時代の神殿の巨大な柱が出土したのです。これで、巨大神殿説が正しいことが証明されました。この新発見は神さまが私の正しさを認めてくれたのではないかと思っています(笑い)。
※週刊ポスト2014年9月19・26日号
http://news.ameba.jp/201409166/





●時事ドットコム:典子さまに1億675万円=千家さんと結婚で一時金-皇室経済会議
 高円宮家の次女典子さま(26)が出雲大社(島根県出雲市)権宮司の千家国麿さん(41)と結婚し皇族の身分を離れられるのに当たり、国から支給される一時金の額を決める皇室経済会議が16日午後、宮内庁で開かれ、法定上限額の1億675万円とすることが全会一致で決まった。(2014/09/16-17:02)2014/09/16-17:02
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014091600596



●世界支配層の策略
★2014年5月27日、高円宮妃、次女典子様と出雲大社の千家国麿氏の婚約は、先住民と渡来してきた天皇家との和解。これまで必ずずらしてきた、出雲大社と伊勢神宮の遷宮の年が平成25年に同じだったのはその理由。
★2014年8月8日、デイビット・ロックフェラーが脳死または死亡
http://www.maroon.dti.ne.jp/terii/sakuryaku.html






●井沢元彦氏と哲学者・梅原猛氏の対談は銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の大和王朝が滅亡させたことを主張する。高円宮家の次女典子さま(26)と出雲大社(島根県出雲市)権宮司の千家国麿さん(41)の結婚はこの約二千年前の戦いの和解を示す画期的事件。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/c3dc6597ecb07f18c0990e72e2facc12





●8 銅鐸はなぜ消えたのか | 但馬国ねっとで風土記

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、
かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。
http://history.kojiyama.net/?p=129088


●太伯・虞仲 - Wikipedia

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。
評価[編集]
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。
『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。
日本での伝承[編集]
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などにも支持された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2





●倭人の祖先は呉の太伯の子孫?

<前略>
その史書だが、これは『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の「太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、は福岡県太宰府市にある、天神さま(菅原道真公)をお祀りする神社です)」の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

その部分は次の通り。

■<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>■

この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太伯の後」は無い。おそらく魏志には一般に「呉の太伯」で通用している太伯の後裔であってはまずいということで、削ったのだろう。なぜなら「魏」と「呉」は三世紀当時、「敵対関係」にあったからである。

しかし紺色で示した部分は共通で、倭人伝にも載せられている。「夏后」は「夏王統」という意味で、殷王朝の前代の夏王朝であり、「少康」は「禹」から始まる夏王朝の六代目、およそ紀元前1900年頃の王である。この王の子が会稽(かいけい・地名)に領地を与えられ下ったということだが、実は始祖の「禹」の出身地はそのあたりなのである。

さて、問題はこの一文から果たして「倭人は呉の太伯の後裔、すなわち日本人の祖先は中国大陸の長江流域から移動してきたのだ。」と言えるのかどうかである。ただ、結論から先に言うと、「倭人が春秋戦国時代に長江流域に展開していた呉の末裔であるということは有り得ない。」のである。

「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。そこには確かに、<…その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太伯の後裔である、と言っている。>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太伯の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太伯の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

しかし、使者として出かけた倭人は決して「呉の太伯の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太伯の弟の虞仲の後である。」と言わなくてはならないのである。これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太伯の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。では、太伯と倭人との関係はどのようなものか?

