横浜美術館アートギャラリーで開催された
『不思議を触ろうカオスモス冨岡雅寛展』の
有終の美を飾るイベント『CHAOSMOS LIVE Vol.4』が
3月の19日にあったので観てきた。
オープニングパーティーの様子も書いたがこちらも気になるので
しつこく、レポートです。
オープニングパフォーマンスでは別所るみ子のダンスがあり、それも良かったが
今回のライブは演奏者が冨岡のカオスモスマシーンと絡んで互いに触発しあうという企画。
今回は室内に展示されたカオスモスマシーンをパーカッションの原田淳が『奏作』し、
予め、セットされたマイクを通して米本実がエレクロニクス・パフォーマンスとして増幅、
その情景をヴィデオ撮影した倉嶋正彦の映像を壁に投射し、さらに壁には光センサーが
セットされて米本の増幅する音に影響を与えると言う、『三すくみ』的な循環即興演奏だ。
冨岡の人工的なカオスモスマシーンは人の『奏作』によって様々な文様なり、音響を作り出すが
原田の人為的な演奏も米本によってアンプリファイアされることにより、自然界の無為的なグラウンドノイズ化してゆく。さらにその米本の作為も倉嶋の映像による光センサーの干渉により人為的な要素がさらに少なくなってゆく。
冨岡の作品の人為性、演奏者の思惑、それらが干渉し合い、室内に響く音響は自然の雛形となってゆく。カオスよりもフラクタルな印象を強く、受けた。
4人のそれぞれ、別のベクトルを持つ、アーティストの放つ光芒が触発しあうほどに観客が受ける光は白色に近づいてゆくイメージだ。
ライブ途中から入場してきた何も知らない観客がマイクを仕掛けられた装置に手を出しても全体のイメージは変わらない。すなわち、そこでは演奏者の意図はカオスの一部となり、自我が消滅してゆく。
同じような経験は街中でも感じることがある。ひとりの人間の話し声は雄弁であったり、耳障りであったり、説得力があったりするが数十人の声が混じり合うと意味は不明瞭になり、やがて夕暮れ時の野鳥の群れのざわめきと区別できなくなる。
我々が普段、認識している表現の意味性というものはなんだろうかと自問している。
『不思議を触ろうカオスモス冨岡雅寛展』の
有終の美を飾るイベント『CHAOSMOS LIVE Vol.4』が
3月の19日にあったので観てきた。
オープニングパーティーの様子も書いたがこちらも気になるので
しつこく、レポートです。
オープニングパフォーマンスでは別所るみ子のダンスがあり、それも良かったが
今回のライブは演奏者が冨岡のカオスモスマシーンと絡んで互いに触発しあうという企画。
今回は室内に展示されたカオスモスマシーンをパーカッションの原田淳が『奏作』し、
予め、セットされたマイクを通して米本実がエレクロニクス・パフォーマンスとして増幅、
その情景をヴィデオ撮影した倉嶋正彦の映像を壁に投射し、さらに壁には光センサーが
セットされて米本の増幅する音に影響を与えると言う、『三すくみ』的な循環即興演奏だ。
冨岡の人工的なカオスモスマシーンは人の『奏作』によって様々な文様なり、音響を作り出すが
原田の人為的な演奏も米本によってアンプリファイアされることにより、自然界の無為的なグラウンドノイズ化してゆく。さらにその米本の作為も倉嶋の映像による光センサーの干渉により人為的な要素がさらに少なくなってゆく。
冨岡の作品の人為性、演奏者の思惑、それらが干渉し合い、室内に響く音響は自然の雛形となってゆく。カオスよりもフラクタルな印象を強く、受けた。
4人のそれぞれ、別のベクトルを持つ、アーティストの放つ光芒が触発しあうほどに観客が受ける光は白色に近づいてゆくイメージだ。
ライブ途中から入場してきた何も知らない観客がマイクを仕掛けられた装置に手を出しても全体のイメージは変わらない。すなわち、そこでは演奏者の意図はカオスの一部となり、自我が消滅してゆく。
同じような経験は街中でも感じることがある。ひとりの人間の話し声は雄弁であったり、耳障りであったり、説得力があったりするが数十人の声が混じり合うと意味は不明瞭になり、やがて夕暮れ時の野鳥の群れのざわめきと区別できなくなる。
我々が普段、認識している表現の意味性というものはなんだろうかと自問している。