MMRの「知ったかぶり」音楽ブログ

クラシック音楽を聴くのが趣味ですが、
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東京散歩・澁谷城跡&金王八幡宮編

2017-01-30 22:00:00 | 散歩

先週の木曜日(26日)、渋谷からサントリーホールまで歩きました。距離にして約4km。いろいろ見てきました。

スタート場所は、渋谷駅からちょっと歩いて、玉川通り沿いにある稲荷橋

この橋の下に明治通りに沿って渋谷川が流れています。この川が谷底に当たるので、玉川通りを東の方向に坂を上っていきます。渋谷警察署前から通りの名前が六本木通りに変わります。400mほど歩いて右折すると、そこは昔澁谷城のあった場所です。そして同じ場所にある神社が金王八幡宮です。

第73代堀河天皇の寛二6年正月15日(1092)鎮座。ですから、1000年近い歴史があるんですね。御社殿は渋谷区の指定有形文化財。その脇に澁谷城の砦の石があります。

澁谷城のあったところは高台になっていて、平安時代末期から澁谷氏一族の居館跡になっていました。東に鎌倉街道(現・八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数カ所に湧水があるという好条件を備えていました。

澁谷城は大永4年(1524)に、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦い(現・品川区高輪付近)の時、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。


ところで、この八幡宮は「渋谷八幡宮」と称していましたが、金王丸の名声ちなみ「金王八幡宮」と呼ばれるようになりました。

金王丸(こんのうまる)とは…、金王八幡宮のHPからの抜粋です。

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三家重の子で、永治元年(1141)8月15日に生まれました。

重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。

金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。

金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。

そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。


境内には、見所がいっぱい。まだ時期ではないですが金王桜(渋谷区指定天然記念物)があり、春になるときれいなんでしょうね。

それから、

金王丸御影堂

そして、順番が逆ですが、

この門も趣があっていいですね。

境内には他に、

玉造稲荷神社

御嶽神社が並んで立っています。

お参りした後、御朱印をいただきました。待っている間、宝物殿を見学。無料です。


※お昼頃で境内にはタバコを吸うサラリーマンがいっぱい。喫煙所と化していました。ゆったりとした時間を過ごしたかった。


長くなったので、今日はここまで。散歩はまだまだ続きます。

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