太伯については『史記』の「周本紀」と「呉太伯世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

そして同じく「呉太伯世家」によれば、長子の「太伯には子がなく」、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太伯の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。太伯には子がいなかったのであるから「太伯の後」はあり得ない話である。では、「太伯の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

① 最も分かり易いのが、太伯はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太伯家を繋いで行き、後世になってその太伯家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

② 一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太伯の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです。」などと話したというような場合。

③ ①、②はどちらも太伯には子孫がいて、それが倭人とつながっている、という考え方だが、太伯に本当に子孫がいない場合、「太伯の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

①と②の可能性もあるが、その場合でも「太伯の子孫が倭人となった」もしくは「太伯の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

第 八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。



第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり「霊草(神に捧げる酒に入れたという草)」を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに「倭人」という存在が知られており、時代的には「太伯」が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、「呉を建国した」頃でもある。

もし倭人が「太伯の後」(太伯の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太伯の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。「倭人」は「倭人」として「独立」して描かれている以上、「太伯」と「倭人」との間に血統的なつながりを見出すことは出来ない。

『論衡』の上の記事では、「太伯の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで「倭人」だけが登場しており、「呉人」は出てこない。すなわち成王の時代には「越人(越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国)」と「倭人」はいても、「呉人」はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太伯・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは「日本列島の中でも九州島出身の王」を指しているのではないかと考えられるのである。

以上により、「(呉を建国した)太伯の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは「不可能である」と断定できる。

むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の「呉の領域」には実は「倭人が居住」していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には「呉」とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。
http://www.geocities.jp/windows_user2013/wazinn_taihaku.htm





●1100万人が数時間で全滅! 日本人が知らない「破局噴火」の恐怖
http://ironna.jp/article/3148?p=1





●聖徳太子と北条早雲と桜田門外の変と・・・ - DEEPLY JAPAN

とことんまとまりのないことを書いているけど、多分、今後の方向性として、日本単独で見ないで、東アジア世界の動乱を誘引として変化、対応してきた日本、みたいな視点が重要になってくるんだろうと思う。7世紀の動乱だけじゃないですからね。

もう一つは、日本は少なくとも東西で分けて歴史を書いていった方がいいんじゃないだろうか。西南日本というのは要するに東シナ海文化圏に対応しながら生きて来たところで、東北日本はそれに対していえば目立つのは軍事貴族(中央の武士)だが、総じていえば開発農民の社会発展史みたいに考えていった方がずっと現在に繋がる実りのある歴史として認識できるように思う。

まったくの私見だが、西南日本のそれはどこまで行っても著しくシナっぽいが、東北日本のそれは結構世界的に汎用性のあるモデルを作れると思うな。鎌倉時代はもっと見直されるべき。
http://blog.goo.ne.jp/deeplyjapan/e/0f9417a6e25040bd29d85f2864ae8580




●ハプログループD1b (Y染色体) - Wikipedia

日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1系統は、海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、日本列島においてハプログループD1の中からハプログループD1bが誕生したと考えられる。彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、陸稲を栽培していたと考えられる。

各地における頻度[編集]
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や沖縄に多い。

青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%
(Hammer et al. 2006[13])

アイヌ:87.5%
(Tajima et al. 2004[14])
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1b_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)





●ハプログループO (Y染色体) - Wikipedia


概要[編集]
Y染色体のハプログループOは、23,000-32,000年前[1]に東アジアにてハプログループNOから誕生した。

別のソースによれば、O-M175とN-M231の最も近い共通祖先は約36,800年[95% CI 34,300年 <-> 39,300年]前に、現存のO-M175(即ちO1-F265とO2-M122)の最も近い共通祖先は約31,200年[29,400年 <-> 33,100年]前に生きたとされる。[2]

華北平原や長江流域などの豊かな地域を中心に、多岐に渡るサブグループを産み出し、これらの地域から日本列島や北東アジア、東南アジアからポリネシアに至るまで広範囲に拡散したと考えられている。[3]

大きくO1,O2に大別される。

O1
O1a(旧O1):中国南部、台湾先住民に多い[4]。オーストロネシア語族と関連[5]。
O1b(旧O2)
O1b1(旧O2a):東南アジア、中国南部に多い。オーストロアジア語族と関連。
O1b2(旧O2b):日本、朝鮮に多い。満州や東南アジアでもみられる。
O2(旧O3):中国北部に特に多い。シナ・チベット語族、モン・ミエン語族との関連が想定される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)




●ATLはどこから来たのか: ooyake

平成医新Doctors blog

つまり九州・沖縄にATL抗体陽性者が多いという地域性があった.また九州では鹿児島県、那覇市、佐世保市の陽性率は10%を越え,福岡県、大分県は3から4%だった。沖縄の陽性率は高値であったが宮古島は低値だった。沖縄本島には縄文前期以降の遺跡があるが、宮古島には13世紀以前の遺物はない。宮古島に住む人々の祖先は沖縄地域とは異なり、比較的最近どこからか移り住んだと考えられた。
 また岩手県の陽性率は低いものの三陸地方では陽性率10%を超える地区があった.秋田の象潟,飛島,能登半島、紀伊半島、中国地方の日本海側、隠岐、四国の宇和島近郊などに陽性者が多かった.また東大に保存してある北海道のアイヌの血清を調べると44%という高い陽性率を示した。
両方の記事が根拠としている日沼京都大学名誉教授が書いた
記事をようやく発見伝。1986年のエイザイの出版物
ATLのウイルスキャリア(日沼頼夫)
日本列島の北海道・本州・四国・九州そして沖縄まで
広く、しかし点状に分布するATLウイルス・キャリアの
濃密な地域の住民の先祖は、日本の先住民であろう。
先住民は古モンゴロイドである...

という仮説を紹介しています。だから縄文ウイルスなのね。
http://itokazu.cocolog-nifty.com/ooyake/2010/06/atl-e293.html





●松本先生のGm遺伝子に関する論文

この総説は、世界のモンゴロイド、130集団について免疫グロブリンG(Gm)の標識遺伝子の分布について得られた成績を集大成したものである。
 このGm標識遺伝子は、モンゴロイドの集団が北方型集団と南方型集団の二つのグループに明確に分けられることを示す。
 北方型モンゴロイドは、二つの標識遺伝子agとab3stの頻度が高いことと、afb1b3の頻度が極端に低いことで特徴付けられている。
 一方、南方型モンゴロイドは対照的に、afb1b3の頻度が極だって高く、agとab3stの頻度が低い。



http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/gm_genes_by_hideo_matsumoto.html


●日本人バイカル湖畔起源説 - Wikipedia

大阪医大名誉教授の松本秀雄の研究である。ヒトの免疫に関連する免疫グロブリンG(IgG)の標識遺伝子であるGm遺伝子を各民族集団について調査した所、モンゴロイドでは二つの標識遺伝子agとab3stで約75%の割合となる北方型と、afb1b3の割合が75%を超える南方型に明確に分かれる。ただし、中国大陸では混血の影響か、南方から北方にかけて徐々に移行する傾向が見られ、その境界線の揚子江付近では南方型と北方型が拮抗している。中国人の顔立ちを見ると華北や満州は日本人と区別がつかないが華南は少し違う印象があり、この結果によく合っている。日本はアイヌ・沖縄を含め均質な北方型であり、南方型の台湾先住民の高砂族や福建省とは明確に異なる。ただし、ウィキペディアで多くの批判が指摘されている様に、バイカル湖と場所を特定するのは問題だろう。また、単一の遺伝子で全てを決定するのは乱暴であり、他の遺伝子の分布のデータと併せた総合的評価が必要と思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AB%E6%B9%96%E7%95%94%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC







【私のコメント】

「日本とは何か、どんな役割があるのか」という問いに対する答えを模索すると、どうしても縄文人・弥生人とは何者かという問いに行き当たる。

井沢元彦氏と哲学者・梅原猛氏の対談は銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の九州王朝が滅亡させたことを主張する。異論も多いようだが私はこの主張に同意する。銅鐸は馬の首につける鈴が大型化した祭器であるが、音を出すことを目的としない祭器として使用されていた時期がある様である。銅剣に「つるぎ」、銅鏡に「かがみ」という大和言葉が対応するのに、銅鐸に対応する大和言葉は存在せず、それは銅鐸文明が消滅したことを指すという彼らの主張は正しいと思われる。そして、彼らが口に出していないが最も重要と思われるのは、現在の皇室の三種の神器に剣(恐らく銅剣)と鏡(恐らく銅鏡)が含まれるが銅鐸は含まれないことである。また、銅鐸は出雲地方と近畿地方を中心に出土している。銅鐸文明の出雲王国を銅剣文明の北九州王国が攻め滅ぼしたのだろう。それが大国主命の「国譲り」で、その際には出雲王国の王である大国主命を含めた住民に対する凄惨な虐殺が行われたのだろう。「2014年5月27日、高円宮妃、次女典子様と出雲大社の千家国麿氏の婚約は、先住民と渡来してきた天皇家との和解」との「世界支配層の策略の記載」はその虐殺の歴史を伝えたものなのだろう。

銅鐸は紀元前200年頃から使われはじめ、紀元200年頃に突然姿を消す。紀元前200年は秦の始皇帝による中国統一(紀元前221年)の直後であり、滅亡した他の戦国七雄諸国の王族が日本に脱出してきた可能性が高い。不老長寿の薬を探すとの目的で始皇帝の命令で3000人の若い男女や多数の技術者を連れて日本に渡航し日本で平原と広い湿地を手に入れ王となり戻らなかったとされる徐福もこの時期に日本に渡航している筈である。徐福が手に入れた平原と広い湿地は筑後平野・岡山市付近の平野・淀川水系の平野・濃尾平野のいずれかと思われ、巨大な集落であった吉野ヶ里遺跡が徐福王国であった可能性が高いと思われる。

紀元200年は紀元150-180年頃かと思われる倭国大乱の直後に相当する。また、黄巾の乱(紀元184年))で後漢が滅亡して激しい内戦となり中国の人口が数分の一に激減した時期に近い。その背景には、気候変動で世界的に気温が低下し降水量も減少したことが挙げられる。中国大陸の激しい内戦を逃れて多数の中国人が日本に脱出してきたことだろう。弥生時代の日本では米作が開始されるとともに、縄文人とは異なる人々が多数西日本に出現している。当時は満州や朝鮮半島北部では米作は困難であり、彼らの多くが揚子江下流の米作地帯から日本に移住した人々であることは間違いないだろう。

しかしながら、古代から現在まで日本語の語順や大和言葉の語彙は中国語とは全く異なっている。日本語は高句麗語に近いという説があり、百済や高句麗滅亡後に多くの遺民が日本に移住していること、日本人のGm遺伝子がアイヌや沖縄人を含めてほとんどブリヤート族に近い北方モンゴロイドであることも合わせると、多くの日本人が高句麗や百済と同様の扶余族の血を引いている可能性が高い。

Y染色体のハプログループD1bはアイヌと沖縄で特に比率が高いという特徴を持つ。同様に、アイヌと沖縄人はATLウイルス抗体陽性者が多いことで知られる。日本本土でも、南九州・佐世保・能登半島・隠岐・三陸沿岸など辺境地域にATLウイルス抗体陽性者が多いという。この分布から考えて、ハプログループD1bとATLウイルスは縄文人を代表する指標と見なして良いだろう。

一方、ハプログループO1b2はその分布から弥生人と見なせるが、朝鮮半島と日本で多い他、満州や東南アジアでも見られるという。扶余族を代表する指標と見なせるだろう。これは中国華北に多いハプログループO1、中国華南に多いハプログループO1b1やO2とは異なっている。

これらをまとめると、弥生人は中国江蘇省や浙江省など中国東部から米作技術を持って西日本に脱出した人々と、満州から朝鮮半島を経て日本列島に移動した扶余族の人々の二集団からなると思われる。後者の言葉であった扶余系言語が日本語の祖先であろうことから後者が日本人の祖先に占める割合はかなり高いと思われる。一方、徐福らが日本に来た紀元前200年頃の日本の人口は10-20万人とされており、子供を作る前の少年少女3000人を連れた徐福一行はその子孫を合わせると数十年後には1万人を超える人数になったであろうことを考えると、徐福一行は日本人の遺伝子プールの少なくとも5-10%は占めていると思われる。その他にも中国東部から日本に移住した人は多数存在したと思われる。百済・高句麗だけでなく呉・越なども含め、滅亡した王朝の中枢階層は勝利国家にとっては反乱の危険分子であり徹底的に虐殺された可能性が高く、それを避けるために日本に密かに脱出するというのは全く合理的な行動だ。それは、朝鮮戦争前後の済州島での韓国軍による住民大虐殺で生き残った人々の多くは日本に密航していたという事実と類似しているのではないかと想像する。とすると、中国東部から日本に移住した人々も扶余族と同じハプログループO1b2に属している可能性が考えられる。ひょっとすると、周王室そのものがハプログループO1b2であり、呉だけではなく高句麗・百済など扶余族も周王室の子孫(つまり姫姓)である可能性すら考えられる。

9万年前の阿蘇山の第4回大規模噴火、2万9千年前の姶良カルデラ噴火、7300年前の鬼界カルデラ噴火など、九州の巨大火山は何度も破局噴火を繰り返して火砕流や火山灰で西日本や中部日本の先住民の縄文人を絶滅させてきたと思われる。そして、それによって人口希薄となった九州など西日本地区に春秋・戦国時代から後漢滅亡までの大陸の内戦・混乱を避けて多数の人々が中国大陸や満州・朝鮮半島などから移住してきたのだろう。中国大陸東部からの移住者が稲作技術を持って西日本に移住したことが弥生時代の始まりなのだと思われる。縄文人のうち、海岸地帯で漁労を行っていた者は稲作を覚え弥生人に変化した可能性もあるが、山岳地帯で狩猟を行っていた者はその生活を継続し、野生動物の解体・毛皮加工などに従事し続けて西日本の被差別部落民に移行した可能性も考えられる。東日本では弥生人の移住が少なく縄文人の多くが農耕民化したために被差別部落問題が少ないのかもしれない。

日本は中国に対し「呉の太伯の後(後継者)である」と主張したことがあるという。日本には漢音が伝来する前にすでに「呉音」という漢字の発音が存在している。また、和服は「呉服」とも称される。魏志倭人伝の伝える倭人の入れ墨等の風俗は呉のそれに近いとの指摘もある。これらの事実は、呉の王族の子孫が九州など西日本地区に移住したことを示していると思われる。ただ、太伯は子供がおらず弟の虞仲の子孫が王位を継承している(紀元前12-11世紀頃)。また、呉の最後の君主は夫差(紀元前473年死去)である。従って、本来は「呉の虞仲の後」あるいは「呉の夫差の後」と言うべきだろう。更に、呉や越と同時期に倭人という集団が存在したことも確認されているという。ただ、当時の倭人の居住地域が西日本なのか、中国東部なのか、あるいはその両方にまたがるのかはまだわかっていないようだ。

上記リンクの「倭人の祖先は呉の太伯の子孫?」ではこの謎について以下のような可能性を挙げている。

① 最も分かり易いのが、太伯はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太伯家を繋いで行き、後世になってその太伯家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

② 一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太伯の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです。」などと話したというような場合。

③ ①、②はどちらも太伯には子孫がいて、それが倭人とつながっている、という考え方だが、太伯に本当に子孫がいない場合、「太伯の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

私は、もう一つ別の可能性を挙げたいと思う。それは以下のようなものだ。

④「倭は呉の太伯の後」の「太伯」とは、「太伯と虞仲の兄弟は荊蛮の地へと自ら出奔し、後になって周の者が太伯らを迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物であると主張し現地にとどまった」という太伯の行動を指しているのだという仮説である。倭人は更なる荊蛮の地であった西日本に自ら出奔する際に、「戦乱と虐殺が相次ぐ中国大陸には決して戻らずに日本列島に骨を埋める」と決意して渡航したのではないかと私は想像する。場合によっては倭人集団の中に呉の王族を含む支配階層で虐殺を逃れた者が潜入しており、彼らが太伯の故事を倭人に広めたのかもしれない。太伯と虞仲の兄弟が荊蛮の地の住民の風習を取り入れて周の風俗を捨て去ったように、中国大陸東部から日本列島に移住した中国系弥生人は、呉音を残した他は自らの言語を捨て去り、満州から朝鮮半島を経て日本に移住した扶余族系弥生人の言語を取り入れた可能性が考えられる。

冒頭で銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の九州北部王朝が滅ぼした仮説に触れたが、扶余族系弥生人が出雲王朝で、中国揚子江下流系弥生人が九州王朝であったという仮説を私は提唱したい。馬に付ける鈴に由来する銅鐸は騎馬民族の象徴であり、満州など北方草原地帯を示唆する。一方揚子江下流域は南船北馬の言葉どおり馬の移動に適さない低湿地である。出雲王朝が縄文人で九州に扶余族系と中国系の2種類の弥生人がいたという仮説もあり得るが、九州の巨大カルデラ火山の破局噴火は出雲地区を含めた中国地方の縄文人にも致命的な打撃を与えた筈であり、縄文人国家が存在したならその中心は東日本になるのではないかと想像する。更に、銅鐸文明の出雲王朝が縄文人ならば、銅鐸地域である中国地方と近畿地方にはATLウイルス抗体陽性者が多くなる筈だが実際にはそうではないことからも、銅鐸文明の出雲王朝は銅鏡・銅剣文明の九州王朝と別種の弥生人であったことが示唆される。





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国際金融資本にも見捨てられる南朝鮮 (上から目線のロシア人)
2017-07-09 08:15:34
ttp://japan.hani.co.kr/arti/economy/27857.html



もうお終い、だ・ぜ!
すず と たま? (諏訪で金刺、多分)
2017-07-09 08:36:57
黒曜石の和名も判然としませんね

『もののけ姫』でカヤがひとこと言うた
「たま」
なのか

一部で言われているように、
銅鐸は「さなぎ の すず」で
黒曜石は「やさか の みすまる の たま」
であったか

今となっては、判然としませんね
頭山満最後のご奉公のとき (Unknown)
2017-07-09 10:25:12
頭山満の最後のご奉公の時が来た。
東久邇宮総理から日華和平の使者として蒋介石との会談に中国へ渡ってほしいとの命が有った。

頭山は体力的にも精神的にも死の迫った年であり、自らそこに侍として死に処と決めた!

しかし、あらゆる方面から東條英機大将はそれに反対した。
今ここで和平が成ってしまえば大陸に命を捧げた将兵の面目がどうなってしまうのか、必ず帝国陸軍が大陸に平和をもたらせて見せる!と。

遂に頭山は中国への全権交渉を断念せざるおえない事となった。
その間蒋介石も何度も頭山に私信を持たせ使者を送って来たが機を逸した。
日中の微妙な政治交渉であった!
遂に蒋介石は和平を逸したのは日本にその気が無いのが原因だとした。

戦中であっても、蒋は何度も頭山の健康を案じ、時には華僑を通じ、華僑と名のる側近を何度も寄越した!
内容が何であったかは伝わっていない‼
http://blog.goo.ne.jp/toyamanohisyoblog/e/457b532e6759afcbd85b2e20b636fbb0

頭山満を動かし、停戦を画策したのが洪門の工作であれば、関東軍を通して東條を動かし停戦を潰したのも別の洪門の工作である。
洪門の総元締めである洪棍は、その両方の動きを知って司っている。
洪門としては、中華に有利な条件で停戦が実現しても、或いは日本が和平案を蹴って自ら侵略と滅亡の道を選んだと歴史に刻まれても、どちらでもよい。
つねに2つの両極にある選択肢を与え、どちらを相手がが選んでも洪門の利益になる。
相手がどちらに転んでも常に洪門が勝利するように工作する。操られている方は、操られている事を知らない。手助けして貰っている、渡りに船と勘違いする。
それが洪門による支配のやり方なのだ。
縄文人=ケルト人 (Unknown)
2017-07-09 10:37:42
最新のDNA分析の結果からは,先進国ではイギリスと日本にだけ,縄文時代の古い遺伝子が残っているようです。大陸では,古い遺伝子を持った人達は駆逐されて残っていないのだそうです。

ヨーロッパ大陸に住む人達とイギリス人は,別なのですね。特にケルト人は,古い遺伝子を色濃く残している人達だそうです。

ケルト人の先祖は,縄文時代の人達がベースになって,その後イギリスに移り住んだ人達との混血でできあがった民族のようです。ストーンヘンジは,ケルト人の先祖が作ったと言うことになるようです。

日本では,縄文人がベースとなって,その後の民族との混血で,日本民族が出来ました。特に縄文人の遺伝子を色濃く残しているのが,アイヌと沖縄の人達です。大陸から隔離された島国だからこそ,縄文時代の古い遺伝子が残ったものと思います。

その話を聞きまして,ゴルファーの宮里藍選手や自転車の新城幸也選手の顔立ちは,どこかケルト人に似ているように見えてしまいます。
縄文人=ケルト人 (Unknown)
2017-07-09 10:39:51
オクスフォード大学の遺伝学者の Bryan Sykes を中心に行われた調査・研究では,イギリス諸島の民族は,アングロ・サクソン,ヴァイキング,ノルマン人などの系統は少数派であり,大多数は旧石器時代からの先住民族の系統であると言うことです。

遺伝学的には,島ケルト(イギリスケルト)は,大陸ケルトとは結びつきが薄いです。私は,文化的な集団である大陸ケルト人について話しているのではありません。

イギリスの島ケルトが生活していた時代は,日本の縄文時代と一致します。そしてその時代の先住民が,それぞれの国の民族の先祖です。ですから時代が同じですから,遺伝的に全く違っているとも思えません。

その一つの例が,白人が白い肌になりましたのは,ここ数千年のことです。それ以前は,眼は青かったのですが,褐色の肌だったのです。東北の縄文系の人には,現在でもこの系統の人達がおります。
縄文とケルトの近似性 (Unknown)
2017-07-09 10:42:31
渦巻き文様や熊に対する信仰心などの文化において近似性が見られる。
例えば、アイヌは古モンゴロイドの形質を多く残している。古モンゴロイドは寒冷地進化する以前のモンゴロイドを言い、骨格や顔つきがネグロイド及びコーカソイドと同様に人類の古い形質を多く残している。
日本は東洋ではなく西洋である (Unknown)
2017-07-09 10:47:19
縄文人と英国人の祖先は同じ血脈に属する。
その意味で日本は東洋では無く西洋なのだ。
明治維新とは、東洋に支配された日本が、西洋人としての自覚に目覚めた血脈の再生であった。
日本は常に、東洋と西洋の戦いの地であり、チャイナフリーメーソンと西欧フリーメーソンの支配が激突する場なのである。
ネイティブ・アメリカンは日本人! (Unknown)
2017-07-09 10:51:14
●アイヌとネイティブ・アメリカンとの近似性

どちらもモンゴロイドに属し、遺伝子的には共通点が多く見られる。また、言語的にも同じ「抱合語」に属し共通点がある。また、宗教観や定住を嫌うという生活規範にも共通点が見られる。通説では、東アジアに到達した人類の中、日本列島に留まったのが、アイヌ人の祖先であり、氷河期にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に渡ったのがネイティブ・アメリカンの祖先だと言われている。
Unknown (Unknown)
2017-07-09 10:58:25
古代ケルトと古代エジプトと古代日本の幾多もの文化的共通点と、日本がドルイド教から誕生したという幾つもの証拠。
http://rapt-neo.com/?p=33437
蚕 桑 絹 (年金暮らし)
2017-07-09 11:09:04
「倭人来りて暢を貢ず」
私の手元の本では、「蚕と桑を献じた」となっていますけどね。
当時から絹を生産していたので、大陸が献上するように命じた、だそうです。
もちろん私には正誤は分からない。